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Full text of "Shky tetsugaku no bamen to kontei"

BL 
51 
IB 



ェ shi2u, Teruji 

Shukyo tetsugaku no banen 
to kontei 



East Asia 



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UNIVERSITY OF TORONTO LIBRARY 



Digitized by the Internet Archive 
in 2012 with funding from 
McMaster University - University of Toronto 



http://archive.org/details/shkytetsugakunobOOishi 



人が それにお いて 生きる ところの 宗教に おいて、 神仏 その他、 宗教 的 対象と いわれる もの は、 当然 また 必ず 宗 

教 経験ない し は 宗教 的 経験 を 前提して いる。 宗教 經験 ないし 宗教 的 経験 — 両者の 区別と 連関 は 本論で 明らかに 

する —— の 機能的な 根源 的 機 制 は、 主体の 自己 否定と いう ことに あるが、 しかし、 そのこと は、 心理的、 内在的 

に 唯 だ 主体が 自己 を 無くなした 心地で いると いう ことで はない。 そこに は、 それにお いて 或いは それに 拠って、 

自己なる ものが 否定され、 拒絶され ている ところの 根拠が ある。 いいかえれば、 自己なる もの を 超えた 根拠が あ 

る。 そのこと は、 ことに 成立 的な 宗教の 宗教 径験 において、 その 儀礼 や 信念に 関して いろいろに いわれて いると 

おりで ある。 けれども、 その 究極 的 根源 的な 根拠 は 何で あり、 如何なる ことで あるか、 という ことが 索 めら. れな 

ナれ f ならな、.。 この こと は、 すでに、 直接的な 信仰 や 帰依の 経験の 表層の 事情で はなく、 そこで は 隠れて いてに、.. \ 

、v ノ ., ^ 

見えない ところの、 根底の 層 位に 掘り あてる ことによって 索め られる ことで ある。 t... 

宗教 經験 ないし 宗教 的 経験の 本質的 特質と して、 「神秘的」 とか 「超自然的」 とか、 さらに は 「他者 性」、 「拒 ":: 

否 性」 という ことがあ げられ る。 それぞれ、 学派 や 立場の 背景から いわれて いる 概念で、 本論に おいて 論じ 分け 

るが、 右の ような 基礎的な 根底の 層 位に おける 機能的な 機 制に ついては、 まず 後者 を 取り あげる。 宗教 經験. ない .y 

し 宗教 的 経験が、 何に 対し にと つて 他者 的で あり 拒否 的な のかと いうと、 それ は、 個体 的な 主体に、.^, つてで あ.. 



り、 端的に いえば、 主体の 意識に とってで ある。 その 主体と は、 個体 的 自覚の 主体で あり、 日常 的 世間 的な 経験 

の 領域に おける 悟性 的 情 執 的な 主体で ある 11 それ は 自己なる もの を 立て、 相手なる もの を 立てて 情謂纒 綿し、 

あれこれの 待 対 揀択を 事と する 主体で ある。 それ は 自己 を 投げ やり、 なおざりに する 主体と いうより は、 むしろ 

喘ぎ あぐねる 主体で ある —— そのような 主体に とって、 他者 的 拒否 的な 宗教 経験 或いは 宗教 的 経験と は、 この 

ような 段階に おける 主体の 否定 即ち 拒絶に おいて、 行なわれ 生きられ ている 経験と いう ことであろう。 

直接的な 即ち 実際の 宗教 経験に おいて は、 否定し 転じられた 主体に と つ ての 他者 的 存在者が 観られ 立てられて 

いるので あろう。 静 なくと も 解釈 的に は、 そう 考えられる。 けれども、 ここで は、 直接の 宗教 径験 における、 そ 

れらの 対象 的 存在者の もとにお いてで はなく、 この 当の 経験の 場面の 基礎的な 構造と 機 制に ついて、 宗教の 本質 

的な 事実 性と その 根拠と を 索め ようとす るので ある。 

本書で は、 ここの 始終に 宗教哲学の 問題 場面と 根底 を 求めた。 なお、 宗教の 哲学的 研究と いう こと も、 宗教 的 

事実ない し 事実 性の 前提から 出発す るので、 それ は、 最近 百年に わたって 行なわれた 宗教の 科学的 研究と 連鎖、 

交 会し、 その 業績に 照応すべき ものと 考えられる。 

ところが、 特定の 信仰の 中で 観念され る もの を、 そのと おりに、 宗教の 科学的 及び 哲学的 研究が 立証して 随ぃ 

て ゆく という こと は 出来ない。 けだし、 そこに は、 研究 上の 制約が あり、 承認 せられる 缚 域が あるから である。 

この 制約の 中で、 出来るだけ 宗教 経験の 事実と その 根底と に 近く 進もうと する ので あるが、 しかし、 学問的 研究 

に は 種々 の 学派 や 観点が あって、 観る ところ も 異なる。 



生の 営みの 不如意と か 恐怖 や 不安に、 宗教の 由る ところ を 見、 或いは 社会生活 とくに 最もき つく その 成員が 感 

動 を 受ける 社会生活の 局面に、 宗教の 基礎的な 素地 を 見いだ すと いうの が、 現在の 科学的 研究の 主要な 傾向と み 

られ るが、 哲学的に も、 やはり 社会 や 歴史、 ないしと くに 人間に ついて、 宗教の 根底 や 要件 をたず ねて いる。 人 

間につ いての 考え方に も 種々 あるが、 私 は いわゆる 実存す る 人間の 存在 を 問題に した。 宗教の 要処 は、 極言 すれ 

ば 主体の 態度に あり、 それ は 主我 的 自己の 否定に あると いってよ い。 その 然 かるべき 所以 を、 色々 に 観る ことが 

出来る が、 私 は 根源 的な 意味に おいて 人間 存在の 成り立ちに 具わる 欠如 或いは 破綻に 求めて いった。 即ち かかる 

否定に おいて 人間 はこの 欠如 や 破綻に 即き、 自己の 存在の 本来に 処る という 点 をみ ようとし たので ある。 

勿論、 かかる 問題 性 は 宗教の 事実の 底の メカ 一一 ズム についての ことで、 実際の 宗教が そこ を 直接の 目標と して 

携わって いると いうので はない。 かつ 実際の 宗教 はすべ て 成立 性と 規定 性と を もち、 理想 や それぞれ のことの 然 

かるべき 理由 づけ を 有して いる。 そして、 理想の 高さ や 理由 づけの 合理的で あると いう こと も、 形態 的な 宗教 を 

判じる 上に は 重要な 標準で ある。 しかし、 本質的に は そこに いずれも 異質 的な ものが あり、 それ は 宗教が 宗教た 

るべき 基本的な 要件 や 根底に 根ざす ものと 考えられる。 上の こと は、 かかる 要件 や 根底と して 考える ことが 出来 

るので はない かと 思う ものである。 

下の 諸篇 中、 第四篇 まで は 一貫の 連関 を もっている。 第一章 は 「宗教 研究」 の 方法論の 主題 号 (昭和 二三 年、 

ニニ) に 出し、 以上の ような 問題 を 整え、 かつ 宗教哲学 における 科学と 哲学の 位置 や 連関 を迚 つた ものである。 

第二 章 (哲学 雑誌、 昭和 二 五 年、 七 〇 七) は、 同じ 問題 性から、 処世に おける 相剋 や 不安の 根底に ついて、 最近の 科 



学 的 研究の 解答 を 求めよう とした もので、 種々 の 分野 を 巡歴した 迹を そのままに 叙べ た。 学派 や 立場の 相違 や 関 

係と いう 点 は 注意した つもりで あるが、 或いは 相応せ ぬ 点が あるかと 惧れる ものである。 第三 章 (宗教 研究、 昭 

和 二 四 年、 一二 二) は 第二 章に 続き、 第一章の 問題 を 哲学的な 課題と して 進め、 第 四 ^1早 (哲学 評論、 昭和 二三 年、 三 

ノ三、 宗教 研究、 昭和 二 五 年、 一二三 を 合併) は、 死につ いて 同じ 問題 性 をより 細かく 見ようと した ものである (第三 

章と 第 四 章の 一部 は 日本 宗教学 会 大会の 課題 報告)。 第五 章 は 昭和 一 七 年に まとめた 「宗教の 根拠に 関する 研究」 の 中 

の、 ハイデ ッガ— に関する ものの 一 部分で、 第一 、 第三、 第 四 諸 章の 連関から のせた。 第 六 章 (思想、 昭和 一 七 年- 

二三 九) は、 最近に 至る 宗教の 考え方 を 問題 史的に 迎 つてみ たもので ある。 なお、 以上の 諸 章 は 『宗教哲学の 問 

題と 方向』 と 題して 昭和 二 六 年に 弘文 堂から 出した ものであるが、 既に 久しく この 書に 接する こと は 出来ず、 ま 

た、 書肆 も 解散した ので、 知友の 勧めな どもあって 本書に おさめた。 

第 七 章 は 同じ 題名で 鈴 木宗忠 博士の 賀 寿の 記念論文集 (文化、 昭和 三 二 年、 ニー ノ五) に 寄せた ものである。 上に 

あげた 問題 性 を 究明した もので、 ことに フォイエ ルバ ッハと マクス • シ ヱ ラ ー の 所論 を 吟味し、 実存 哲学と くに 

キエ ルケ ゴ ー ルとハ イデ ッ ガ ー の 所論に ふれ、 更に これらの 所論 を 私の 問題 性に そ つ て、 方向 づけ を 試みた もの 

である。 ことに フ オイ エル バッハと マクス • シェ ラ ー の 所論の 吟味と 方向 づけの 部分 は、 このたび、 以前に まと 

めた 稿 を 加えて 補足し、 また 宗教の 基本 観念に 関する 部分 も 新たに 補った。 第 八 章 は、 やはり 同じ 題名で、 金 倉 

円 照 博士の 賀 寿の 記念論文集 (文化、 昭和 三 二 年、 ニー ノ六) に 寄せた ものであるが、 このたび、 もとの 稿 「宗教の 

無と 哲学の 無」 として 草した ものに よって、 哲学の 無に ついての 部分 を 入れた。 第 九 章 は 望月 歓厚編 『近代 日本 



の 法 華 仏教』 (昭和 四 三年) にお さめられた 「宗教学 からみた 法 華 思想」 の 後半の 部分で ある。 第 八、 第 九 章 は、 

やはり 上の 問題 を 仏教の 考え方に もとづ い て 究めよう とし、 ことに 第 七 章の 終わりに ふれた 問題の 展開 を 試みた 

ものである。 第一 〇 章 は 九 学会 連合の 大会 (昭和 三 四 年 五月) で 発表した もので、 その後、 補足して 「宗教 研究」 

(昭和 三 五 年、 三三ノ 四) に 載せた ものである。 そういう 機会の ために まとめた ものな ので、 統合 的 共同 的 研究の 傾 

向 を 主と した ものである。 このたび、 多少の もの を 加えた が、 その後の 人と 問題 及び 業績に はふれ ず、 その 時点 

の ものに とどめた。 第 一 一 章 は 昭和 一 一九 年に 北欧諸国 を 訪ねた ときの 見聞に したが つ たもので ある (理想、 昭和 三 

〇 年、 二 六 九、 所収)。 第一 一一 章 (「ビブ リア」、 昭和 三 七、 八 年、 二三、 二 四、 所収) は、 昭和 三 六 年に 天理 大学 図書館 

に 蔵せられ たキヱ ルケ ゴ ー ルの各 著作の 初版 本の ことに 連関した もので、 このたび、 キヱ ルケ ゴ ー ルの 死後 五 力 

月 目に その 蔵書が 競売に 付せられ た 際の 売 立 目録 即ち キ H ルケ ゴ ー ルの 蔵書 目録 を、 天理 大学 図書館の 承認 をえ 

て、 ここに 加えた。 

本書の 上梓に あたって、 久保井 社長 を はじめ 創 文 社の 諸氏、 ことに 校正 その他の ことで 清水 芳治 氏のお 世話に 

な つ たこと を ここに 識 して 感謝いた したい。 

昭和 四 三年 六月 

東京 三 田に て 



宗教哲学の 場面と 根底 目次 

序 



第一章 宗教哲学の 問題と 方向 一一 一 

一 宗教 研究 上の 前提と その 性格 一一 一 

二 とくに 宗教 研究に おける 科学と 哲学との 連関 六 

三 宗教哲学の 問題領域 一 

四 現実 生活の 機能的 連関 —— 状況 的な 危機と その 根底 一一 一一 

五 宗教 的な 処し 方の 本質と その 究極 的な 根拠 一 nj 

六 宗教 的 実存の 根源 的 解体 11 人間 存在の 基礎的 構造と 新たな 問題 性 一六 

七 宗教の 本質 概念、 超自然と 聖 —— 聖 とその 根源 的な 意味の 所在 一一 一 

第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 一一 七 

11 宗教 的 適応の 根源 的 意味 を 索め て —— 

目次. 1 



一 宗教の 事実と 研究 上の 問題 性 —— 文化人類学 における 文化の 分析 一一 七 

二 危機と 宗教 —— 危機 におけ る 超自然 の 成立 —— 機能主義 の 新 展開 —— 危機と 平衡 の 恢復 及び 宗教 —— 宗教 

的 対象の 位置 —— 危機に おける life- value の 保全 一一 三 

三 心理学的 研究の 諸 傾向 —— 欲求不満と 葛藤の 類型 —— 不安の 特質と その 因由 —— 心理学 及び 精神病 理学に 

おける 諸 解答 —— 宗教 的 適応の 基本的 機能 四 五 

四 呪術の 領域と 宗教の 領域の 本質に 関する 究明 11 宗教哲学の 領域に 託せられる もの 至 

第三 章 人間 存在の 構造に おける 宗教の 根拠 六 五 

一 状況の 設定 六 m 

一 一 自己 否定に 至る 状況と 否定の 基づく 根底 六 七 

三 実存の 領域 を 支配す る 可能性の 性格 七 

四 その上に おける 実存 的 諸問題 性 七 一一 

五 宗教 的 処理 七 五 

六 ハ イデ ッ ガ ー における 無と キ ェ ルケ ゴ ー ル における 無 七 六 

第 四 章 死の 主体的な 所在と 扱い へ 一一 一 



一 死の 種々 な 観 方 八 一一 一 

1 一 ものの 在りの ままの 領域 八 六 

三 超越の 性格と 縁起の 勝義 —— 二重の 取り 違い 八 八 

四 死の 所在 11 不安と 情 執の 主体 九 一 

五 実存 哲学に おける 死と ここでの 取り扱い 九 四 

六 生死 本来な しとい う 観点 九 七 

七 死の 超え 方 一 00 

第五 章 ハ イデ ッ ガ ー における 実存の 可能性と 無 及び 死 一 五 

一 世界 形成と 投企 における 「行く先き」 と 「のた め」 一 g 

一 一 実存の 領域と 可能性 二 

三 死への 存在 二 五 

四 無の 存在論 的 場面に おける 機能 性 二八 

五 存在論 的 場面に おける 死の 扱いの 過当 11 実存の 理念の 負う 問題 一一 一一 一一 

第 六 章 神と 実存との 間 ニー 九 

11 近代 の 宗教 思想 史的 状況 11 

目 次 三 



キリス ト教的 里 念と 近世 的 人間の 理念 11 十九 世紀 中期に おける 転回 11 実存す る 人間に 関する 考え方 



の 二方 向と 祌 一き 

二 歴史の 理念に おける 神と 人間との 関係 11 十九 世紀 以降の 変化 一一 一一 六 

三 近世 的 思惟の 制約に 立 つ キリス ト教 的な ものの 考え方 I . 人間の 神化 11 その 転向 11 祌 なき 人間の 

# へ S 厘 一四 

四 神の 前なる 個体の 宗教 的 決断 11 社会と 時代 の 宗教 的 決断 11 神と 国と に対する 個体の 宗教 的 関係 一四 六 

五 世界観 的 理念の 宗教 化 11 神 を 除外せ る 民族への 宗教 的 関係と いう 問題 一 さ 一 

七 章 宗教の 根拠に ついて 一六 一一 一 

一 見込みが き 一六 一一 一 

一 一 方向 づけ 一六 六 

三 宗教 径 験の 領域の 本質的 特質 一七 

四 宗教の 根拠に 関する 諸 観点と フォイエ ルバ ッ ハ の 意義 一七 一 

五 フォイエ ル バッハ の 所論の 吟味と 方向 づけ ( 一 ) 一八 ◦ 

六 フォイエ ルバ ッ ハ の 所論の 吟味と 方向 づけ (一 一) 一八 八 

七 宗教 的 事実 を その 本質的 事実 性の 基礎に ついて 究明す る こと 一九 八 

—— マクス • シ H ラ —の 問題 性と その 意義 —— 



八 マ クス. シ H ラ— の 所論の 吟味と 方向 づけ ( 一 ) 一二 一一 

九 マクス • シ H ラ ー の 所論の 吟味と 方向 づけ (一 一) 一二 七 

一 〇 根源 的に、 主体が 如何に 在る ことが 宗教 的で、 それ は、 根源 的に、 何に 基づく と 解釈され るか …… 一一 一一 四 

—— 宗教 経験 の 層 位 的 場面と 宗教 の 基本 観念 —— 

一 一 宗教 経験 を 三つの 領域 性に ついて 解釈 的に 解体す る こと 一一 一一 一一 

一 一 一 宗教 的に 実存す る ことと その 基礎的 根底の 追究 一一 一一 一一 一一 

—— キ H ルケ ゴ— ルとハ イデ ッガ ー の 吟味と 方向 づ け —— 

ニニ 主我 的 悟性 的 自己の 否定に 対応す る 根拠 一一 一一 一六 

一 四 更に 実存の 構造 的な 欠如の 根源 的な 在り方の 追究と 宗教 性 一一 一一 一九 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて Is 

11 哲学に おける 無との 対応に おいて —— 

一 哲学の 無と 宗教の 無 盂ー 

一 一 哲学に おける 無の 観点 ( 一 ) 盂五 

三 哲学に おける 無の 観点 (一 一) 一一 六 

四 哲学に おける 無の 観点 (三) 一一 六 四 

五 宗教に おける 無 —— その 問題 場面 一一 七 一 

目次. 五 



六 仏教に おける 存在の 極 相の 追究 

七 ものの 如実な 在り方と その 超越 的な 在り 処 

11 竜樹 『中 論』 偈の 解釈に よせて 11 

八 縁起の 当 相 

11 析 法と 体 法の 立場 —— 

九 絶対 性の 性格と 層 位 ^ 

—— その 日常 的な ものとの 関係 —— 

一 〇 宗教 的な 無の 拒否 性と その 究極 的 性格 

一 一 存在の 極 相が 何故 無な のか、 及び その 宗教 性 

第 九 章 法華経 本 門の 宗教哲学 的 理解 

11 宗教 経験 の 本質に もと づ く 解釈 学 的 理解 11 

1 ^ 

一 一 迹 門と 本 門との 関係 

三 本 門の 叙述の 背理と 真実 

四 その 宗教 的な 問題 性 

五 宗教 径験 の 本質に 関する 観点 の 批判と 法 華 本 門 の 課する 宗教 性 の 問題 



第一 〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 一一 一一 九 

—— 最近 わが国に おける —— 

一 わが国に おける 宗教学の 成立と その 特質 一一 二 九 

11 発展 経過と 時代 区分 11 

二 最近の 学問 研究に おける 統合 的 性格 

三 その 欧米諸国 における 事情 

四 その 宗教 研究に おける 相応と 日本に おける 綜合 的 研究の 傾向 

五 わが国に おける 各 分野の 個別 的 研究の 傾向 



第一 一章 北欧の キヱ ルケ ゴ ー ル 研究 その他 一一 室 

一 キエ ルケ ゴ ー ル に 因む コ ペン ハ ー ゲンと セデ イング 一一 一四 一一 一 

一 一 北欧 三国の キリスト教 的 状況と 最近の キ ヱ ルケ ゴ ー ル研究 一一 一四 1- 

三 二つの 研究 傾向、 その 一、 伝記 的 研究に おける 心理主義 —— 社会心理学 的な ものと 生理 心理学的な 

もの 一一 一四 八 

四 その 二、 文学 形態論 的 研究 璧ー 

五 その他の 国々 における 研究 傾向 璧四 

目次 七 




目次 八 

第二 一章 キエ ルケ ゴ ー ル全 著作の 初版 本、 および 彼の 死後 五 力 月に 行なわれた 売 立 資料 

による 彼の 蔵書 目録 璧七 

—— 天理 大学 図書館 所蔵 11 

一 いわれと キヱ ルケ ゴ ー ル 全集の こと 璧七 

一 一 単行書 初版 本の コレクション について 璧九 

11 天理 大学 図書館 所蔵 の 11 

三 彼の 死後 五 力 月に 行なわれた 蔵書の 競売と 彼の 蔵書 傾向 一一 一六 六 

四 著作に おける 彼の 資格と 態度 —— 生い立ち、 父との 関係 一一 一六 九 

五 彼の 秘密と 生涯の 「問題」 11 並びに 婚約 解消 一一 一七 一一 

六 いわゆる 宗教 的 著者 一一 一七 六 

七 彼の 著作に おける 内容 上の 段階 一一 一七 八 

八 課題の 遂行と 著作 活動の 自己批判 一一 一八 一 

九 死後 五 力 月に 行なわれた 売 立に よる 蔵書 目録 一一 一八 m 

キヱ ルケ ゴ ー ルの 蔵書 目録 9.^^ 

人名 索引 



第一章 宗教哲学の 問題と 方向 



専門の 学問 研究 は、 一 つの 対象に ついても その 理念 や 方法に 従って 見る ところの 層 位 を 異にする。 宗教の 研究 

は 一応 対象 的に 限定され ている ようで ある けれども、 厳密な 意味で は、 その 領域 は 普通に 考えられて いるよう に 

直接的で も 簡単で もない。 やはり、 それぞれの 母 科学 や 連関 科学の 方法 や 理念に よって 研究の 方向と 解答と を 制 

約され るので ある。 

宗教哲学の 領域 は 勿論 神学の ように 或る 特定の 宗教 的 理念 や 信仰 内容の 弁護 や 解釈 等に あるので はなく 11 神 

学に は 更に その他の 制約が ある —— 、 宗教 一般の 領域に かかわる もので あり、 そのような 要求と 義務 を もつ もの 

であるが、 とくに 他の 諸 学と その 見る ところの 層 位に おいて 異なる 点 は、 宗教の 宗教た る 所以の 究極 的な 意味と 

構造と を 索め ようとす ると ころに ある —— 宗教哲学と 宗教学と を 同義 的に 使う 場合 もないで はない。 へ ー ゲルの 

ごとく、 また 近く は 例えば トレルチ 等の ごとく、 或いは 史的唯物論の 所論の ごとくで あるが、 今 はふれ まい 

第一章 宗教哲学の 問題と 方向 三 



第一章 宗教哲学の 問題と 方向 四 

宗教哲学の かかる 課題に つ いて は、 往々 そこに 謂わ ゆる 怪験的 又は 実証的 要素 或いは 地盤が 欠けて いると いう 

ことが 難 せられて いるが、 しかし 今日に おいて は 実はそう でない。 且つ また 経験的な 或いは 実証的な 研究と いえ 

ども、 無批判に 考えられる ように、 何 か 事態 を 写真に でもと るよう に 写しと るので はない。 そこに は 必ず 学 的 操 

作 を 介す る 学 的 抽象が ある。 科学的に 端的に いえば、 宗教 現象が 数式 化せられる こと を も 辞す る もので はないで 

あろう。 但し そこに は 根本 要件と して 「経験的 事実から」 という ことが 前提せられ ている。 しかし 具体的な 学問 

の 研究に おいて は、 常に 各自の 研究者が ひたすら 直接に 一 々の 事実から 出発す るので はない。 そこに は 経験的 事 

実と いう 前提に さらに 大きな 前提が ある。 それが、 学 的に は 謂わ ゆる ハ イボ セ シスで あり、 また 学の 理念で あり、 

nomologisches wissen であり、 さらに 素朴 的に は 前 科学的な 「見当」 とか 「見込み」 という 手持ちの 規律で あ 

る 11 ことに 学 的 操作に おける 後者の 意義 を 固有な 仕方で 克明に 究明した のはハ イデ ッガ ー であった。 社会科学 

の 方で はジ ン メル や ゥヱバ —が あげられよう 。 

今日 精密科学 において 支持 せられる ハ イボ セ シスの 性格 は、 学 的 抽象の 極 を 歩んで いると い つ て もよ いで あろ 

う。 肉眼 や 望遠鏡の 領域の もので もなければ 既に 顕微鏡 的な 領域の もので もない。 それ は 観念 性の 領域に 昇華し 

て 来て おり、 また それの 要求す る 妥当 領域と しても、 直接の 経験と いうより は 経験の 可能性の 領域で 始終せられ 

ている —— この こと は 今日の 量子論と か 確率論な どの 領域の こと を 考えれば 直ちに 明らかな ことで あるが、 また 

既に 一 般的 主題 的 連関に おいて は 以前に ヘルマン. コへ ン がその 純粋 認識の 論理学で 究明した — 。 勿論 そこに 

は 一 般 的に 径 験で きる という 制約が あり 要件が ある。 従つ て それ は 可能 的 経験の 限界 内に おける 学 的 抽象で あり 



操作で ある —— この 限界 づけ は 既に カントに よってな された —— 。 しかし、 ここに われわれ は 経験的な 学問的 研 

究の 前提の 前提に おける 抽象 性 や 観念 性 を 見る ことができる。 更に 連関して は、 それぞれの 学問に おける それ ぞ 

れの 規準 や 方法な どと いう こと も、 上に あげたよ うな 謂いで 前提の 前の 前提で あり、 且つ そこに は 本質的に 抽象 

化の 課題の 存 する こと も 贅言 を 要しない。 

それで は 今日の 宗教学に おける ハ イボ セ シス はどうな つ て 来て いるか。 文化に 関する 諸 科学 は 意味 や 価値に 関 

係し 評価に 関係 するとい う 理由 も あ つ て、 その ハ イボ セ シ スは 自然科学 におけるが ごとき 有機的 連関 性と 一 律 さ 

と を もつ ことができない。 それで、 とくに ここで は ハイ ボセ シス —— むしろ 幾何学の 「系」 のよう な 性格に おけ 

る II は、 それぞれの 学問の 理念 や 方法の 制約に、 より 重要な 連関に おいて 依存す る。 尠 なくと も 依存に おいて 

理解され なければ ならない。 従って 学 的 抽象化の 問題 は、 これらの 学問の 諸 領域に おいて は、 より 分化せられ 複 

次元 的に なり 複雑に な つ て 来る。 宗教の 学 的 研究に おける 場合 も 事情 は 同様で ある。 

このような わけで、 径験的 実証的な 諸 科学と いえ ども、 その 本質 上、 事実 を そのまま 写しと る わけで はない。 

勿論し かし、 それ だからといって、 宗教の 哲学的 研究が 事実 を 前提せ ず 架空の 理念から 出て 来て よいと いう 理由 

はない。 

上の ような 事情で、 諸 科学の 研究 操作に は 哲学的 思念の 要求され る 部面が ある こと は 容易に 考えられる ことで 

あるが、 ことに 諸 科学の 解答の 綜合 的 連関 や 全体 的 連関に ついては、 やはり それ は 哲学の 領域で 答えられる 外 は 

ない。 最近で は ヤス パ ー ス等も ふれて いたと おりで ある。 しかし さらに 注意すべき は、 諸 学 ことに 人間の 生に 密 

第一章 宗教哲学の 問題と 方向 五 



第一章 宗教哲学の 問題と 方向 六 

接に 連関して 価値 や 意味 を 問題と する 文化 諸 学の 学 的 内容に 関する 理念 乃至と くに 前 科学的 理念で ある。 諸 学に 

おける その 内容の 理念 は、 勿論 右の ような 精密な 研究の 結果に 保証 せられる それぞれの ハ イボ セ シスに 裏 づけら 

れる 箸で あるが、 今 はこと に その 学 的 対象な り 内容な りの 前 科学的な 考え方 をと りあげて みょう。 さきに も ふれ 

こが、 学 的 研究の 桑 作に は それぞれの 目論見と いうか 見当 或いは 予想と いう ものが 存 する。 案外に も それが 学 的 

桑. IF の 結果にまで 影響と 傾向と を 与えて いる。 ものごとの 意味 や 価値 を 問う 文化 諸 学に おいて はこと にそうで あ 

る。 それら は 時代 や 社会に よっても 種々 の 色彩 を 帯びる であろうし、 また 研究者 各自に おいても 種々 の 場合が あ 

る。 一律に 一定の 規準 或いは 学 的 保証 を 経てい る 前提に よっての み 研究が 遂行され ると はか ぎらない。 一般に 一 

律 一定た る を 得ぬ ことが 運命的で あると さえ もい える かも 知れない。 ことに 宗教の 研究な どに おいて は、 この 前 

科学的 理念が 研究の 始終に 影響と 支配と を 有する こと は 知られる とおりで ある。 勿論 これらの 場合に おいて、 充 

分な 科学的 見識が 要求され 哲学的な 反省が 試みら るべ きこと は 言 を またない。 

二 

このような 事情で、 宗教の 研究に おいても また いずれも 根本的 本質的に 学 的 抽象化が 存す るので あって、 とく 

に 哲学的 研究の みが 独り 抽象 を 事と する ので はない。 また 凡そ 学 的に 収穫され ると ころの 宗教の 宗教た る 所以の 

根本 特質 或 い は 本質 もまた、 感覚的な もの では ありえない ので ある。 



以上の こと を 前置きと して、 宗教哲学 11 勿論 宗教 の 哲学的 研究 の 謂いであって 哲学の 実践から 宗教に 到る と 

か 哲学の 体系が 宗教に おいて 究極 するとい うような 謂いで はない 11 の 問題と 方向と を 考えて みる。 宗教哲学の 

課題 は 宗教の 究極 的な 意味と 構造と を 索め るに ある。 この場合 といえ ども 勿論 架空の 空想 や 理念から 出発して よ 

い 箸 はない。 学問の 権限と して は 可能 的 経験 —— 但し、 とくに 宗教 的に 可能な 経験 1 -の缚 域 を 逸した ところ か 

ら 出発す ベ きで はない。 

由来 直接的 素朴 的に は それ 自身と して 現存 在 を 有する 超絶 的な 客体が あ つ て、 これに 宗教 的 関係 を 結ぶ ことが 

宗教 経験で あり、 宗教の 究極 的な 根源 は その 客体に 存在す ると 考えられ、 また、 事実、 宗教の 行 業 は そのような 

確信の もとに 行なわれても いる。 或いは 少しく 反省せられ ると、 唯心論 的な 考え方の ように、 宗教の 根源が 心の 

霊的 根源 或いは 生命 的 本能に 存 すると 考えられる 傾向 もあった。 けれども 学問の 領域に おいて は、 これらの 考え 

に対して なされた カントの 批判と 処理の 根本 態度が 今日に おいても 充分に 尊重され なければ ならない。 宗教 研究 

の 課題と して は 右の ような ものから 出発す る こと はでき ない —— 前 科学的 理念に おいて 注意す ベ きこと として、 

さきに あげた ことが こ こに あてはまる 

そこで 宗教哲学の 課題 も 可能 的 経験の 領域に おかれなければ ならない。 カント は その 制約の もとに 宗教の 真理 

たるべ き 保証 を 理論 理性の 領域から は 期待す る ことができな いとして、 他の 純粋 理性の 領域に 託した ので あ つ た。 

道徳的 行為の 成立す ベ き 実践理性の 営みに かなう か 如何 かが 宗教の 真理た るべ き 標準で あると する。 さらに カン 

ト 派の 人々 は、 概してむ しろ 却って 理論 理性の 支持に よる 真理の アトラスの 中に、 宗教 的 価値 を 位置づけようと 

第一章 宗教哲学の 問題と 方向 七 



第一章 宗教哲学の 問題と 方向 " 

したので あった。 それが 謂わ ゆる 宗教の 基礎 づけの 課題で あつたので あるが、 今 われわれの 問題 はこ こに はない。 

また 今日の 問題 場面 もこ こに はない とみて よいであろう。 

すると 課題 は どこに 開かれる か。 それ は、 まず やはり 経験の 領域と いう 前提 を 出る こと はで きないが、 とくに 

一般的 経験で はなく、 これと 性質の 異なった、 宗教に 固有な 宗教 経験の 領域 を 選 取した ところに あった。 既に シ 

ュ ライエル マッハ —が 宗教に おいて 固有な 本質的なる もの を 確保し、 また 近く は ウイ ンデ ルバ ント などが r 聖」 

なる 宗教の 本質 概念 を 提示した。 しかし 彼等と くに 後者に おいても 機能的な 事実の 領域が 学問的に 確保 せられた 

ので はない。 「事態 そのものへ」 の 現象学 的 提唱の もとに、 宗教 経験の 事実 的 領域 を 学 的に 確保した の は マクス • 

シ H ラ— であった。 けだし、 この 点に おいて は 今世紀の 二十 年代に おいて 宗教哲学に 一機軸 を 劃した ものと みて 

よいであろう — 勿論 そして 殊に 現象学の 確保す る 学 的 領域 も 直接 経験に 喰い つきとおし ではない。 シ 二 ラ ー に 

おいて は その 領域の 劃し 方 は 少し 違う が、 学 的 操作の 場面 はや はりそう である こと はいう まで もない — 。 

われわれ はこの ような 方向 を 更に 進めて みたい ので あるが、 まず 第 一 段に このような 問題の 領域 を 確保して お 

こう。 宗教に 対して 真理 如何の 標準 を 他から あてがって 基礎 づける という、 先に あげた 立場の 人々 のよう な 仕方 

ではなく、 現象学の 本義 は、 事態 自らが 自ら を 示す ところに あると もい われる が、 宗教の 真理 を、 宗教の 事実 か 

(ー) 

ら 掘り出す という か、 顕 わなら しめる 仕方 を 求めたい。 

宗教哲学の 問題領域 として、 やはり 経験と くに 一般と 異なった 宗教 経験から 出発し 或いは これ を 前提し、 且つ _ 

その外から ではなく、 その 中から 問題が 開かれなければ ならぬ という 方向 をと つて 来た。 従って、 この 問題領域 



は、 その 出発な り 前提な りに おいて は、 経験的 実証的な 科学的 研究の 領域と 特に 異なる ので はない。 且つ それら 

の 科学的 操作の 性質 はさきに あげたと おりで、 宗教哲学の 操作との 親近 性と 連関 性と に 立つ。 ことに 研究の 途上 

において は —— 研究 上の 相互 連絡の 位置 や 意義に つ いて は、 さきに あげたと おりで ある —— 当然 相互に 相 交わり 

相 顧みる ことが 必要で ある。 この こと は、 とくに 宗教哲学の 課題に とって 必要で ある。 さきに あげたよ うな 前科 

学 的な 宗教の 理念の 影響 下により 多くお かれる 運命 も あるから であり、 また 従来む しろこの 点に おいて は 欠けて 

いる 向き も あるよう だからで あるが、 更に ここに は 重要な 問題が ある。 宗教 を 宗教の 事実から 究明す る 立場 をと 

つ た われわれ は、 その 事実に おける 非合理的 特質 を闡 明した 科学的 研究の 結果 を 重視し なければ ならない — 宗 

教の 外側から 宗教 を 基礎 づける 哲学的 立場 はこ こ を 盲点と する —— 。 更に はっきり いえば、 宗教の 事実に 与 かる 

心理的 連関に 関する 広義の 心理学的 解答 11 社会学 的 或いは 人類学 的 研究に おいても、 その 社会 心理学的 連関— 

—が 宗教の 哲学的 究明に と つ て も 本質的な 重要 さ を もっとい うこと である。 既に この こと は トレルチ や オット ー 

によって 主張せられ たこと であった。 いずれも 心理学的な ものの 認識論 的 妥当性への 方向 づけ を、 宗教哲学の 問 

^として 主張して いる。 しかし 心理学的 領域に 対する 視野が 今日から いえば 狭く、 且つ その 狭い 心理学的 領域 か 

らいっても 当然 要求 せれら れる ことが 出て いない。 それ は 心理学的な もの を 裏 づけ 意味 づける ものであるが、 認 

識論 では 足りない。 存在論と いうべき もの、 特に われわれから いえば 現象学 的な 謂いに おける 存在論への 方向が 

とらる ベ きものと 考える。 

しかし 宗教哲学の 課題が 宗教の 究極 的な 意味と 構造と を 索め るに あると するならば、 そこに 本質的に は 双方 間 

第一章 宗教哲学の 問題と 方向 1 . _ —九 II 



第一章 宗教哲学の 問題と 方向 一 〇 

の 根本的 相違が 出て 来る はずで ある。 この 課題の もとに、 宗教哲学の 学 的 操作 は 右に あげたよ うな 範囲の さらに 

奥へ と 縦走 面 をた どるので ある 11 勿論、 それ は カントの 遮断した ような 素朴 的 形而上学の 領域に 入る ので はな 

い。 下に 叙べ ると おりで あるが、 その 領域に おいて は 現象学で いうよう な 解釈 や 解明 方法が とられる。 なお 現象 

学で いう 直観の 問題に も カントの 残した 直観の 問題に も、 種々 の 論議と 展開と が あるが、 ここでた どる こと はで 

きない —— 。 すでに ここにお いて は、 初めに 前提 せられた 直接的 経験 や 可能 的 経験の 場面から は、 質的な 隔たり 

が 出て いる。 即ち 全体と か 究極との 連関 を 科学 はきき 出し 得ない。 それ は 帰納的 処置の 至り 得ぬ 領域で あるが、 

しかも そこに は、 下の ような 全体 や 究極の 場面のと り 方に よって、 右の 場面へ と 謂わば 験算し 立証し うる 通路が 

保 たれて いる わけで ある。 

三 

以上 を 主題の 第 一段とす るなら ば、 次に は 第二 段の 問題と 方向と が ある。 宗教哲学の 問題領域が とくに 宗教 経 

験の 場面 を 前提す る こと を あげたが、 この 場面 は 他の 諸々 の 経験の 場面と 本質的に その 性質が 異なる。 即ち 宗教 

経験の 特質に ついて、 最近の 研究で は、 日常生活 における 経験と は 全然 異なって いて、 絶対に かけはなれ たはた 

ら きの ものとの 実際的 関係で あり、 その 経験 は 超自然的 非合理的 であると みる。 また 普通の 世俗的な 従って 常識 

的 科学的な 考え や 処置の 支配 下に ある 領域で は 処置ので きない、 それらの 拒まれた、 従って その 領域の 超えられ 



た 彼岸 的な 経験の 領域で あると せられる ので ある。 これらの こと は 後に 明らかにす るが、 一 応の 目安と して ここ 

(2) 

に 弓 合 いとしよう。 

宗教の 特質 或いは 本質の 索め られる 場面 は、 科学的に も 哲学的に も かかる 特異な 経験の 前提せられ 又は 要件と 

せられる 領域で あるが、 問題の 第二 段 はこ こから 出て 来る。 宗教 現象 を、 それ 自身と して 謂わば 抜き 型と して 来 

て 問題に する か、 或いはより 具体的な 生活の 構造 や 機能の 場面に おいて、 全体 的 連関に つけて 問題に する かとい 

う 課題で ある。 宗教学に おいても そうで あつたが、 今世紀 初頭 以来の 宗教哲学 も、 謂わ ゆる 本質 論の 問題 学と し 

て、 宗教 経験に おける 固有の 本質の 究明 を 謂わば 固定 的 静止 的 所与に 託して 考えて いたので ある。 この 点 はこと 

に 新 カント 派 やそれ と 類縁の 人々 がそう であった。 現象学 的 傾向の 研究に おいても、 開かれる 問題領域 を もちな 

がら も、 ここに 腸蹐 していた ので ある。 そこで は、 宗教哲学 的に いっても 問題の 具体性が 逸 しられて 行った。 シ 

ェ ラ ー などに おいても そうで あるが、 ディルタイ や ジン メ ル においても 十全な 展開が なされて いない。 

しかし 今日で はとく に、 各自が 生きて ゆく 生の 全体 的 連関の 一 齣と して 以上の ことが 考えられなければ ならな 

い。 これが 第二 段に おける 問題の 方向で ある。 この こと を 明らかに したの は 機能主義 的な 立場であった。 即ち 人 

間が 生きて ゆく 社会的な 場面で、 所在の 制度 的 社会から 拘束せられ、 また、 当面の 事態 や 環境に 適応し 切りぬ け 

て ゆく という、 機能的 関係の 領域に おいて 宗教の 事実 を 考える ので ある。 かかる 観点 は、 心理学に おける 新 行動 

主義の 問題 場面で も あるが、 また、 社会学 や 人類学の 領域で は、 すでに 基本的に は デュル ケム やその 学派の 学説 

にも 問題の 連関が みられ、 ラドクリフ = ブラウン やとく に マリノ ウス キ— など を はじめ、 機能主義 的 観点に 立つ 

第一 章 宗教哲学の 問題と 方向 一 1 



第一章 宗教哲学の 問題と 方向 一一 一 

々によって 展開され ている とおりで ある。 ことに 近く は アメリカ における 謂わ ゆる culture and IDersonality 

movement といわれる 動きの 人々 において、 注目すべき この 傾向が みられる。 広い 意味で いえば、 最近の 社会科 

学 全般に かかる 見地が あると いっても 過言で ない。 われわれ はか かる 問題 場面から、 謂わ ゆる 宗教 的 状況に つい 

て 考えて みたい。 人間が 宗教 的に 存在す る 状況に は 色々 あるが、 下の ような 問題から 特に 限界 的 状況 乃至 catastro- 

phic situation における 適応の 処置 を迎 つてみ る。 その 詳細 は 次章に 叙べ るが、 なお かかる 問題 性 を 人間 存在の 

根底に 照らして みょうと する 仕方が、 哲学的に は ヤス パ ー スゃ ティリ ッヒ 等に よって、 また 固有の 仕方で はキュ 

ルケ ゴ ー ル等 によつ て 提唱せられ ている。 

各自 は 主; M: 的に 生きて いる。 代換し 得ぬ 自覚 的 自己 を 中心として 生の 営み をな している。 そこに 全体の 領域が 

あるが、 その 場合、 普通 日常の 経験に おいて は 科学的 常識的な 処置に よって 当面の 事態 を 切り抜けて ゆく。 しか 

し、 生きて ゆく 現実の 場面に おいて は、 時あって、 そのような 層 位に おける そのような 性質の 処置が すべて 拒否 

された 謂わ ゆる 限界 的 状況に 当面する。 万策 尽きた その 場合、 しかも そこ を 切りぬ ける 処置と して、 今日に おい 

て も往々 或いは 呪術 的 処置 も あるであろう —— ここに 謂わ ゆる 迷信の 解明 せられる 状況 場面が ある 。 しかし 

さらに 行きつ まりの 層 位に おける 状況に おいて は、 拠るべき 何物 もな く、 当の 状況に 自失して 精神 異常になる か 

或いは 主体と くに 当の 各自の 主我 的 悟性 的 主体 を 超え、 これ を 捨てる に 至る という 態度に おいて 身を処 する かの 

(3) 

場合と なる のであろう。 後者 は 本質的に いって、 まず 宗教 的な 性格の 適応で ある 11 もちろん、 宗教 的な 適応 は 

単なる 心 里 的な 否定で はなく、 それにお いて 否定 さるべき、 そして 否定に 相応す ると ころの、 然 かるべき 根拠と 



理由が ある。 そのこと について は、 章 をお つて 叙べ る 11 。 

四 

この場合 における 経験の 特質 は、 主我 的 自己の 否定と いう ことに ある。 それ は 後に 叙べ るよう に 悟性 的 情 執 的 

主体 を 超える と いう ことに 外ならぬの であるが、 そのこと は 一 体 究極 的に は 如何なる 意味と 構造と によるの であ 

ろうか。 ここに 宗教の 究極 的な 意味と 構造 をみ ようとす る 主題の 第三 段が 出て 来る。 

即ち このような 主我 的 自己 を 否定し 超える という 仕方 は、 実際の 場合に は、 それぞれの 宗教が それぞれの 成立 

的 形態に おいて 示して いるよう に、 或いは 神仏 その他の 宗教 的 対象へ の 帰依と いう すがたで 行なわれ るであろう- 

しかし、 それ だからといって、 宗教の 究極 的 根底 を それらに 附 するとい うこと は 直ちに 学 的に は 保証され ない。 

それで は 一 体 その 究極の 根源 或いは 根拠 は どこに あるので あろう か。 われわれ は 次の ような 問題領域 へと 問題の 

方向 をと ろうとす るので あるが、 附言 すれば、 宗教の 成立 形態に おける 諸事 情と は、 次の 問題領域 において 明らか 

になる 宗教の 究極の 根拠と 本質的 事実 性との 上に 打ち 建てられた 種々 の 成立 性に 外ならぬと 解釈す る ものである" 

宗教 的な 境地 境界 を 得る に 相応の 限界 的 状況 は 時折に 接 しられる であろうが、 しかし、 人間 存在の 基礎的な 構 

造を検 してみ ると、 万策つ きて ゆき 詰れる 状況と は、 実は 各自の —— 如何よう に 存在す る 場合で もの、 常に 現前 

現実の 11 究極 的な 存在の 構造に 具われる 構造 的な 破綜 の、 時折の 場合に あらわれた すがたに 外ならぬの ではな 

第一章 宗教哲学の 問題と 方向 . 一三 



第一章 宗教哲学の 問題と 方向 一四 

かろう か。 ここに 問題の 方向と 領域と が 展開す る わけで、 われわれ はわれ われの 現実の 存在の 場面の 究極 相を検 

してみ なければ ならない。 

われわれの 現実の 場面 は 環境 や 社会 や 歴史 や 時代と いうよう な 諸 要素に 還元し、 それぞれの 学 的 領域に 移して 

考える ことができる。 宗教の 経験 或いは 現象 を、 それらの 学 的 領域に 附 して、 それらの 諸 要素から 考える こと も 

できる し、 また 宗教の 存在 根拠 を、 それらの ものに 求めて 来る という こと もで きる。 しかし、 われわれ は 各自の 

現実に 存在す る最究 意の 場面 を、 現に 各自の 心の ゆきわたって 在って いる —— それ は 内在的で なく、 常に 何 かへ 

とか かわって 在って いると いう、 その 在りと いう 超越 的な —— 当の 場面、 即ち 謂わ ゆる 実存の 場面に とってみ た 

い。 知られる ように 神から 去って 人間へ というの が 近代の 観念 傾向で あるが、 当初、 文芸復興 期から 啓蒙 期に か 

けて、 人間 は 類 的 本質に おいて 考えられた。 いいかえれば、 フォイ エル バッハが 評した ように、 考えられた 人間 

を も つ て 人間の 本質と したので あ つ た。 これに 対して 現実に 存在す る 人間が 問題と されて 来たの は 前世紀の 三十 

年代に 始まる。 その 一 つ は フォイ 二 ルバ ッ ハ から 続く 史的唯物論の 線で あり、 他 は キエ ルケ ゴ ー ル から 今日の 実 

存 哲学に 連なる ものである。 近代 以降、 宗教 もまた かかる 人間の 考え方の 上に おいて 検 せられて 来た。 かかる 背 

景をも 考えて 今 われわれ は 宗教の 最 究竟の 意味 を 人間 実存の 成り立ちの ところに おいて 窺いたい。 人間 実存の か 

かる 場面 を 明らかにした 人と して 一 一人の 人 を あげる。 謂わ ゆる 存在論 的に ここ を 学 的 反省に 究逐 したの は ハ イデ 

ッガ ー である。 この 場面に おいて、 人間の —— とくに 宗教 的な 11 生き方 振舞い 方 を 凝視し 抜こうと したの はキ 

(4) 

ェ ルケ ゴ— ル であった。 われわれ は これらの 所論 を 経て 更に 観る ところ を 進めて みたい。 



問題と その 方向と は 第三 段の 領域 を 得る わけで あるが、 ここで われわれ は 究極 的な 意味に おいて、 主体が 如何 

に 存在して いる ことが 宗教に おいて 存在して いる 所以の 在り方で あり 存在 様相で あるかと いう ことと、 何にもと 

づ いて 主体 は 宗教に おいて 存在して いるが ごとき 在り方に おいて あるので あるかと いう ことと を 問いたい。 宗教 

の 本質的 事実 性と その 本来の 根拠と を 問う ので ある。 このために は、 宗教 的た るべき 限界 的 状況に おける 対処に 

ついても ふれた ので あるが、 更に 根本的に は、 実存の 基本的 構造 を検 する ことにな つた。 従って 一言に していえ 

ば、 主体の 宗教 径験 即ち 宗教 的に 実存す る こと を、 根源の 方向 即ち 我 在りと いう、 その 在りの ままのと ころへの 

方向に おいて 解体す る。 所与の 経験に おける それぞれ ポジティブな もの を 実存の 根源へ むけて 解き ほどいて ゆく 

という 操作 を 用い (お。 そして 宗教 的に 実存す る ことの 根拠 は 実に 実存す る ことの 本来の 根源に 存し、 この 根拠に 

おいて、 また 根拠へ 向けて、 自己 を処 する ことが、 宗教 的に 実存す る 主体の 在り方の 本質的 本来 的な 即ち 根源 的 

な 「如何に」 の すがたで あると 考える ので ある。 もっとも 主体の 宗教 経験 即ち 宗教 的に 実存す る ことの 根拠 を、 

実存す る ことの 根源に たずねる といえば、 すでに 観る ところの 領域に 「ずれ」 が あり はせ ぬかと 案じられる かも 

しれない が、 そうで はない。 相応す る 所以 は 後に 明らかになろう。 

このように 所与の 宗教 経験から それぞれの 成立 的 諸 契機 を 解き ほどいて、 その 究極にまで 解体して ゆく と、 各 

第一章 宗教哲学の 問題と 方向 一 五 



第 一 章 宗教哲学の 問題と 方向 - ブ 

自の 現実の 基礎 をな す 基礎的 存在の 場面に ゆき 当たる。 そこ は 謂わ ゆる 実存 性の 領域で、 各自 は 自ら 開 敷す る そ 

の 実存の 基礎 場面、 即ち 現前の 都度に おいて、 心の ゆきわたり、 まとまり において ある 場面で、 存在の 地平 を も 

つので あるが、 しかも そこ は 制限 せられた 可能性の 支配せ る 領域で ある。 各自 は そこにお ける 存在の 成り立ち か 

らして、 力無 さ、 思いのまま になら なさ、 足りな さとい う 在り方に おいて 在る。 あれで あれば それで はない とい 

う 無 さ を 如何 ともなし 得ない という 無の 機能的 支配の 領域に おいて 在る ので ある。 謂わ ゆる 「負 目」 の 構造に お 

、くて その 存在 を もつ ので ある。 そして この 極 相と して は、 主体の 各自に とって、 この 可能性の 領域 は、 その 構造 

(6) 

上不 きまりで あり、 更につ きつめ ていえば、 そこ は それと 取り とめられない 在り方に ぉレて ある 

しかも 各自 はこの 領域に おいて、 ハ イデ ッガ ー 的 性格に おいて 謂われる ような 平 人 (dp" Man) 的に ではなく、 

分別 的 情 執 的な 主体と して、 ものごと を それ そのもの として 固定 的に 考え、 あれ それと とり 決めて 分別 情 謂 を 運 

ぶ II この 点 は ハイデ ッガ ー では 主題 的に なって いない。 また 彼の 実存 哲学から 直接に 宗教へ の 問題 連関 は 出な 

お、 このような 観点 を とらえる ことによ つ て 問題の 領域が 開けて 来る 1. 

キエ ルケ ゴ ー ルゃ ハイデ ッガ ー における 実存 哲学の 不朽の 業績 は、 実存の 領域が 可能性の 領域で ある こと を 明 

ら かこした ことであろう。 いずれも 実存の 構造 を 時間 性に おいて 見出し、 とくに 前者 は 『不安の 概念』 等に おい 



て、 後者 は 勝れた 緻密 さに おいて 存在論 的に、 そこ を 「負 目」 の 在り方に おいて 抉 剔した のであった。 ことに ハ 

イデ ッガ— は 存在者の 存在が 存在者の 許に なく、 そこ を 超えた 領域に 所在 するとい う。 それが 実存の 領域の 超越 

性で あるが、 しかし 彼に おいて は、 謂う ところの 存在者 はむしろ 素朴 的な 謂いであって、 それが 定立され たもの 

という 性格に つ いて は 入念な 吟味 を 施す というより 却つ て捨 置され る。 「現前 化」 等に 関する 問題が それで あろ 

う。 けだし、 「存在」 を 問題に する ために は 謂わば それ は夾雑 的な ものと みられる のであろう。 次に 実存す る こ 

との 基本 形式 ともいうべき 謂わ ゆる 実存 範疇のう ち、 その都度の 実存の 領域 性 を 先取す る Entwurf の 問題で あ 

る。 キヱ ルケ ゴ— ル においても そうで あるが、 ハイデ ッガ —においても 投 企の 基本的 性格 は 知的で あり、 わかる 

という ことが 表に 立てられ ている。 もっとも 前者に おいて は イン テ レツ セ ともい い、 「実存 的」 に は 激情 や 選択 

或いは 決断 等と もい われる。 後者に おいても 実存 的に は 態度 やか かわり 方が 問題と なり、 倫理的 実践的な 性格と 

もい われて いるが、 とくに 実存 論 的な 投 企の 基本的 性格の 中に も 既に 相手の 「存在者」 へと 向かって 求める 傾向 

性が あげられ、 優先的に 「のた め」 という 意志の 存在論 的 可能性が あげられ ている。 しかし 「存在」 を 主題と す 

る 場合に、 それが 中心の 問題と ならないで、 自己 還 帰 的な 「了解」 が 問題と なる のであろう。 

信仰の 領域に おいて 神と 「わかり 合う」 という ことが キエ ルケ ゴ— ルの 最要処 であった。 ohne Gott の 人間 

に ついて 観て いる ハ イデ ッガ ー にしても 「終わり」 とか 「死」 というと ころの もの はや はり 謂わば 神の 代わりに 

立てられた 目途 乃至 そこから 来る ものの ような 感が あり、 先駆 的に それ へ まで を わかる ことが 本筋と せられる。 

宗教の 領域に おいて 対象 を わかる という こと も要処 であるが、 今の われわれの 問題から いうと 寧ろ そこ へまでの 

第一 章 宗教哲学の 問題と 方向 一 七 



第一 章 宗教哲学の 問題と 方向 一 " 

主体の 振舞い 方が 問題で あり、 且つ 主体の かかる 仕方の 底 を 索め ている。 このような 謂いに おいて 問題に なり、 

宗教 的に 転じら るべき 主体と は、 begehren という か、 主我 的な 貪り 欲しがる 主体で ある。 で、 この、 欲しがる 

という こと 即ち 斯々 の 中味 をと つた 方向と しての、 むかう ことの、 先取 性が 投 企の 線と して 注意され てよ く、 且 

つ 更に 「実存 的」 な 問題と して 種々 に 考えら るべき であると 思われる。 勿論 それ は 「わかる」 という ことと 別な 

ので はなく、 常に 併存し 相応して 謂わ ゆる 等 根源 的で あろうが、 「実存 的」 なわ かり 方 を 制約す るので 主題 的に 

問題に なると 思う。 つまり 渴き 欲する という ことの 予料性 先取 性で、 直接の 場面で いえば、 愛欲の 主体が 上の よ 

うな 可能性の 領域で 相手 を 立てて 取り違える という 問題に なって 来て、 上に あげた 存在者に つき、 ハイデ ッガ— 

において はド クサ 的な 領域の ことと して 捨 置され たこと が 問題と なる。 なお 実存 的な 問題に はか かわらないと ハ 

イデ ッガ ー はいう が、 たとえば その都度 的に 悟性 的 主体 を 超える という こと も 決意 性と 較べて 問題が あり、 更に 

遡って は、 実存の 理念と いう 点に おいて 問題が あるが、 それらの 点 は 章 を 追って ふれて ゆく。 

総 じていえば、 基礎的 存在論に おいて 顕露 にせられた 存在の 領域から 去って という 謂いで なく、 ハイデ ッガ— 

的に いうと 謂わ ゆる 実存 的な 主題の 連関から、 そこにお いて 更 めて 問題と さるべ き 点が あると 思われる。 

普通に われわれ は 自己なる ものと 相手なる ものと がその ものと して 存在し、 双方が 交渉して いると 考えて いる- 

しかし 主体的な 現実の 場面 は、 その 勝義 について いうと、 自覚 的 本質と いわれる ところの 人間の 各自の その都度 

の 心の ゆき 亙れる 範囲で ある。 この 観点から いえば、 ものの 如実の 在り方 は 主体の 各自に とって 在り、 各自 は 相 

手へ と 係わって 存在して いる。 その 係わりの 限りが 現実の 当の 場面で、 従って 相手 も 各自 も 現実に 如何よう にか 



第一章 宗教哲学の 問題と 方向 一 C 

さきに 実存の 場面が 可能性の 領域で ある こと を あげた。 今い う 現実の 場面 即ち 第三の 領域と は 正しく この 可能 

性の 支配に おかれる 領域で ある。 この 領域に おいて、 あれ やそれ やの こと は、 あれで も あり 得、 あれで なく も あ 

り 得る。 可能 的に は 一方が 止まる こと はない。 そして、 その 在り 得る という 在り方に おいて 在って いる 現実の 領 

域が、 その 溝 造 上、 どこまでも 不 きまりで、 そこ を 自在に 選びとる ことができない。 ここに 問題が ある。 思いの 

ままに ならな さ、 足りな さに おいて ある 現実の 場面で、 ままに しょうと 願い、 足りる ようにしょう とすると ころ 

に 問題が ある。 具体的に は、 それぞれの 場合に 相手が あり 目星が ある。 あれ それ 自他 を 待 対に おいて、 一 を 願い 

他 を こばまん として、 そこに 欲い 願い を かける ので ある。 どこまでも 不 きまりな 場面で きまりと 区切りと をつ け 

て 始終す るので ある。 

不 きまりな、 従って 常に 心配な、 この 関頭で、 それ を 欲して あれ を 願わず、 或いは それでな いもの を 願わない 

という、 その それと か あれと か 或いは それでな いものと かとい うの は、 一体 如何なる もので、 何処に 存在して い 

るので あろう か。 それら は 欲 われ 願われ、 即ち 心の ゆきわたれる 範囲に おいて、 あれ それと 立てられ 思いな され 

ている ものに 外なら ない。 それら は 悟性 や 分別が 事と する ものな ので ある。 悟性 や 分別 は あれ それと 立てて、 あ 

れ といえば それでな いような 仕切り や 区別に 始終す るので ある。 即ち 心の かかわり において、 あれ それと 分別せ 

られ、 待 対 こお かれて、 一が 願わしく 他が 疎ましい という 具合に やって いるので ある。 第三の 領域に 所在し、 従 

つて、 そのもの として 取り とめられる ように は 在って おらぬ ところの 事物 事態 や 自他 その他の もの を、 そのもの 

と ョひ いなして 11 という こと は 第一 第二の 領域に 移し 転じる ことになる — 分別 待 対し、 一方 一 途に 貪りつ くの 



である" たとえば 各自の 死の こと をと ろう。 死に 度い 死に 度くない の 欲い 願いの 運ばれる 先き では、 ただ 分別し 

て、 それと たてられた 死なる ものが 措かれて いるのに 外ならぬ。 実に はあり もせぬ もの を、 それと 立てて あれと 

待 対せし める。 しかも 欲い 願いの 先き に 立てられる 死なる もの を 生の 終わりに 来る 事実の 死と 見 まちがえ、 その 

所在の 層 位 を 異にせる にもかかわらず、 そこ を 二様 三 様に 混雑して、 情 執 を かもす ので ある。 けれども、 そのよ 

うに 思いな され 立てられた 死と は、 実は その 在りの ままの 所在 や 在り方 を、 それと 立てられ、 それと 取りと めら 

れ るよう な 具合に はもって いない。 第三の 領域に おいて、 それと 取り とめられぬ 在り方に おいて ある。 

七 

このように 相手 も 自己 も 凡そ それらが 在る という かぎり、 現実に は 第三の 領域に おいて 存在して いる。 それが 

ものの 在りの ままの 在り方で あり、 在りの ままに 存在せ る 在り 処 である。 この 領域 は 可能性の 領域であって、 構 

造 的に 無 さ 足りな さの 在り方に おいて ある。 そこ は どこまでも 不 決まりで、 且つ 悟性 的に それと とりとめて それ 

でない ものと 区別 せられる ごとくに は 存在して いない。 悟性の 測り 得る 範囲 を 超えた 領域で ある。 しかも 現実に 

は 此処に 所在して いながら、 ここの 在りの まま を 逸して、 在らぬ 物事 を それと 思いな して 欲い や 願い を かけて い 

る。 すると、 各自の 現実の 当処 即ち 在りの ままの 当処 は、 悟性 的に 分別 を 事と し 情 執す る 主体に とって は、 構造 

的に 他者 的で あり 拒否 的で ある ことになる。 

第一章 宗教哲学の 問題と 方向 ニー 



第一章 宗教哲学の 問題と 方向 ニニ 

この こと は 宗教の 本質的な メカ ニズム にと つ て 如何なる こと を 答えて いるので あろう か。 さきに われわれ は宗 

教の 哲学的 研究と 科学的 研究との 連関と、 そのこと を 顧慮すべき こと を あげた。 今日の 宗教 研究で、 宗教の 特質 

に関する 仮説と して は 超自然 観と か聖の 観念が あげられる。 宗教の 謂わ ゆる 最小 定義と して、 アニミズム におい 

て は 超自然的 存在者への 信念 や 信憑 を あげ、 ブレア 一一 ミズ ム において は 超自然的 力への 信念 や 信憑 をい う。 最近 

では 双方の 学説 間に 種々 の 問題 も あるが、 概して 超自然 観 を あげる の は 心理学的 観点で、 ことに 英米の 学者の 所 

,こ みられる。 径 験の 心理学的 内容の 性格に ついて 超自然的 とか ミス ティカルと いわれる ので あるが、 かかる 所 

論の 失当 を あげたの は デュル ケム であった。 社会心理学 にも 同様の 意見が ある。 しかし 今日に おいても 超自然 観 

の 主張 は 強く 存在す る。 聖の 観念に も 種々 の 観点が ある。 n バ ー ト ソン • ス ミスが 提起した 観点 は、 知られる よ 

うに 宗教 を 社会学 的に 究める 人々 によって 受けつ がれた。 また マ レット は 超自然的 力の 性格 を タブ ー • マナ 公式 

として、 マナの 神秘性と タブ ー の聖性 或いは 拒否 性 を あげ、 両者が 質 を 同じく し 且つ 同時 的に 存在 するとい う。 

マリノ ウス キ ー 等 も 双方の 性格の 併 在 を 唱えた。 このように 学派 や 観点に 従って 種々 の 主張が あるが、 下に 叙べ 

るよう な 謂いで、 より 本質的に は聖の 観念が 当たって いると 思われ、 超自然 性と は その上に 経験 せられる 心理的 

?) 

事実で ある —— こ の 点に ついては フ ラヮ— の 観る ところが 肯緊を 得て レ る — 

宗教 怪 験の かかる 特質 は、 一 体 何処で 何事が 如何な のかと いう ことにつ いて 検 して みられなければ ならない。 

そこ を 究極 的に 追究す る ことによって、 宗教の 究極の 意味と 本質的 機能 性が 明らかになる。 それが 宗教哲学の 課 

題で あるが、 究極と か 全体の 場面 を、 われわれ は 上の ように 実存の 存在 場面に とって 来た。 そこにお いて、 右の 



こと は 如何なる こと を 答え、 且つ 科学的 研究の 解答に 如何なる 意味 連関 を 与える か。 

さきに マレットの タブ—. マ ナ 公式の ことに ふれた が、 心理学的な 経験の 前提に 立 つ て、 r 聖」 の 複合 的な 概 

念 内容 を 組織的に 究明した の は ルドルフ. オット ー である。 聖はヌ ミノ ー ゼの 要素 を 中心とし、 勘 得 (Ahnung) 

によって 得られる ヌ ミノ — ゼな 感情 要素 は、 とくに ミステリ ゥム • トレ メン ドウ ム —— (絶対に 近 よれない) 畏 

怖すべき (全く 他の ものなる) 秘妙 11 として 表わされる 内容が 中心で ある。 かくて 結局 この 概念の 中心的 本質 

は 他者 性で あり 11 神秘性と は その 合理的 図式に 外なら ない —— 拒否 性で あると せられる。 しかし、 彼 は 宗教 経 

験に おける この 聖 性の 根源 を、 客観的な ものに はおくが、 その 立場の 制約から 感情の 根源に 具わる 素質が これ を 

うける ものと して、 直接的 経験の 立場 をと る。 勿論、 素朴な もので はなく カント 主義 的な 批判 を径 ている が、 就 

中シ H ラ ー も 評した ように、 客観的 連関が 明らかで ない。 われわれから いえば オン トロ ギ— がない。 これに 対し 

て聖の 所在 を 客観の 側に おいて 究明した のはシ H ラ ー であった。 彼 は 価値の 四つの 段階 秩序に おいて、 他の 段階 

における ものと は 質 を 異にした 価値 性質と しての 「聖」 をお き、 作用に 対する それの 応 現に 宗教 経験の 本質 を 説 

いたのであった。 勿論、 素朴 的な 謂いで はなく、 現象学 的 場面に おいてい うので あり、 後年の もの も その 場面 を 

背景と している。 しかし、 後年の ものに おける 立証 手続きに も 問題が あるし、 前提 や 方法に も 難がある。 シヱラ 

—は 今の われわれの 問題の 場面に 対する 扱いの 端緒 は 開いた が 十全で なく、 且つ 後に はこ こ を 逸して しま つ た。 

われわれ は 特に 聖の 在り方 を 宗教 経験の 当の 場面の 構造 的な 機能 性に おいてみ る ことが 正しい と 考える。 この 点 

に関する 卓越した 所論 はデ ュ ルケ ム によつ てな された。 人間 存在の 基本的な メカ ニズム において、 個体が それに 

第一章 宗教哲学の 問題と 方向 二三 



第一章 宗教哲学の 問題と 方向 一一 四 

(9) 

おいて 存在す ると ころの 社会の (意識の 面に おける) 外在 性 拘束 性に 聖を みたので ある。 

そ-化 それの 学派 や 観点で 観る ところが 異なる けれども、 このように みて 来る と 宗教 経験の 本質的 特質 は 人間 存 

在の 場面に おける 機能的な 他者 性、 外在 性、 拒否 性に あり、 普通 日常の 経験との 異質 性が 明らかになる II 超自 

然 生と はか かる 拒否 的 他者 的 機能 性 を 受ける 者に と つ て 現われて 来、 乃至 立てられる ところの 心的 表徴 或 レは象 

徴 であると いいうる 11。 就中 デュル ケム において は、 われわれの 言葉で いい 表わせば 存在論 的 連関が 見 究めら 

れ ている が、 われわれ は 人間 存在の 場面 を 上の ご とく 現象学 的 存在論 の い う 実存 論 的な 場面 につめて 行った ので 

あった。 見て 来たよう な 宗教の 本質的な 在り方 は、 ここにお いて、 その 究極 的な ところ を 得る と考えられる。 各 

自が 現実に 存在す る 存在の 場面 即ち 上述の 第三の 領域 は、 悟性 的 情 執 的 主体なる 各自に とって、 構造 的に 拒否 的 

であり 他者 的で あり、 悟性 的 分別 的 把握 を 超える 点で は 超自然的 といい 得よう。 

なおこの 点に 関して は 更に 究明が 必要で あるが (後 掲、 第 七 章、 第 九 章 参照)、 今の 場合、 今の 問題 場面で、 宗教 

の 究極 的な 意味と 構造と は どのように 答えられ るか。 それ は 人間が その 存在の 当座の 在りの ままに 躬ら処 る こと 

に 外なら ない。 という こと は、 右の ような 他者 性 拒否 性と いう 機能 性の 具わる 存在の 構造 的な 「無 さ」 「足りな 

さ」 乃至 不 決まりな 思いのまま になら なさに 所在して、 そこ を 所在のと おりに 生きる ことで ある。 換言すれば、 

主我 的 晴執的 主体 を 超え、 これ を 無み して 躬ら処 る ことで ある 11 それ は その都度の 現実の 当座い つばい に 生き 

ると いう ことで ある 11 。 これが 初めに あげた 学問の 制約と 問題の 方向から 獲られる、 宗教の 究極 的な 根拠と、 

そこ こおけ る 本質的 事実 生で あると 思われる。 そこに 究極の 意味と 構造が 明らかになろう。 一見 奇矯な ようで も 



あるが 形の 底の 地と して はこう 考えられる。 諸々 の 成立 性 規定 性に おける 宗教の 直接的な 諸 形態 は、 ここから そ 

れ それの 事情に 沿って 打ち 建てられ、 すがた をと つた ものと 解釈して、 それぞれの 仕組 を 組み 求めて —— 上述の 

Destruktion の 逆 径路になる —— ゆく ことができる であろう。 

(1) 従って、 学 的 反省 や 言語 表現が 外側からで はなくて 宗教から という ことにな つてく る。 ここに は 以前から いわれて い 

たような 問題 も存 する が、 今 は ひと 先ず 宗教の 直接 経験の 中から という ことでなくて もよ いので、 その 要件の もとにお い 

てで よいと いう ことにと どめたい。 なお 宗教 は 他の 領域と は 違った 特異な 経験の 領域な ので、 合理的 悟性 的 把握 を ゆるさ 

ぬと いう 問題 もこの 要件の 下にお いて は 出て 来る ので あるが、 それ は 後に ふれる。 

(2) このような 特異な 領域 を 前提と し 要件と してな される (前 註 参照) 学 的 反省 や 叙述 は、 直接的で ある ことができない- 

この 領域が 悟性 的 合理的な もの を 超えて いるから である。 一 般に 神学が ここ を 問題に した。 或いは 否定 神学と かバ ルト神 

学の ごときが そうで ある。 また 仏教な どの 首 説 論教栢 論の ごとき も 特色の ある 発達 をな している とおりで ある。 宗教哲学 

の 立証 操作のう ちに 強く この こと を 算入した のはシ ヱ ラ— であり、 学説の 根本に 附 してみ ている のはォ ット— である。 ャ 

スパ— スの ごとき もまた ここ を 問題と して いる わけで あるが、 総 じて ここ は 表現 や 伝達 (キエ ルケ ゴ —ルの 謂わ ゆる 間接 

的 伝達な ど は 好例) の 問題の 存 すると ころで ある。 

(3) 第二、 第 七、 第 八 各 章 参照。 宗教と 呪術との 本質的 相違の 問題 も 同上 及び 『宗教 経験の 基礎的 構造』 第 四 章 参照。 

(4) 但し 両者 いずれも 非 本来 的 人間の 考え方 は 自失 的 無自覚 的 自己と して 考えられ、 情 謂 沈 湎の情 執 的 人間と して は 考え 

られ ていない。 しかし 宗教への 人間と しての 非 本来 的な すがたと は、 喘ぎ あぐねる 情 執 的 人間で あろうと 思われる。 もつ 

とも キュ ルケ ゴ —ルは 宗教への 人間 を 固有の 意味に おける 倫理的 段階 即ち 主体的 内面 化の 段階に おいて 考え、 後年に おい 

て はとく に それ は 悩みと 真摯に よ つて 獲られる という。 そして その 底に 常に 意図の くいちがう 矛盾 をみ ている (その 経過 

について は 拙稿 「宗教 的 実存の 実存 的 課題」、 哲学 研究、 昭和 二十 五 年、 七月 及び 八月、 所収 参照)。 更に また 本来 性の 考 

え 方が 両者で は 異なる し、 われわれの 考え は 両者と も 異なる。 

(5) 所与の 宗教 経験に おける ポジティブな 仕組み を 解体す る 操作 は 拙稿 「宗教と 哲学」 中の 第 四 節 (社会学 大系、 六、 『宗 

第一章 宗教哲学の 問題と 方向 二 五 



第一章 宗教哲学の 問題と 方向 二 六 

教と 神話』 所収、 国立 書院、 昭和 二十 五 年) 及び 下の 第 七 章に 例示した。 

(6) この こと は 後の 第三 章 以下、 第 七 章 以下に おいて 明らかになる。 

(7) 宗教 的に 実存す る ことが、 究極 的な 謂いに おける 実存す る ことの 場面 を 根拠と し、 且つ 実存す る ことの 本来の 在りの 

ままに 躬 らいる ことが、 宗教の 本質的な 事実 性で はない かとい う 予想 は、 実存 哲学で いうと、 キヱ ルケ ゴ ー ルの 所論 を 根 

源の 方向に 解き ほごして、 実存の 存在論 的 構造に つけて みると 出て 来る ように 思われる (拙稿 「キ ヱ ルケ ゴ— ルの 宗教 論 

に関する 吟味」、 哲学 雑誌、 昭和 十八 年、 十月、 十一月、 「実存 哲学に 於け る 時間 性の 問題」、 宗教 研究、 昭和 十九 年、 三 

月、 七月 参照)。 従って ハイデ ッガ— の 存在論に おける 存在の 場面が 当然に 問題になる。 勿論 そこに はわれ われの 所論と 

見地の 相違 も あり、 とくに 彼に おいて は 宗教 的な 取扱いの 場面と して 右の 場面が 提示 せられても いない。 しかし、 先ず こ 

の 所論に も 参酌して み る こと は 問題 を 開い て ゆく 上に 便利が ある。 

なお ハイデ ッ ガ— の 存在論が キリス ト教の 新教 神学に 影響を及ぼし たこと は 知られる とおりで ある。 バルト は 後に 自己 

の 神学 にこれ をと り 入れる こと を 拒んだ が、 とくに ブル ト マ ンの ごとき は ハ イデ ッガ— の 所論に 直接す る ところがあった 

しかし ハ イデ ッガ— 哲学と キリスト教 神学との 連関に よ つて 神学 的 主張が 試みられる という こと は、 神学の 本質的 性格 

からい つても、 彼の 存在論の 線から い つ て も、 当 を 得ない。 後者 はすべ ての 既成 性 成立 性に ふれない ので あり、 更に、 そ 

の 出発に おいて 謂わ ゆる 「実存の 理念」 が 相応しない。 ク ー ルマン や グリ— ゼバ ッハ、 レヴ イツ トな ども 既に 指摘して い 

たと おりで ある。 従って 神学と この 存在論と は 直接に 接続す る こと はでき ない。 われわれが この 存在論 を 問題に する の は- 

そのような 観点 や 仕方に おいてで はない。 実存 論 的 場面 を 実存 論 的に 問題と し 吟味す るので ある。 更に 実存 的な 領域に お 

ける 考え方 や 処置 及び 当の 理念な どの 点に おいて は 別な 筋で 考える。 

(8) 本書、 第二 章 及び 『宗教 経験の 基礎的 構造』 第一、 第三、 第 四、 各 章 参照。 

(9) 本書、 第 七、 第 九、 各 章 及び 上掲、 拙著 第一章 参照。 

この間の こと は 既に デュル ケムゃ モスに よって 論ぜられ たが、 心理学的に は 特に フ ラ ヮ— が 克明に 明らかにし、 精神 

医学に お いても 注意すべき ことが いわれて いる。 マリノ ウス キ— や 殊に チヤ プル 及び ク— ン はこ こ を 機能主義 的 連関に お 

いて 論じた (本書、 第二、 第 七、 第 九、 各 章 及び 上掲 拙著、 第一、 第 四 章 参照)。 



第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 

—宗教 的 適応 の 根源 的 意味 を 索 めて I 一 



究極 的に は 主体が 如何に 存在して いる ことが 宗教に おいて 存在して いる 所以の 在り方で あるかと いう ことと、 

次に は、 根源 的に は 何に 基づいて 主体 は そのような 在り方、 従って それぞれの 宗教 径験 において 存在して いるが 

ごとき 有り様、 において 存在して いるので あるかと いう ことが、 今の 問題で ある。 従って 実際の 宗教 的 事実 を 前 

提し 要件と はする が、 しかし 宗教の 行なわれ ている 実際 面に つくので はない。 仮り に その実 際 面 を 宗教の 行なわ 

れ ている 舞台と するなら、 謂わば その 舞台の 底の 奈落の メカニズム や 機能 を 問題に したいの である。 舞台で は 彼 

岸 的 存在者に 関係す る ことが 必須で もあろう。 しかし 奈落の 機構と して は、 人間 存在に 容 された 範囲に おいて 見 

究めて みょうとす るので、 上からの 方向 を 避け 成立 的なる ものから も 故ら に 外して ゆく —— 従 つて 下に 叙べ るよ 

うな 経過 を 経て 回心が 行なわれる というよ うな 事で は 決してない。 また 下で 叙べ るよう な 基礎的な 構造 を も つ て 

実際の 宗教の 積極的 成立 的 機構で あると する ので もない —— 。 事実の 底の 骨組み を 索め、 宗教の 根源 的な 意味の 

第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 二 七 



第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 二/ 

連関 を 人間 存在の 場面に I してみ ようとす る ものである。 それ 故 宗教の 機能的な 場面 を 問題と する が、 かかる 場 

面 を 生活の 営みの 全体 的 連関に おける 特殊な、 質の 違った 機能の 領域と 考える。 そこで、 先ず 各自の 現実 生活に 

おける 限界 的な 危機の 状況と 其処に おける 適応の 問題 をたず ね、 更に 其処の 成り立ち を 吟味す る ことになる — 

このような 問題 性 は 既に キ ヱ ルケ ゴ ー ルゃ ヤス パ ー ス にも あり、 少し 違った 意味で は ティ リツ ヒ等 にも あつたが、 

今 は 経験的な 究明に 副つ て ゆきたい 11 。 

及界勺 大兄と か &幾 という 事態 は 謂わ ゆる frustration とか conflict という 場合から 解明す る こと 力で きる 力 

これらの ことが 其処に おいて 起こる ところの 場面の 仕組み や 機能 性が 先ず 問題で ある。 いうまでもなく、 それ は 

現実 生活の 場面であって、 種々 の 観点から 明らかにし 得る が、 最近で は 謂わ ゆる culture とか personality とい 

う 問題が、 この 場面に おける 特に 個体と 社会との 関係 を 明らかにす るのに 新しい 問題 性 を 投じて おり、 関係 諸 学 

の 相互 的 寄与に よ つ て 進められ ている。 勝れた 意味に おいて 社会的 乃至 集団 的に 規定され ている ところの 個体の 

現実 生活 こつ、, て、 同じく 其処に おける 機能 性 を 問題に しながら、 とくに 社会的 制度 的な ものからの 外在 的 客観 

勺 拘束 性 を 問 ^こし.. このは デ ュ ルケ ムゃラ ー ド クリフ "ブラウンであった。 かかる 見地 も 勝れた 観点で あるが、 

まず 今の 問題の 方向 上 11 また 併せて 謂わ ゆる need の 主体の 環境への 適応と いう 最近の 問題 性との 連関から も 

I 後者と ともに 機能主義の 先蹤 といわれる マリノ ウス キ ー の 所論 を 引合いに して 進む ことが、 彼に 対する 種々 

の 批難が あるに しても、 一 応は 便宜で ある。 

文ヒの 問題 は 人類学者が 発見した ともい われる が、 マリノ ウス キ ー は 数年 前に 出た 彼の 二つの 遺稿 集に おいて 



文化の 問題 を 一 層 まとまった 組織的 叙述に 仕上げ、 且つ 未開社会の 研究に おいて 用いられた 人類学 的 諸 原理 を 推 

して 文化 一般の 分析 理論と して 要求した のであった。 文化と は、 人間が その 中に おいて 種々 の 問題 即ち 生物 的 生 

活体 としての 欲求 need, needs の 主体で あると いう ことから 出て 来る 問題と、 自然 的な 素材 や 力 を 蔵す る 自然 的 

環境から 出て 来る 問題と に 対処す る 物的 人的 及び 精神的な 装置で ある。 即ち 文化 は 人間が 生きて ゆく 目的に 対す 

る 手段で あり 媒体で あ つ て、 それ は 「機能的」 であり 「制度 的」 である (scientific Theory, pp. 36, 40.)。 まず 本 

能と 行動と 本能の 満足と いう 系列 を 考えて みると、 動物に おいて は 知らず、 人間と いう 生活 体に おいて は これら 

の 系列の 一 環が 凡て 文化的 規定の 裡に おかれ、 生活 体の 属する 集団と その 伝承し 維持せ る 伝統と によつ て 形を定 

めら れ ている。 この間に おける 人間の 行動 即ち 勝義 において 文化的な 行動 を マ リノ ウス キ ー は 二 ー ド とその 充足 

という システム において 分析した ので ある。 何にもまして 文化 は 民族の ベ ー シ ック • 二 ー ヅ 即ち 生活 体の 生物 的 

欲求の 充足と いう こと を 基本的 要件と する。 但し 人間 は 動物 的 生活 体と は その 本質 を 異にし、 一次 的な 自然 的 環 

境をモ ディ フ アイし 持え 直して 人為的な 謂わ ゆる 一 一次 的 環境と なすので あるが、 恰も この こと を 人間に 容す のが 

文化の 本質で ある (cf. pp. 85, 37, 120f, 171f.)。 

二 ー ド という 概念 は 文化の 機能的 分析に と つ て 大切な 概念で あるが —— 新 行動主義 的な、 bio-social な 連関に 

おいて 屢々 用いられて いるが、 たしかな 限定な しに 使われても いる —— マリノ ウス キ ー によると、 それ は 本能の 

能動 形式た る ドライブ や 生物学 的 或いは 生理学 的な 謂いに おける 単なる モ ティブと いう 概念と はちが う。 それ は 

個体の 生物 的 乃至 生理的 組織に 連関して いわれる ので はなく、 むしろ 個体のお かれる 社会と その 文化へ の 連関に 

第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 二, 7 



第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 三 〇 

おいて みら るべ き 概念で ある。 従って 一一 ー ドとは 人間が 右の 一 一次 的な 文化的 環境に おいて 生きて ゆく 要件の 体系 

であり、 また 人間と この 文化的 環境と がー 次 的な 自然 的 環境に 対する 関係に おける 要件の 体系で ある (p.89f.)。 

それ 故 一一 —ヅと は、 それぞれ 当てが わ つ た 決まり 即ち 文化的 反応と 相応す る ことにお いて 生活 体の 行動 を 可能に 

し 達成せ しめる 要件で あり 決定 要因で あり、 且つ 制約 的な imperatives ともい われる。 かかる 二 ー ヅは 生物 的な 

ベ— シック. 二 ー ヅとー 一次 的 派生的な デライブド • 二 ー ヅに 分けて みられる。 ベ ー シック • 二 I ヅとは 代謝 機能- 

生殖、 身体 的 慰安、 安全、 運動、 生長、 健康 等で あるが、 たとえば 代謝 機能に は 食 養 経理が、 生殖に は 姻戚 関係 

がと いうよう に、 それら はいずれ も 文化的 反応 を 必要と する。 

ところがべ— シック • 二 I ヅは それだけで 直接的に 充足され る こと はでき ない。 実は それらと は 違 つ た 別な 二 

1 ヅの 充足 を俟 つ こと を 必須と する。 それが 派生的 二 —ヅ で、 たとえば 喰う というべ ー シック. 二 I ヅ について 

みても、 それに は 生産 や 貯蔵、 加工 ゃ炊餐 などに 関する 種々 の 装置 や 要件が 必要であろう。 凡ての ベ ー シック. 

二 ー ヅ において 同様で、 それぞれの 目標に 至る ために は、 広義の 手段 的 要件が 必要で ある (cf. pp. 171, 38, 138f.y 

しかも、 それらの こと は 独りでで きる ことで はない ので 人々 は 集団に 組織 せられる。 組織 せられた 集団 は 制度 的 

社会 (institution) であって、 活動の 組織体 系 を 有し、 且つ 伝統の 主体と して、 そこに は 熟練の 技法と 知識と 価値 

との 諸 体系が 蔵せられ てい る (cf. Dynamics, pp. 44r 49f.)。 こ の ことに つ いて は 次に ふれる が、 とも 角 こ の よう 

なわけ で 二 ー ヅの 充足と いう こと は、 人間が 組織 せられた 集団の 中に 生きる こと を 要件と し、 可逆 的に は、 人間 

が 制度 的 社会の 中に 生きる かぎり、 常に それによ つて 制約 せられる こと を 意味す る。 派生的 二— ヅと はか かる 要 



件と 制約との 上に おける、 手段 的 (instrumental) 要件と 統合 的 (integrative) 要件と をレぅ 

即ち 人間 は 生物 的な 力 だけで は 生きて ゆけ ない。 道具の 設備が 必要で あり 財が 生産され 使用され 取り代 えられ 

なければ ならない。 それに は 経済と いう 装置が 出て 来なければ ならない。 また 技術的、 慣習 的、 法律 的、 道徳的 

等の 諸々 のき まりが 必要で、 そこに 社会的な 統制と いう ことが 要求 せられる。 第三に は 人的資源の 更新 や 蓄積の 

ために 教育が、 第 四に は 各々 の 制度 的 社会 を 秩序 づける 政治的 組織が 必要と なる。 これらが ベ ー シック • 二 ー ヅ 

の 充足の ために 必須な 手段 的 要件で あるが、 更に これらの 二 ー ヅ 乃至 要件 は 上に 約言した 連関に おいて、 下に 叙 

ベる ような 組織的 社会が 伝統に よつ て 維持せ る 共通 的な 観念 や 価値 乃至 シン ボリ ズ ム によって モ ディ ファ ィ され 

る こと を 要件と する。 この 要件が イン テグ ラ ティブ • 二 ー ヅで、 知識の 体系と 呪術 及び 宗教が あげられる。 それ 

は 本質的に い つ て 象徴的に 仕組まれて いる 一 般的 原理で あるが、 実に いずれも 文化の 最 原初の 段階から 既に 存在 

していて、 人間に おける 生理的な もの を 文化的 価値に 転ぜし める 原理で ある —— なお マ リノ ウス キ ー は 芸術 ゃ娯 

楽 を 生活 体の 生理的 特質に 直接す る ものと なして いるが、 それら は 技術的 呪術 的 及び 宗教 的な 信念 や 信仰の モ ー 

ドに 影響を及ぼしたり 依存したり している という (cf- 38, 132f., 173, Dynamics, p. 46.)。 

以上が 一一 ー ヅの 充足と いう、 謂わば 個体の 文化的 行動 を 中心に 見た 文化の 機能的 分析で ある —— 「機能的」 と 

いう 概念 は マリノ ウス キ ー では use, utility, relationship という 意味が 支配的で、 人間の 文化に おける 基礎的 及 

び 派生的な 二 ー ヅの 充足と いう 営み をい う (cf. P? 158f., 39.) 11 。 ところが、 かかる 文化的 行動の 営みに おい 

て 必須な 要件 をな す 他の 原理 は、 見て 来たと ころから も 明らかな ように、 それ は 組織 (organization) という こと 

第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 三 一 



第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 三 二 

である。 組織の 単位 を マリノ ウス キ ー は 制度 的 社会 (institution) と 呼ぶ (cf. p. 39.)。 制度 的 社会と は 種々 な 活動 

を 遂行す るた めに 統一され た 人々 の 集団であって、 常に 資材 的な 所与と 技術的 装備と を もつ。 そして 特定の 法的 

或いは 慣習 的な きまりの 上に 組織され、 神話 や 言い伝え 或いは 法則 や 格 率 等に よ つ て 謂われの ある まとまり を も 

つてい る (esp. Dynamics, p. 50.)。 かかる 制度 的 社会の 最低 単位と して マリノ ウス キ ー が 個々 の 小 家族 をと る こ 

と は、 最初の ォ ー ス トラ リア 原住民の 家族 研究 以来 知られる とおりで あるが、 更に 氏族、 地域社会、 部族、 経済 

的 協同の 組織体、 乃至 政治的 法律 的 及び 教育的 活動の ための 組織 団体 等が あげられる。 しかも、 これらの 社会 は 

一面に は 自律 的で あるが 他面に は 交互 的に 依存し、 現実に は 組み合わ さった 重層 体 をな している (pp. 150, 40.)。 

かかる 制度 的 社会の 中に おいて、 人々 は 人間 相互 間の 限定され た それぞれの 関係に 立ち、 且つ 自然 的 及び 二次 

的 人為的な 彼等の 環境の 実質的な 部分に 対して 特定の 関係に 立つ ので ある。 即ち 此処から いえば、 人々 は 所属の 

集団が 伝承し 維持せ る 伝統的な 規範の 下にお いて、 協同 活動の 規則に 従い、 種々 の 実質的 装置 を 通じて 働く とい 

うこと によって、 彼等の 欲望 を充 たす ので ある (cf. p. 39f.) —— という こと は 二 ー ヅの 充足と いう 上述の 線と 行 

(2) 

き 会う。 そして マ リノ ウス キ ー において はこの 後の 線が 主で ある 11 

生きる という こと は 基本的な 生物 的 事実で、 人間の 生物 的な ドライブ は その 満足 を 求める が、 それ は 人間の 行 



動と 社会と において 凡て 文化的に 要件 づけら れ 制約せられ る。 二 ー ヅの 領域に おいても 生物 的 二 ー ヅは 直接 その 

目標に 向かう ので はなく、 二次的 二— ヅの 充足 を俟 たなければ ならない。 且つ 欲望の 満足と いう 点に おいても、 

一 一次 的 手段 的 二 —ヅの 達成と いう こと は、 生理的 一一 ー ヅの 充足の 場合と 同様 或いは 相似 的な もの を 含む といわれ 

る (cf. pp. 137ff.)。 

以上の ような 始終に おいて、 人間 各自の 現実の 場面と は、 二 ー ヅの 主体が その 環境 11 自然 的な もの を も 含め 

ての 謂いに おける 一 一次 的 人為的 環境 即ち 文化 —— へ の 適応 或いは 順応 (adaptation, adjustment) という 機能 性に お 

いて みられる であろう。 ところが、 かかる 適応の 不能の 場合 は 如何であろう か。 欲望の 満足と いう こと は、 仔細 

に検 すれば 夥し い 要件の 充足に よ つ て 可能と なる ものであるが、 実はべ ー シック. 二 ー ヅに 応ずべ き 食 養 経理、 

姻戚 関係、 住居、 その他 各般の 条件に おいて、 或いは 偶然 的 状況 的に 或いは 必然的に 夥しい 不如意に 遭遇し なけ 

れ ばなら ない。 即ち それらの いずれもが、 主体の 属する 社会の 固有な 組織と 伝統の 上に おいて、 装備 的 内容から 

も 手段 的 手続から も 制限せられ ている。 いいかえれば、 一次 的 環境に おける 自然 的 素材 や 力、 二次的 環境に おけ 

る 経済的 • 政治的 • 技術的 • 慣習 的 • 法的 • 道徳的 等の 重層した 制約に おいて、 量的に も 質的に も 制限 せられて 

(3) 

いる。 ここに 要 例 を あげる まで もな く、 欲望の 不満な 夥しい ケ ー スが あり —— 上記の ように これらの 手段 的 要件 

の 充足、 不 充足 も 亦た 満足 不満足の 対象で ある 11 二 ー ヅの 充足と いう 主体の 行動 体系に おける 相剋 や 行 きづ ま 

りの 根が ある ことが 容易に 知られる であろう。 

かかる 相 魁 や 行 きづまりの 極、 一次 的 二次的 二 ー ヅの 充足の 凡て 不能な 場合 は 如何 か。 それ は 生活 体の 破滅に 

第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 三 三 



第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 三 四 

外なら ない。 尤も 生活 体に は 極めて 大きな 可塑性が あり 可能性が 容 されて いる。 行 きづまりが 文化 形成の 動因で 

あると もい われる が、 しかし その 極 はどうであろう か。 それ は 謂わ ゆる 生の 危機で あり、 限界 的な 状況であって、 

人間に おいて は 上の ような 謂いで いずれも 文化の 中で 起こる ことで ある けれども、 分けて みれば、 それ は 自然 的 

にも 社会的に も 生理的に も 心理的に も屢々 あり、 なくて はすまぬ ことで ある。 勿論 この場合 も 生活 体 は 生き抜 こ 

うとす る。 そして、 その 際の 適応に は 極端な までの 選択 的 関心 (selective interest) が 用いられ、 特殊な 価値観が 

支配す るであろう。 溺れん とする 者 は 藁 を もっかむ とか、 苦しい 時の 神 だのみ とかと もい われる ように。 

私と して はこの 間の 経緯 をと くに 心理学的 現実の 場面 I . という こと は 環境への 適応 場面に おける 心理的 連関 

—— において 穿鑿して みたい ので あるが、 なお 暫 らく マリノ ウス キ ー に 聴こう。 われわれ は 日常生活の 環境 的 適 

応 において、 われわれの 行動 を 統合 的に 要件 づけて いる 原理と して —— マ リノ ウス キ ー の 謂わ ゆる イン テグ ラテ 

イブ • 二 —ヅ中 — 科学 乃至 科学的 常識 を もっている。 ところが この 原理 的 要件の もとにお ける 上述の 基礎的 及 

び 手段 的 諸 要件が 行 きづまり、 適応 不能に 陥った 時 如何であろう か。 そこに 当面の 環境 や 事態への 宗教 的 或いは 

呪術 的 適応と いう ことが 予想 せられる。 マリノ ウス キ ー は 宗教が 人間の 特殊な 文化的 機能 を充 たし、 凡ての 宗教 

は 人間の 環境へ の 適応と いう ことから 産まれた 副産物 だとい つてい る。 それ は 如何なる 場合の 適応で あり 如何な 

る 特殊な 機能な のであろう か。 

文化に 関する 後年の 所論で も、 凡そ 人間の 文化的 行動の あると ころ、 即ち 最 原初の 未開社会から 文明社会に 至 

るまで、 其処に は 知識の 体系と 呪術 及び 宗教の 原理が あり、 文明社会の 人々 と 同様に 未開人 もまた 通常 自然の 生 



活 において は 科学的な 手段と 考え方に よ つ て 事に 処す るが、 科学的な 予想 や 処理の 不可能な 諸 件に 対して は 呪術 

や 宗教に よる 適応が なされる こと を あげる。 即ち 経験的 合理的 処理 や 考えの 及ばぬ ギヤ ップを プリ ッ ジ する ため 

(7) 

に 「超自然的な 力」 を 認めなければ ならぬ というの である。 

一体、 未開人の 心性 は 文明 人の それと は 違った 範疇で みられなければ ならぬ という ことが、 殊に レヴィ = プリ 

ュ ー ル等 によって 主張せられ、 彼等 は ひたすら 集団 的 表象の 中に 自己 を 委ね、 その 思惟 方法 は 前 論理的で 神秘的 

であると された のであった。 しかし、 既に デュル ケムも かかる 半面に 自然 的な 思惟の ある こと を 認めた ので あつ 

たが、 彼の 影響の 下に 立ちながら、 特に 個体の 心的 現象 を 重視した の は、 マリノ ウス キ ー その他の 人々 であった。 

彼 は 有名な メラネシアの 局地 研究 を 中心に、 中央 ォ ー ス トラ リア、 アフリカ —— 遺稿の "Dynamics" は ァフリ 

力 を 中心とする —— 、 北米の プ H プロ インディアンの 諸 地域 乃至 ポリネシア 等に わたる 鳥瞰 をな して、 彼等 未開 

人が 既に 一方で は 自然 的 合理的で、 未然ながら 科学的 法則 性 を 知って これ を 伝承し、 現実 生活に 適用して いる こ 

と を あげる。 即ち 道具の 製作 や 農耕 その他に おいても 経験的に 帰納 せられた 知識 を 有し、 また 普通の 作業 等に お 

いて は 自然 的な 方法し か 講じない。 ところが 危険の 多い 作業と か 彼等の 生活に と つ て 大事な 生活 用具の 作製に 際 

してと か、 或いは 社会生活 における 基礎的な ものに おいて は、 况術的 操作が 加えられる。 この ことにつ いて マリ 

ノウ スキ— は 所与の 自然 的 合理的な 処置 や 考え方 を も つ て は 結果の 確信が 得られず、 事態 を 如何と も 統御し 得な 

い 生活 部面 即ち 自然 的 社会的 或いは 生理的な 危機 や 大事に 際し —— これらの 機会に おいて は 人 は 当面の 事に 選択 

的 関心 を 集中し、 きわだった 情緒 的 関心が 昂 まる 11 謂わば 自然 処理の 手に 負えな さと、 これに 適応して ゆく こ 

第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 三 五 



第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 三 六 

(9) . 

ととの 間に 存す るギ ャ ップを 補う 仕方と して 呪術 や 宗教の 行なわれる 所以 を 明らかに したので あ つた。 かかる 况 

術 的 行為と は 彼に お い て も 超自然的な 呪 力 11 普遍的な マナで はない とい う 11 による 行為で、 慣習と 伝統と に 

よって 守られて いる。 宗教 もまた 同様に 超自然的な 力に 関与す る 儀式 や 行事で、 未開人に おいても ドグマ や 道徳 

的 規定 を もってい るが、 やはり 生誕 や 成年、 結婚 等、 就中 死と いうよう な 生理的 社会的な 大事に 際する 情緒 的緊 

張の 状況に おいて 行なわれ、 それ 自身 を 目的と する 充足の 行事と せられる。 

それで は 危機に おける 宗教 的 或いは 呒術的 適応と いう こと は 如何なる 仕組みと 仕方で 行なわれ るか。 マリ ノウ 

スキ —は 宗教 も 呪術 も 「聖」 の 領域の ことで あり、 それら はいずれ も 「超自然的な 力」 の 実在 を 認めて これに 頼 

るので あると なすので あるが、 それ は 行ないであって 単なる 確信と いうよう な もので はない。 その 行ないと は宗 

教的 乃至 呪術 的な 儀礼 や 道徳と して 伝統的に 範型 化されて いるもの である。 それらの 行ないに おいて 聖ゃ 超自然 

的な 力に 接する と は 如何いう ことかと いうと、 それ は ミラクルと いいたい と 彼 はいう。 ミラクルと は 超自然的な 

諸 実在が 儀礼の 所作に よ つ て 創ら れる 事柄で あり、 ミラクルの 中で 人間の 生活 や 自然の 出来事の 径路が 超自然 力 

によ つ て 造り かえられ るので ある。 ミ ラ クル は 人間が 自己の 力の 無 さに 当惑す る 時 即ち 適応の 道が 遮断され た危 

機に おいて、 その 間の 断絶に 繁 がり を 与える ものである。 かかる ミラクル は 11 宗教 的 或いは 呪術 的な 儀礼に お 

いて 怪験 せられる が —— 何処から 来る かとい うと、 謂わば 過去から 来る。 社会の 伝統と これ を 守る 道徳的な 力に 

よって、 それ は 遠い 過去から 集団 的に 伝承せられ ている。 その 伝統に は ミラクル において 超自然的な 力の 働く 謂 

われが 伝えられなければ ならない。 それが 神話で、 マリノ ウス キ ー によれば、 かかる 謂いの 神話 を 伴わぬ 宗教 や 



呪術 は 存在し ない。 神話 は 生きた はたらき を 有し 呪術 や 宗教の 実体 を 伝える ものな ので、 呪術 や 宗教の 儀礼 や 道 

徳的 乃至 成立 的な ドグ マ は、 孰れ も かかる ミラクル を 謂われ づけた 神話に よつ て聖 なる 性格 を 与えられる という。 

以上の こと は 呪術 や 宗教が 人間の 危機に おいて その都度に 産み出される という 謂いで は 勿論ない。 各自の 危機 

において、 社会的に 伝承され た 呪術 的 或いは 宗教 的な 行ないが 行なわれる という 謂いで ある。 ところが われわれ 

の 主題に と つ て 興味 ある 問題が 此処から 提示 せられる。 それ は 右の ような 伝統の 装置に 従つ ての 場合の 反応 や 適 

応の 機能が、 危機の 状況に おいて 押し つめられた 身心の 発する 自然 的な 11 伝承の 呪術 や 宗教に よらない 11 反 

応ゃ 適応と 相応し 相似 するとい うので ある。 最初に あげたよ うな 理由から、 われわれ もこの 後の 線 を 追う ことが 

必要で あるが、 マリノ ウス キ ー は 次のように 叙べ ている。 危機に おいて 自然 的經験 的な 11 いずれも 伝統に よつ 

て 教えられる I . 適応の 処置 は 尽きた。 適応 不能の 事態 を 前にして 人 は 自己の 無能力 を 痛感す る。 そこに は 畏縮 

する 反応 も あるであろう。 しかし そのために 欲望 は 当面の 事に 対して 益々 強く、 不安と 恐怖と 希望と が 彼 を 異常 

な 情緒 的 緊張に 導く。 その 結果、 彼 は 望まれる 目的 や 恐れられた 危機の 観念に 強迫され て、 それらの 幻覚 を 懐き 

明らかな 像 を 見る に 至る。 そして これへ 向けて 情緒 的に 活潑な 態度 をと り、 閉じられた 生理的 緊張が 爆発して 言 

葉 や 身 振 を もって 幻想され た 対象に 応じる。 かかる 振舞 は 実際の 適応 不能に 原因した 代用 的 適応で あるが、 単に 

主観的に のみい うならば 当事者に とって は 実際の 適応と 同じ 値打ち を もつ。 次に 激情が おさまる と、 この 代用 的 

適応の 効能が 感ぜられ、 その 強い 晴緖的 経験の 結果から して、 期待し 願われた ものが 実際に 達せられ たような 信 

念 を 得る。 そして 心理的 生理的な 強迫観念から 生まれた かかる 力 は 逆に 外部から 啓示され たように 考えられる。 

I 第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 三 七 1 1 - 



第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 三 八 

危機に おける 情緒 や 欲望から 出た かかる 異常 反応の 諸 特徴 は 生活 体の 心理的 生理的 組織に もとづく 共通の 現象 

であるが、 それら は 伝統的な 呪術の 儀礼 や 呪文と 著しく 類似して いて、 術 的 信念の 源 は 実に かかる 経験に ある 

ので はない かと 考えさせられ ると、 マリノ ウス キ ー はいう ので ある。 即ち 上述の ような ミラクルが 危機に おいて 

自然 的に 発生す る 様相 を 見た わけで あるが、 この 点 を 詰めて ゆく 前に 連関の ある 所論 をみ てお きたい。 やはり 機 

能 主義の 立場から、 生活 体の 危機に おける 適応が 宗教に より、 且つ 制度 的な 謂いに おける 宗教 はこ こから 形成 さ 

れる という 所以 を 主張して、 業績 を あげた ものに チヤ プル 及び ク I ン がいる。 

機能主義の 業績 は 人間 を 生理学 的な 生活 体と 考えた ことと、 生活 体の 行動に もとづいて 制度 的 社会が 成立し 展 

開す ると 考えた ことと である。 かかる 主張 は マリノ ウス キ ー を最 とする が、 人間の 生理学 的 行動に とって 制度 そ 

の 他が conditioning symbol であると 説いた 点に おいて ラ ー ド クリフ = ブラウンの 寄与 も ある。 その 欠点 は歴 

史学 派が 難 じたよう に、 変化に おける 社会 を 問題と せず、 制度の 上に おける 人間の 関係 を 一点の 時の 上に 固定し 

て 考える 点で ある。 機能主義の 用いる 分析に は 時間の 尺度が 入れられなければ ならない (principles, p. VI.)。 

人類学の 課題 は 人間の 関係と くに 人間 間の 相互作用 を 研究す るに あるが、 その 関係と は勝義 において このよう 

な 生理学 的 人間の 行動が 営む ところの 「適応」 に 外なら ない。 それ は 環境への 適応で あるが、 この こと は 従来の 

機能主義の いう ごとくで なく、 適応と は 環境の 変化に 対する 適応で、 生活 体の 変化して ゆく ことで ある (ibicr PP. 

6f., 15。 

末梢神経 系に 自律 系と 体 性 系が ある こと は 周知の ことで あるが、 生活 体の 内部 環境に 対しても (内臓 器官に お 



ける 無意識的 調節の ごとき) 外的 環境に 対しても (光に 対する 瞳孔の 変化と 調節の ごとき)、 自動的に 平衡 (equi- 

librium) の 状態が 保 たれる。 神径 系の かかる メカニズム を チヤ プルと ク ー ンは 生活 体の あらゆる 外的 関係と くに 

個体 間の 相互作用に あてはめる。 

即ち 対人 間にお いても 相互作用の 或る レ ー ト において 平衡が 保 たれる ので あるが、 一 度 この 関係に 変化が 起こ 

ると、 生活 体 も 新たな 平衡の ために 変化して ゆく (pp. 68r 36f., 41f.) —— かかる 機能的 依存と いう こと は、 生活 

体の 一 つの 関係に 変化が 起これば、 彼の 他の 関係に おいても 変化 を 起こす という 謂いで ある 11 。 これらの こと 

は (生活 体の 集まりなる) 集団に おける 適応に おいても 同様で (pp. 69, 47.)、 かくて 環境の 変化に 対して 適応す 

ると いう こと 即ち 新たな 相互関係の レ ー トを 獲て 平衡 を 保 つ て ゆく という ことが、 制度 的 社会の 成立と 展開と を 

為さし める というの である (pp. 6r llf.)。 

関係 或いは 適応と いう 生活 体の かかる 行動 を 成立せ しめる 構成要素 を 彼 は 四つ あげる。 生活 体と 環境 即ち 他の 

人間と 自然 的 世界的 事物 及び シンボル であるが (esp. Reader, p. 567f.)、 就中 シンボルの 意義が 重要で ある。 生 

活 体の 適応と いう 問題で は 条件 反応と いう ことが 要処 であるが、 それ はパ ブ 口 フ の 所論から 来て いる 11 も つ と 

も 情緒 反応に おける 条件 性 はしかく 簡単で はない。 この 問題に ついては 下の ように 究明され なければ ならない 

(principles, pp. 30, 26.) —— 。 犬が 唾 を 出す の は 反射的に は 食物 を 口に 入れる ことによ るので あるが、 その 際に 鐘 

の 音 を 条件と して 犬に 食物 を 与える こと をく りかえ すと、 鐘の音 だけで 犬 は 唾 を 出す ようになる。 有名な パブロ 

フの 実験で あるが、 この場合の 鐘の音 を、 ク— ンは、 条件反射 をな すよう にす る 「シンボル」 という (principles, 

第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 三 九 



第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 四 〇 

pp. 30, 41.)" 即ち 食物 を 口に 入れる という ことと 唾が 出る という ことのよ うに、 反射運動で はこれ を 引き起こす 

刺激が 基本的に 定まって いるので あるが、 或る 刺激が この 反射運動と 度々 連合され、 定まった 刺激と 或る 刺激と 

がー 緒に 知覚され ると き、 この 或る 刺激 は 反射運動の シンボル となる。 そして 後者に よって 生活 体 は 前者に 対す 

ると 同様な 反応 を 起こす ので ある (ibid.)。 かかる 謂いで、 言葉 は 最も 普通の シンボル であるが、 直接 知覚の 対象 

たる 物で も 人で も、 凡そ 何でも シンボルたり 得る (P. 465f.)。 しかし、 ここに 注意 さるべき ことがある。 生まれ 

たての 子供 は 恐らく 見たり 聞いたり する 相手の ものに 対して 然るべ き 反応が できない であろう。 或いは また ライ 

オンの 声 を 単に 音波と して 内耳に 受ける だけで は 然るべき 反応が できない 害で ある。 この場合、 刺激と 然るべき 

反応の 為される 中間に おいて、 その 刺激の 意味が 習得され 理解され ている ことが 要件で ある。 この 要件 を 具えて 

いると ころの、 上述の ような 条件 的 事物 或いは 人物 等が シンボル である。 換言すれば 直接 知覚の 事実 や 人物が 条 

件 性で はなく、 繰り返し それらに 接して 辨 えられる 意味が シンボル であり、 これが 反応の 条件 性と なる ので ある _ 

従って シ ン ボル は 決して 事物 や 人物と 離れて 別に 存在して はいない が (Reader, p. 168.)、 しかも 殆んど 凡ての 場 

合に そのもの としての 事物 や 人物 等で はない。 それらの もの は 恰も 芝居の 行なわれ ている 舞台の 上の 有様の よう 

に、 マ リノ ウス キ ー ゃリ チヤ ー ズの 謂わ ゆる 状況 連関 (context of situation) において 限定 せられた 姿で、 シンポ 

ル とな つ ている ので ある。 とくに かかる 状況 連関に おける 対人関係 11 という こと は それぞれの 制度 的 社会の 上 

における 対人関係 (principles, p. 481.) —— によ つ て 限定され ている ので ある (pp. 466r 36f., 482.)。 

生 体の 行動 は 環境へ の 適応と みられる が、 それ はこの ような 謂いに おける シ ン ボルに よ つ て 適応 乃至 反応の 



条牛& を 与えられ るので ある。 そして、 反応の 条件 性 を 与える シンボル は、 勝義 において 制度 的 社会の 上での 状 

況 連関に おける 特に 対人関係から 規定せられ ている。 いいかえれば、 状況 連関の 上に 保 たれて いる 平衡が 環境の 

変ヒ によって 破られる とき、 生活 体 は、 シンボル を 条件 性と して、 新たな 環境に おいて 新たな 平衡 を 獲る ように 

変化して ゆく と いうので ある。 

宗教 的 適応 も かかる メカ 二 ズ ム の 上で 行なわれる こと は 論 を またない。 ただ 危機に おいて 宗教 的 適応 は 成立す 

る。 危機と は、 如上の 状況 連関に おいて 保 たれて いる 生活 体の 平衡が、 内的 及び 外的 環境の 変化に よって 清 乱せ 

られ、 上に あげたよ うな 生活 体の 行動 を 成立せ しめる 諸 要素 (人 や もの 及び シンボル) との 間が 崩壊す る 場合で 

ある (P. 484, Reader, p. 567f.)。 この場合、 新たな 平衡が 獲られ、 新たに 右の 諸 要素と くに 対人関係が 疏 通して、 

相互関係の レ ー トが 獲られなければ ならない。 これに 応じる のが 宗教で あるが、 宗教と いうの は、 勝義 において、 

個体 や 集団の 平衡 を 回復す るシ ヤマン や 僧職 者の 指導 下に ある 宗教 的な 制度 的 社会の 謂いで ある (P ュ nciples, p. 

530.)。 宗教に ついては、 トザ ー(A. M. Tozzer) に 従って 著者 は 大胆な 定義 をな す。 宗教の テクニックが 呪術で、 

呪術と は 儀礼的 技術 (ritual technique) である。 この 儀礼的 技術から 派生し 或いは 連合せ る シンボルが 宗教で ある ( 

宗教と は、 右の 宗教 的 制度 社会の もとにお ける 儀礼的 シンボルに 外なら ない (principles, pp. 529, VI. )。 

個体 は 集団 的 存在で あるが、 「自然 的 集団」 の 単位 を 著者 もまた 家族に とる (cf. Reader, p. 563)。 上の ように 

個体が 危機に おいて その 平衡 を 失する に 至る と、 対外 関係 やとく に 家族 内の 対人関係に、 従来の 関係 レ ー ト では 

通用せ ぬ 断絶が 起こ,^。 かかる 危機に おいて 個体に 新たな 平衡 を 獲させる 者はリ ー ダ— で、 個体 は 彼 を 新しい 条 

第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 四 一 



第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 四 二 

件 性と して 反応して ゆく ことによ つ て 平衡 を 得る に 至る ので ある。 危機に おける この リ ー ダ ー が 儀礼的 技術 を 事 

とする 僧職 者ゃシ ャ マ ン である (principles, p. 397f.)。 

以上 は 個体に 原因した 危機の 場合で あるが、 集団の 全体が 平衡の 変化 即ち 危機に 当面して 情緒 的 感動 を 受ける 

場合の 処理 もまた 同じ。 普通に は 環境の 変化に 対する もので、 季節の 変化と か 昼夜の 交替と いう ことまで も 人々 

に は 危機に 違いない。 何故なら 人々 の 活動 は それらに よって 大きな 変化 を 受けなければ ならぬ から、 従って 人々 

は 対人関係の レ— トを更 める ことになるから である。 農業 や 狩狱、 漁撈 その他、 かかる 相互関係の レ— トの 変化 

が 大きく 要求 せられる 危機に おいて、 新しい 平衡 を 得る ために 儀礼的 技術が 用いられ るので ある (pp. 398, 414f.)。 

人が 生まれ、 成年に なり、 結婚し、 病気に なり、 死ぬ 等々 において 彼と 集団の 人々 との 間に は 必然的に 変化が 

起こる。 対人関係の レ ー 卜に おける かかる 変化に 処 する 技術 をフ ァ ン*ゲ ネップ (van Gennep, A.) に 倣つ て 過渡 

儀礼 (rites of passage) という。 先の 場合が それで あるが、 集団の 危機に おいて 用いられる もの を 強化 儀礼 (rites 

of intensmcation) という。 けだし 集団の 成員の 相互関係の レ ー ト がそれ によって 強化され るからで ある (p. 398.)。 

単純な 社会に おいて は 双方の 儀礼 は 家族 集団の 中で 行なわれる。 その他の 集団に おいても やはり その内 部で かか 

る 儀礼が 行なわれる こと も あるが、 それらの 内部に おける 成員 関係と 違った、 とくに 儀礼的 技術に 関係す る 一連 

の 相互関係が 生じる ことによって、 宗教 的 制度 社会が 成立す る。 即ち 危機に おける リ ー ダ ー が 僧職 者ゃシ ヤマン 

となり、 これに 従う 者との 間に 新たに 特殊な 関係の セットが 生じた 場合で ある。 そして 他の 社会の 分化と ともに、 

かかる 宗教 的 制度 社会に おいても 儀礼的 技術者に 種々 な 分化が 起こ つて 来る ので ある (pp. 400f., 415f.)。 



さて、 それで は 呪術 や 宗教の 本質 は 何処に あるか。 著者に よると、 これ はまず 儀礼に 存 する。 著者 もまた 「聖」 

を もって 本質的な 観念と みるが、 聖とは 即ち 儀礼の ことで あると いう (P. 531.)。 危機に おいて 平衡 を 得る 技術 

が 儀礼で、 それが 聖 というの であるが、 しかし 儀礼に 用いられる 道具 や 素材 も 日常 的な ものに 準じ、 行使の 仕方 

も 日常の 行ないに 準じて いる。 また 自然 物 その他が 儀礼の シンボル となって いるが、 これ も 儀礼的 技術の 本質で 

はない。 更に 儀礼的 技術 は それぞれ 所属 社会の 制度 的 関係と 相応して いる (P. 531f.)。 すると 儀礼が 宗教 や 呪術 

にと つて 本質的な ものであると は 如何なる 謂い か。 それ は 儀礼の 技術 操作の 用い 方と その 連関に ある (P. 532.)。 

義礼は 危機に おいて 新たに 平衡 を 得る ために 用いられる 技術で あるが、 それに は 先ず 通常と 異な つ た 状況 連関 

が 用意 せられる (それ は 勿論 伝統的で よく 知られて いる)。 そこにお ける 人々 の 環境との 関係と くに 対人関係の 

レ— トには 変化が 設定 せられる。 この 変化 は 或る 種の 対人関係 を 完全に 禁止し、 他の 対人関係の 高い レ ー トを強 

制する。 同様に 行動の 条件 性と なった シンボルに おいても 普通の ものが 禁止せられ 他の ものが 強制 せられる。 人 

^ま 生の 上で も 衣食 或いは 道具の 使用 等の 上で も 禁止と 強制と において 変化 を 要求 せられる。 且つ 技術の 行使に 

当たって はとく に 対人 間の 規則正し さが 恰守 される のみならず、 日常 的な 道具 や 素材 も、 その 扱い方が 厳に 条件 

づ けられ、 如法に 進行せられ なければ ならない とせられ るので ある (pp. 531-532.)。 

以上の ように 制度 や 状況 連関に もとづ く 儀礼の 操作 的 連関に 呪術 や 宗教の 本質 を 見る こと は 機能主義の 観点 か 

ら肯繁 を 得る ものであるが、 更に 呪術と 宗教の 関係に ついて、 著者 は 先の ように 宗教 は 儀礼の シンボル といって 

いる。 それ は 宗教 的 制度 社会に おいての ことで あるが、 その 謂い は、 宗教と は、 それ を 条件 性 即ち シンボル とし 

第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 四 三 



4, 



第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 四 四 

て 反 1^ する ことによ つ て、 平衡 を 回復す ると ころの ものであるから とい つてよ い。 従って かかる シンボル のこと 

は 全く 上の 儀礼 技術 即ち 呪術の ことと 相応す る。 しかも 謂いうべく ば、 聖の 成立す る 要処は 儀礼 技術の 操作 的 連 

関に あり、 平衡 を 回復す る 反応の 仕方に かかって いるので、 宗教の 要処 もまた その 行 業の 場面に あり、 その かぎ 

りに おいて シ ン ボルが 問題になる ので ある。 

ところで、 上に みて 来たよう に 生活 体の 反応に おいて 条件 性と なり シ ン ボル となる もの は 環境の 事物 や 人物 そ 

の もので はなく、 制度と 状況 連関に よって 限定せられ、 とくに 対人関係 において 限定 せられた 意味 を もっている" 

宗教 的な 対象 や 機構の それぞれ も 亦 かかる 意味 を も つ た シンボル であ つ て、 地上 的な 制度 や 状況 連関 を 反映 させ、 

それらの 分化 もまた 地上 的な ものと 呼応して いる。 ただ 注意すべき こと は、 シンボルに は 如上の 謂いから 情緒 的 

属性が 賦与せられ ている。 超自然と か 天上と いう 観念が それで あり、 死後の 世界と か 危機 を 招来せ しめた 自然力 

の 人格化と か 等々 においても かかる 範疇から 解明 せられる (principles, pp. ij ij 551f., Reader, p. loo 

危機の 問題に ふれた 人類学 は 他に も 数 あるが、 後の 連関から ふれて おくと、 固有の 謂わ ゆる 史的 方法 をと り、 

未開社会の 個体に 関する 精密 研究で 有名な ラ ディン 等 もまた 彼の 接した 厳密な 資料に 随 つて 社会的 生理的 危機に 

おける 個体の 心性の 問題と して 宗教の こと を 解明した。 宗教に おいて は 特異な 感情が 特定の 霊的 存在に 向かう の 

であるが、 かかる 関係 やその 対象 者 は、 個体のお かれる 生理的 及び 社会的 経済的な 環境 や 背景と 相応し、 これに 

動機 づけら れ ている とみる。 即ち 宗教と は life value の 保全が 脅やかされる ような 不測の 急変の 可能な 場合、 

とくに 生産 や 病気 や 死 或いは 自然 的 災害 や 人間関係 における 紛乱 等に 際する 処理 乃至 感情 連関で ある。 呪術の 機 



能 や 本質 もまた これに 準じる となした。 そして 彼に おいても かかる 特殊な 感情に おける 病理 心理的な 徴候が 引照 

せられて いる。 ラ ディン の 局地 研究 は ウイ ンネバ ゴ • イン デ アン を 中心に した ものであるが、 その 結果 をと つ て 

自己の 所説に 援用した の は フラヮ ー であ つ た。 宗教と は その 人が 持ち合わせの 適応 能力で は 如何と も 為し 得ぬ 羽 

目に 当面した 際に、 これに 再 適応す る 企ての 一 つで あると いう。 彼 もまた ライフ • 二 ー ヅの 限界 的な 行 きづまり 即 

ち 要求 阻止 (frustration) において 身を処 する 際に、 空想 や 幻想の 中に 住みながら 当の 現実に 対して 彼岸 性 (beyond- 

(n) 

ness) の辨別 をうる としたの であるが、 その 所論 は 更に 後に ふれよう。 

I 一一 

宗教 や 呪術の 機能 を 人類学者 達 は 危機に おける 適応の 場面に おいて 明らかにした。 就中 マリノ ウス キ ー はこれ 

を 危機に おける 生理的 心理的な 異常 反応と 照応せ しめたの であった。 これらの こと を 作業仮説 として、 危機に お 

ける 心理学的 連関 を迎 つ てみ ようと 思う ので ある 5?、 主体と 環境 或いは 状況との 機能的 関係から この 問題 を 探る 

上に 便宜な の は —— 勘な くと も 理論的な 問題 性と して 11 謂わ ゆる 「場」 の 心理学であろう。 レヴィン はか かる 

場面 を 心理学的な 生活空間 (life space) 乃至 状況 (situation) として 確保しょう とした。 その 状況に は 社会的と か 

物理的と かとい う 実質的な 生活 状況 (life situation) と、 個体の その都度の 瞬間 的な 状況 (momentary situation) 

が ある。 両者 は 密接に 関係す るが、 前者 は それ 等 そのもの として 後者に 関与す るので なく 転 質せられ た quasi の 

第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 ,^ I d 四 五 I 



第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 四 六 

姿 で 、 境界 性 を もつ 場の 全体の 裡に 位置 や 座 を 占 め る —— effective な もの は real であると い う 謂 いに おいて —— ( 

このような わけで、 生活空間と は 或る時の 個体の 行動 を 規定す る 事実と くに 可能 的 事実の 総体 をい う。 即ち 行動 

(B) は 主体の パ ー ス ン (P) と 環境 (E) との 法則 的な 機能的 相関に よ つ て 出て 来る —— WH f(p, E):=f(LSP.) —— . 

そして パ— スンも 環境 も 共に 全体の 場の 部分の 位置に あり、 従って この 場 は それぞれの 「形態」 をな し、 心理学 

的 状況に おかれる。 かかる 場 を それぞれに 性格 づける ものが 目標、 刺激、 二— ヅ 及び 社会的 諸 関係で ある。 

かくて 生活空間 における 主体の 「位置」 が、 社会的 位置、 活動の 位置、 目標 領域に 関しての 位置、 自然 的 領域 

に関しての 位置 等に つ いて 明らかにな るので、 ここから 現在の 状況へ の 適応と いう ことが 克明に 検 せられる こと 

になる。 

この場合に 二 ー ヅは 或る 目標に 対して 適応 —— 「場」 の 「状況」 における 諸 特質が アト モス フ ヱ ァを なすが、 

これに 調子 を 合わせる こと、 或いは 二 ー ヅの 充足に 影響す る 状況と 二 ー ヅ との 間の、、 ハ ラ ンスを 生活 体が 維持す る 

過程 —— をな すので あるが、 生活空間の 形態 は、 適応 処置の 範囲 即ち 可能 的 運動 (locomotion) の 範囲 を 決定して 

いる。 従って 適応して 行く 可能性 は 非常に 制限せられ ており、 ここに 適応し 切れぬ 欲求 阻止 や 適応 不能が 起こる „ 

その 起こり 方に も 色々 あり、 右の 場に おいて それぞれの 形式が 明らかにせられ るが、 さらに、 これに 対して 再 適 

応が 試みられる。 この 際 欲求 阻止に は 重要な 生理 心理的な 連関と して 苦痛、 恐怖、 不安が 附帯し、 三者 は 重層し 

て 当 来の 状況に 対すが。 さらに、 この 欲求 阻止に 対してより 複雑な、 そして 実際の 場合に 存在す る ものが、 相剋 

(conflict) である。 これに も 種々 の 格の ものが あるが、 基本的に は faced to two positive valences, two ne^ativ ひ 



vaknces, positive negative valences とか (レヴィン)、 立場 や 観点 は 異なる が approach-approach conflict, 

Javoicljrnc ひ- avoidance conflict, ap>proach-avoidanc ひ conflict とレ、 つよ、 つな 广 タラ— ドと ミラ— や キャメロン など」 形 

式が みられる。 主体 はこれ に 当面して 適応の 方法 を 講じる が、 結果の 得られぬ 場合、 当 を 失した 不当 適応 (mal- 

adjustment) に 陥り、 また 病的 症状 を 起こす ようになる。 即ち 神 經症ゃ 精神病に おける 謂わ ゆる 機能的 諸 症に 至る 

ので ある。 

神 經症ゃ 精神病 を も 含めて mental disorders, ^^^^<^o^ disorders といわれる 領域に ついても、 生活 体と その 

環境 や 社会の 機能的 関係に おいて 研究され る 傾向が 著しい。 精神障害の 諸 症 は 不安 を その 根と し、 不安に おいて 

病的 異常 を呈 するとされ るが、 やはり 現象 的に は 11 とくに 機能的 諸 症に おいて は 11 、 適応 不能の 環境 的 重圧 

から 由来す る。 上の 分類で は 殊に 第三の approach-avoidance conflict において 不安の 緊張が 増大す る。 不安と 

恐怖と はよ く 対照され るが、 たとえば 母と 娘が 夜 寝て いたと する。 夜半に 物騒な 物音が したので、 母 は 何事 かと 

疑い、 居た たまらずに 娘の 所へ 行った。 娘 も それ を 疑った が 物音の 理由 を 見と どけに 立った。 母の 場合 は 不安で 

あり 娘の 場合 は 恐怖で ある (Horney)。 いずれも 自己 防衛と くに 自己 安全の 脅かされる 場合の 情緒 的 反応で ある 

が、 不安に おいて は 相手の 「何」 が 判然せ ず 浮動して いる。 不安 は 不安 がられる 当の 状況 或いは 対象と 相応せ ず、 

比例し ない。 けだし 恐怖と 違って transform され 質が 転じて いるから である (Goldstein, Homey, Rosenzweig)。 

従って 不安 は 取りと め 難く 隠れて いて 不可 規定 的 乃至 非合理的 である (Cameron, Horney)。 それ 故 不安の 感情 は 

常に 「不確か さ」 と 「処置な さ」 とに 結ばれて おり、 且つ 想像 や 幻想 に 与み されて いる (Goldstein, Homey, 

第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 四 七 



第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 匹ノ . 

cameron)。 そして 不安 は 可能性の 領域から 当 来 的に はたらく こと も 注意 さるべき である (Rigweig, Goldstein) 

それで は、 かかる 不安の 基づく 究極の 根源 は 何 か。 フロイド は 危険に 対する 「頼みな さ」 の 感情と して 不安 を 

性格 づけた が、 危険の 対象 は 自我で あり、 頼みな さと は 超 自我との 関係に おける 自我の 弱さで あると いう。 しか 

し 今日で はもつ と 現実的な 解明が なされ、 たとえば 新 フロイド 主義の ホル ナイ 等に おいても、 個体の 自己 防衛の 

営み を 危険に さらす 「何事で も」 が 不安 を 惹起 さす 源で あると せられ、 危険の 対象 は 自我で はなく 個体の 安全性 

或いは 安全 欲で あると せられる。 それが 禁止 或いは 抑圧せられ ると きに 不安になる ので、 たとい 環境 的 事実と 比 

例 しないと しても、 現象 的に いえば 矢張り 社会的 対人 的 関係に おける 相 魁から 由来す るので ある。 しかし、 不安 

の 根源 を さらに 突き進め ると 如何であろう か。 ゴ ー ルド シュ タイン は 次のように いう。 生活 体が その 本性に 従つ 

て 環境と 都合よ き 関係 を 得る というの が 基本的 傾向で あるが、 かかる 関係 を 実際に 維持す る ことので きぬ 場合が 

破局 的 状況 (catastrophic situation) である。 それが 危機で あり 不安 を 伴う のであって、 不安 は 上の ような 性格 を 

示して いるが、 結局 何 を 事と しての 不安 かとい うと、 彼の 実験的 結果から も それ は 無と 答えられる 外 はない。 不 

安と は nothingness に 係わる 内面的 経験で ある。 その 基づく ところ は 「不確か さ」 であり、 不確か さと は 実は 個 

体の 現実的 存在 或いは ライフ そのものの 構造に 具わって いる ことなの である。 環境に 対する 各 様の 適応 関係の 事 

態に おいて、 人々 が 相 魁に 逢い シ ョ ッ クを 受け、 捌きの つかぬ 混乱に 陥って、 不安の 極 自失す るの もこの 故で ある „ 

かかる 不確か さと 不安と が 個体 を 神経症と 自殺と に 導く。 即ち そこにお いて 人 は 異常な 反応 を 示し 謂わ ゆる 代 

毛 適応 をな すので あるが、 彼 は 選択と 決意の 自由 を 失い、 異常な 孤立 化 をな して 現実の 諸 関係から 絶縁す るに 至 



る。 そして かかる 傾向が 固定す ると 種々 の 機能障害に 陥り、 幻想 や 幻覚に 脅かされたり、 或いは dissociation に 

よ つ て 幻想の 中に 住む ようになる。 

危機に おける 適応の 処置が 呪術 的 宗教 的なる 所以 を マ リノ ウス キ ー その他の 人々 の 所論に 随っ て迎 つ た われ わ 

れは、 さらに かかる 社会的 伝統的に 決まった 装置に 託する 適応と は 別な、 状況 発生 的な 心理に おける 適応 径路 を 

迎 つて 来たので あった。 ここまで 突きつ めた 上で、 さらにもう 一度、 宗教 的 適応との リファレンス を 求めて みた 

い。 勿論、 ここにお ける 宗教 的と いう 謂い は、 もはや 社会的 制度 的に 決まった ものと は 離れた 謂わば その 底の 本 

質的な もの 意味 的な ものの 謂いで あるが、 恰も ここの 問題に 答え を 試みて いるの は 上に ふれた フラヮ ー であ つ た" 

彼 もまた 宗教 的 本能と か 傾向 (tendency) を 認めない。 本能の life-needs に対する 適応の 際に、 本能 相互 間の 

対抗 その他に よる 相剋が 起こる。 そこに 自覚が 成立し、 宗教の 成立 箇処も そこに あるので あるが、 本能の 適応に 

おいて は 固定 的な もの も あれば 可塑 的な もの も ある。 人間に おいて は 特に 後者の 広い 適応 領域 を もつ。 ところで 

本能の 主体が frustration に 逢う と 再 適応 を 行なう。 始末の 仕様のない 辨 えよう のない 場合で あるが、 その 際の 

反応に collapse と withdrawal とが ある。 前者 は 生活 体の 崩壊 を 意味す るが、 後者 は 当面の 環境からの 一時的 仮 

死 的な 頓挫で、 幻想 や 想像の 世界に 退転して さらに これ を 当の 状況に 差し向け るので ある。 この場合 生活 体 は 恐 

怖 等の きつい 情緒 的 感動 を 受け、 幻覚 を 経験したり 神 径症ゃ 精神病の 徴候 を 示す ように もなる ので あるが、 かか 

る 退転 反応に 二種 ある。 一は 想像 や 心像 を 現前の 状況に 当てが つて その 辨 別が でき、 現実の 始末の つく 場合、 他 

は それが できず 依然として 当の 状況に 対して 実際の 或いは 十全な 処理が できない ので、 想像 や 空想が 自己の 領域 

第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 四 九 



第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 五 〇 

にの み 向か つ ている 場合で ある。 これらの 心的 機能 は 自己 を 構成して さらに 構成され たものから 感動 させられる。 

フ ォ ビ ー を 伴う t 迫 観き ゃパ ラノ ィァの 巣くう ところで あるが、 この メカニズムに 二つ の 傾向が ある。 一 は 現実 

に 近く 副い 或いは 副わん とする ものと、 他 は 現実から 乖離し 逃避 せんとす る ものである。 前者 は 現実に 対する 想 

像 的 解釈と いう 連関 を もつ が、 後者 は 幻覚 乃至 幻想 的な 牽強 附 会に 外なら ず、 謂わ ゆる 空想的 現実 逃避で ある — 

人が これら 諸々 の 心的 反応に 退行し (regressy そこに 固定す ると 或いは 躁鬱病の 徴候 を 示し 或いは 分裂 症 schizo- 

phrenie dementia praecox にな つ て 精神 錯乱に 陥る 。 

主体の なし 得る 辨 別の 限界 を 超えた 行 きづまり において、 持ち合わせの 適応 方法が なくなり、 当の 状況に 対す 

る 実際の 辨別ゃ 認識の 反応が でき なくなった 時、 生活 体に 残された 再 適応の 道 は、 代用 的な、 想像に よる 或いは 

空想 や 幻想に よる、 反応の 外に はない。 すると、 上述の ような 危機 や 限界 的 状況に おける 宗教 的 適応と いう こと 

は、 かかる 空想 や 幻想に よる 非現実的な、 単に 主観の 願望の 投影に 外ならぬ ような 反応な のであろう か。 

たしかに 危機 や 限界 的な 要求 阻止に おいて は 状況に 対する 積極的 処置 はなく、 退転 反応に おいて 空想と 想像の 

領域 を もつ 外 はない。 そこに は 不確か 不可 測な ものが 迫って おり、 不安 や 恐怖が ある。 宗教 的 適応 もまた かかる 

犬況 における かかる 反応の 領域に おいて 成立す る 反応に は 違いない。 しかし、 この 反応 は 状況 や 環境との 実際的 

関係 を もたぬ 単なる 現実 逃避 や 自己満足 ではない。 宗教 的 反応に おいて は、 その 空想 や 想像の 領域と 現実の 状況 

や 環境との 間が 断ち切られて はいない。 正しく それ は 当の 現実への 「実際の」 適応で ある。 但し その 適応の 性質 

が 日常の それと は 質的に 違う。 辨別 できず 把握 を 超えた 領域 を、 正に 辨別 できず 把握 を 超えた beyondness と辨 



別す るので ある。 ここに 現実へ の 積極的 適応が ある。 たしかに 未開 宗教に おいても 発展した 宗教に おいても、 現実 

に対して 想像 や 空想の 産み出した 要素 を 投射して いる。 そして 現実 を 想像 的 空想的に 彩色して いる。 しかし そこ 

に は 現実に 対する 積極的 関係が ある。 辨別 という 反応が ある。 それ は 単に 想像 や 空想の 中に 住んで いるので はな 

い。 単なる 主観的 願望に 巣 喰って いるので はない。 宗教 的 反応 はか かる 特質に おいて 現実に 対してい るので、 承 

認 された 現実の beyond character からして、 そこに 超自然的な 力 や 或いは 存在の 顕現 を 読みと り 感得す るで あ 

ろう。 しかし 宗教 的 経験の 本質 は どこまでも 現実に おける IDeyondness を辨 別し、 それ を それと 享 ける ところ 

にある。 それ は 現実に 対う 適応で ある。 但し 自然 的 合理的な 適応の 際の ような 実質的 処理で はない。 そして、 そ 

の 限り 常に 残された beyondness が あり mystery が あるので あって、 空想 や 想像の 彩色が これ を 彩る ので ある ( 

かくて、 宗教の 本質的 性格 を フラヮ ー は 限界 的な 欲求 阻止に おける 適応の 間に 究明し、 対象に 対する 「絶対的 

な 彼岸 性の 辨別 (discrimination)」 にある となした。 11 単に 勝手が 違う とか 奇異 だから 宗教 的 反応 をな すと いう 

のでない —— 。 かかる 反応が 情緒 的 連関に おいて 成立す る こと は 勿論で あるが、 とくに discrimination という 

ところ を 念頭に おいて、 神経組織 学で 有名な ゴ ー ルド シュ タインの 所論 をもう 一度 振り返ろう。 彼 は 破局 的 状況 

における 適応 不能から 人 は 精神 異常になる とした。 その 状態に おいて、 人 は 社会的 関係から 乖離して 空想 や 幻想 

に 囚われる。 時として 代用 適応の かかる 異常な 性格が 高い 科学的 観念 を 示したり、 政治的 志士 的な 振舞と なった 

り、 或いは 高い 宗教 的 信念の 中に 織り出された りする ことがある。 しかし それ は 正常で はなく、 不安の 産物で、 

そこに は 人格の 自由が 欠けて いる。 たしかに 不確か さと 不安と は 人間の ライフと 実存の 基本的 構造に その 淵源 を 

第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 五一 



第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 五 二 

もつ ので あるが、 だからといって、 それらの 虜囚と なること は^ uman nature の 本筋で はない。 それらに 耐え、 

それらからの 自由 を 自己に 決定す る ことが 人間 固有の 態度で ある。 精神異常者 はか かる 決定の 自由 を 失 つてい る 

から 不安に 沈湎 して 出る ことができない。 真の 宗教 的 信仰 もまた 自己 を 決定す る 自由の 領域に 存 するとい う。 

四 

適応すべく して 適応で きぬ 環境 的 状況に 当面して、 主体 は その 「主宰ので きな さ」 「目論見の 立た なさ」 「計 

る ことので きな さ」 或いは 「頼みな さ」 「不確か さ」 に 出 遭い、 不安に 迫られる。 不安の 相手 は 恐怖の 場合と 違 

つた 「何者」 という 性格 を もたない 「何だか」 なので ある。 それ は 恰も 右の 数々 の、 r …… なさ」 に 外なら ない „ 

ここにお いて 主体 は 適応 不能に 陥り、 想像と 空想の 領域に 退転す る。 ここに 逼塞す る 者 は 病的で あるが、 しかし 

宗教 的 適応と は 当面の 現実的 状況に 対する 特殊な 積極的 反応で、 それ はか かる 状況に 対する 特異な 辨 別と 選択 的 

決意で あると いう ことが 答えられて 来た。 そこで 今度 はか かる 特異な 辨 別と 決意の なされる 当の もの 或いは 当の 

ところ を 吟味して みなければ ならない。 けだし 超自然的な 力へ の 関係と か 彼岸 性へ の 辨別的 態度 をと ると いわれ 

る 間に は、 さらに 根源 的に 分析され なければ ならぬ 要処が あるから である。 

まず 如上の 叙述から 仮説 的に 三 つ の 段階 を 想定して みょう。 生きて ゆく 主体 は 普通に 常識的 科学的な 適応の 方 

法 を 弔、., る (第一)。 しかし、 それらが 用 をな さぬ 行 きづまりに 際会す ると、 たとい 僅かな 或いは 納得の ゆかぬ 頼 



りで も、 それ を 用い それに 依る であろう。 しかも、 それ はか かる 際にお ける 選択 的 関心の 対象と して 或いは 退行 

せる 心的 機能の 対象と して、 異常な 径 験の 対象と なる。 即ち 想像 や 空想に よる 特殊な 彩色が それに 施される であ 

ろう (第二 )。 しかし、 かかる 頼りに も 裏切られた 行 きづまり 或いは 高次の 層 位に おける 危機の 状況に おいて は、 

主 本の 為しうる 又 為すべき 処理と して はた だ 自己 を 決める ことのみ が 残されて いる。 何に 対って かとい うと、 そ 

れは 正しく 不安に おいて 呈 露され た 数々 の 「 …… なさ」 に 対って である。 その外に は 相手 どる 何者 も 主体に とつ 

て は 見当が つかぬ 答で ある。 従って リアルな 意味に おいて は 主体が 自己 を 決める 相手 は その他に はない。 それ 故、 

自己 を 決める と は、 この r …… なさ」 に即く 態度 を 決める 外 はなく、 という こと は、 それに 対って 自己 を 否定す 

る ことで ある (第三)。 即ち 第二の 場合 は、 自己の 力の 足りな さに 何者か を —— それが 空想の 産物で あるに しても 

I 附け 加えて、 自己 を 立てての 適応で あるが、 第三の 場合 は、 見当の つかぬ 当の r …… なさ」 に 向けて 自己 を 

決め、 自己 を 捨てる ことによ る 適応で ある。 勿論 実際の 径験 において かかる 段々 の 径路 を 踏む というの ではなく、 

操作 的な 仮設で あるが、 上に 見て 来た ところでは 第三の 問題 性 を 含みながら 第一 一と 第三の 間が 漠然とし ていた 

しかし、 この間に は 呪術 的 及び 宗教 的 態度の 本質的な 区別が 潜んで い る。 

上 来 故ら に 宗教 的と 呪術 的との は つ きりした 区別に ふれる ことができ なか つ た。 けだし プ レ ァ 二 ミズ ム 学説の 

行なわれて 以来、 宗教 も 呪術 も 本質的に は 謂わ ゆる magico-religious な 領域に おいて 共通の 地盤に 立ち、 両者 

に 通じる 基本的 要素が、 「超自然的な 力」 の 観念で あると され、 或いは r 聖」 の 観念で あると もい われて 来た 力 

ら である。 これに ついては 今日 種々 の 問題が あるが、 所詮 それにお いて 或いは それに 対して 主体のと る 態度に つ 

第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 五三 



第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 五 四 

いていえば、 両者 は 本質的に ちがう。 たとい 実際に 行なわれて いるもの では 双方が 混在して いるに しても、 本質 

的に いえば、 自己の 力に 超自然的な 力 を 接ぎ足す 第二の 処理 は 呪術 的で あり、 それにお いて 或いは それに 向けて 

自己 を 捨て 自己 を 超える 第三の 処理 は 宗教 的で あると いって 差支えない。 このように 考えて 来る と、 それに 対つ 

て 自己 を 決めるべき 根源 的な 要処が 浮かび 出て 来る。 即ち、 それにお いて 或いは それに 対って 身を処 すべき 宗教 

的 適応の 当の 処は、 第一義 的に は、 不安が 其処から 迫って 来、 不安が 其処 を 指し示す ところの r …… なさ」 の 当 

処 である。 従って 先に 呪術 的、 宗教 的と して 迎 つて 来た 經過 に関して も、 われわれの 主題から いって、 この 第三 

の 場面に おいて 吟味し なければ ならない。 

以上に よって 宗教 的 適応の なされる 外 はない 状況 即ち 宗教 的 状況 を 見た。 それ は 危機に おいてであった。 危機 

において かかる 状況が 出 態す る。 しかし、 かかる 状況 は 或る時 或る 場合の 謂わば 偶然 的に 際会され る 機会に 止ま 

るので あろう か。 実は 宗教 的 適応の 須 いらるべき 場面 は、 主体に とって 何時も あり、 何処に も あるので はな かろ 

うか。 危機に おいて 主体に 迫り その 姿を呈 露して 来た 数々 の r …… なさ」 は、 実は 人間 存在の 基本に 具わって い 

るので はなかろう か。 即ち 人間 存在の 成り立ちの 根底に 破れ目が あって、 時折り の 行詰り や 危機の 場面と は、 こ 

の 構造 上の 破れ目が それぞれの 場合に 浮かび 出た 姿で はなかろう か。 

人間が 現実に 存在す る 場面 は 色々 にいう ことができ るが、 主体的な 端的に ついていえば 謂わ ゆる 実存の 場面で 

その都度の 心の —— 内在 を 超えて —— ゆきわたれる 領域で あり、 且つ 範囲で ある。 かかる 領域 を 劃す る r 投企」 

の 本質に は 問題 も あるが、 ともかく 機能的に 成立せ る この 場面に おいて、 各自 は 彼れ 此れが 斯々 に 在って 欲しい 



とか、 欲しくない とやって いる。 正しく 各自が 現実に 存在す る この 領域と は 在りたい とか 在りたくない というよ 

うに、 可能性の 領域で ある。 しかも 絶対で なく 制限 せられた 可能性の 領域な ので、 それでも 在り 得る し、 それで 

なく も 在り 得る。 或る ことの 在り 得る という こと は、 そうでな いという ことの 無数の 可能性に よって 制限せられ 

ている。 それ 故 ここ は 何処まで も不 決まり 不確実な 領域で、 これ を 如何 ともなし 難い。 謂わ ゆる 「負 目」 Schukl 

の 構造に おいて 在る 領域で ある。 

このような 領域に 所在して、 何処まで も不 決まりな のに 係わらず、 われわれ は 一 の 来る を 願って 他の 来たら ざ 

る を 願い、 彼と 此とを 相対的に 対立 させて 考え、 且つ それに 拘わり 着く。 ところが 一 を 願い 他 を 願わぬ といって 

も、 その 一 とか 他と か は 事態 や 事件の 当の 実物で はなく、 要求せられ 願望 せられた 限りの もので あり、 悟性の 仕 

切る はたらき によ つ て、 それぞれ として 措定され 立てられ たものに 外なら ない。 

しかし、 ここ を 取り違え、 可能性の 支配 下にあって 不 決まりな 如上の 領域に いながら、 そのもの を 仮 立して 彼 

れ 此れと 決定的 固定 的に 考え、 一 を 願い 他 を 疎む。 しかも 成り立ちの 上で 其処 を そのよう に はでき ない。 ここに 

われわれの 不安 や 心配 乃至 謂わ ゆる 苦の 根源が ある。 本来 的に 生きる という こと は、 自他 を それと 仮 立して 拘泥 

する 情 執の 主体た る こと を 超える ことであろう。 

以上の ように 見て 来る と、 宗教 的に 処 せらるべき 本来の 意味の 所在 は、 各自の 現実の 当の 成り立ちに 具わる 

r ::: なさ」 の もとに あるので はない かとい うこと になる。 勿論 これ を 相手 どって 辨 別し 自己 を 決める といって 

も摑 みょうがない。 直接的に は 当たりよ うがない。 しかし 此処に 処 すると は、 此処のと おりに 即ち 無 さのとおり 

第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 五 五 



第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 五六 

に 身 を 決める ことで ある。 そして、 それ は 右の ように 情 執 的 悟性 的な 主体 を 転じる ことで ある。 実際の 宗教の 行 

ない において は、 絶対者への 信仰と して 種々 の 行 業が 行なわれ ていよう。 しかし 最初に あげた 謂いで 奈落の 機構 

や 機能に ついて みると、 根源 的に は 以上の ようにな ると 思われる。 フラヮ ー の beyondness の辨 別と いうの は 彼 

の 心理学的 立場から 当然の ことで あるが、 彼岸の 「如何」 も 「何」 も 語らない。 しかし われわれ は そこにお いて 

根源 的に 打ち当てら るべき 当のと ころ を 索め る。 そして 根源 的に は、 宗教の 本質的な ものの 所在と して 超自然的 

な 存在 や 力 を 語る よりも、 先決 さるべき 関頭が ここに あると 思う ので ある。 そして 宗教の 究極 的な 本質 を 他者 性、 

拒否 性と いう 点に おいてみ ようとす る われわれ は、 そこに こ の 性格が 具わる こと を検し 得る と 考える。 

(1) マリノ ウス キ ー は 一 九 三 九 年 以来 ヱ ー ルに 在った がー 九 四 二 年に 亡くなった。 その 節 丁度で き 上が つていた 文化 論 を 

収めた A scientific theory of culture and other essays, N. Y., 1944. 及びと くに アフリカの 氏族 関係に 関する もの を 集 

めた The dynamics of culture change, 1945 (460- 中の 殊に 第 四 章 を 参照。 従来の ものと して は "Social anthropology", 

in : Britannica, ; ued. vol ^0, ^. 86^f., "Culture," in : seliTOmans Ency. sop scr vol. (:S31.), 6 に 1, "introauction 

to Hogbin, Law and order in Polinesia, N. X., 1934, pp. XVII—lJoal 等 及び 下 註 (3) 以下 参照。 わが国の 宗教 

民族学 関係で マリノ ウス キ— の 所論に ふれた 好 著 は 古野 清 人 『宗教 社会学』 (昭和 十三 年)、 棚 瀬襄爾 『民族宗教の 研究』 

(昭和 十六 年)、 杉 浦 健 一 『未開人の 政治と 法律』 (昭和 二十 二 年) 等が ある。 

彼の 所論に 対する 批難に ついては 既に 上掲、 ホグビ ンの 書の 序文に も 引照せられ ている が、 更に 批判的 展開と して は、 

Evans-prichard, W. E., Th ひ molptloloTOy and function of ma^ic, in : i\mer. Anthropologist, vol. 31, 19^9, t>I>. 61^1 

641 (棚 瀬、 上掲 書、 三 一 一 頁 以下に 紹介され ている)。 最近の もので は、 とくに 機能主義の 方法論 的 展開と して 注目す ベ き 

ものに Chappie, E.D. and Coon, PS., Principles of anthropology, 1947 その他が ある。 これに ついては 後に 叙べ る 

なお、 未開社会と 文明社会と に対する 研究 上の 区劃の 枠が 最近 取り払われる 趨勢に ある 乙と は 知られる とおりで、 文化 



人類学と 社会学 及び 社会心理学 乃至 新フ ロイド 主義 的な 精神医学の 相互 的 寄与が 謳われて いるが、 専門 諸 学の 間の 諸 3 念 

の^ 用 こ-乱^ ゃ肆 意の ある こと を 指摘す る もの も あり (of. SWls, E., Present state of American sociology, 1948) 社 

会 学に おける 人類学 的 方法の 適用の 限界 を 論じた もの も ある (c, w 一 sstedt, R., TThe limitations of anthropological 

methods in sociology, in : A. J. s., 1948, 7)。 ピアス テツ ドは 文明社会と 未開社会と は literatp non-literate の 区別 を 

有し 前者 は 歴史 を 有する が 後者 はこれ を 有しない。 時間 的 空間 的に 前者 は 文化の 相互 的 影響 及び 連絡が あるが 後者 は 孤立 

している 等の 相違 を あげて、 研究 上の 制約 を あげてい るが、 新しい 傾向の 唱導 者の 一人 クラック ホン は 評註 を 加えて 両者 

の 区別が 相対的 なること を 指摘して いる (ibicu Klucldiolin, p, commenL./ 

(2) 上の 叙述に おいても 明らかな ように、 マリノ ウス キ— において は 制度 的な ものから というよりも 個体の 行動 体系から 

見て ゆく 線が 中心で、 これが 彼の 人類学 的 方法の 特質で あり ラ— ド クリフ = ブラウン 等との 論争の 中心 もこ こに ある 

PP. 37f., 68, Dynamics, p. 44, "Introduction" to Hogbin, op. cir Radclifte-Brown, A. R., I. トメ aboo, 1939, see 

(3) マリノ ウス キ ー は、 初期の もので は 文化と は 本能の 抑圧 を 意味す ると もい つてい る。 フ イドとの 関係 も みられる 

fcf. ひ. g. Sex and rep-ression in savaTOe society, l^ond., 1927, P. 180ト.) 

(4) Malinowski, R, Magic, science and religion, in: Magic, science and religion and other essays, selected by ? 

Redfield, 1948, p. 26f. 

この 論文 はもと Science, religion and reality, ed. by Needham, 1925. の 中に 収められた ものであるが、 他の 四つの 

論文と 併せ レ ッド フィル ドの 序文 を附 して 米国で 出された。 彼の 宗教 論の まとま つ たもの は 少ない が、 本書に は "waloma; 

Th ひ spirits of the dead in the l-robriand Islands" と "Myth in primitive psychology 力 入って レる 

皮 は 価値と は最 広義に おいて、 生活 体の 二— ヅの 充足に とってた めになる 手段 的な 人物 や 規範、 事物 等に 対する 生活 体 

の 関 系に おいてい われる という (e. g. Scientific theory, p. 138.)。 デ ュ ウイな どの 影響と いわれる 所以で ある。 

(5 ン マリノ ウス キ— にも かかる 問題 性 は 見られる。 後掲 参照。 近く は cf. The foundation OH faith ana morals, 193o, 

p. 60, scisltific ttieory, p. 39., Dynsnics, op. cit, p. 46f., Culture, in w. S. S. o^. clr p. i. cf. 

r6) Foundation, o^. cit., s. ^9, ^7, 60. 

第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 五 七 



第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 五八 

(7) cf. Scientifk tlieory, pp. r73f., 91., Dynamics., p. §. 

なお 最 原初と いっても、 機能主義 的に は 文化の 時間 的 起源が 問題に はならない。 マリノ ウス キ ー は 二 ー ドと 環境との 適 

応の 関係に お いて 自然 的な 生の ものが モ ディ ファ ィ される こと を も つ て 文化的と 前 文化的との 間の ミ 二 マ ム • コン ディ シ 

ョ ン とし、 起源と いう 意味 を ここに あてて いる (scientific theory, p. 133.)。 

(00) 後 註 (お) 参照。 ベ— トスン は 米国に おける この 点の 問題 史的 鳥瞰 をな している。 

(9) cf. Science, magic and religion, pp. 8f., 19f., 59, Foundation, pp. 22, 29f., 32f., 43f., 59, Culture, in: E. S. S. 

esp. pp. 635f., 64lf. 

なお かかる 観点に 対する 諸家の 批難 も あるが (上 註 (1) 及びと くに 拙著 『宗教 経験の 基礎的 構造』 第一章、 参照)、 と 

くに ラ— ド クリフ = ブラウン は 呪術の ごとき も 個体が 目的 を 達する ための 手段と 解釈 さるべ きで ない とし、 かかる 個人的 

な 状況に 対する 適応の 関係に よ つ て 社会的 制度 や 行事が 成立す るので はなく、 それ は ヒュ— ム 的な 解釈 理論に すぎぬ とし 

て、 呪術 的 儀式 や 行事 も 社会 維持の メカ 一一 ズムの 一部に 外ならぬ とする。 即ち 制度 社会の 解釈に 客観主義 をと り、 個体に 

対して は これらが 自動的に はたらき 強制 をな すと みる (cf. esp. Radcliffe-Brown, TalDOP 1939, pp. 15f., 38, 46. —— こ 

の 書 は 彼の、 Andaman Islanders で ぼんやり していた (ことに 儀礼に ついて) ところ を 判然 させた ものと 彼 はいう (P. 

47.) —— 。 (両者の 所論の 相違と 吟味に ついては、 上掲、 拙著、 第一章 参照)。 しかし、 われわれ は 今 制度の 成立が 問題で 

なく、 上の ような 主題な ので、 この ことに 深入りす る 必要 はない。 デュル ケムの 所論 等に 対しても 同じ。 

^K^ e. science, magic and rdi ち on, li., 67f., Foundation, ! ip. li., ^, ひ 9, 60. 

(HI) Foundation, vv. 49, ひ, ^に, 31. 

9W cf. op. CF pp. 46, 58, 52, 10. 

Myth in primitive psychology, 1926. 等 も あるが 殊に "Foundation: では 宗教 的 呪術 的な 行動 は それ を 謂われ づける もの 

がなくて はならぬ という 見地から —— この こと は 上記の ような 文化の 理論に 徴 しても 当然で あるが —— 、 神話の かかる 意 

義を 強調して その 生きた 働き を あげる が、 この 点から Rutli Benedict や Radcliffe-Brown の 考え を 批評して いる (p. 52£.》 

at. ひ cience, maTOlc and religion, pp. 62, ひ 9f. 

(M) 前 註 (^) 参照。 



(5) 本文 中に 引いた 蚩曰 は Coon, C. S., > reader in wen ひ ral anthrofslogy, 19^8, chap!-le, p. D. SKI Coon, r. G., 

r-rinciples of anthropology, 15^7. 

9 人間の 相互関係の レ— ト から 著者 はパ— スナリ ティの 類型 を 扱い、 また 精神病の 諸 症 を 他人との 相互関係の できぬ 特 

質と して 扱 つてい る (p-rinciples, pp. ひ 2i ひ 9 し 

(U) Radin, R, Primitive religion, 1937, of. 1, 4, 5, 8, Flower, G. p. An approach to the psychology of religion, 

19^7, s. t-dow. 

9 文化人類学の 領域に 心理学 をと り 入れた の は 機能的 解釈の 立場で あると もい われる。 この間の 問題 性に ついては cf- 

Bateson, G., Cultural determinants of personality, in : Hunt, McV. ed.. Personality and behavior disorders, 1944, 

vol. 2, E>. 71.Jf. 

歴史主義の 立場の 人々 が 心理学的 解釈 を 用いた こと は 知られる とおりで あるが、 由来 ボ ァ ス 以来の 伝統に 対して 客観 主 

義 への 反省が クロ— バ— 等に よってな された の は 今世紀の 十 年代であった。 これに 対して ロウィ ゃゥ イスラ—、 ゴ ー ルデ 

ン ワイ ザ— 等に よつ て 人類学 的 研究に 心理学的 連関の ある ことが 主張され たので あつたが、 今日で はさら に 心理学の それ 

ぞれの 学派 的 立場から 人類学 的 研究への 寄与が なされて いる。 マリノ ウス キ— 自身の 批判と 方向と は Scientific theory, 

op. cit., p. 15f. 彼 は 行動 心理学に 自分の 問題の 連関と 相応が あると なして いる。 

(S) かかる 問題 性に 場の 理論が 必要で あり 適当で ある ことに ついては、 

MacKinnon, D. W., The structure of personality, in : Hunt, op. cir vol. 1. p. 43, Mowrer, 〇• H. & Kluckhohn, 

p, uynamic theory of fsrsonality, in : Hunt, vol. I. p. 69f. 

また 上の ような 主として 未開人 を 扱う 人類学 的な 問題と かかる 心理学的な 扱いと が 相応す るかと いう 問題 も あるが、 近 

く は Mowrer <& Kluckhohn, op. cir Bateson, op. cit. 参照。 レヴィ ン 自身の もので は Lewin, K:., Psychoanalysis and 

topological psychology, in : ; Bulletin of Menninger olinic, vol. I, Nr. 6, 1937, p. 202f ., Dynamic theory, s. below, 

pp. V-VI, 180f. 等に 精神分析 学の 提示した 問題に 関する 取扱い 方向 を 示して いる。 また 心理学的な 生活空間 における 物 

理的 及び 社会的 状況の 関与な ども 論ぜられ、 この 方向から 社会心理学 や 精神病 理学 的な 線に も ふれて いる (〔ゥ Dynamic 

theory, pp. Vf., 102f., 180f., ;5 ひ f., t^rinciljles, s. t>elow, jj. 202f., wellavior and ckvelol^ment, s. IDelow, p. 796 卜ぐ。 

第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 五 力 



第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 六 〇 

—— 彼の 晩年の 社会 心理的 論策 は 十三 種 を 集めて 最近 出された (IResolving social conflicts; selected papers on group 

dynamics, N. Y., 1948) —— 右の 線に ついては その後 諸家に よ つ て 進められて いるが、 彼 自身に おいても とくに 心理学的 

生活空間 における Irreality の 領域で 恐怖 や 罪の 問題が 心理学的 時間 性の 連関に おいて 緒に つけられ ている (cf. esp. 

Bdiavior yncl devdop-ment, p. 799f.)0 

もっとも、 この 心理学に も 種々 の 難点が ある。 ことに われわれの 主題が この 心理学に よって 実際に どれ だけ 処理で きる 

か は 問題で ある。 欲求不満の 実験 を 彼 は 小児に ついて 試み、 また、 この 立場から ブラウン (J. K Brown) 等の 研究が あ 

るに しても、 私 は その 問題 性 をと つて、 下の ような 連関に おいてみ て ゆきたい。 

なお 今日で は。 ハ— ス ナリテ ィの 考え方が 違 つて 来て いて、 bio-social な 行動 形式に おける 社会 や 謂わ ゆる 文化の institu- 

tional (力! ディナ—) な 機動 体と 考えられ、 社会 や 文化の 一定の 組織 を 自己の 態度の 中に 示して いるもので、 且つ その 

組織に 対する 一 定 的な 反応 傾向 を もっと 考えられる。 従 つ てす でに オル ポ ー トを はじめ 実験的な 方法 をと る マ —フィ (た 

とえば Murpliy, Experimental social psychology, rev. ed., 1937) 等の 所論 も あり、 また 総 観 的に は 人類学に おける 文 

化範型 論の いわゆる culture pattern とパ ー スナリ ティとの 相関関係の 所論 も肯 かれる ことで は あるが、 この 点に ついて 

は、 とくに、 幼時からの 生い立ち における 生活 史的な 制限に おいて 個体の 別 を 扱い、 より 具体的に、 しかも 社会的 組織が 

個体に おける institution (第一 次、 第二次) として 形 を 得て 機能 化する 姿に おいて 捉えた 新 フロイド 主義の 精神医学者 力 

—ディナ— (Kardiner, A., T?h ひ concept of t>asic personality, in .. Science of man, ed. t>y R. Linton, 1945, esp. pp. 

107f. 111., 叫 he psychological frontiers of society, 1945, esp. p. 23f.) などに 興味が もてる。 しかし、 われわれの 主題 

から は、 社会的なる ものの 集積し 統合せられ てお さめられ ている 機動 体 乃至 為人 や 行動 体系と して みられる パ ー ス ナリテ 

ィが 中心の 問題で なく、 そのような 主体の 環境への 適応 状態 或いは 適応 場面が 問題で ある。 

力— ディナ— も レヴィン や J . F. ブラウンに ふれて いる。 レヴィン の 場の 心理学に おいて は 人間 や 社会の 実質が とりあ 

げられ ない こと をい い、 自己の 所論に リフ ァ— している (p>on tiers, p. IP TThe individual and his society, 1936, p. 3W)- 

また 彼 は 中心的 観念 傾向 (focal idea) や 基礎的 人格 型 (basic personality structure) の 成立に ついて 幼時に おける 第一 

次 制度と 第二次 制度との 関係 を 明らかにし、 そこに 宗教 観念の 成立と 反映と を 説き、 後年に おける 危機の 処理 乃至 安全 体 

系の 保持に 関しても 首 及して いる (上記 引用の 外 e. g. The individual, p. 126f., 87f.)。 



この 点で は 欲求不満 や 不安と 宗教と いう 問題 性と 連関が あるが、 なお 彼 は マリノ ウス キ ー のト ロブ リア ン ド 島人の 研究 

を 摘要した 後、 個体の 中心 観念 傾向の 成立 を 叙して いる (ibid., pp. 79f., 83f.)。 

(w) かかる 場の 心理学的な 空間 性に おいて、 行動 B は PE 間の 相関関係 をな す 心理学的な 力の 関係に よって 左右せられ、 

合力 関係 (vector) や 誘因 (valence) の 関係に よって これ を 考える ことができる とする。 

レヴィ ンの 所論 はとく に、 ILewin, ヌ., Behavior and development as a function of the total situation, m : rarmldlael, 

r ecL, Nlanual of child psychology, 1947", chap. 16, pp. 791ft., ditto. Environmental forces, in : Murchison, 〇., 

e(l., A handb8k of child psychology, 1933, chap. 14, ditto, A dynamic theory of personality, 1935, PP. 88r 73f., 

194f., 241r ditto. Principles of topological psychology, 1936, PP. 14f., 18r ditto. Resolving social conflicts, op. 

cir (litto. Field theory in social science, 1951, I. chap. 1, 2, 3, pp. 1159. 及び Shaffer, F., Personal adjustment, 

in: JFoundations of r^^ychology, ed. lay Boring, E. G. &c., 1948, chap. 22, pp. 51lf. を 参照。 神経症 や 精神病の 諸 

症状への 連関 は レヴィン 自身に も あるが (cf- aynamic theory, p. 194.)、 更に シャ ファ— の 方向 づけ 参照。 

8 前 註 所 引の Lewin や Shaffer (esp. p. 517f.) の 外、 cf. Rosenzweig, S., An outline of frustration theory, in: 

Hunt, op. cir vol. I, chap. 11, p. 379f., ditto. Types of reaction to frustration, in: J. of abnormal ana social 

psychology, vol. XXIX, 1934—35, p. 298f. 

二— ヅの 充足の 得られぬ 障害に 逢う とき 主体 は 当の 環境 的 状況から 重圧 を 受け 緊張が 増す。 それが fsstration の 相 状 

であるが、 従って 欲求不満の 類型 は 二— ヅの 分類に 相応す る わけで ある。 口— ゼン ツワイグ は 欲求不満 を 一次 的と 二次的 

とに 分ける が、 これに 対する 反応の 類型と して 責め を 他人 や 自己に 転嫁す る ものと 転嫁し ない もの extrapumtive, mtr? 

punitive, impunitive の 三種 を あげる。 なお 生活 体の 自己 防衛の 体系と して 身体の 各所 的 防衛、 生理学 的な 全 組織体の 防 

衛 及び 自我 防衛が 数えられ るが、 欲求不満 に対する 第三の 自我 防衛の 反応 は、 右の 三つの 類型 を 逐次に 現わさせる であろ 

う。 そして、 これら それぞれの 反応に は 神経症 や 精神病の 諸 症状が 属する という。 拙著、 上掲、 第五 章 参照。 

(W0 知られる ように 恐怖 や 不安、 欲求不満 や 葛藤 等の 問題に ついては 精神分析 学に 多くの 寄与が ある。 しかし レヴィン 自 

身 もい うように 場の 心理学と 精神分析 学と は これらに 関して 共通の 問題 を も 持 つてい る。 前者が 個体 を その 現状に おいて 

扱う のに 対して 後者 は 内面的な 歴史に よって 扱う。 レヴィン は regression の 例 をと つて 論じて いるが 一は life-space 

第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 カー 



第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 六 二 

の 扱いで あり 他 は life-history の 扱いで ある。 場の 心理学に は 経験の 実質 や 歴史が 欠けて いるが、 レヴィン も 両者 は 相補 

うべ き だとい う。 しかし 方法 的に い つ て 前者 は 実験的 数学的で あるが 後者 はケ— ス メソッ ドを 使う。 且つ 歴史的と い つ て 

も それ は 経験的な 意味で 充分に 歴史的で はない。 これらの ことが 併せられ 且つ 充分に 研究され なければ ならぬ が 現に かか 

る 研究が 緒に つけられ たと レヴィ ンは 以前の 論文で いい、 H.Murry と J. F. Brown の 共同研究 を あげてい る (cf. Lewin, 

K.., Psychoanalysis and topological psychology, op. cit)。 なおこの ことに 就いては 前 註 (^) の 諸家の 所論 を 参照。 

(go cf. ; Lewin, Beliavior and development, p. 809f., Dynamic theory, 88f., Environmsltal forces, ^. 31 ひ, Shaffer, 

op. cir p. 523f., 〇ameron, N., The psycttology of behavior disorders, 1948, p. 13lf. (キャメロン に は 機能的 精, 病 

の 研究が 多く、 彼 は bio-social な 観点 乃至 謂わ ゆる 行動 病理学の 観点から、 二— ヅの 主体の 環境への 適応の 関係に おいて 

成立す る 精神病の 諸 症 を 研究す る。 拙著、 上掲、 第五 章 参照。 わが国で も レヴィンの 観点 を 精神医学に 適用す る 考えが あ 

るが (たとえば 村 松 常 雄 『精神衛生』 昭和 二十 五 年)、 実際の 臨床 操作 等 は 明らかにされ ていない。 

ダラ— ド その他 (Dollard, J., &c.. Frustration and aggression, 1939) の 人々 は 欲求不満が 攻撃 性へ 向かう という 

Irustration-awwression 仮説 を 立てた が、 その後 批判せられ ている。 レヴィン は Behavior and development, op. cit. 及 

び rrustration and regression, in : Child behavior and olevelof>ment, ed. t-y R. G. Barker &c., 1943, p-rh 441—^58. 

(cf. esp. p. 457f.) で 退行が 結果す る こと をみ た。 なお 最近 ダラ —ドと ミラ ー は 機能的 神経症の 治療と その 回復 経過に 関 

する 注目す ベ き 書 を 出した が、 その 中で、 コンフ リク ト による 機能的 障害の 実質 を 詳細に 類型 化して いる (cf. Dollard, J. 

and Miller, N. E., Personality and psyclstherapy, 195P pp. 33 if., loo 拙著、 上掲、 第五 章 参照。 

(c^) cf. Cameron, op. cit, p. 148. 

cf. Goldstein, K: Human nature, 19^7, s. 92f., 94 98, Horney, K., The neurotic !>erson ひ lity of our time, 1937, 

!>. た f.. New ways m psychoanalysis, 1939, や 194f., Rosenzweig, S., An outline of frustration tlieory, in : Hunt, 

op. cit, rameron, o^. cir P- 1^6f. 

(^) cf. Horney, New ways, op. cir P. 195f., Cameron, op. cir p. 148f. 力— ディナ— は 第 一 次 制度に おける 欲求 不 

満 において 第二次 制度の 成立 をみ る。 

(W) Goldstein, op. cit., pp. 9lf., 112f. ゴ— ルド シュ タイ ンの 所論に つ い て は 拙著、 上掲、 第五 章 参照。 



§ op. cir p. ii4f. 

(go cf. Flower, op. cit., pp. 25f., 4lf. 

(g) ibid., pp. 42r 45. 

s ibid., p. 54. 

cf. ibicL, pp. 27f., 38, 47. 

(お) ibid., pp. 45, 49. 

s cf. ibid., p. ひ 4f. 

それ 故 宗教の 存在理由が 宇宙と 人間との 間の 紐帯 を 導き出す というよ うな 仕事に 本質的に 存す るので はない。 宗教 的 反 

応とは 個体の 適応 可能 圏外の 或る もの へ の 心的 反応で あると いう 範囲で はデ ュ ルケ ムの 所論に 賛同 せられる。 しかし 宗教 

の 本質 を フラヮ —は聖 に 見る ので あるが、 その 性格 は オット— の 所論に 左袒 している (cf • S. 53f 35f ., 58, 24, 64f 224f .)o 

(お) cf. ibid., pp. 21, 30, 

Goldstein, op. cir PP. 113r 115. 

(w) ブレア 二 ミズ ムの 主張の 中に も フレ— ザ— のよう な 観点 も あるが、 呒 術と 宗教と に 共通の 地盤 を magico-religious な 

領域と したの は マレット や デュル ケ ムの 高弟 達で あ つた。 —— なおこの 領域に おいて 更に 遡 原 的に pramagisch な 行動 段 

階 を 想定す る 考え も あるが、 今日の 中心的な 問題で はなく 今の 問題と しても 省いて おく —— 。 右の 領域に おける 基本的 要 

素 或いは 観念が、 「超自然的な 力」 の 観念で あるが、 とくに マレット は この 観念に つ いて 謂わ ゆる タブ ー • マ ナ 公式 を見究 

め、 そこに 「聖」 の 性質と 機能の ある こと を 主張して 呪術と 宗教と は 同性 質で あると した。 マリノ ウス キ ー 等 も 両者 カリ 

ずれ も 超自然的な 力に 関係し 聖の 領域に 属する という。 かかる 考えに 対して デ ュ ルケ ムは 『原初 形態』 の 儀礼的 態度 を 扱 

う 初めで、 社会的な 宗教 的 儀礼 を聖、 個人的 私的で、 効果 や 事の 結果 を 目指す 呪術 を 俗と し、 ゼ— ダ— ブ D — ム もまた デ 

ュ ルケ ムを引 用しつつ 両者の 区別 を聖と 俗と においた。 しかし、 これらに も 異論が ある。 いずれも 学派 的 観点に 遡って 考 

えなければ ならぬ が、 たとえば デュル ケ ム に対して は 彼の 影響 を 受けた マリノ ウス キ— ゃラ —ド クリフ "ブラウ ン等も 

社会的な 宗教 は聖、 個人的な 呪術 は 俗と いう 考え を 抽象と して 反対す る。 二人 は 主張の 重点 を 異に はする が、 謂わ ゆる 機 

能 的な 行動 的 適応 や 社会的 拘束の 面に 就いて、 たとえば 個人的に も聖 なる 宗教 性が 存し、 社会的 拘束 性 を もつ 儀式 や 儀礼 

第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 六 三 



第二 章 限界 的 状況に おける 適応と その 根底 六 四 

においても 聖的 でない もの も あると いうので ある (上 註 (9) 及び Radcliffe-Brown, esp. Taboo, op. CUJ。 また 主と 

して 超自然 性との 関係に おい て、 呪術と 宗教と を 同質に 見る ものの 中で も 両者の 相違 は 論ぜられ ている。 たとえば 呪術が 

特定 の 目的 を 有して それに 近づかん とする 処置で あるのに 対して 宗教 は 行為 や 儀式 そのものが 目的で あると いう (マリノ 

ウス キ— )。 或いは 宗教と 呪術と は その 態度 や 心情に おいて 異なる ともいう (近く 例えばべ— トゃ ロウィ 等)。 

しかし いずれも 実際に は 決定的 区別 を 見る ことができな いので、 呪術と 宗教と を 個人的と 社会的と に 分ける 態度に 対す 

る 主として 心理学的 観点からの 批判 を はじめ、 右の マリノ ウス キ— に対して も 既に 多くの 反対が ある。 また 態度 や 心情の 

上で 相皇 すると ノ つ て も往々 それら は 重複し 混在して いると みられる ので ある (e. g. :Lowie, R. H., An introduction 1:0 

cultural fmtllropoloTOy, 19^7*\ Radin, primitive religion, o^. cit.)。 

ことに 最近で は 寧ろ それぞれの 局地 研究の 成果に 従 つて ブレア 二 ミズ ム の 地盤に おける ァ 二 ミ スティックな もの 即ち 人 

格 的 存在に 対する もの を 宗教と して 挙げて 来て おり (たとえば マリノ ウス キ— など もそう であるが R. Benedict, M. Meaa, 

Radin, Hogbin, etc.)、 非人 格 的 及び 人格 的 超自然 観と いうよう な 区別 も 用いられ ている (たとえば ゴ —ル デン ワイ ザ— や 

ロウィ 等)。 けだし、 局地 研究の 精細な 結果に おいても、 その 氏族が 既に 分化した 段階に あるので、 実証的に はか かる 解 

答の 出る の も 自然であろう。 ことに ラ ディ ンの ごとき は 彼の 接した 氏族に 関する かぎり、 宗教 的になる の も 呪術 的になる 

の も 実に その 集団の 指導者に 依存す ると 報じて いる。 

このような わけで 実証的に は 両者の 間の 本質的 区別が 必ずしも は つきり しない。 しかし 本質的に は 難なくと もこれ に 対 

する 者の 態度の 規定の 仕方と いう 点に おいて 区別 さるべき である。 なお 超自然 ゃ聖 という 観念の 間に も 問題が ある。 前者 

は 主として 心理学的 観点から 出る もので あり、 後者 は 機能的な 面に つ い て、 主として 社会学 的 観点から 出る ものであるが、 

私 は その 機能的な 他者 性、 拒否 性と いう 点に 宗教の 究極 的な 本質 をみたい。 なおこの 点に ついては 拙稿 「信仰と 科学の 問 

題」 (筑摩 書房、 哲学 講座、 四、 昭和 二十 五 年) 参照。 なお 以上の 諸 項の 詳細に ついては、 拙著、 上掲、 第一、 第三、 第 

四、 各 章 参照。 

実存の 基礎的 構造が 次の ような 問題 性に 連なる か 如何 かとい うこと に は 種々 の 問題が ある。 ここで は 意 を 尽くし 得な 

いが、 本書、 第一章 及び 第三 章 以下、 第 七、 第 八、 第 九、 各 章、 拙著、 上掲、 第一、 第二 章 参照。 



第三 章 人間 存在の 構造に おける 宗教の 根拠 六 六 

ている が、 ともかく、 普通に は、 特定 社会の 裡で、 それらの 事情の 織り 合わさった 制約の もとに、 常識 や 科学の 

教える 処置 や 手段 を 用いて 切り抜けて 行く ので ある。 

しかし、 生きて 行く 上に は、 これらの 条件 や 手段 を どれ だけ 整えても 如何にも ならぬ とか、 或いは その 時 その 

場で は 如何にも 用意が 整わない、 間に合わない、 というよ うな 行き詰りが ある。 限界状況 とか 破局と いう ものが 

ある。 生理的に も 社会的に も、 或いは 歴史的に も 自然 的に も、 また 心理的に も あるであろう。 その 時 如何す るか ( 

その 時で も 何とか 切り抜けなければ ならない。 しかし 普通の 手段 は 尽きて、 進退 谷 まって 手の 打ちよう がない。 

たとえば 瀕死の 場合 を 考えて みても よい。 手の 尽くしよ うはない。 しかし、 何とかし なければ という わけで、 溺 

れんと する 者 は 藁 をも摑 むと いうよう に、 僅かな 依り どころ や 頼りで も、 それに 頼ろうと する。 正に 絶体絶命で、 

その 頼りが どう だと か、 こうだと かいう 批判 や 分別の 入る 隙間 もない 11 従って、 普通の 経験と 異なり、 「退行」 

とか、 それだけ かなえば という 「選択 的 関心」 という 異常な 傾向 も ある —— 機微であろう。 

ひと 先ず、 このような 追い つめられた 場合 を 大まかに いって 宗教 的 解決 を 必要と する 状況と してお こう。 状況 

的、 境遇 的に いうと 宗教の 世界に 近づく ようになる 人々 と は、 案外、 行き悩んで いる 場合の 人々 かも 知れない。 

しかし、 このような 切羽つ まった 場合の 心の 有様 は、 宗教の 境地に 入り 易い 機会で もあろう し、 また 宗教の 心 

境に 近づいて いると 一 応 はいえ るか も 知れない が、 ここに 注意すべき ことがある。 この場合の 心持ち は 宗教の 心 

境と 紙一重で、 そこへの チャンス だと はいい 得る。 或いは 現象 的に は 普通の 経験の 仕方と 違う 点で、 相似 的と も 

いい 得る し、 宗教 的な もの も 其処に 同時 的に 存在 するとい い 得る かも 知れない。 しかし、 溺れん として 藁 をも摑 



む 態度 や 心 は、 —— たとい 藁 を 藁と してで はなく、 謂わ ゆる 超自然的 神秘的な 力 ある ものと して 向かって いると 

しても I 、 実は 宗教の 態度 や 心の すがたと は 本質的に は 違って いる。 前の 場合 は、 自分の 持ち合わせの 能力 や 

考えの 上に、 何 か 特別な 或る 力 を 接ぎ足して 何とかし ようとす るので ある。 しかし、 宗教の 態度 は 本質的に いえ 

ばそう ではない。 宗教の 切り抜け 方に おける 態度 や 心の 姿 は、 自分 を 留保して、 それに 接ぎ足す のでな く、 自己 

なる もの を 根本から 捨てた ところに ある。 ああ すれば これが こうな り はせ ぬか、 これが こうなら 何が どうと い つ 

た 具合に、 我 他 彼此 やる 悟性 的 情 執 的な 主体 を 超える ところに あると 考えられる。 信仰と か 帰依と か、 それぞれ 

の 宗教の 態度と いわれる もの も、 解いて みると 根本 は 此処に あると 思われる。 

二 

そこで 問題 を 出して みる。 

一、 自己 を 捨てる とか 自己に 死す とかと いったが、 それ は 根本的に は 何処へ 向けて 行く のか。 

二、 自己 を 捨てる と は 本来 的に はどうい うこと か。 

三、 自己 を 捨てる という 機会 は 本当 は 何時 何処に あるか。 

話の 順序から 先ず 第三の 問題から みて みょう。 今迄 は、 或る人が 或る時 は 逢い 或る時 は 逢わぬ かも 知れぬ とい 

う 状況 的な 謂わば 偶然 的な 機会 を あげたが、 果たしてそう なのか。 実はこう では あるまい か。 即ち 人間が 何時 如 

第三 章 人間 存在の 構造に おける 宗教の 根拠 六 七 



第三 章 人間 存在の 構造に おける 宗教の 根拠 六/ 

何なる 場合で も、 生きて いると いう、 その 成り立ちの 基本に 破れ目が あり、 破綻が あって、 上の ような 時折り の 

行詰りと は、 実に この 破れ目が、 それぞれの 場合に 現われた 姿で はない か、 というよ うに 考えられる。 こうなる 

と、 第三の 問題 は 第二に 移される。 自己 を 捨てる とか、 自己に 死す と は 本来 どういう ことかと いう ことにな つて 

来る。 

次に 第一 の 問題で あるが、 これ も 第二の 問題に おさめられる であろう。 宗教の 研究 は 宗教の 事実 或いは 事実の 

前提から 出発し なければ ならない が、 直接的な 宗教の 事実 は 必ず 如何よう かの 規定 性 積極性 を もっている。 ブラ 

ク シス の 形態で も 観念の 形態で もそう である。 そこで は 色々 な 形で 自己 を 捨てて 行く 目標 や 状態が 示されて いる 

と みられる が、 つきつめて みると、 本来 は 何処へ 向けて 自己 を 捨てる ことなの か。 

直接的な 宗教の 事実と して は、 神仏 その他 種々 の 宗教 的 対象に 向けて 自己 を 超え、 帰依し、 信仰す るので ある 

が、 そのような 成立 的 構造 を 根源 的に 解き ほどき、 仕組み を 上から 取り外して 行って、 究極の 底 を 求める、 とい 

う 学問的 操作 を 採る とどうな るか。 私 は 宗教 的に 実存す る ことと いう 場面の 底の 成り立ちに 還して、 ここ をみ て 

みょうと 思う。 こうなる と、 第一 の 問題 はや はり 第二の 問題に うつって 来る。 

宗教の 存在 条件 を、 宗教の 外から あてがって みる こと もで きる し、 宗教の 内側から 索め る こと もで きる。 また 

宗教の 根拠 を 構成 心理学で いうよう な 意味の 心理学的な もの や、 或いは 謂わ ゆる 人間学 的な もの、 或いは 社会的 

な 基礎に も 求める ことができる。 しかし、 人の 人た る 所以 は 自覚 的 本質に あると いわれる ように、 人間 存在の 現 

実の 場面 を、 じの 場面に とってみ る こと も 大事であろう。 といっても、 内在的な 意味で いうので はなく、 各自の 心 



の 行き渡れる 場面、 即ち 心なる ものの 内在 を 超え 出で て 相手と かかわって 現に 存在す る 超越 的な、 その 当の 「か 

かわり」 の 場面、 謂わ ゆる 実存の 場面 をと り 上げる ので ある。 内面的な 性質 を もつ 宗教の 本質的 事実 をみ る 上で 

は、 都合の よい、 また 根本的な 問題 場面で あると 思われる。 

この 実存の 領域 を 根本的に 考えた のはキ ヱ ルケ ゴ ー ル ととくに ハ イデ ッ ガ— である —— ャ ス パ ー スは ひと 先ず 

今の 論点から はふれ ないで おく —— 。 ハイデ ッガ ー はとく に 現存 在 を geworfener Entwurf として、 そこの 基 

礎 的な 在り方 を 「負 目」 の 構造に おいて 見出した。 即ち nichtiges Grundsein einer Nichtigkeit なる 在り方に 

おいて ある こと を 明らかにした。 実存 哲学の 勝れた業績の 一 つ は、 各自の 現実の 存在の 場面が 可能性の 領域で あ 

る、 しかも、 制限 せられた、 即ち Nichtigkeit の 支配す る 可能性の 領域で あると みたところ にある。 Nichtigkeit 

と は、 われわれの 現実の 場面 即ち 投企 によって 何 かへ と 向かって 先取され、 その 行き先から 気分 づ けられて 「現 

にこ こに」 在って いると いう 機能的 構造に おける 実存の 領域が、 あれで あれば、 それで はない、 という 制約の あ 

る 可能性の 領域に おかれて いる 在り方 をい う。 この 「ない」 という ことで 無限に 制約 せられる 可能性の 領域に お 

ける 在り方の ことで ある。 且つ そのような 可能性の 支配す る 領域 即ち 実存の 領域 は、 何処まで も不 決まりで 不確 

実な Abgrund の 領域で あると いうので ある。 しかも、 そこに 投げ出されて 在って いる 実存の 主体た る 各自 は、 

それ を 無 制約な ように はでき ない。 真に 自由に はでき ない。 nie-mSchtig な Grundsein であると いう こと を 明ら 

かにした ので ある。 

このような 謂いで、 存在者の 存在と くに 現存 在の 存在が 無に おいて あると いわれる ので ある。 無 は 否定の 契機 

第三 章 人間 存在の 構造に おける 宗教の 根拠 六 九 



第三 章 人間 存在の 構造に おける 宗教の 根拠 七 〇 

というよ うな もので はなく、 存在者 を 存在者たら しめる 存在の 根拠で あると いわれる の は、 存在者の 存在の 所在 

が 実存の 領域で あり、 そこの 成り立ちが 上の ように 仕組まれ ている こと をい うので ある。 勿論、 無なる ものの 上 

に 存在者が 据えお かれて いると いう 謂いで はなく、 存在者の 存在の 場面、 実存の 場面が、 無の 所作なる 無み する 

nichten する はたらき において 支配され ている という 謂いで ある。 もっとも、 その 無 は、 やはり ハイデ ッガ ー に 

おいて は 問題 を 残して いるが (補遺、 一、 参照)、 ともかく、 実存が 負 目に おいて あると いう 所以の 基礎的 構造 を 

ハイデ ッガ ー はかくみ るので ある。 キ H ルケ ゴ ー ル でも、 その 所論 を 根源 的に 解き ほどいて ゆく と、 未然な 形で 

は あるが、 やはり、 そのような 見地が 出て 来る (補遺、 二、 参照) I 勿論、 実存の 理念が ちがう し、 ハイデ ッガ 

1 のい うような 無 や 死 は 主題 的に は 問題に されない。 しかし、 実存の 領域が 謂わば 無 さの 機能的 支配の もとに あ 

ると いう 見地が 出て 来る —— 。 

三 

ハイデ ッガ ー のい う、 この 存在論 的な 現存 在の 存在の 場面、 即ち 実存の 場面に、 彼 自身 は 宗教の 問題 性 を 開い 

ていない I ここで は 彼の 方法 上の 問題、 実存の 理念の 問題、 さらに 今の 問題と して は、 投 企の 基本的 性格に 関 

する 問題 や、 非 本来 性、 本来 性の 問題、 また、 実存 的な 決意の 在り方 や、 謂う ところの 存在者の 性格に ついて 論 

じなければ ならぬ が、 後に ゆずる (補遺、 ニー、 参照)——。 それで、 私共と して は、 ハイデ ッガ— の 明らかにした 



場面 を 確保して おいて、 さらに 彼の 所論 を 超えた 問題 性 をみ てみ よう。 そこから、 宗教への 問題 場面が 開かれて 

来る と 思われる 11 但し、 ハ イデ ッガ— の 所論 を 直ちに 神学の 領域に 接続せ しめよう とした 謂わ ゆる 存在論 的 神 

学の やり方 は 当 を 得て いない。 われわれ は そのような 意図 や 仕方 をと るので はない (補遺、 四、 参照) —— 。 

さきにい つたよう に、 この 可能性の 領域 は、 何処まで も不 決まりで ある。 たとえば、 今の 私 は 可能 的に は 病気 

でも あり 得る、 病気で なく も あり 得る。 死ぬ こと も あり 得る、 死なぬ こと も あり 得る —— 勿論 究極 的に は 死の 在 

り 得る ように 存在して いない 在り方 をして はいない。 しかし、 今 は そのよう に は 見ない。 ハイデ ッガ ー ではなく 

キ ル ケゴ — ル 的に みる —— 、 全く 反対の 二 つ の 乃至 無限の 可能性 は 常に 何時でも 各自の 現在に 突き かか つ て 来 

ている。 社会的な 事柄で も 同様で、 自分に 迫って 来て いる 或る 事が 起こらぬ こと も あり 得る し、 起こる こと も あ 

り 得る、 そういう 場面で ある。 或る 事が 在り 得る という こと は、 その 事で 在り 得ない という 寧ろ 無限の 可能性、 

即ち 「ない」 という 無の 可能性に とりまかれ ている。 

で、 希望の 方に 手 を 尽くす であろうが、 しかも、 その 可能性の 一 つ を 取って 他の 可能性 を 捨てる という こと は- 

構造 上 如何にしても できない。 実に ここ は 思いのまま になら なさ、 足りな さの 支配 下に ある わけで、 それ を 如何 

とも 致しが たい。 科学の 万全 を もってしても、 たとい プロ バブルに はで きても、 一 つの 可能性 だけ を 必然的に も 

つと いう こと はでき ない —— できた とすれば、 自由の 領域 は 無くなる —— 。 そこで、 宗教 的に 生きる といっても- 

ここ を 逃れ出る こと はでき ない。 また、 このような 構造の 場面 を 壊す こと もで きない。 

しかし、 此処に は 問題が ある。 ままに ならな さ、 足りな さに おいて ある 現実の 場面で、 ままに しょうと 欲い、 

第三 章 人間 存在の 構造に おける 宗教の 根拠 七 一 



第三 章 人間 存在の 構造に おける 宗教の 根拠 七 二 

足りる ように ありたい と 願う その 当の 欲い 願いの 場面に 問題が ある。 具体的に は、 ままに しょう 足りる ように あ 

りたい というと ころに は、 目星が あり 相手が ある。 あれこれ 自他なる もの を 待 対に おいて、 一 を 願い 他 を 拒まん 

として、 そこに 欲い 願い を かける ので ある。 上に 申した 現実の 場面と は、 正しく、 この 欲い 願いの ゆきわたって 

在って いる 領域で あるが、 そこ は 上の ような 構造の 場面で ある。 ところが、 その 場面に おいて 在りながら、 今や 

問題の 領域が このような 層に 開けて 来る であろう。 欲い 願いの 場面に おいて は、 欲い 手 願い 手と 欲い 願われる 相 

手と が 待 対に おかれ、 しかも、 その 相手が あれ それと 待 対に おかれて いる。 それ 故、 主体が あれ を 願い それ を 拒 

むように 在って いるので ある。 しかし 総 じて ままに ならな さの 支配し、 自在で はあり きれぬ 右の ような 構造の 場 

面に おいて あるので あるから、 思いのまま にならぬ 逼迫に 逐 われる ので はなかろう か。 

こうなる と、 常に 其処に おいて 現実の 営まれる ところの、 その 其処の 構造 を どうしょうと いうので はなく、 そ 

の 場面に おける 主体と 相手との かかわり 方のと ころ 即ち 態度に 問題の 領域が 遷 つ て 来る。 

四 

日常 われわれ は r 斯々 で」 あり 度い、 r 斯々 でない」 ので は 困る とやって いる。 ああ だ、 こうだと 立てて、 一 

つの 事 を 立てて 他の 事と 区別し、 あれと いって、 あれで ない ものとの 仕切り をつ けて、 一方 を 望んで、 他の 方が 

疎ましい、 来て は 困る という 具合に やって いる。 ところが、 そのよう にやって いる 場面が、 叙べ たような 可能性 



の 領域で、 何処まで も不 決まりで、 何方の 可能性が 来る のか わからない。 それ だから、 そこに 不安 や 心配 力 出て 

来る。 全く 心配 や 不安の 根本 はこの ような ところに あるので ある。 

しかし、 比処 をよ く 見て みると 如何であろう か。 事態 を 引き受ける 各自に とって、 どちらの 可能性が 来ても 構 

わぬ のなら 心配 はない。 が、 実際 は 一 が 望ましく 他が 疎ましい。 来て は 困る。 そこで 心配したり、 無理 をしたり 

する ことになる。 けれども 一 を 願い 他 を 願わぬ という 場合の、 一 とか 他と かとい うの は 如何なる 者であろう か 

普 i こ. は、 見たり 手に とれる ような 事態 や 実物の ことと 思って いる。 しかし、 そうであろう か。 あれで あり 度レ 

これで あり 度くない という 「あれ」 とか 「これ」 といわれる もの は、 実は あり 度い とか あり 度くない という 欲望 

や 期待、 危惧の 向こうに 措かれた 目星であって 実物で はない。 観念的に 立てられた ものであろう。 既に 認識論 的 

にも 批評せられ たこと であるが、 実際 われわれ は 「あれ」 「それ」 といって、 実物の 事物 を 考えて いるが、 実は 

それ は 悟性の 立てた ものである。 そのよう に 悟性 的 分別 的に 立てられた 「あれ それ」 を 相手に して、 それ を 実物 

と 思い 違えて、 情 執 的な 愛欲、 願望 を 運んで いる。 そして 欲しい から 手 を 出す という 具合に して、 飛んでも ない 

こと を 仕出かす という ことになる。 

それ は 取り 違いで はない か。 食い違いが あり はしない か。 それ こそ、 非 本来 的な 生き方で はない か。 本来 的と 

は:,.^が現実こ此処こ,存在してぃる、 その 在って いると おりに 生きる ことで あるが、 自己なる もの 相手なる ものと 

いう、 そのような 存在者が 「ちゃん」 と 在る ので はない。 自他 一切の ものが 端的に 存在して いる 所在 は 実存の 領 

域で ある。 そこ は 我 他と いい 彼此と いう、 そのもの 11 素朴 的な 謂いに おいても、 悟性 的に 措定せられ たもの の 

第三 章 人間 存在の 構造に おける 宗教の 根拠 七三 



ら. たものに 外なら ず、 しかも、 そのよう に 立てられた あれ それ は、 その 在りの ままの 所在 を、 あれ それなる も 

のの もとにお いても つてい るので はない、 という ことになるの である。 しかし、 困った ことに は、 ものな り 心な 

り、 自 なり 他な りの、 如実の 所在なる 如上の 第三の 領域が、 みて きたよう に 可能性の 領域で あり、 思いのままに 

ならな さ、 足りな さの 仕組みに おいて ある 領域で ある。 それ だから、 そこ を 抜け出した 第一 第二の 領域に あれ そ 

れと 立て、 自 とい い 他と い つ て、 一 を 願い 他 を 拒む という わけで ある。 如実の 当処を 逸して、 あらぬ ところに 欲 

い 願い を かけて 喘ぎ あぐねる こと を 為す ので ある。 

五 

それ 故、 あれ それ 自他の 如実の すがた、 とくに 自己なる ものの、 本来の 当 相 を 獲る のに は、 その 構造のと おり 

に 身 を 託する 外 はない。 在りの ままに 処 する ことで ある。 在りの ままと は、 第三の 領域、 可能性の 領域に おいて、 

不 決まりな ままに、 然 かもと くに、 ものが そのもの として 在って はいない 在り方 をい う。 そうならば、 在りの ま 

まに 処 する ために は、 自己な り 相手な り を そのもの として 相手 どって はいけ ない。 そのもの として 相手 どると い 

うこと は 吾^の 事と すると ころで ある。 そして 悟性の 立てた 自己 や 相手 を 実物と 取 違えて 情 執 や 愛欲 を 運ぶ の は、 

在りの ままの 当 相 を 逸する ことになる。 それ 故、 悟性 的 情 執 的な 主体 を 超えよ、 この 主体 を 超える 処置が、 在り 

のま まのと ころに 処る 処置で ある、 という ことになるであろう —— それ はむ つかしい ことで はない わ 力 身 を も 

第三 章 人間 存在の 構造に おける 宗教の 根拠 七 五 



補遺 I ハ イデ ッ ガ ー はこの ように 存在者と くに 現存 在の 存在の 場面が 無の はたらき において 支配し 抜かれ 

ている こと を 明らかにした。 ところで、 一体 無と は 何な のか。 無 は 凡そ 何者かで はない、 無 は 存在者の すべてに 

わたる 絶対的 否定 (vernelnung) とせられる。 もっとも、 この テ ー ゼは 無の 根本 本質 をい い 表わした もので はな 

く、 悟性に 準じて 規定した ものにすぎ ぬが、 一応の 手がかり としょう。 否定と は 悟性が 事と する ことなの である 

が、 悟性 は 存在者の 凡てに わたって 係わる こと もで きないであろう。 まして、 すべての 存在者で はなく、 「存在 

者の 全体」 を そのもの として 把握す る こと はでき ない。 且つ 無 や 無の 拒否す る はたらき は、 悟性の 行なう 否定よ 

り も 根源 的で あり 層 位が 異なる。 

無の 所在、 正しくい えば、 無が その はたらき たる Nichtunw において 自己 を 顕示し、 それが 顕 露になる 場面 は、 

常に 全体の 場面で ある。 従って 無に かかわる という こと は、 この 全体にお いてで なければ ならない。 ところが、 

現存 在が 現に 存在す る、 その 存在の 場面 は 常に 全体としての まとまり において ある。 これが 存在の 場面の 性格で 

ある。 そして、 無 は 無み するとい うその 拒否の はたらき において、 この 全体の 領域 を領 し、 或いは この 全体の 領 

域の 底の ない 底 をな している ので ある。 それ 故、 無 は 存在の 本質に 属する といわれ るので あるが、 それ は 存在者 

の 存在の 領域 を 無の 無み する 機能 性が 浸透し、 貫通して いると いう ことで ある。 

このような わけで 無 は 悟性の 領域の ことで はない。 悟性が 事と する 存在者に 属する ことで はない。 それら を 超 

えた、 存在者が そこにお いて 存在す ると ころの 全体の 場面に おける 問題で ある。 それで は、 われわれ は どのよう 

な 具合に 無に かかわる ことができ るかと いうと、 右の 場面に おける 無の はたらきに 出 遭う ことにお いて わかられ 

第三 章 人間 存在の 構造に おける 宗教の 根拠 七 七 



第三 章 人間 存在の 構造に おける 宗教の 根拠 七 八 

る。 そのような 出来事 は 根源 的な 不安に おいて 起こる —— 勿論、 無 は 常に 間断な くその nichten の はたらき をな 

している。 日常 的に は そのこと が 知られな いまでで ある 11 。 不安に よって、 また、 不安に おいて 無 は 顕示す る 

(offenbaren)、 不安が 無 を 顕示す るので ある。 顕示と い つ て も 無なる もの そのものが 出て 来る というの ではない。 

その nichten の はたらきが、 不安に おいて 顕 露になる —— 不安が 顕 露に する (enthallen) —— という 仕方で、 露わ 

になる の である。 

このように、 無 は 凡そ 何者かで はない。 存在者で はない。 それ 故、 対象と しても 与えられ ないし、 不安と いえ 

ども 無 をつ かまえる こと、 把握す る こと はでき ない。 無で はなく、 その 無み するとい う 常に はたらけ る 

はたらきが 不安に おいて 顕露 という 仕方で あらわれ るので ある。 

無の 本質 を このような ニヒ テン の 機能 性に おいてみ ると いう こと は、 ハ イデ ッ ガ— の 現象学 的 存在論の 立場 か 

らいっても 当 を 得て いる —— 以上の こと は、 主として 『形而上学と は 何 か』 によった ので あるが、 その 書 はとく 

に 無の はたらきの 浮かび 出る 場合 を、 即ち 「実存 的」 な 問題 性 を 扱った ものである —— 。 そして、 『存在と 時間』 

では、 この ニヒ テンの はたらきに 貫通 せられた 存在の 意味 を、 とくに 時間 性の 構造から 明らかにした。 就中、 現 

存在の 存在が 負 目 あると いう 在り方に おいて ある 所以 は、 上に 見て 来たと おりで あるが、 その 場合、 「それ」 か 

らニヒ テンの はたらきの 来る、 その 「それ」 は 如何であろう か。 勿論、 存在論 的に は、 「存在 的」 な、 その ニヒ 

テンす る もの 即ち 無が、 そのもの として 問題に はならない。 しかし、 前 存在論 的に 存在が わかられ、 且つ、 その 

わかられ 方 を 規定して いると ころの 実存の 理念に おいて は、 実存の 最後なる 死が 目安に なって いる。 そして、 そ 



の 所懐 を 存在論 的に 考え抜いた ものが、 自分の 存在論で あると 彼はレ つて レる 

それで、 実存 論 的な 問題 場面に おいても、 実存の 最早 無い こと、 実存の 不可能 性、 つまり 死の ことが、 最後の 

法廷で あると いう。 そこから、 二 ヒ テンの はたらき は、 存在の 場面 を 常に 無み し nichtig に 染め出し ている。 そ 

れが普 1 こ はわから ない。 投企 において、 その 一番 向こうの、 最 固有の 可能性の 端にまで 行き当たり、 そこから 

還る 先駆 的 決意に おいて 時間 性の 統一 が 得られ、 存在の 意味が 得られる というの である。 

以上の ことから、 基礎的 存在論の 問題 場面に おいて 直接に は 問題と ならぬ としても、 ハイデ ッガ ー において は 

やはり 背景 的に 無の こと 死の ことが 考えられて いると 思われる。 そして、 いい 方の ちがう 両書 における 無の こと 

死の ことの 関係 を 考える こと もで きな く はない かも 知れぬ が、 今 は 省こう。 そして、 実は 存在論 的な 場面に 存在 

的な 死 や 無が 過当に 顔 を 出して 来て いると もい い 得る と 思われる。 実存 論 的な 叙述 は 死 や 無なる ものに 寄せな く 

て もで きる であろう。 存在の 場面 は その 当のと ころに おいて 無み する 機能 性に おいて それ 自身 仕組まれ ている。 

ハイデ ッガ ー の 所論に も尤 にこの こと は 見られる。 勿論、 さきに も あげたよ うに、 ハイデ ッガ ー として は 死から 

来る 二 ヒ テンの 機能 性に おいて 存在の 領域が 染め抜かれ ている という ことが 所論の 特色 をな し、 且つ 彼のい う 学 

的 操作の ねらいでも ある けれども。 

vor d. Ewigkiet の 実存 を 説く キ エルケ ゴ —ル の 存在論 を 十九 世紀 的と い つ た 彼 は、 vor d. Tode の 実存 を 説 

くこと において、 神の 代わりに 無 や 死 を、 やはり 向こう側に 立てて ゆく 傾向 性 は 超えて いない。 恰も シヱラ ー は 

現象学 的な 問題 場面に 立ちながら、 そこから 超絶 者 を 透視して 行った。 ハイデ ッ ガ,, 'はそう は 行かない。 けれど 

第三 章 人間 存在の 構造に おける 宗教の 根拠 I [ セ九 



第三 章 人間 存在の 構造に おける 宗教の 根拠 八 〇 

も、 向こうに 或る ものが 立てられ、 伏せられ、 尠 なくと も 残って いると 評しうる であろう。 

補遺 二 へ— ゲル 及び アリス ト テレスとの 連関に おいて、 キヱ ルケ ゴ ー ルも 存在 を 生成に おいて 見、 且つ そ 

の 存在と は 現実に 存在す る 謂いと した。 そして、 現実の 存在に おける 生成の 変化 は 質的 弁証法的 であると いう。 

即ち 生成の 変化 は 厳密な 意味に おいて、 固有の 質的 飛躍に おいてな されなければ ならない。 けだし、 プ ラトンの 

『パ ル メ 二 デス』 で 示される ように、 変化の 箇処に は 不思議な ェ クサ ィフ ネスが あるので ある。 それで、 完全な 

意味に おいて、 生成の 変化 は 歴史に おいて 行なわれ るので あるが、 かかる 変化の 行なわれる 場面 は、 厳密な 意味 

において は、 個体の 実存に おいてで ある。 それ は 個体の 実存に おいて、 或る ことの 可能 的な 在り方から 現実的な 

在り方へ の 状態の 変化と いう ことで ある。 

この 際、 否定 は 徹底した 課題と なる。 厳密な 意味に おいて 生成 は 「瞬間」 の 事 成に おいての み 行なわれる。 瞬 

間と は 時間の 中に おける 現在の 確立で あり、 それに は 永遠なる ものが 時間の 中に 交わる という ことが 要件で ある „ 

キエ ルケ ゴ— ル によれば、 この ことなしに は 厳密な 変化 や 移行 は 行なわれない。 従 つ て、 そこで は 時間 的なる も 

のから 永遠なる ものへの 状態の 変化が 課せられる。 けれども、 時間の 中に 実存す る 個体 は、 実存す るかぎ り 永遠 

なる ものに 連ならない。 ここに 実存に おける 矛盾と 逆説と が存 する。 時間の 中に おいて 実存す る 個体 は、 実存す 

るかぎ りの 自己の 否定に おいてで なければ、 厳密な 意味に おける 生成の 変化に 与 かれない。 

ここに 常に 如何なる 場合に おいても、 実存の 否定せられ なければ ならぬ 所以の、 いいかえれば、 実存の 無なる 所 

以の、 オン トロ ギ— が ある 箸で ある。 それ は、 永遠 性 を 内在的に 自己 自身の 中に 蔵して はおらぬ 実存が Existenz 



vor Kwigkeit において、 永遠 性 を 自己に あてがって みて、 永遠 性の 欠如に ついて、 実存の 無をレ うこと もで き 

る。 事実、 キ H ルケ ゴ— ルは かかる 主題の もとに 自己の 無 を 知り 自己 を 無み する こと を 主張し 抜いた。 

しかし、 また 彼の 所論 を 深く 見て みると、 かえって、 永遠 性との 連関に おいてで はなく、 実存す る こと そのこ 

との 内部的 構造が、 無の 或いは 無 さの、 支配 下に ある ことが 明らかにされようと している。 『不安の 概念』 等に 

おいて、 実存 を 「負 目」 の 構造に おいて 見る。 生成に おいて 実存す る こと は、 可能性の 領域に おいて、 可能 的な 

ものの 構造 上の 不確か さに もとづ けられ、 底の ない 深淵の 上に 所在し、 無に 臨んで いる 所以 を 指摘した ので あつ 

た (拙稿 「キ H ルケ ゴ— ルの 宗教 論の 吟味」、 上、 下、 哲学 雑誌、 昭和 一八 年、 一 〇 月、 一一 月、 「実存 哲学に おける 時間 性の 

問題」、 上、 下、 宗教 研究、 一一 九、 一二 〇、 昭和 一九 年 四月、 七月、 近く は 本書、 第 七 章 及び 拙著、 上掲、 第二 章 参照)。 

補 遣 三 とくに 今の 連関と して は、 彼の 投企論 や 存在論の 性格 等から 穿鑿して みなければ ならない が、 近く 

第 一 、 第五、 第 七、 第 八、 各 章 参照。 

補 遣 四 補遺、 一 一、 所掲、 拙稿 参照。 一 

この 稿 は 日本 宗教学 会 第 八 回 大会 (昭和 二三 年 一 〇 月) の 共通 課題 「人」 に関する 課題 報告と して 叙べ たもので、 補遺 

は 「宗教 研究」、 一二 二 (昭和 二 四 年 一 〇 月) に 載せる ときに 附し たもので ある。 

第三 章 人間 存在の 構造に おける 宗教の 根拠 八 一 



第 四 章 死の 主体的な 所在と 扱い 



人間の、 或いは 人間性の、 人格 的 精神的な 不滅と いう こと は、 古代に おいても 中世に おいても 考えられ ていな 

い。 純粋な 意味で 人格の 不滅と いう ことが 考えられて 来たの は、 近世に なって である。 が 併しと、 フォイ ュ ルバ 

ッ ハは 批判して いう。 現実に 存在す る 人間 は 人類で はなく 個体で ある。 しかし 個体の 存在の 真理 は 個体に あるの 

ではなく Ich und Du なる 共同 存在に ある。 ところで、 生きて いる 人間 即ち 個体 は 死ぬ。 肉体的に は 死ぬ。 し 

かし その 個体の 共同 存在なる 相手の 人々 に は 精神的な 意味で 死後 もな お 影響と 懐 想と を 残す。 人格の 不滅と は 共 

同 存在に おける 相手方に 残った 残像の 類推に 外ならぬと 彼 はいう。 

生 ある 者 は 死ぬ。 人間と は 死ぬ 生物 だとい う 生物学 的な 人間の 考え方 は 矢張り 今日の 考え方の 基調に あると 思 

われる が、 既に フォイエ ルバ ッ ハ にも 見られる ように、 何にも 増して 人間と は 社会的 存在であって、 死 も 亦 この 

面に おける 事実に 外なら ない。 確かに 生理的に は 個人の 死で あるが、 その 個人の 属して いた 固有の 社会に、 その 

第 四 章 死の 主体的な 所在と 教ぃ 八 三 



第 四 章 死の 主体的な 所在と 扱い パ E 

人の 死 i そ, - それの 変化 や 錯綜、 謂わ ゆる 慣習の 断層に よる 行 きづまり や 危機 を 与える というよ うに ら, W る 

(たとえば マリノ ウス キ— やとく に チヤ プル 及び ク ー ン等、 第二 章 参照)。 実際、 個体に とっても 死の 恐怖 や 不安と いう 

もの は、 寧ろ 生理的に よりも、 遺族 や 仲間への 関係 或いは 仕事の 関係 等に おける 社会的 変化への 不安 や 恐怖 等に 

おいて みられる ように、 社会的に 構成され ている かも 知れない。 

しかし 生理的に も 社会的に も みられる 死が、 いずれにしても、 端的に いって、 各自に とって 心配 や 不安の 相手 

になって いる。 この、 各自に とって 心配 がられ 不安 がられて いる 死の 姿、 在り方 を、 即ち 実存の 場面に おける 死 

を、 私は迎 つてみたい。 

医師 は 心臓の 活動の 止まった 瞬間に 死 を 宣告す る。 その 死と いうの は 生活 体の 死滅 を 意味す る 生理的な 死の こ 

とで あり、 寿命の 終わりに 来る 死の ことで ある。 そのような 死の 事実の ある こと は 独り 人間に は 限らない が、 と 

も かく 普通に は そのような 観念の もとに 誰彼の 死、 他人の 死につ いて 他人 事の ように 接して いる。 死の 事実 や 事 

"^に対して 客観的な 態度で 接して いるので ある。 しかし 一度 自分の 死と いう ことになると、 誰彼の 死の ように は 

すまされない。 われわれ 各自 は 主体的に 生きて いる。 主体と は 生きて ゆく 作用 や はたらきの 中心で 客体 的な 相手 

の 勿と してお きかえられぬ もの 即ち 謂わ ゆる 自覚 的 自己で あるが、 主体的と いうの は、 先ず 普通に は 自分 を 立て 

てこれ を 守り、 これ を 保持し、 その 勢力な り 領分な り を 拡充しょう とする 態度 や、 或いは その 領域 をい うので あ 

る。 われわれが 日常 物事 を 感受し 対処して いるの は 実に この 領域で あるが、 この 領域に おいて は 凡ての 物事 は 常 

こ^ 何なる 場合で も 「主体に と つ て」 どのよう にかの 事情に おいて 在って いると いう 在り方 をして いるので ある _ 



これが 各自の 現実の 実際の 場面で あり、 主体的な 建て前から つきつめて いうと V 如何なる 事物 も 事態 もこの 場面 

を 外にして はあり 得ない。 

各自の 生死と いう こと も 実に ここに その 所在 を もち、 すがた を もってい るので ある。 それで は 「自分に とって 

の」 という 場面に 顔 を 出して 来る 各自の 死、 わが 身の 死と は、 一体 ここで どのような 姿 や 在りよう を もつ ので あ 

ろうか —— この 場面に おいて は 生 も 死 も 同じ 性質の すがた、 在りよう において あるので あるが、 便宜上、 死の こ 

とを迎 つ てみ る 11 。 それ は 右の ような 客体 的な 事象と して 細胞 組織の 枯滅 であると いうよう に は片づ けられな 

い。 先ず 「死にたくない」 とか 「死にたい」 とか 11 乃至 「生きたい」 とか 「生きたくない」 とか 11 いう 死で 

あって、 客体 的に 扱われ 考えられる ような 死の 事柄と は 全く 異なる。 たいと か、 たくない とかいう ような 望み や 

希望、 期待 或いは 心配 や 不安の 範囲の 中に のみ その 所在 を もっと ころの 死なので ある — 実は この 範囲の かぎり 

においての みその 所在 を もつ 自己の 死なる もの を、 寿命の 終わりに 来る 死と 取り ちがえて いると ころに 問題が 存 

する ので ある —— 。 他人の 死 は 見たり 聞いたり する ことができる としても、 自分の それ は径 験で きない。 生きて 

いるかぎ り 自己の 事実の 死に は 逢えない。 逢い はせ ぬか、 来 はせ ぬかと いう 心配 や 不安の 中での 限りに 所在す る 

死なので ある。 

そこで、 このような 死の 所在と 在りようと を 明らかにする ために、 さきに あげた 「自分に とっての」 という 場 

面 を 穿鑿して みょう。 

第 四 章 死の 主体的な 所在と 扱い 八 五 



第 四 章 死の 主体的な 所在と 扱い 八 八 

が 主体の 私に とって 在る という、 心の かかわり において 在る という、 縁り 由り 方に 存 する — この こと は 十二 縁 

起の 各 支の 関係 を迚 つて みれば 明らかになる II 。 無我と いい 無自性 等と いうが、 それ はものが そのもの として 

あるので ない という こと を 的 示す る。 ものが そのもの として あるので ない と は、 正に 縁り 由って 在り、 縁起に お 

いて 在る からで あるが、 その 縁り 由つ て 在つ ている 勝義の 所在と は 正しく 今い う 第三の 領域に おいて ある こと を 

いう。 勿論、 縁起の 観点に も 種々 ある。 天台な どで は、 生滅、 無 生、 無量、 無 作 等の 四 種 を あげる が、 法に 対す 

る 基本的な 観点 は 体 法と 析法 とに 分けられる。 そのうち 謂わ ゆる 体 法 体 空と いう 観点が 勝れた ものと 思われる が、 

その 観点 はこ こ を このように みると 理解せられ よう。 

三 

普通に 第一 第二の 領域 は 素朴 的に もの や 心の 実在す る 領域で あると 考えられる。 しかし、 現実に 凡そ 在る もの 

が 存在す る 場面が、 それらの 二つの 領域 を 超えた 領域であるなら ば、 それらの 領域と は 一体 如何なる ものの 所属 

する 領域であろう か。 それ は 現実に ものが 存在す る 場面で はなく、 分別 や 悟性に おいて それと 立てられ、 これと 

いわれる 立場の 仮 構す る 領域に 外なら ない。 分別 や 悟性の 立場に おいて は、 これと いえば あれで はない、 あれと 

いえば これで はない ように、 すべて 相 待 的な、 限りの ある、 そして、 それ そのもの としての もの を 決めて 立てる 

ので ある。 ところが 現実的な、 ものの 存在の 場面 は、 ものが 主体の 私に とって 在って いる 場面で、 それほど こま 



第 四 章 死の 主体的な 所在と 扱い 九 〇 

そのもの 在りと 思いな された ものに 外なら ない という ことになる。 現実に は 抜け出す ことので きない この 像の 世 

界、 第三の 領域から 抜け出して、 像 をして あらしめ る 映す ものと 映される ものと を 仮 構して いる ことになる。 或 

いは 映す もの も 映される もの も それ 自身の 独立の 領域 を もっている でもあろう。 しかし 今の 立場で いうと、 どう 

しても そこへ 直下に は 届かない ので あり、 問題に ならない。 

それ にもかかわらず、 像の かぎりなる すがた を そのまま 像の 外なる 外界に 投影し 固形 化し、 思い 違えて いる。 

第三の 領域に おいて 在り、 従って、 そこにお いて かかわって 在り 行き わたって 在る ところの 此方の 心の 色合いに 

染め出され 織り出されて 在って いると いう、 正に その メカニズム において 現実に は 存在して いる 相手の 者 を、 第 

一 第二の 領域に 移し かえて 相手 ど つてい るので ある。 第三の 領域に おいて 心の 在りぶ りと 組み合わ さり 潤色 せら 

れて 在って いる 範囲の 当の もの を、 性質の 異なった 領域に そのまま 転 置して 行って、 欲い 願いの 色合い をつ けら 

,w たま まの ものが、 恰も、 そのもの 自身と して ちゃんと 在る ように 思い 違えて いるので ある。 乃至 は 現実に は 手 

のと どかぬ 独立の、 もの そのものの 領域に おける 存在者と 同列 同格の ものの ように 思いち がい をす るので ある。 

従つ てこ こに は 一 一重の 意味で 喰いち がいが ある。 ものの 在りの ままの 在りよう は —— 縁り 由つ て 在る かぎり は 

— 、 それと とりとめられ 分別せられ るよう に は 在って いない。 そこ を それと とりとめて、 あれと 待 対 こおく と 

ころに ずれが あり、 更に、 そのよう に 実は 仮 構せられ て 立てられて 在る もの を、 あの 五官の 対象になる ような 素 

朴 的に 考えられる 実在 物と 取り ちがえる。 この 意味で 二重に 喰いち がう。 魚 を くわえた 犬が 水に 映った 自分の 影 

に 挑んで 魚 を 失う 寓話 はこ こ を 諷して いる。 



ち 鏡の 譬えで いうと 像の 世界に あり、 即今 只今の 端的な 現実の 当処 にある ように、 死 もまた 如上の あり方に おい 

て、 私が 現に 存在して いると いう、 その 現にの 場面 を 外にして は、 その 所在 はない。 従って 各自に とって 現実的 

な 死と は、 事柄と しての 死で はない。 常に 各自の 現前の 場面に 入り こんで 来て いる 死 即ち 可能 的な 死で ある。 そ 

れは、 しかし、 死 は 何時か 来る、 必ず 来る。 しかも 何時 来る かわからない。 現に 生きて いる 只今の 次の 刹那に 来 

るか も 知れない。 それで、 死 は 現在に 最も 近い将来にまで 迫り 来って 在り 得る、 というよ うな 意味で はない。 現 

在の 只今の 構造が、 現に 死んで しまって はいない が、 死の 可能性に 入り こまれて いると いう 意味で ある。 

このように、 問題になる ところの 自己の 死の 所在 は、 過去に あるので は 勿論ない とともに、 普通に 考えられて 

いるよう に、 何時か 定かで はない が 寿命の 終わる 未来に おかれて いると いうよう な 在り方に おいて あるので はな 

い。 何時でも、 自己が 現実に 生きて いると ころの、 その 当の 現場に 可能性の すがたに おいて 織り こまれて 来て い 

るので ある。 只今の 心の ゆきわたれる 範囲に おいて、 可能性に おいて ある 死 を 受け こみ、 死 を 厭が つたり 願った 

りする 姿が、 さしあたり、 今の 立場で いうと 死の 現実の 所在な ので ある。 

各自の 現在の 現実の 当処に 死の 可能性が 入り こんで 来て いる こと を 明らかに したが、 ここに 重要な 問題が 出る" 

それ は、 各自が 現前 只今の 現実に 存在して いると いう ことが、 その 基本的な 構造 上、 実に 常に 可能性の 領域に お 

いて 在って いると いう ことで ある。 とくに 有 待の 身 は、 あれで あれば これで はあり 得ぬ という、 無 制約 的なら ぬ 

可能性の 領域に おいて 存在の 場面 を も つてい る。 死の 可能性が 現実の 当の 場面に おいて 在つ ている という こと は、 

その 一 つの 特異な、 また 極端な 場合に 外なら ない。 ここに 人間の 現実に 存在す る 場面に おける 不安 やお それの 根 

第 四 章 死の 主体的な 所在と 扱い 九 三 



第 四 章 死の 主体的な 所在と 扱い 九 四 

もとが ある。 欲い 願い を 運んで 待対輾 転す る 理由 も存 する ので ある。 

五 

由来 最近の 生の 哲学に おいても、 死 を そのもの として、 生の 向こうの ものと は 考えない。 ジン メル 等 も 死 は 生 

の 内在と いい、 生が 死によ つて 先験的に 形成され ると なして いるが、 シヱラ —等 はさら に 複雑に、 具体的に 生が 

死によ つ て 規定せられ、 死によ つ て 喰い 込まれて いる 姿 を 叙べ ている。 即ち 彼 は 『形式主義』 で 各自の 現実に 存 

在す る 場面が 常に 各自 的な 全体の まとまり における 「世界」 だとい つてい るが、 恰も これに 相応した ような 意味 

で、 『遺稿』 の 中の 論文で、 生に おける 内在的 時間と いう こと を 論じて いる。 生 を 老い 行く 径 過と 考えて、 現在 

を 中心とする 過去と 将来の 比重、 比例に おいて、 即ち 死から 勘定 せられた 現在からの、 過去と 将来との 比重に お 

いて、 生の 形態 を 捉えようと している —— 春秋 高し とか 春秋に 富む という 表現が 此方に も ある 11 。 

しかし 死の 問題 を 主体的な 場面で 最も 深く 捉えて いるの は、 実存 哲学に おける、 特に 「時間 性」 の 在り方に お 

ける、 捉え 方であろう。 人間 各自が 現実に 存在す る 謂わ ゆる 実存の 場面の 構造に ついては、 卓見 を もって キ エル 

ケゴ ー ルが 明らかにした。 ことに 『不安の 概念』 において。 また 勝れた 緻密 さに おいて ハイデ ッガ— はこ こを存 

在 論 的に 究明した のであった。 両者と もに ここ を 「負 目」 の 在り方に おいて 抉 剔し、 或いは ここの 不決定 さ を、 

或ハは りな さ を、 また 思いのまま になら なさ を、 あらわに したので ある。 



両者 は 実存 を 時間 &の 在り方に おいて 見出した ので あるが、 いずれも この 場面が 可能性と くに 制限せられ f 約 

された 可能性の 領域で ある こと を 明らかにした。 ことに ハ イデ ッ ガ ー はこ こ を 支配し 抜く 最後の 法廷と して 死 を 

あげる。 もちろん 事実の 死で はなく 死の 影で あり、 可能性と しての 死で あるが、 しかし 彼に おいて は それが 実に 

実存の 終わりと しての 死から 来て いるので あって、 見て 来たよう な、 分別せられ 立てられた 死と いう 強調 はない 

— この 点 は 彼の 存在論 的 場面に 存在 的な ものが 過当に 入り こんでいる とも 考えられる。 実は 可能性の 領域に お 

いて ある ことによって、 実存が 無の 機能 性の 上に おかれて いる 性格 は 充分 明らかに なしうる。 キエ ルケ ゴ ー ルは 

ここ を その 不決定 性に おいて 明らかにした のであった。 なお、 主題 的で はない が 彼 は 『後書』 で 死の 問題 を 例に 

あげ、 この 観点から 見て いる。 自分の 死 は 経験し 予料 しっか まえる ことができない というよ うに II し 力し ノ 

イデ ッガ ー として は それが 彼の 哲学の 特色で あり、 それ は 「実存の 理念」 にまで さかのぼらなければ ならない。 

死ぬ ものなる 人間の 理念 を、 存在論 的に くりの ベ たもの が 彼の 存在論で あると 自ら もい う 如くに 

われわれに 課せられた 主題 は 仏教の 見地で あるが、 そこで は 死の 超越と いう こと をい う。 それは各自カ分^^;的 

主体た る こと を 超える ことで ある。 そこに 人間の 本来 性 をお き、 無明から 明への 転回 も そこに あると する。 

しかし ハイデ ッガ— 的に いえば そのような こと は 問題に ならない。 けだし それ は、 実存の 理念に も 関係す るが、 

更に 彼 は 死 を 素朴 的 自然 的な ものと してお いて、 ひたすら その 「存在」 の 場面に おける 機能的な 支配 性 を 究める _ 

即ち わば その 中間の ことが 問題と なって いない。 いいかえれば 「実存 的」 な ことが 問題で なく 「実存 論 的」 に 

「存在」 のこと が 中心で あり、 「存在」 について ド クサ 的にから まること が 主題で ないから であろう。 ところが 

第 四 章 死の 主体的な 所在と 扱い 力 五 I . , 



第 四 章 死の 主体的な 所在と 扱い 九 六 

今の 問題から いうと、 もちろん 死 を 死なぬ ように もなら ないし、 死の 可能性が 実存の 場面に くいこんで 来て いる 

こと を どうに もしょう はない。 しかし、 今い う 着眼 は、 どうに もなら ぬ 可能 的 死の 構造 を どうしょうと いうので 

はなく、 そこにお ける 死の 取りち がい を 超える ことによって、 死 を 超えようと いうので ある。 死の 観 方 は 見て 来 

たように、 それと 立てて それでない ものとの 待 対に おかれた 死 即ち 分別の 仮 立と み、 それへの 情 執の 纏綿と みる 

(ー) 

ので ある。 

なおまた 彼 は 分別 的 主体 を 超える というよ うな こと はいわない。 悟性 的 立場に おいて 死の 可能性 を わかり、 そ 

れに道 を あけて その 支配に 実存の 事実 的な あり方、 状態 を ゆるす という。 いわゆる 決意 性の 問題が そうで あるが. 

そこに は、 「実存 的」 な 問題 を 事と せぬ というよ うに、 究明の 除外 も ある 11 これに 対して キヱ ルケ ゴ ー ルは 「決 

断」 という こと をい う。 それ は 正に 分別 的 悟性 的 主体た る ことに 死ぬ ことで ある。 悩み や 負 目の 意識 を 持し、 死 

に 至る 病 を 病む ことで ある —— 。 

一体 ハイデ ッガ I の 哲学 は、 存在の 意味 を 時間 性の 構造に ついて 明らかにする というよ うに、 知的 性格の もの 

であろう。 実践的 或いは 倫理的な こと を 要件と はして いる けれども。 不安の 問題に しても、 ダリ —ゼバ ッ ハ等も 

指摘した ように、 キヱ ルケ ゴ— ル などの ような まとも さはない。 本来 性に 関する 感覚 も 悟性 的で あり、 「決意」 

的 人間の 性格 も 右のと おりで あるが、 いわゆる 「ひと」 の 性格に しても、 自己 を 失った 平均 的 人間で ある。 わが 

身 世に ふるとい つた 風の 人間で、 宗教 的 人間の 前 階に 位する、 あの 喘ぎ あぐねる 人間で はない のであろう。 わが 

身の 越し 方 行く末に、 あらぬ 執着 を かけ、 自他の 間に 比較 待 対 をお き 欲情にから まれた 人間で はない のであろう" 



しかし、 今 はこの ような 苦 海に 沈湎 する 情 執 的 人間が 問題で ある II 仏教で は 現実 を 苦の 構造に おいて とらえ 

裏 1^ 逼白 一の 境界に おける 人間が 問題で ある。 そして 脱 苦と いう ことが そのね らいであった 1 -。 苦 海と は 正しく 

各自の 現実の 当の 場面 をい う。 上に 述べた ような 可能性の 領域で ある。 もしも 人が 可能性の 領域に おいて 住して 

いないならば、 或いは そこで 制約せられ ていないならば、 或いは 制約せられ ていても、 これ を 支配し きる 力 を も 

つてい るなら ば、 人間に は 不安 も 心配 もない かも 知れない。 欲い 願いの 余地 もない かも 知れない。 しかし、 生き 

るかぎ り は、 右の ような 構造の 場面から 出る わけに は ゆかない。 

この 領域に おいて、 あれ やそれ やの ことに ついては、 あれで も あり 得、 あれで なく も あり 得る。 病気で も あり 

得る し 病気で なく も あり 得る。 可能 的に は 一方が 止まる こと はない。 そして、 その 在り 得る という 在り方に おい 

て 在って いる 現実の 領 或が、 その 構造 上、 どこまでも 不 きまりで、 そこ を 自在に 選択す る こと 力で きな レ また 

さら こ、 究極 的に、 それで 在り 得る 外 はない ように 現に 在って いると いう 構造 をみ る こと もで きょう 死の 在り 

rn|> るよう に 現に 在って いる 外に、 死の 在り 得る ように 在って いない 在り方 を、 各自 は 現にして はいな レ 愛 Q^le 

苦の 現に 在り 得る ように 在 つ ていない 現実 とてもない であろう。 

このような 構造 を 破 却す る こと はでき ない。 しかし ここに 問題が ある。 ままに ならな さ、 足りな さに おいて 在 

第 四 章 死の 主体的な 所在と 扱い 九 七 



情 細 pi 綿され て あるかぎりの もので、 実物の それで はない。 ところで、 そのような 生死と は 実に 各自の 現実の 当 

処に 所在す るので あるが、 如何 ぞ 知らん、 現実の 当処に 在って いる 生死と は、 本来 そのような 在りよう において 

あるので はない。 第三の 領域に 所在し、 あれなる もの、 それなる ものと いうよう に、 それと とりとめ、 あれと 仕 

切られる ような 具合に は 在って いないの である。 それと とりとめられる 領域 即ち 第一 第二の 領域 を 超えた ところ 

に 所在 を もつ ので、 その 意味で、 生死 本来な く、 また 生死 不可 得な ので ある。 

そこで 生死の 超越と いう ことが 問題になる。 生死 本来の 在り どころ 在りよう は 上の ごとくで あるが、 普通に は 

生死の 在りの ままの 在りよう を その 在って いると おりに 諦ら かにして はいない。 諦ら かにして 自ら そのと おりに 

処し てはいない。 

象の 世界に おいて 在り 第三の 領域に 所在し、 従って、 それと とりとめられる ように は 在って いないと ころの 生 

なる もの 死なる もの を、 或いは 生と 立て 死と 立てて 分別 待 対し 一方 一途に 貪りつ くので ある。 度い 度くない の 欲 

、- 願いの 運ばれる 先き では、 事実の 生死に 行き 逢え はしない。 その 先き では、 ただ 分別 仮 立の 生なる もの 死なる 

ものが 措かれて いるのに 外ならぬ。 実に は 在り もせぬ もの を、 それと 立てて あれと 待 対せ しめてい るので ある。 

しかも 欲い 願いの 先き に 立てられた 死なる もの 生なる もの を、 欲い 願いの 所 計 所産と は 気づかず 知らず、 それ 

らを、 生の 終わりに 来る 己れ の 事実の 死 或いは その 死へまで の 生と 取り違え 取り 交え、 その 所在の 層 位 を 異にせ 

る 死 や 生 を 一 一様に も 混雑 させて 不安が つたり 執着す るので ある。 事実の 死と は 生きて いるかぎ り 逢う こと はでき 

ぬ にもかかわらず、 逢う こと を 恐れる ので ある。 

第 四 章. 死の 主 偉 的な 所在と 扱い 九九 



第 四 章 死の 主体的な 所在と 扱い 一 〇〇 

それ 故 生死の 超克、 超越と いう こと は、 生死の 現実に 在って いるま まの 在りよう を諦ら かにし、 そのと おりに 

処る ことに 外なら ない。 恐れられ 願われる 死 や 生と は、 実は 事実の それらで はなく して、 却って 執着の 中に あり 

分別 校 計の 中に ある。 それらに おいて、 それと 立てられ るまでで ある。 しかも、 そこで それと 立てられる 死 や 生 

と は、 実は その 在りの ままの 所在 や 在りよう を、 それと 立てられ、 それと とりとめられる ような 具合に はもって 

いないの である。 第三の 領域に おいて 不可 得 不思議の 在りよう において あり、 そのもの として は 在る ので はない- 

ここ を諦ら かにす るの が 悟りで あり 涅樂 である。 

知られる ように 仏教で は四諦 十一 一因 縁 等の 法 を 根本の 教えと する ので あるが、 そこに は 深い 死の 省察が ある。 

そして 長い 伝承のう ちに はずい 分と 形而上 的に 思辨 せられ、 架空な 考え もないで はない が、 その 極意に おいて は 

謂わ ゆる 生死 即湼樂 という。 生死 を はなれて 別に 涅槃が あるので はない。 生死 そのもの に対して 涅槃 そのもの を 

待 対せし めるならば、 これ もまた 迷いで ある。 生死の 在って いるま まの 当処に 躬ら処 るの が 涅槃の 境地に 外なら 

ない。 上に 叙べ たと ころから 直ちに 明らかな とおりで ある。 

七 

生死の ありのままの 当処 を諦ら かにして それに 躬ら処 る ことが 悟りで あるが、 そのよう に 処る処 り 方に は 種々 

ある。 仏教で も 難易、 自力、 他力、 法 行 信 行な どの 諸行が ある。 それらに ついては 一 々ふれまい。 ここに 端的に 



生死の 在りよう を 明らかにして、 これに 処 する 仕方 を 直 指せる ものと して、 道元 禅師の 『正 法眼 蔵』 一生 死」 の 

巻 を 引き合 いにして みょう。 

生より 死にう つると こころうる は、 これ あやまり なり。 生 は ひとときの 位に て、 すでに さき ありの ち あり、 

かるが ゆ ゑに 仏法の なかには、 生すな はち 不 生と いふ。 滅も ひとときの くら ゐ にて、 また さき ありの ち あり、 

これ こよりて 戎 49 な はち 下减 とい ふ。 生と いふ ときには、 生より ほかに ものな く、 滅 とい ふとき は、 滅の ほか 

こものな し。 かるが ゆ ゑに 生きたら ば、 ただこれ 生、 滅 きたらば これ 滅に むかひて つか ふべ しとい ふこと なか 

れ、 ねが ふこと なかれ 

という。 生死の 所在 は 現実の 当処、 現前 即座の 端的に ある。 そこにお いて は 生に つづく 死が あるので はない。 こ 

の 場面に おいて 生なら ば 生、 死なら ば 死、 ともに 一念 一杯の 全 機 現で、 また 『眼 蔵』 「全 機」 の 巻に 明かす とお 

りで ある。 当 念 即座の 端的に 生 あり、 滅 あり、 過現未 三世 もこ こに あつまる。 それ故に ここ を諦ら かにして 別に 

生死 を 立てて 生 を 願い 死 をお それて はならない。 そのような ものが そのもの として あるので はない。 在る の は 現 

前 刹那の 一 念の 端的で ある。 生きる 所在 はこ こに あるの み。 しかも 生 も 死 もこの 場面に おいてと もに 一 杯の 全 機 

現で 解決の 鍵 はこ この 処決に ある。 それ は、 本来な きもの を あるが ごとくに 揣 摩し 臆測して 貪りつ くこと から 離 

れる ことで ある。 そのもの として は 本来 ある ことなき 生死 を その 無き がま まに 処 すれば よい。 

それに はどうす るか。 それ はあり もせぬ もの を 在りと 考えて 作為 執着す る 態度 をす てるまで である。 至 道 無難. 

唯 嫌揀択 ともいう。 けれども、 やはり それ はむ つかしい。 小手先の 鬼 や 角 あれこれ を 思い切る のでな く、 自己な 

第 四 章 死の 主体的な 所在と 扱い 一 〇 一 



第 四 章 死の 主体的な 所在と 扱い 一 二 

る もの を 立てて、 そのもの ありと 思いな せる ところの 分別 執着の 主体 を、 当座 現前の 唯今に おいて 出 離し 放ち 忘 

れょ というの である。 ただし、 それ は 主体が 主体で ある こと を 停止せ よと いうので はない。 貪りつ き 拘泥す るよ 

うな 主体た る こと を 超えよ というの である。 

とはいえ、 しかし 事実の 生死がない というの ではない。 やがて 死が 来る でもあろう。 また 生の 外に 生の 現実 は 

ない。 この 生死の 上に 現実 は 営まれる ので あるが、 ただ、 その 生死 を 分別 執着の 対象と して まつわりつくな。 そ 

れは 勝手が ちがう、 見当が ちがう。 倒さまで あると いうので ある。 「生死」 の 巻で は、 ここのと ころ を 

いと ふこと なく、 した ふこと なき、 このと き はじめて、 仏の こころに いる。 ただし 心 を もて はかる ことな か 

れ、 ことば を もてい ふこと なかれ。 ただ わが 身 を も 心 を も、 はなち わすれて、 仏の いへ になげ いれて、 仏の か 

- こよりお こな はれて、 これにし たが ひもて ゆく とき、 ちから を も いれず、 こころ を もつ ひやさず して、 生死 を 

はなれ 仏と なる。 たれの 人 か、 こころに とど こ ほるべき。 

という。 生死の 解決と は、 このように、 鬼 角の 分別 執着 を 抜ける ことで ある。 抜けられぬなら 抜けられぬ ままに 

抜ける ので ある。 それに は 執着 分別の 主体 を 留守に する か、 或いは それらの 纒綿 する 隙間 を 与えなければ よい わ 

けで、 帰 命 本願と いうす がた も ある。 禅家で いうよう な 無心と いうす がた も ある。 いずれにしても、 主体の 姿と 

して は、 当座の 端的に いっぱいに 処る という ことであろう。 当座に 生き抜く すがたであろう。 この 境地に 入る 入 

り 方 は 種々 の 宗教が 教える が、 また われわれの 境界 境遇の 何処に でも 具えられよう。 



(1) 知ら 1 るよう に 仏教で は 時間に それ 自身の 体 を 認めない。 ものの 在り方 或いは はたらきの 在り方に 寄せて 時 をい うの 

である。 三世 実 有と いわれる 有 部 等の 考え方 も あるが、 唯識 やその 系統から 後の 発達した 大乗に 至る まで、 三世 を 現在の 

一 念に 摂 して 考える。 もちろん そこに は 計 を 破す という 謂いで いう 場合 も あるが、 時の 積極的な 在り方と しても 主張 せら 

れ ている。 それ 故 かかる 観点から いうと、 現実の 当の 場面 は 常に 在り 得る 外 はない ように 在り 来って いると みられよう。 

また 四苦八苦 ともい われて いる。 四諦ゃ 十二 因縁の 考え方と 連関す るが、 それらに 種々 の 解釈が ある。 十二 因緣 につい 

て も、 三世に わたる 解釈が あり、 その他に も あるが、 しかし、 本来、 縁起 は 現前の 現実の 場面の 在り方であった といわれ 

ている (とくに 宇井 博士、 印度 哲学 研究、 第二 参照)。 かつ 学派の 展開し 解釈の 進む につれ て、 現前 一念の 当 処に緣 起の 

在り方 をみ る 考え方が 出て 来て いる。 すると、 現前 一念の 当座に おいて、 縁起の 諸 支 は どのような 在り方に おいて 在る か 

ことに 老死な ど は 如何 か。 現に 死んで はいない という ことに もな ろう。 事柄と して 考える かぎり 将来の 時期に 起こる こと 

と 考える 外 はない というよう になって 来る であろう。 しかし、 従来、 未来 世に おかれた 諸 支 も、 在り 得る ように 在って い 

ると いう 在り方に おいてみ ると き、 現在の 当座に おいて、 その 所在 をうる ことになると 思われる。 



第 四 章 死の 主体的な 所在と 扱い 



〇 三 



第五 章 ハ イデ ッガ— における 実存の 可能性と 無 及び 死 



普^ こわれ われ は 現実に 相手の ものと 関係し 交渉して いる。 相手の もの は、 この場合 そのもの としての 存在者 

ではなく して、 私に とっての もので あり、 私に とって ある 事情の もとにお ける 在り方に おいて ある。 そのような 

在り方に おいての 存在者 (vgl. S. U. S. 87) と 関係して いる。 

そのような 事情の もとにお いての 存在者との 関係の 場面 は 如何に 形成せられ るか。 現存 在 は 実存す る こと (後 

掲) において、 自己 を 超え 出て いる。 超え 出で て 右の ように 存在者と 関係す るので あるが、 まず その 超えて 出て 

ゆく 先き (woraufhin) は 何処か。 それ は 存在者へ ではなくて 世界へ である。 従って 私に とっての、 現存 在に と 

つての、 或る 事情に おける 存在者と 出逢う 場面が この 世界で ある。 そこで 超えて ゆく 先き、 超えて ゆく かぎりが 

In-der-Welt-sein なので ある (vgl. Vom Wesen des Grundes, (zit. : W. d. Gr.), S. 82f.) 

従って 世界と は 存在者 或いは 存在 物で は 勿論ない (? P 〇•> S. 97.)。 現存 在 を もふくめ て、 あらゆる 存在者 を 

第五 章 ハイデ ッガ— における 実存の 可能性と 無 及び 死 一 五 



第五 章 ハイデ ッガ ー における 実存の 可能性と 無 及び 死 一 〇 六 

超えて いるので あるが、 さて 現存 在が このように 超えて ゆく 先き は、 その 超えて ゆく かぎりの 範囲に おいて 常に 

全体で ある。 根源 的に 恒に 何時でも 全体と いう 構造 を もっている (S. U. Z., S. 180ff.)。 けれども 世界の 全体 性と 

は、 このように 現存 在が その 時折に、 そこ を 目指し、 そこの ために 自己 を 超えて、 形成す ると ころの 全体で あつ 

て、 決して 無 制約 的で はない。 限界と 制約と が ある (vgl. W. d. Gr., S. 92f.)。 けだし、 世界が 現存 在に とっての、 

目指され、 或いは 「ため」 の ものなる 可能 的 領域の 全体で あるから である。 

そこで こうなる。 即ち 世界と は、 一、 存在者 そのもの ではなく して 存在者の 存在の 如何に (wie) を 意味す る。 

二、 この 如何にが、 存在者 を その 如何にの 全体の 中に おいて 謂わば 染め出し 規定して いる。 そして この 全体と し 

ての 存在者の 存在の 如何にが、 すべての 如何にの 限界 をな し、 標準 をな している ので ある。 ニー、 この 全体として 

の 如何に は、 下 註の ような 仕方で 先行 的で ある。 四、 この 先行 的な 全体としての 「如何に」 そのもの は、 正しく 

人間の 現存 在に 相応し、 順応す る。 世界 は、 一切の 存在者 従って 存在者と しての 現存 在 を も、 その 全体 性の 中に 

包括す るので ある けれども、 しかも 右の ようにして、 世界 は 人間の 現存 在に 依存して いるので ある (vgl. W. d. 

Gr., S. 85)。 

そこで、 世界が 人間の 現存 在に 相応し、 依存 するとい う 点が 迎られ なければ ならない。 世界と は、 「現存 在が、 

自分 を 指示 するとい う 様態に おいて、 その 中に おいて 自己 を 先行 的に 了解す ると ころの WorinJ であり、 「その 

Worin が、 存在者 を 先行 的に 出逢わし める ところの、 (現存 在が 自己 を 超え 出て ゆく) ゆく 先き (woraufhin) 

である」。 従って、 「その 中に おいて 自己 を 指示して 了解す ると ころの Worin は、 ^も 存在者 を、 ある 事 の 在 



りさ まの もとにお いて 出逢わし める ところの Woraufhin であって、 まさしく、 この ことが 世界の 現象で ある」。 

それ だから、 「それへ と 向かって 現存 在が 自己 を 指示す ると ころの 構造が、 世界の 世界 性 を 形成す るので ある」 

(S. U. z.,s.86)。 そして、 かかる 世界の 世界 性が、 世界-内 存.. 在た る 現存 在の 実存 論 的 規定で あり、 そこにお い 

て、 現存 在が 存在者と 関係す るので ある (a. a. p, S. 88)。 世界と いうか かる 存在論 的な 地盤 即ち 地平の 上で 存 

ま 者に 出逢われ るから、 現存 在の 存在に つ いて、 Sich-vorweg-schon-sein-in- (der-welt-) als Sein-bei unner- 

weltlich begegnendem seienden) という 規定が 出て 来る ので ある (a. a. p S. 192)。 

従って 世界と は 何等 固定 的な もので はない。 現存 在に 順応し、 依存して 形成せられ るので ある。 世界の 全体 性 

の 中に おいて、 存在者と しての 現存 在 は 染め出される けれども、 しかも 世界 は 現存 在が 投 企し 形成す るので ある 

(bsdrs. W. d. Gr., SS. 97,98, 103)。 もっとも、 現存 在が 作為的に 形成 するとい うような ものではなくて、 現存 

在が 存在 するとい う、 その 当の ことにお いて 世界が 出来て いるので ある。 世界が welten するな ど ともいう。 現 

存在 は その 存在の 本質に おいて weltbildend であるが、 それ は 現存 在が (その 存在に おいて 存在者と しての) 自 

己 を H?r んる という、 そのこと に 外なら ない (P a. ? SS. 98, lOlf., 103f.)。 それ 故、 世界に おいて、 現存 在の 存在 

が、 Sich-vorweg-sein, Schon-sein-in, ^^.^.^ という 実存 論 的、 存在論 的な 在り方 を もつ ので ある (S. u. Z., S. 

ij 196.)。 

ところで、 その 行く先き へ と 超える と いう こと は 同時に、 否、 優先的に (w.d.Grs. 96)、 「のた め」 (umwillen, 

^¥0さ!1?に1さ)とぃぅことと連関する。 現存 在が、 常に その 「のた め」 の 故に、 その 「行く先き」 へと 超える ので 

第五 章 ハイデ ッガ ー における 実存の 可能性と 無 及び 死 一 〇 七 



第五 章 ハイデ ッガ— における 実存の 可能性と 無 及び 死 一 〇 八 

ある。 その 「のた め」 の 全体が 世界で ある (W. d. Gr., SS. 96r 101.)。 実際に 存在者 は 各自の 現存 在に と つ ての も 

ので あり、 そのと つての ものなる 事情 性と いうか、 手元 存在 性 は、 各自の 現存 在に とって、 のた めの ものである。 

そこに 意志的な 交渉が 成り立って いるので あるが、 現存 在が 意志的に 相手の ものへ と 交渉す るた めに、 自己 を 超 

えて 出て ゆく の は、 この 「のた め」 という ことによ るので あり、 且つ この 「のた め」 という こと を 介す るので あ 

る。 この 「のた め」 という ことが 意志の 存在論 的 可能性で あり、 世界と はか かる 「のた め」 の 全体で ある (S. U. 

Z.,S. 194;W. d. Gr., S. 101.)。 従って 現存 在の 超越 即ち、 ここで は、 意志の 存在論 的 可能性に おいて、 この 「の 

ため」 という こと 即ち 世界が、 形成せられ るので あり、 そこに 形成せられ 投 企せられ る 世界 即ち 「のた め」 に は、 

自ら その 範囲 性の ある 全体が 形成 せられる こと も 予想で きる。 そして そこに 世界 投 企の 自由、 「のた め」 への 自 

由 即ち 根拠への 自由が 存す るが、 同時に その 自由が、 「のた め」 の 制約 あり 限界 ある 自由なる 所以 も 予想せられ 

るので ある (W. d. Gr., SS. lOlff., 108ff., siehe cloo 

このように、 世界と は 存在者 従つ て 現存 在が その 中に おいて 存在す ると ころの Worin であり、 現存 在が 自己 を 

超えて ゆく 行く先き たる Woraufhin であり、 かつ 勝義 において は、 現存 在が その 「のた め」 という ことにお い 

て、 存在者と 関係す ると ころの 全体としての Worumwillen である。 ところが、 現存 在が 存在して いると いう こ 

と は、 この 「のた め」 という ことにお いて 存在して いるので あるが、 おしつめて みると、 実は 現存 在 は 現存 在 

「のた め」 に 実存して いる。 従って 現存 在が そのために 実存して いると ころの もの は、 その 「のた め」 なる 世界 

であると いう ことになる。 もっとも、 現存 在が そのために 実存して いると ころの、 そのためなる もの は、 自己 自 



身で あるから、 世界 はまた 現存 在の 現存 在た る ものに 依存して いるので ある (W. ュ. or S. 96) 

かくて 世界と は Dasein の da の 領域に 外なら ない。 t^b^-^^iとは、 現存 在が その 存在に おいて 本質的に 

その 存在の ために 始終して いると ころの ものであるから、 「のた め」 という ことの 全体た る 世界と は、 正しく こ 

の 現存 在の 存在の 領域で あり 範囲で ある (ケ S (に ^. C. No S. 84、 

ところが、 現存 在の 存在の 領域と は 可能 的なる ものの 領域で ある。 存在論 的に いうと 現存 在の 存在と は 存在 可 

匕 匕 こ 外なら ない。 すると 世界 もまた かかる 可能性の 領域で あり、 存在論 的な 存在 可能の 領域で あると いう ことに 

なる。 即ち 「のた め」 という 領域 は 正しく 存在 可能の 領域であって、 「そのため」 に 現存 在が 存在す ると ころの 

存在 可能と は、 正に 世界 内 存在と いう 在り方 を もつ ので あると いわれる。 「のた め」 なる 世界 投 企と は、 現存 在 

の 可能性の 領域の 存在論 的な 形成に 外なら ない (S. d. Z., SS. 194, wtrs. 298, 84, W. cL Gr., S. 97)。 即ち 世界と 

は 現存 在に とって、 在り 得る という 領域で あり、 在り 得る ところの 「のた め」 の 領域であって、 現存 在 はしか も 

常 こす e に 先行 的に 存在者と しての 自己 を 超えて その 中に 在る ので ある。 世界の 中、 可能 的 存在の 中に、 自己の 

存在 場面 を もつ ので ある。 そして この 全体としての 世界、 可能 的なる ものの 全体から、 自己 を 規定せられ、 染め 

出されて いるので ある。 

では この 可能 的 領域と しての 世界 は、 その 中に おいて 自己の 存在 を もつ 現存 在の 存在 を どのように 染め出して 

いるので あろう か。 次に 叙べ るよう に、 可能 的なる ものと は、 実存す る 人間、 有限なる 人間に とって は 無 制約、 

無 限界 e ほない。 人間に とって 可能 的なる もの は 無に よって 制約せられ、 無に おいて ある。 従って 可能性に おい 

第五 章 ハイデ ッガ— における 実存の 可能性と 無 及び 死 一 九 



第五 章 ハイデ ッガ— における 実存の 可能性と 無 及び 死 一一 〇 

て 世界 もまた 無なる 制約 を もつ ている ので ある (bsclrs. vgl. S. u. Z., S. 276)。 また 現存 在に とつ て、 世界が それ 

であると ころの Worin, Woraufliin, Worumwillen も 無に おいて 規定 せられて あるので ある。 さきに あげたよ 

うに 超越の Woraufhin は 世界で あり、 超越と は 可能性の 領域に 向かっての 超越であって、 そこに 自由の 領域が 

存す るが、 しかも その Woraufhin たる 世界が 可能 的なる 無であって みれば、 自由 もまた 無への 自由に 外なら ず- 

終わりへの 自由、 有限なる 自由に 外なら ない (W. d. Gr., S. 109)。 

現存 在が 存在す ると ころの 一 現に」 の 範囲と 性格 は、 正に この 世界で ある。 かかる 世界に おいて 世界 内 存在た 

る ことが 「現に」 の 全 領域で ある。 (キ H ルケ ゴ ー ル では かかる 謂いで 現存 在の 玲域、 実存の 玲域を 描く こと を 

しない。 この 点で は 見て 来た もののう ちで は、 未然で は あるが、 シ エラ— の 環境 世界 や 世界の 概念に —— それ は 

人格 相応の 内容 を もち、 その 内容 を 抜いた もので はない が —— 、 相応す る ものが 存 すると 思われる)。 

二 

「実存 性」 と は 実存す ると ころの 存在者の 存在 構造 をい う (S. U. Z., S. 12-13)。 ハイデ ッガ ー は 人間の 実体 は 身 

心、 霊肉の 綜合と しての 精神と いう ごとき もので はなく、 「実存」 であり (SS. 117, 212,314)、 実体と は、 それ 

が 存在す るた めに 何等 他の 存在者 を 要しないで 存在す ると ころの 存在者で ある。 そして、 実体の 存在 はこの 他の 

もの を 要しない という ことによって 特質 づけら れ ている ので あるが (S. 92)、 現存 在の 本質 は、 まさに 現存 在の 



かかる 性格に おける 実存の 中に ある (S. 42)。 

「実存」 と は、 「それへ と、 現存 在が 自己 を斯々 に 関係せ しめ 得、 かつ 常に 如何よう にか 関係せ ると ころの、 存在 

そのもの をい う」 ので ある。 そしてその|^^1即ち実存は常に現存在各自のものでぁるょぅにぁる(^-.^に.ふ. 12)。 

それ 故 現存 在 は 常に 私が それで あると ころの 存在者で あるが、 その 存在者 は、 自己の 存在の 中に おいて、 その 自 

己の 存在へ、 わかる という (仕方の) 関係 を もつ (verstehend verhalten) (a. a. p S. 53)。 これ 力き 存の 形式的 

概念の 一 つで あるが、 現存 在が 存在者と しての 自己の 存在の 中に おいて、 自己の 存在 を 了解す る ことができ ると 

いう ことが、 実存の 本質的な 特質の 一 つで ある (vgl. a. a. p, SS. 133f., 142f.)。 今 この 特質から 穿鑿して みょう。 

現存 在が、 その 中に おいて、 このように 自己 (の 存在) を わかる ところの 存在と は (vgl- SS. 53, 143fO 可 化 ほ 

性の 領域で あり、 存在論 的な 表現で いえば 存在 可能の 領域であって、 それ は 上に 見た ように、 「ゆく 先き」 であ 

り、 「のた め」 であると ころの 領域で あるが、 実存と は、 勝義 において、 可能 的、 将来 的なる ものへ かけての 存 

在 領域、 存在 可能に 所在す るので ある。 即ち この わかる という こと、 了解と は、 根源 的 実存 論 的に いうと、 一 そ 

か. 常に 現存 在が 実存して いると ころの ある 存在 可能へ と投 企して いる 存在で ある」。 (出来る 或いは なれる 

という) ある 実存 的 可能性の 中へ と投 企して 自己 を わかる という ことに は、 常に 現存 在が そのような 可能性と し 

て 実存す ると ころの、 間断な き 可能性から、 自己の もとへ やって来る ものと しての 将来が 根本に 存す るので ある _ 

現存 在 は その 存在 可能の 中に、 それ を 了解す る ことにお いて 実存す るので あるが、 現存 在が そのよう に 実存す る 

こと を 存在論 的に 可能に する もの は、 将来で ある。 かくて、 現存 在が 存在す ると は、 それが 存在し 得る が 如くに 

第五 章 ハイデ ッガ ー における 実存の 可能性と 無 及び 死 一 一 一 



第五 章 ハイデ ッガ. I における 実存の 可能性と 無 及び 死 一 一二 

存在す るので あり、 そして それ は 了解 (わかる) という 在り方に おいて そのよう に 存在す るので ある (s.u.z.,s. 

336) 等と いわれる。 

このように 実存 範疇の 一 つで あると ころの 了解 は、 勝義 において 将来に もとづく ので あり (気分 性 は勝義 にお 

いて 既在 性に 関係す る) (S. 350)、 従って、 了解と いう ことにお いて、 その 存在 即ち 存在 可能の 中に 存在す ると 

レ うこと を、 本質的な 特質と すると ころの 実存 するとい うこと もまた、 勝義 において 将来 的 可能 的なる ものに お 

いて 実存す るので ある。 現存 在 は 本質的に (存在論 的な 時間の 意味に おける) 将来 的に その 存在の 中に おいて 存 

在す るので あり (vgl. S. 385:>、 「実存 性と いう ことの 勝義の 意味 は 将来に ある」。 けだし、 「.tir{w か^か かへの 

自己 投企は 将来に もとづく」 からで ある (S. 327)。 或いは また 実存す る こと は 次のと おりで ある ともいう。 即 

ち 「存在者の 只 中に おいて 自己が いる ことに 気分 づけら れ ながら、 存在者に 対して 関係す るので あり、 しかも 正 

しく、 このように 気分 づ けられた ところの 関係す る ことにお いて、 現存 在 自身の 存在 可能 を 事と する ので ある 一 

(w. d. Gr., S. 105)。 

このように、 ハイデ ッガ— の 実存と は 他の もの、 たとえば 神な ど を 要しないで、 それ 自身に よって 存在す る 実 

体で あるが、 その実 体 性 は 正しく 機能的 関係 的な 面に おいて みられて いるので ある。 (この 点で は 範疇 或いは 法則 

性 を も つ て 実体 性と なした カントの 所論と 連関が ある。 vgl. Fischer, A., Die Existenzphilosophie M. Hs., 1935, S. 

XIII, u. a. )。 ! あたかも この 点で はわれ われが シ H ラ— について 要求した 点が 開かれて いるので あって、 シ H 

ラ— のい う 現存 在の 領域で はなく、 相 存在 即ち 本質の 領域、 即ち 志向 的 作用に おける 本質 連関の 当の 場面 を、 存 



在 者の 領域と しての (シ ユラ ー 等の いう) 現存 在の 領域から は 仕切って、 この 本質の 領域、 本質 連関の 場面 を存 

在 論 的な 実存の 場面、 存在の 場面と する ので ある。 なお 現象学 的な かかる 観点から ハイデ ッガ ー の 存在の 問題 を 

呤じ 分ナ、 今 4;^ しょうと する ものと して フ イツ シャ ー を あげる ことができる (Z. B. a, a. 〇., S. 19f.) 

さて 関係 的 機能的に 成り立って いると ころの 現存 在の 存在の 場面が 実存と して 指摘せられ、 存在論の 領域と し 

て 確保せられ るので あるが (vgl. S. U. Z., S. 5f., ? a.)、 現存 在と は 正しく、 自己の 実存に おいて 自己の 実存 性 

即ち 自己が 存在す る その 当の 存在 構造 を わかる ことので きる 存在者で ある。 その いわゆる 前 存在論 的な 及び 存在 

論 的な 存在 了解が 存在論の 地 をな すので あり (く gl. P P 0. SS. 12f., 147, u. a.)、 そして 存在者の 存在 を 問題に 

する のが 存在論 的で、 存在に おける 存在者 を 問題に する のが 存在 的で あると 規定せられ るが (N. W. W. d. Gr., S. 

78)、 現存 在と は 自己の 実存に おいて 存在し、 存在論 的に 自己の 実存 を 了解し、 わかる ところの 存在者で ある。 

ここに、 ハイデ ッガ ー の 実存 規定の 特質と その 存在論 的 解釈の くり 展 げらるべき 基本的な 構造が ある。 そして、 

現存 在が その 中に おいて 自己の 存在 を もち、 その 中に おいて 自己 を (存在論 的に) わかる ところの 実存の 領域と 

は、 勝義 において 可能 的 将来 的なる もので あり、 先行 的に わかられ たこの 領域 は 時間 性の 統一 において、 現存 在 

の もとへ と 時 熟し 到来す るので ある。 

このように、 ハイデ ッガ ー のい う 実存に おいて は、 とくに 存在者の 存在の 関係 的 機能的な 面が とりたてて いわ 

れ ている という ことと、 それにお いて 現存 在が 存在し かつ 先行 的に わかって これに 関係 するとい うこと、 及び こ 

の 領域が 可能 的 将来 的なる もので あり、 存在 可能と しての 存在で あると いう こと 等が 指摘され 得る と考えられる 

第五 章 ハイデ ッガ ー における 実存の 可能性と 無 及び 死 一 一三 



第五 章 ハイデ ッガ— における 実存の 可能性と 無 及び 死 一 一四 

なお キ H ルケ ゴ ー ル においても、 個体の 現存 在 は 実存に おいて 見られる ので あり、 かつ 実存と はや はり 将来 的 

可能 的なる ものへ かけての 存在で あり、 ひたすら 前方へ と 将来 的に 向かう ことであった。 可能性に おいて あると 

ころの 自己へ と 空想的 反省 的に 先行し、 その 先行せられ たる 可能性の もとへ と 自己の 現実 を 運ぶ こと、 関心す る 

ことが 実存の 形式で あ つ た。 しかも そのような 実存の 当の 場面 は 過去の 時期に も 将来の 時期に も存 する ので はな 

い。 現前の 今の 一 瞬に、 三部 曲の 一 契機と しての 実存の 所在が あるので あった。 しかし、 現前 的な 今にお いて 可 

能 的なる ものが 謂わば どのように おさまる かとい う 問題 は 彼に おいて は 徹底し ない。 永遠なる ものとの 関係に お 

いて 現 成す る 「瞬間」 において 過、 現、 将の 三つの 時間 は 「時間 性」 において、 現在に 統一 せられる が、 そのよ 

うな 時間 性に おける 統一 と、 継続的な 時間 系列との 関係 は 謂わば 重複 的で、 徹底して 明らかにせられて はいない。 

ハイデ ッガ ー のよう な脱自 的な 時間 性 を 説かない からで あり、 「反復」 の 考え を 強調し、 時 熟と いうよう な 方向 

は 説いて はいる けれども、 確然と せられて いないから である (この 点に 関して、 ハイデ ッガ —からの 連関 は S. U. Z., 

SS. 338 Anm., 385f. 参照)。 

このような 可能 的 将来 的 領域に 存在す る 実存の 場面 は、 キエ ルケ ゴ ー ル においても、 個体が それにお いて 存在 

しつつ、 それ を わかる、 了解 するとい うこと が 要点と せられて いる。 即ち 可能 的 将来 的なる もの は 一般に 知に 相 

応 する 領域と せられる が、 とくに 自己の 成り 得る 又は 成るべき 可能 的 領域へ と 反省 的に 先行し、 そこへ と 自己の 

現実性 を 運ばん とする 関心 をす る こと をい う。 その 当の 機能的 関係 的な 場面が 実存の 領域で ある。 その 領域 は 謂 

わ ゆる 実存 的 思惟に おいて、 現実的で あ つ てし かも わかられ 知られて いると せられる ので ある。 



そのような 相応 点が ハイデ ッガ ー とキヱ ルケ ゴ ー ル とに は存す るので あるが、 しかも キエ ルケ ゴ ー ル にお レて 

よ、 上に あげたよ うな ハイデ ッガ ー の 謂わ ゆる 実存 性 即ち 個体の 存在の 存在 構造が、 存在論 的に 問題と せられる 

ことが きない。 自己の 存在 構造 を その 存在 するとお りの 当 相に おいて 顕露 せしめる (ハイデ ッガ— において、 存在論 

的に 虽調 せられる ところの 謂わ ゆる entMillen) という 操作 は 為されな いので あり、 「存在 的」 に 存在者、 即ち 永遠な 

る もの 等へ と 向かっての 態度 や 操作が 常に 問題と せられて いった。 この 点 は 構想 上の 根本的な 相違の 一 つで ある 

(この 点に つ 、 て ハイデ ッガ— はキ H ルケ ゴ ー ルに 言及して いる。 S. ? Z., S. 235 Anm. 参照)。 なお、 われわれ は 前に キ 

ヱ ルケ ゴ ー ルの 所論 を 本来 的 根源 的な 方向へ 向けて 解体す る ことによって、 先ず ここ を 目指した のであった。 

三 

、 丫 デッガ —において は 機能的 関係 的な 存在の 場面に おける 実存が 問題で あり、 その 裸 かの 事実 性が 問題で あ 

る。 現存 在が 実存に おいて 存在 するとい うこと は 見て 来たよう なわけ で 可能性の 領域に おいて 存在す るので あり、 

それ は 常に 未だ 済まぬ 領域、 「未だない」 という 領域に おいて 存在す る (く gl. S. P S. 236f.)o その 未だない 

という 領或 において 究極の、 いわば 一番 向こうの、 そして 他人と 代わり 得ぬ 「未だない」 もの は 各自の 死で ある 

(S. 242r f S. 250f.)。 そして その 死と は、 現存 在が 其処に おいて は 「最早 やない」 ところの もので あり、 

現存 在の 「終わり」 を 意味す る。 死にお いて 終わり を も つ 存在者 は 終わり ある 存在者、 有限なる 存在者で ある 

第五 章 ハイデ ッガ liil おける 実存の 可能性と 無 及び 死 一一 五 



第五 章 ハイデ ッガ— における 実存の 可能性と 無 及び 死 一 一六 

(vgl. S. 250f., wtrs. 306. u.1a.)。 

しかし ハイデ ッ ガ ー の 有限 性 はか かる 有限 的な 存在者の もとにお いて 説かれて いるので はない。 かかる 終わり 

ある 有限な 存在者の 終わり ある 存在の 場面が 問題な ので ある。 そのような 終わり ある 存在者の 終わり ある 存在の 

当の 場面に ついて 有限 性 を 説く ので ある。 

現存 在の 存在の 場面に とって は、 死 そのもの は 何時でも 存在 しないの であって、 その 存在の 場面に おいて は 常 

に 「最早 やない」 ので あると ころの ものが、 「未だない」 ので あると いう 在り方 をして いるので ある。 死が 現存 

在の 終わりで あると いう こと は 実存 論 的に いえば 「終わりへの 存在」、 「死への 存在」 であり、 要点 は 常に 存在で 

あり 存在 可能であって、 死への という 存在ぶ り、 存在 可能ぶ りに おいて あるので ある (SS. 250, 258f.)。 人間に 

と つ て 可能 的なる もの 或いは 事柄と しての 死が 問題になる ので はない。 関係 的 機能的な 当の 存在の 場面 を 性格 づ 

けて いる はたらき において 問題な ので ある。 (死) へと 向かって 常に 存在して いると ころの 存在、 (終わり) へ 

と 向かって 常に 存在して いると ころの 存在 即ち (死) への 存在 可能の 場面が 要処 である。 

ところで 現存 在 は その 存在の 場面 を 可能性の 領域に もち、 現存 在の 存在と は 存在 可能に おいて ある。 死への 存 

在、 死へ の 存在 可能と いうと き、 その 死と は 可能 的 死で あ つ て、 その 可能 的なる 所以に おいて 正しく 現存 在の 当の 

存在 乃至 存在 可能に 喰い こんで 来て いるので ある (この 関係 は 先駆 的 決意 性に おける 死の 時 熟に おいて 最も 明ら 

かで ある) (bsdrs. S. 329r wtrs.siehe unten.)。 即ち 死 は (可能性の 領域に おいて その 存在 を もっと ころの) 現存 在 

の 存在に おける、 先ず もって 一 つの 可能性、 現存 在が 常に 自分で 引き受けなければ ならぬ Seinsm6glichkeit で 



ある (ss. 261, 250)。 しかも 絶対的に 最早 や 現存 在す る ことの 出来ぬ 可能性、 実存の 「不」 可能性の 最も 顕著な 

可能性で ある (SS. 25P 306, 329)。 或いは 可能性の 中の 一 番 向こうの、 究極の 可能性 (SS. 261,266, 303, u. a.) と 

いわれ、 死が 現存 在の 存在 領域 即ち 「世界 内 存在」 における 存在 可能の 最後の 法廷で あると もい われる ので ある 

(S. 313)。 即ち 死 は 人間の 現存 在の 存在 を 領有す る 究極の もの 最後の ものであると みられる。 

、 、 でんれ, H 現存 在 は、 死 を、 そこに 立ち 到る ことによって 自己の 現存 在が 熄 まると ころの 「終わり」 として 

もつ ので はない。 常に 現前 現実の 存在の 当処 において い.^.^ ような 即ち 「有限 的」 な 存在 構造に おいて 実存 

する ので あり、 それが^ J か の 所以で ある。 現存 在の 当の 存在の 各 齣が 常に 間断な き 死への 存在と して 「有 

„ なので ある (bsdrs. S. 329, wtrs. vgl. I^antbuch, SS. 219, 232) 

これが 死の 実存 論 的な 性格で あり、 存在者で はなく 存在の 機能的な 構造に ついてい われる 「実存」 の 有限 性と 

死との 関係で ある。 換言すれば 現存 在の 現前 現実の 在りの ままなる 存在の 当処 が、 Zu-Ende-sein, zu-Ende-sein- 

k6nnen なる 存在論 的 特質 を もつ 所以が、 実は ハイデ ッガ ー において は、 死ぬ ものなる 人間の、 その 死の 実存 論 

勺. よ 在り方 こ. かけられ るので ある (S. 237, wtrs. siehe unten.) 

なお 死 はこの ように 現存 在の 存在 領域に おける 可能性 中の 最 究極の、 オイ セル ステな 可能性で あると ともに、 

また 現存 在に とって は 最も 固有の、 かけがえの 出来ぬ 可能性で ある (S. 263, U. a.)o 現存 在の 領域、 即ち 実存の 

領 或が 可能性に おいてあるなら ば、 現存 在の 存在と はか かる 究極 的な、 そして 最 固有な 可能性に おいて 存在し、 

存在 可能 を もつ こと を 「本来 的」 「全体 的」 な 存在の あり方と する 箸で ある (この 点に おける 問題 的な 連関 は、 SS. 

第五 章 ハイデ ッガ ー における 実存の 可能性と 無 及び 死 一一 七 



第五 章 ハイデ ッガ— における 実存の 可能性と 無 及び 死 一 一八 

233, 267, 301r 329, u. a. 及び 後掲 参照)。 「我 在り」 という、 その 存在の 究極の かつ 最 奥の 「本来 性」、 即ち 自己に 

のみ 固有な 存在のと おりに 存在す る こと (vgl. S. 42-43) と は、 かかる 死への 存在、 死への 存在 可能と いう こと を 

わかり、 事 証す る ことに 外なら ない。 それが 実存 論 的な 「先駆」 へと 実存 的に 「決意」 し 事 証す ると ころの 「先 

駆 的 決意 性」 である (vgl. S. 305f.)。 『存在と 時間』 第二 部の 問題 は 実に 死への 存在、 死への 存在 可能に おける、 

現存 在の 存在の 全体 的 (Kap. I) 本来 的 (Kap. 11) な 存在 様相 を、 実存 論 的な 先駆 性と 実存 的な 決意 性と におい 

て 明らかにし、 事 証して、 そこにお いて、 現存 在の 「根源 的」 な 存在の 意味が 時間 性の 統一 において ある こと を 

解釈 (Interpretation) する ので ある。 

四 

「無」 (Nichts) と は 差し あたり 「何もない こと」 であり、 命題 的、 事柄 的に は r でない」 (nicht, Nichtheit) と 

いう ことになる (vgL Z. B. SS. 186f., 283r u. p)。 

しかし 今 は それ 自身と しての 「無」 や 「でない」 ことが 問題な ので はない。 否、 勝義 について いえば、 それ 自 

身と しての 「無」 や 「 …… でない」 こと もまた 存在論 的な 存在の 場面 即ち 現存 在の 存在の 場面 を 経て こそ 問題に 

なり 得る ので ある (S. 286, Metaph., SS. 14r 16f.)。 そして 今 は 正しく 現存 在の 存在に おける 「無」 や 「 …… でな 

い」 こと、 即ち 存在論 的な 「無」 が 問題な ので ある。 



見て 来たよう に、 現存 在 は勝義 において その 存在の 場面 を 可能 的 将来 的な 領域 にもつの である。 従って 「無」 

の 存在論 的 究明 もまた 勝義 において はこの 可能性の 領域に おいて 問題と せられなければ ならない し、 またせられ 

ている。 そして、 それが 無の 最も 究極 的な 究明で ある。 

叩ち 現存 在と して 存在し 実存す るかぎ りの 人間に とって は、 その 存在 や 実存の 場面で あると ころの、 この 可能 

性の 領域 は 無限に 可能な ので はなく、 制約が ある。 その 領域 は 不可 規定 的で あり、 かつ あれで あれば これでない 

という 可能性ぶ りに おいて あるので ある (bsdrs. S. U. Z., SS. 308, 285f.)。 現存 在の 存在の 場面、 実存の 場面に 

おいて、 この 不可と いい、 でない という 在り方 をし、 機能 をな し 所作 をな すかぎ りの もの こそが、 「無」 である" 

即ち 存在論 的に は そのもの としての 無が 問題で はない。 また 問題に もで きないの であって (Metaph., S. 14)、 第 

一義的に は、 現存 在の 存在 を 無 さに おいて、 とくに 空し さに おいて 遮 絶し 否定し、 ニヒ テンす るかぎ りの 無力 問 

^となる ので ある。 そして 可能 的なる もの は 右の ような 性格に おいて 無で あり、 現存 在の 存在 は 可能性に おいて 

ある。 可能性に おいて あると は 従って 無の 領域に おいて ある ことに 外なら ない。 現存 在が その 存在 を 無の 領域に 

おいて もっとい うこと は 勿論 何もない という ことで はない。 その 存在 を 無 さ 空し さとい う 無の はたらき、 所作に 

よって 規定せられ、 染め出され ている という ことで ある。 かつ 現存 在の 存在 領域 を 領有す る 可能性と は、 その 可 

化 i:^ という ことにお いて 無な ので あり、 その かぎりに おいて 現存 在の 存在 を 無 さ 空し さに おいて 規定し 所作し、 

ニヒ テンして いるので あって、 何等 可能 的な 存在者 等の 内実に はか かわりな いこと である (vgl. S. 284, U. a.)0 

従って、 現存 在が 存在し 実存 するとい うこと は、 謂わば その 形式的な 存在 構造、 実存 構造に おいて、 無 さ 空し 

第五 章 ハイデ ッガ— における 実存の 可能性と 無 及び 死 一 一九 



第五 章 ハイデ ッガ— における 実存の 可能性と 無 及び 死 一二 〇 

さに おいて あり、 可能 的 無の 遮 絶 即ち ニヒ トウ ング において あるので ある。 実存す る 人間が 可能性の 領域に おい 

て その 存在 を もっとい う、 その 先天性に おいて、 ニヒテ イツ ヒ であり 空し さに おいて ある。 次に ふれる ような 不 

安の wcvor が 無と いわれ (S. 286r Metaplr SS. 16f., 18, u. a.)、 或いは 現存 在の Worin, Woraufhin, 

Worumwillen なる 世界の 無が 説かれる の も (vgl. S. u. Z., SS. 187, 276f., 343, u. a.)、 すべ て その 勝義に つ い 

ていえば、 現存 在に とって、 可能 的なる もの は 右の ような 無に おいて あり、 現存 在 は その 存在 を 可能性の 領域に 

おいても つので あるから、 その 存在の 当処 において 無の はたらき 或いは 機能に おいて 空しく せられ、 その 存在 を 

空し さに おいても つからで あり、 また、 もつ こと をい うので ある。 「負 目」 の 問題の ごとき も、 現存 在の 存在が 

空し さに おいて あると ころの 構造 を 明らかにする ものであるが、 その 負 目 ある 所以 もまた やはり 現存 在が 可能 的 

将来 的な 存在の 領域に おいて、 無に よる 空し さに おいて 存在 するとい うこと を勝義 とする ので ある (bsdrs. vgl. S. 

306, wtrs. siehe unteFL)。 

このように 実存す る 現存 在に とって、 可能 的なる もの は 無に おいて あり、 その 無と は 存在論 的に は 存在者の も 

とに おいてで はなく、 超越 的な 存在の 領域に おいての み 問題と なる ので あ つ て、 存在者に かかわる の ではない 

(vgl bsdrs. Metapr SS. 25-26)。 なお、 存在 は 無で ある ともいうが (vgl. Kantbuch, SS. 217, 114)、 右の こと は 次 

のように もい い 得よう。 即ち 存在者 を 全体として 超えて いると ころの 存在の 領域が 無の 所在の 領域で あるが、 そ 

の 領域に おいて、 存在者の 全体 を その 領域から 遮 絶し、 否定し 拒否して、 存在者 をして、 そのもの として は 自己 

の 領域に、 即ち 存在の 領域、 無の 領域に、 かかわら しめない ので ある (Metaph., S. 19f.)。 



かくて 存在者の 存在の 領域 即ち 現存 在の 存在の 領域に おいて、 無 は その 存在者の 存在 を、 機能的に、 とくに 全 

体と しての 空し さに おいて 規定す るので ある。 無の 本質 は ニヒ トゥン グ にある というの が 無の 存在論 的な 性格で 

ある (a. a. p, S. 19)。 

さて 死と は 如何であろう か。 死の 無なる 所以 もまた、 存在論 的に は、 何にもまして 先ず それが 現存 在の 存在の 

領域 を 領有す る 可能性の 領域に おいて あり、 存在 可能で あるから である。 

ハイデ ッガ ー 自身 もまた 死 を 先ず 第一 に 可能性と して 規定し、 その 存在論 的 構造 を 明らかにする。 即ち 現存 在 

にと つて 死 そのものが 問題で はなく、 死への 存在、 死への 存在 可能と いう 現存 在の 存在 場面に おいて 問題と なつ 

ている。 そしてと くに 死への 可能性に おいて ある こと、 即ち 常に 既に 死が あり 得る という 在り方に おいて ある こ 

とが、 現存 在に とって 一番 究極 的な そして 最 固有の 代換し 得ざる 可能性で あると みられる。 死が 存在 可能の 最高 

法廷で あると もい われる。 

現存 在の 存在が、 「への 可能 的 存在」 として みられる とき、 厳密な 意味に おいて 存在論 的で ある。 従って 「死 

への 可能 的 存在」 という こと も、 「への 可能 的 存在」 の 一 つで あると みられる とき 問題 はない が、 とくに 死への 

存在が 究極 的な 存在 可能で あり、 最 固有の 存在 可能で あると して、 存在論 的に 描き出される という こと は、 厳密 

な 意味で は 存在論 的な 範囲 を 超えた もので はなかろう か。 

とくに 「現存 在の 絶対的な 空し さ」 の 所以が 存在論 的に 叙べ られる 場合に、 「実存 的に は 死 を われわれ は 実存 

の 1^ 可能性の 顕著なる 可能性と して 考える」 (S- ? SS. 306, 266, 329) というの はどうい うわけ であろう か „ 

第五 章 ハイデ ッガ ー における 実存の 可能性と 無 及び 死 一二 一 



第五 章 ハイデ ッガ ー における 実存の 可能性と 無 及び 死 一二 二 

実存の 不可能 性と は、 正しく 「最早 や 現存 在す る ことが 出来ない」 (S. 250) こと を 指す ので ある。 「最早 や 現存 

在す る ことが 出来ない」 という 実存の 「不可能 性」 という こと は、 正に 死の 事柄 をい うのであって、 「への 可能 

的 存在」 という 存在論 的 領域に おける もので はなく して、 存在者に 関係す る こと を その 特質と すると ころの 存在 

的 領域に おける 問題で ある。 

も つ とも、 それらの 存在に おける 存在者と、 その 存在者の 存在と は、 存在 的と 存在論 的と いう 謂わ ゆる 「存在論 

的 区別」 はあって も、 本質的な 連関 は あるので あり (Z. B. vgl. W. d. Gr., S. 78)、 とくに 現存 在の 実存 論 的 分析 

という 課題に とって、 現存 在の 存在 的 構造の 中には 既に 予め その 恰好が つけられて いるので あり (s.u.z.,s. 12- 

13)、 実存 論 的 解釈 は 予め もたれる ところの 実存の 理念から 導かれなければ ならない ので ある (SS. 302, 310, 13)。 

その 実存の 理念と は、 ハイデ ッガ ー において は、 人間と は 何にも 増して 先ず 死ぬ ものである という ことで ある。 

そして そのような 理念 を 最後まで 考え抜こう とすると ころに、 上の ような 現存 在の 存在 構造の 実存 論 的 解釈が 出 

て 来る ので ある (Ebd: Ebd.)。 従 つ て そこにお いて は 存在論 的なる ものの 中に 存在 的なる ものが 入 つ て 来て いる 

ので ある。 (なお 存在 的なる ものと 存在論 的なる ものとの 呼応と いう こと は 彼の 存在論の 全般 を 支配す るので あ 

る。 それに ついては 先駆と 決意との 関係 等 参照)。 

従って その 実存の 理念に おいて、 死ぬ ものと しての 人間 は、 終わり を もつ ものである。 Ende ある 人間 は en- 

dlich であり、 即ち 人間の 存在と は 終わりへの 存在で あり、 その 存在の 当処 において、 存在論 的なる 終わり ある 

あり方に おける 存在 可能が 究められ るので ある (s.259f.)。 詳しくい えば 現存 在 は 死ぬ ものな ので、 自己の 「終わ 



りへと向かって^^^^」 ので ある。 その 居り 方、 在り方が 実存 論 的に は 「終わりへの 存在」 であり (SS. 305, bzw. 245)、 

現前、 現実の 存在の 当処 において、 自己の 「終わりから 規定せられ」 た 存在 構造 即ち etKmnh な 存在、 endlich 

な 存在 可能に おいて あるので ある (vgl. S. 264)。 そして このような 実存の 理念に おいても たれた 死ぬ ものなる 人 

間の 存在に ついて、 「現存 在の 可能性の 性格 は 死にお いて 最も 銳く顕 露に せられる」 ので あるから、 「実存 論 的な 

問題 性 は ひたすらに 現存 在の 終わりへ の 存在の 存在論 的 構造 を 明らかにする こと を 志す ものである」 (S. 248-249) 

という。 

五 

ここまで 索め て 来て みても、 われわれの 提示した 問題 は 解決して はいない。 即ち 現存 在の 存在が 存在論 的に 究め 

られ ると き、 存在者に 関係す る こと を その 特質と すると ころの 存在 的なる ものが 組み こまれて いる。 それ 力 存在 

論^ ゆ 九月 こま 本質的で あると せられる の は 先ずよ いであろう。 Sidi-vorweg-schon-sein-m (der-welt-) als し eln- 

bei (innerweltlich begegnendem seiendenxs. 192f.) と 規定せられ るかぎ りに おいて 正当で ある。 現存 在の 存 

在が 「への 存在」 であると いわれる かぎり 納得で きる ので あるが、 存在の 存在論 的 究明が、 とくに 特定の 存在者 

「への 存在」 に 支配せられ、 しかも、 その 存在が 有限なる 存在で あると いう 所以が、 とくに 存在 的なる 死 即ち 実 

存の 不可能 性と いい、 最早 や 現存 在す る ことが 出来ない という 存在 的 事情に ある 存在者た る 死 (という もの) 或 

第五 章 ハイデ ッガ ー における 実存の 可能性と 無 及び 死 一 二三 



第五 章 ハイデ ッガ— における 実存の 可能性と 無 及び 死 一二 四 

いは 終わりから 専ら 規定せられ、 それ こそ 謂わ ゆる 「根源 的」 な 支配 を 受けて いる 点に、 さらに 吟味せられ るべ 

き 余地が 充分に 存 すると 考えられる。 

もっとも 存在論 的な 特質の 究明に おいて は、 死 もまた その 形式 性に おいて みられる ので あり、 その内 実は 抜か 

れて 空虚 化せられる とはいう が (vgl. S. 248)、 その 空虚 化せられた 死と は、 やはり 最早 や 現存 在 しないと か、 実 

存の 不可能と かいった 性格 を 残して いる。 強いてい えば、 その 形式 化 空虚 化が さらに 徹底 せられて、 死への 可能 

性と いう ことが、 現存 在に とって、 究極で 最 固有と いう 存在 的 事情 を も はなれ、 ひたすら、 一 つの 可能性と して 

規定せられ るなら ば、 「への 存在」、 「への 存在 可能」 という 存在論 的 形式が 徹底す るので ある。 

そのよう に 考えられ ると 現存 在の 存在の 有限 性 は どこから 導かれる かとい うこと が 問題になる かも 知れない。 

しかし、 存在 的な 終わりと しての 死から、 存在論 的な 存在の 領域に かけて 有限 性 を 導き こまな くと も、 現存 在 は 

存在の 領域 を 可能性の 領域に おいても つので あり、 その 可能 的なる ものの 領域が すべても つと ころの、 現存 在に 

? P の 無なる 在り方に おいて、 現存 在の 存在 は 無限で ない ので ある。 現存 在 は その 存在の 当の 場面 を、 すべて 

全体に 可能性に おいても つので あり、 すべて 可能 的なる もの は 現存 在に とって 無に おいて あるから、 現存 在 は そ 

の 存在の 当処 において 無からの 存在で あり、 無への 存在で あり、 とくに 空し さに おいて 規定せられ、 染め出され 

て あると ころの 空しき 存在と して 存在す るので ある。 

このように 考える ことによって、 現存 在の 存在に 関する 存在論 的 究明に おいて、 ハイデ ッガ ー がな したよう な 

特定の 存在 的なる ものの 存在論へ の 介入 を 避ける ことができる。 ここから ハ イデ ッ ガ ー の 所論 を 見返すならば、 



彼の 存在論 的な 所論に おける 中心部 をな す 現存 在の 存在の 有限 性の 叙述 は、 存在論の 建前から 当然に 要求せられ 

ると ころの、 当の 存在の 場面 を その i 化 tir ^li 性に おいて 見尽くす という ことが 徹底して いないと 考えられる 

ので ある。 機能 性 関係 性の 範囲で、 有限 性の 本質 を 描き出す ことが 不充分で あると 思われる。 

しかし 皮に おいても、 存在論 的に、 現存 在の 存在の 領域 を 現存 在に とっての 可能性の 領域に おいて 問題と すべ 

きこと が 充分に 主張せられ、 そこにお ける 存在の 空し さが 強調せられ ている ので ある。 存在論 的に は 「それから」 

の それ も、 「それへまで」 の それ も 問題で はなく、 いわば それから それへ までの 間の GaB-sein 、「である こと」、 

「が ある こと」 (SS. 5, 7., U. a しが 問題な のであった。 それ にもかかわらず、 かかる 存在論 的 領域 を 越えて 特定な 

存在 的なる もの をして 存在論の 領域に 介入せ しめ、 かつ その 領域に おいて 支配的た らしめ るの は 何故か。 存在論 

リな 先駆 も、 その 先駆 を 目途と して、 その 先駆の 行った 先き へと 自ら 居り 自ら 証 せんとす ると ころの 決意 性 も、 

(ある 可能 的なる 存在者に 向かえる) 現存 在の 「への 存在」 に はか けられず、 「実存 論 的な 問題 性 は ひたすらに 現 

存在の 終わり? か 存在の 存在 構造 を 明らかにする」 (S. 248-249) といい、 「への」 がゲ シュぺ ルト にされ る けれど 

も、 それは定めて^-へ のでぁり、 i,^ いへの であって、 その他の 存在者への ではない。 「全体 性」 も 「本来 性」 も 

すく C 死 を 目指しての、 いわば 幅で あり 奥で ある。 そのような、 最 固有で あり、 一番 向こうの 可能性で あっても、 

特定の 存在 的なる ものに のみ 向かって、 考え 尽くさん とし、 「終わりへまで 考えよう」 とする (SS. 302, 305) 実 

存論的 態度 を 固執す る 所以 は、 その 存在論 的 方法が 要求す る 必至な ので はなく して、 ハイデ ッガ ー 自身 もい うが 

ごとく、 実に 専ら 予め 把持 せられる 実存の 理念に 因由す る ことで ある (bsdrs. SS. 302, 310)。 

第五 章 ハイデ ッガ ー における 実存の 可能性と 無 及び 死 一二 五 



第五 章 ハイデ ッガ— における 実存の 可能性と 無 及び 死 一二 六 

ここに 至って われわれの 提示した 問題 は 解答 を 得る。 即ち 現存 在の 存在が 空し さに おいて 規定せられ、 染め出 

されて いる 所以 は、 とくに その 存在の 領域が 可能性の 領域に わたって いるからで、 可能 的なる もの は 現存 在に と 

つて は 無で あり、 無の 所作 をな す。 死 もまた 存在論 的な 範囲で いえば 可能 的な 領域に おいて、 現存 在の 存在の 当 

処に 喰い 入って いるかぎ りに おいて 無で あり、 無の 所作 をな し、 現存 在の 存在 を 空し さに おいて 規定し、 染め出 

す もので は ある。 

しかし、 とくに 死が 現存 在の 絶対的な 空し さとい われ、 現存 在の 存在 を 主宰し 尽くす 空し さとい われる 所以が- 

現存 在が 最早 や 実存す る ことの 出来ぬ ところの 死、 実存の 不可能 性と しての 死、 即ち 存在 的な そのもの としての 

死なる ものの もつ 性格に 帰せられ、 或いは かかる 存在 的なる もの をして 存在論の 領域に 介入せ しめて 支配的たら 

しめる という ことに あるならば (bsdrs. S. 306)、 存在論 的に は 越境で あり、 かつ 存在論 的な 範囲に おいて は不徹 

底で ある。 

ハイデ ッガ— が 存在論 的な 領域 を 自ら 確保し 強調しつつ、 しかも かかる 事態に 敢えて 立ち 到る 所以 は、 実存の 

理念の 然 らしめ るに よるので ある。 方法論 的な 問題 はこ こで は 遂に 各自の 予め 把握す る 所存 所懐の 問題に 転じて 

来たので ある。 方法論 的な 不徹底 は、 その 由 ある 所以 を 実存の 理念に もとづけ て 来たので ある。 そして その 実存 

の 理念に おいて、 死 は 最後 法廷で あると 考えられる。 すべての 他の、 人の 人た る 所以の 所懐 や 考え方 はこの 裁き 

(3) 

の 庭に おいて その 影 を 没し、 死ぬ 者なる 人間と いう 理念の もと へ と 約せられ るので ある。 

なお 現存 在の 存在の 場面と して、 世界の 無なる 所以 も それが 可能性の 領域に おいて あるから である。 そのこと 



は 左 註の 引用 箇処 において 明らかで あるが、 存在の 無なる 所以が、 とくに 可能性の 領域に おける 機能 性、 関係 性 

において 明らかにせられ ている という 点で は 左 註の 引用 箇処 では 充分で はない。 その 点 はとく に 現存 在の 存在が 

「投げ出されて 向かって ある」 という geworfener Entwurf の 構造に おいて 「負 目 ある 存在」 であると いう 所以 

こお 、, て 明らかにせられ ている。 「負 目 ある」 という こと は、 現存 在の 存在が 「空し さ」 において ある ことで あ 

り、 無の 所作に おいて ある ことで あるが、 そのこと もまた その 勝義 において は、 やはり 可能性の 領域に 存 する 在 

り 方で ある (bsclrs. vgL S. u. Z., SS. 305f., 281ff., bzw. Metaph., S. 19, :Kantbuch, S. 228)。 

(1) 存在者と しての 現存 在が 対象と しての 存在者と 関係す る、 即ち 存在者の もとへ 行って 受容す るに は、 かかる 超越 的 地 

平が 形 せられて あらねば ならぬ ので ある ともいう (vgl- ヌ antbuch, SS. 23, 65r 71, 84r 112.)。 その 地平 は 『カント 

と 形而上学』 におけるが ごとく、 対象 認識ので きる 地平で あると ともに、 現存 在が 存在者に 関係し 交渉し 得る あらゆる 場 

合の ための 地平で ある。 

「世界」 は 存在の 存在、 従って 存在 可能に 相応す るので あるが (S- SS. 84, 194.)、 その 存在 或いは 存在 可能の 中 

こお 、二し、 即ち 世界の 中に お いて、 現存 在 は sich-vorweg-schon-sein-in-(der-welt-) als Sein-bei (innerweltlich begeg- 

nendem seienden) という 形式的 実存 論 的な 在り方 を もつ (S. C. SS. 192, 193f.)。 即ち 先駆 は 超越に おいて、 世界 内 

存在で あり、 或いは 世界 を 形成して、 そこにお いて 存在者と 関係す るので ある (なお かかる 世界の 時間 性の 在り方に っレ 

て は S. U. Z., S. 365f. 参照)。 

(2) i.; と は 命題 的、 事柄 的な r …… でない」 こと、 及び あれ や これ やの 場合 ごとの 「 …… でない」 こと、 Nichtheit を 

旨し、 をい;;. と は 現存 在の 存在が 全体として 無に よって 所作せられ、 染め出され ている ことの 存在論 的な 在り方 (Nichten 

des Nichts) を 意味す る。 また 不安の 出来事に おいて 顕露 にせられる (enthlmen) 現存 在の 存在の 在り方で ある (vgl. 0. 

U. 7 SS. 285, 283f., Was ist d. Metaphysik (zit : Metaph.)、 SS. 14r 16f., ICantbuch, SS. 67, 228, u. f W. d. s., 

S. 108f.)o 

第五 章 ハイデ ッガ— における 実存の 可能性と 無 及び 死 一二 七 



第五 章 ハイデ ッガ ー における 実存の 可能性と 無 及び 死 一 二八 

(3) 上掲の 外、 世界の 無に ついては S. U. Z., SS. 276r 187, 343, u. a.。 存在の 無に ついては z. R Metaph., ss, 12, 

20, 26, :Kantbuch, SS. 217, 114, u. a.o 死の 無に つ いて は bsdrs. S. u. Z., SS. 306, 308, 329, u. a. 

引用 書中、 S. u. Z. は Sein unci Zeit, 4 Aufl., 1935, W. d. 〇r. は Vom Wesen des oruncles, Sonderclruck aus 

<i ひ r Festschrift ftir E. Husserl, 2 Aufl., 1931, Kanttmch は R^ant unci das p-rot>lem cler Metaphysi に, 1929, Metaph. 

は Was ist Metaphysik ?, 1930. 等で ある。 

附記 この 篇は 昭和 十七 年に まとめて タイプに 附 した 『宗教の 根拠に 関する 研究』 中の 一部から、 二三の 箇所 を 抜きと つ 

たもので、 前後の 関係 や 中途の 連絡に も 充分で ない 点が あるが、 実存の 領域 を 支配せ る 可能性の 性格と、 とくに 可能 的 死と 

の 間に 横たわる 問題 性 を 吟味しょう とした ものである。 



第 六 章 神と 実存との 間 一 三 〇 

して、 どのような 推移と 転回 をな し、 また 要求せられ ている か、 或いは その 限界 はどう かとい うこと が 索め られ 

るので あり、 一 方 その 宗教 的な ものの はたらく 領域に つ いても 正しい 吟味が 出来る ので あろうと 思われる。 

それで、 ここで は 成立 的な ものの 推移と 転回と において、 これらの 問題が どのように 開示され て 来た かとい う 

こと をみ てみ る。 まず キリスト教の 既成 的 理念が 外部の 世界 世間に たいする 関係 をみ よう。 



異教に たいして その 精神 性の 高さ を 誇った 「西洋」 の 自覚 は 勿論で あるが、 近世 的 世界の 普遍的 主体と しての 

r ョ— ロッ パ」 或いは 彼等の 謂わ ゆる r ゥヱル ト • オイ 口 — パ」 もまた その 普遍的な 理念の 根拠 を キリスト教に 求 

めて いる。 近世に おいても キリスト教の 神 は 歴史 や 人間の 考え方に その Theokratie の迹 を、 違った 意味に おい 

て は 残して いる。 近世 的な 普遍的 性格に おいて 世界史 を 把握した の はへ— ゲルで あつたが、 その 精神と いい 自由 

というの は キリスト教 的 性格に おいてい われる ので あ つ て、 人類の 進歩が ギリシア 的な もの を そのうちに 止揚し 

た キリスト教 的、 とくに 宗教改革 的な 精神の 自由、 意識の 内面的な 自由 を 目指して 進む と みられ、 普遍的な 神の 

計画 を 人間の 意識に おいて 想起し 内在 化し、 また これ を 客観 化する 過程に おいて、 理念の 自覚の 三位一体が 完成 

せられる ことが 歴史の 本質で あると せられる のであって、 その内なる 完成 者が 初めて キリスト であり、 その 普遍 

的な 実現と 完結と が、 宗教改革と フランス 革命 を もつ 近世に おいてな される と みられた のであった (vgl. Philo- 



Sophie d Geschichte, Jubil. Ausg., (XI), Einleitung, SS. 410r 415r ij Vernunft in cL Geschichte, SS. 15, 3P 

51f., Encyclopidie (Lassonische u. Jubil. (VIIIlx, System d. philosophie) Ausg., § 482, § 552.) 

、nT^ こついても 同じような 考え方で あるが、 もっとも その Theokratie は 中世の それの ごとくで はない。 中世 

まで 神 自身に よって 保証 せられた 神の 存在 や はたらき は、 近世に おいて は 人間に よって 保証され る。 しかし その 

保証と ともに 神 は 人間性の 裡に とり 入れられた のであった。 そして 人間性と 神性と は 人間の 側に おいて 一 つと な 

つたので ある。 即ち 人間の 本質、 自己の 真理 は 「精神」 にあり (EncycL, § 377, (X), PhiL d. Geschichte, (XI), 

SS. 410, 427, F a.)、 その 自由へ までの 顕現に あるので あるが、 神の 神た る 所以 もまた 精神に ある (そのこと は 

キリスト教 こよつ てはじめて 知らされた (EncycL, § 384, § 482; Phil. d. Geschichte, (XI), SS. 410ff., 415. )0 し 

かも 神 は 自己 を 知る かぎりに おいて 神な ので あるが、 それ は 人間に 拠って 自己 を 知る 外 はなく、 神 は 人間の 本質 

の 実現 を ま つ て 自己 を開顕 する ことになるので、 今日に おいて、 神 は (人間の) 主観の 側に 住む ともいう (Encycl., 

W ひ 6丄 § ひひ, § ^70, wtrs. Das rdi^i ひ s ひ Verti ら tnis : in, RdiTOionspMlosoplll ひ, (x\0)。 

ところが 神の 神た る 所以が 人の 人た ると ころに ある (XVI, S. 181) という こと は、 精神 を その 本性と して、 人 

間 は 神で あると いう ことで ある。 人間が 人間と して、 その 普遍的 本質に おいて 神なる 所以 を 初めて キリスト教が 

教え、 キリストが 証した ので あつたが (Encycl., § 384, § 482, Phil d. G. (xp SS. 416, 45; Vernunft in d. 

Geschichte, S. 39f.)、 しかし かかる 人間の 本質 即ち 精神が その 許に 拠自 的に 在る ところの 本質に おいて は、 特殊 

な経驗 的な 自然 性 は 否定され るので あって (XI, SS. 416, 423)、 転輾 生死の 間に 現存す る 人間が 顧慮され るので 

第六嚤 神と 実存との ニー 二 



第 六 章 神と 実存との 間 一 三 二 

はない (vgl. Encycl., §§ 221—2, §§ 375—6, auch Zusatz in VIP Bo それ は 各自の 個別 的 外部 的な 事情 や、 特 

殊な 家門 や 祖国に 属する こと を も 否定せられ ると ころの、 実に 無限 性に おいて ある 普遍的 人間な ので ある (XJ, 

SS. 410, 427r Encycl. (vm), § 163)。 従って かかる 人間の 本質、 精神が 地上に おいて 開 敷せられ るた めに は、 

謂わ ゆる 人間的な ものの 一 切 は、 キリストの 教 説に 示される ように、 戦い を 挑まれる ので ある (XI, S. 419, wtrs. 

vgl. ReHgionsphilosophie, (XVI), S. 289f.)。 

しかし かかる 人間と は キリスト を 他に して は 一体 誰で あるか (キリストの キリスト たる 所以 もまた、 それ は 信 

仰に とっての、 教会に とっての ところに あるので あるが (vgL ReHgionsphilosophie, (XVI), SS. 222, 286ff. ; Phil. 

d G., (XI), S. 420f.)。 人の 知と 神の 知との 交響 をい うが、 それ は いわゆる 人間の 理性に よる 知ではなくて、 ま 

ことに 人間の 裡 なる 神の 精神に よる ものである (ReHgionsphilosophie, (XVP SS. 496, 398)。 そこへまで 達する 

ことが 宗教の 課題で も あるが (Ebd., SS. 369, 392)、 それ は 個体 主体の 修道に まつと いうより は 歴史の 課題で あ 

つた。 キリストの 原理 を 開 敷し、 精神が 精神 を 知る ことが 世界史の 目途で あり (Phil. d. G., (XI) S. 420; ver- 

nunft incL Geschichte, S. 51)、 その 完成が 近世に あると い つた。 宗教改革 において キリストの 精神が 人間の 精神 

に 直接に 遍満 し、 人間 は 精神に よ つ て 充足 せられる (XI, S. 523f.) とする へ —ゲルに と つ て、 近世 的 人間 は 実に 

そのような 本質に おいて、 個別的に もあった のであろう か。 否。 

一 体 近世 ョ— 口 ッ パ の 精神と は、 その 現実の 地盤に おいて ギリシア 的な ものと キリスト教 的な ものとの 綜合に 

なるとい われる が、 それが いわゆる キリスト教 的 人道主義の 理念で ある。 この 人道主義の 特質 は、 その いわゆる 



人間性に おいて 神 や 自然 を も その 本質の うちにい わば 等質 化し、 人間の 力の 絶対 を 信じ、 理性と 道具 を 使う 人間 

の 能り の 発 によって、 人間の 力 だけで 世界と 人生 を 完成す ると 考える ところに ある。 もちろん ある 時 ある 場所 

において は 個人 も 多数 も 不完全で あろうが、 藉 すに 時と 広さ を もってすれば 人間が 人間と して 考え 得る かぎりの 

もの (それが 完全 性の 範疇で あるが) になり 得る、 進歩 するとみ て、 人間の 本質 を 人類に おいて 考え、 完全 性に 

おいて 考えた ので ある。 近世に おいて 人間と は 神に 代わって 全智と 全能との 別名であった。 へ ー ゲルの いう 人間 

と はか かる 人間 を ポジ テ イヴに 表わした ものに 外なら ない ので ある。 

ところがへ ー ゲルに 続く 直ぐの 時代に、 この 近世 的 人間が 吟味 せられて 来る。 かかる 人間と は 一体 何処に 住ん 

でい るので あるか。 実は それ は 人間が 思惟の 能力 11 それが 人間の 本質的 特性で はあろう が — に まかせて、 頭 

の 中で 考え出した 人間と いう ものな ので はない か。 近世 的 人間の 本質と は、 それ は 人間の 考えの 中に あるに すぎ 

ぬので はない のか。 人間が その 考えられた 本質のと おりに 現存す る 日 は、 それ は 類 的 存在と しての 人類に おいて、 

そ, 化 も 未来の 何 寺の 曰かに おいて は、 あり 得る でもあろう。 しかし それ はあり 得る 人間、 可能 的 人間に 過ぎない ( 

現に 日々 を 過ごして いると ころの 現実の 人間と は 如何に あるので あるか。 そこが 照明せられ なければ ならない 

かかる 考えに、 その 緒 をつ けたの は フォイ 二 ルバ ッハ であった (拙稿 「宗教の 人間学 的 根拠」、 文化、 一 四ノ 九、 一 〇、 

ー五ノ 二、 及び 本書 第 七 章 参照)。 . 

前世紀の 初めに すでに キリスト教 的ョ ー 口 ッ パ の 危機、 世の 変わり目が 来た こと をブ ルツ ク ハルト や ニイ チェ 

はいう が、 その 理念 的 根拠 も 当時から 動揺 を 始める。 現実に 実存す る 人間と は 上の ような 姿に おいて あるので は 

第 六 章 神と 実存との 間 ニー 一三 



第 六 章 神と 実存との 間 一 三 四 

ない。 現実の 人間と は 社会的 関係に おいて、 そしてた だ そのうちに おいての み 存在 するとみ るの が 青年へ ー ゲル 

学徒の 着眼で あり、 一 方 各自 的な 自己の 内面 化の 方向に 人間の 現実と 真理と を 求めた のが キ ュ ルケ ゴ ー ル であつ 

た。 そこに は 啓蒙 期 的な 人道主義 的 人間で はなく、 一切の 外部 的なる ものから 断ち切られた 有限な 自己が ある。 

自己が 自己に 対する 関係が ある。 その 主体性、 有限 性 を 究極に つきつめた ところに 彼 は 人間の 本来の すがた を、 

理性的 神 的 人間に おいてで はなく、 いわば キリスト 的 人間に 代わる に 楽園 を逐 われて 罪の 「不安」 に 怯える ァダ 

ム的 人間の あると おりの すがた をみ るので ある。 

そして 彼の 着眼の 呼吸 は、 いわれる ごとく ニイ チヱと ともに 現在に 再生した (Z. B. vgl. Jaspers, K., Vernunft 

u. Existenz, 1935, SS. 5, so 理性の 絶対的 優越 を キリスト教 的ョ— 口 ツバの 原理 (へ— ゲル、 上掲) とする 近世 

的 思惟 は 先き (第一 次) の 大戦 前後 以来、 生や 実存と しての 人間への 反省に よって 超克 せられる。 すなわち 近世 的 

人間 は 上の ような 本質に 従って 着々 とその 完成に 近づく かに 見えた が、 しかし、 たとえば 内に はやが て 神に も 等 

しき 人類の 力 を もってしても、 遂に 人間 は 人間 自身 を 支配す る ことが 出来ない という こと、 すなわち 啓蒙 期 以来 

神に 代わって 頼み を かけられた 人間の 裡 なる 道徳 性の 権威の どうに もなら ぬ 破綻と (scheler, M., Vom Ewigen 

im Menschen, 1921, SS. 281ff.)、 外に は 己れ の 幸福の ために その 能力に まかせて 築き上げて 来た 謂わ ゆる 装置 や 

設備が、 却って 人間の 自律 性と 自由と を 余す ところな く 制限し 奪い 去った (Jaspers, K., Die geistige Situation d. 

Zeit, 1932 (4), HH. 1, 2, 6)。 そこに 現存す る 人間が 実は 制約せられ 限界 づ けられて あると いう、 無力と 有限 性 

の 自覚が 促されて 来たので ある。 この こと を その 基礎的 存在論に おいてつき つめたの は ハ イデ ッガ ー であって、 




人 5S の 生きて いる 在り方 は 本来 的に は 各自の 死へ と 投げ出されて 向か つ ている。 それ を 人間 は 如何と もす る 力が 

ない。 しかも この 力の 無 さは 人間の いわば 内なる 性格で はなく、 人間 乃至 一切の 存在者 を もとづけ る 深淵の、 超 

越 的な 無からの 限定で あると みて 来た。 

嘗 つて その 無限と 全能と を 誇った 近世 的 人間 は、 その 末期に おいて、 このように 有限 無力なる 事情と 構造と に 

おいて 自覚せられ るので あり、 人間の 本質に おける 普遍性 もまた、 キエ ルケ ゴ ー ルゃ ハイデ ッガ— に 見られる よ 

うな 各自 性に おける 個別化 や、 フォイ エル バッハに 端 を 発して、 それ以来の 特殊 化に おいて 見られる に 至る ので 

ある。 人間 存在に おける、 普遍的 人類への 連なりに は 断層の ある こと を 指摘す るの が 民族 理論の 一般的 主張と も 

な つ た。 

ここで 注意 せられる こと は、 人間の 理念に おける 神と 実存との 乖離と いう ことで ある。 近世 的 人間に おいて は 

中世 的な 神から は 去った としても、 見て 来たよう に 未だ 神と 人間と は 人間性の 範囲 内に おいて 調和せられ、 神 や 

神 生が 保留せられ 要請せられ、 ともかく 神に 連なる いわば キリスト 的 人間が 考えられ ている。 へ ー ゲルの 言葉 を 

かりてい えば (Religionsphilosophie, (XVI), S. 265)、 第一 の アダム は 第二の アダム 即ち キリスト たる 約束に 立つ 

ている ので あるが、 末期の 人間像に おいて は 神に 連なる この 摂理 も 運命 も 断 たれて いる。 堕ちた 第一 の アダムの 

かぎりの 人間が 見られる のであって、 いわゆる 裸の、 現存 在の 範囲に おいての み 存在す る 人間の 姿に は 神 も 神性 

も 奪われて いる。 Mensch ohne Gott といわれ るが、 ここで は 神と 人間との 調和 は 破れ、 人間 は 神から、 永遠 か 

ら 断絶して いるので あって、 そこに は それ 自身の 責任に おいて 生き、 それ 自身の 自由にお いて 生きる 人間の 真相 

第 六 章 神と 実存との 間 一 三 五 



第 六 章 神と 実存との 間 一 三 六 

が 露わになる であろうが、 それ は 神に よってで はなく、 存在者 を その 存在の 当処 において 遮 絶す る 無に よっても 

とづ けられて いる。 いいかえれば 支えな き 寄る辺な き あり方に おいて 剝き 出された のであった。 投げ出されて 向 

かってい ると いう 人間像に は、 人間が 何処から 来て 何処へ 行く か を 規定す る 投げ 手の 摂理が 見当たらない。 神な 

き 人間の 行く手が 無なる 事情 を (Haecker, Ho Was ist d. Mensch ?, 1936, SS. 163ff., 61ff.)、 また 神 を 奪われた 

末期の 人間の 終末 観が 己れ の 死なる こと を (Rosenstock, siehe unten, S. 479ff.)、 最近の 意識と して 指摘して いる 

が、 ハイデ ッガ— の 所論 もまた 彼が 自ら 肯 うように (実存の 理念、 理想) (sein U. Zeit, SS. 13, 302, 310)、 かか 

る 意識の 存在論 的 告白に 外なら ない ので ある。 

二 

近世 的な 調和の かかる 切断 は 歴史の 理念に も 見られる。 世界史の 老年 期 はフラ ンス 革命に おいて 完結 するとす 

るなら、 歴史の 未来 はどうな るので あるか。 歴史の あるべき すがたが キリスト によって 地上に 示された ものなら 

ば、 その あるべき 姿が 実現せられ たという 近世の、 その 爾後の 歴史 はどうな るかと いう 反省が へ ー ゲルに 対して 

やはり 青年 へ ー ゲ ル 学徒 達に よ つ て 始められた (bsdrs. vgl. L6with, IC, Von Hegel bis Nietzsche, 1941, SS, 91ff., 

164r 57f.)。 そして、 地上 的 人間的な 現実の 歴史 は 何故 キリスト教 的な 精神に 従う のかと いう 疑問 は、 やがて、 

或いは ギリシア 的 異教 的な ものに おいて キリスト教 的な もの を 切断して、 近世 的な 調和の 更に 前に 還ろうと する 



もの や、 或いは やはり キリスト教 的な ものから 離れて 合理的したがって 相対的な、 又は 神話 的な、 目途 を 将来に 

先取す る ものと な つ た。 前者の 魁 は 二 イチ-で、 彼はョ ー ロッ パー 一千 年の 歴史の 歩みの 間違い を 指摘して 神の 死 

を 宣言す る。 真に 人間的な ものが 神の 否定に よって 始められなければ ならない。 神の 死と ともに 人間の 故郷、 本 

来の 所在と しての 無が 露わに せられる。 神の 死によ つて はじめて 人間 は 真の 自由 を 得る。 それ はしかし 神への 自 

由で なく 死への 自由で あり、 そこに 人間の 面目が ある。 従って 人間の 仕事 は、 神の 死によ つて、 自己の 責任、 自 

己の 意志に おいて この 無に つく ことで あり、 そこに 神 を 失った 消極的な 無から 本来の 無へ つかん とする、 積極的 

無ヽ の 歴史の 課題が あると する (bsdrs. vgl. ヌ., Nietzsches Philosophie, 1935, III, VII; Baeumler, A., 

Nietzsche, der Philosoph u. Politiker, (Reclm.), SS. 54ff., 69r 98ff. 178f.)。 ハイデ ッガ ー の 所論 も 一面に これに 

1 じょうが、 もっとも 彼に おいて は 存在論 的に、 本来 的 歴史 性 は 本来 的 時間 性に おいて 「瞬間」 にある ので あり、 

世界 歴史の 観念が 普通と は 異なる のであって、 存在者が それにお いて 存在す ると ころの 根拠の 深淵へ と、 成立 的 

なる もの を 解体し、 反覆 的 (キュ ルケ ゴ ー ル との 連関 はい われる ごとくで ある) に 超えて 還る ところに 歴史の も 

とつ, r がた ま 明らかになり、 そこにお いて、 また そこから historische Wahrheit も 問題になる ので ある。 その 意 

味で は、 また キリスト教 的な もの を 超え、 ギリシア 的な もの を も その 成立 的なる 限りに おいて は 超える わけで あ 

るが、 、, - つゆる 1 去 や 進歩と いう こと は 問題に ならない (vgl. Sein u. Zeit, 1935 (4), SS. 392fr 397, wtrs. 

l-etr. Hegels ; S. 405f.)。 

キリスト教 的な 精神の 始原の、 現実に おける 想起と 内 化の 過程に おいて 見られた 世界史から、 その 精神が 拒否 

第 六 章 神と 実存との 間 一 三 七 



第 六 章 神と 実存との 間 一 三人 

せられる と、 歴史 は 最早 や 想起 さるべき 理念 的 根拠 を その後 方と 過去に もたぬ ことに もなる。 そこで 里 念 は 新た 

に 前方と 未来に 先取され なければ ならない。 青年へ ー ゲル 学徒 は 合理的 相対的な (歴史 はや はり 進歩 するとみ 

て) 未来 世界 を 建てて 歴史の 現実 を 裁かん とする。 最近で はシ ュ ぺ ングラ —の ごときが また 態:^ に 徴候 勺な 相 

対 性に おいて、 進歩に 対して は 没落 的な 未来、 永遠に 連ならぬ 未来 を 原理と しての 歴史 を 考えて おり (ま clich: 

Jahre d. Entscheidung, 1933)、 コンパ スを 未来に 立てる という いわゆる 第三帝国の 考えの ごとき もあった が、 い 

ずれに しても それら は 近世 的 キリスト教 的な もので はない。 

キリスト教 的 理念の、 歴史からの 分離と 共に、 ョ— 口 ッパ的 地平に おいて 世界が 普遍 化せられる 理念 的 根拠 も 

失われる。 そこに 新しく 歴史の 現実の 構造が 凝視せられ なければ ならない。 そのこと はすで に 歴史 主, こおいて 

もな された ことで あり、 さらに 主体的 決意 的な 行動 性に よる 建設の 課題と して 与えられた。 世界史の 主体に つい 

て も、 その 現実的 形成が 実は 精神 や 理念に よって 一律に 普遍的に はからるべき でない ことが、 現実の 事情と も 併 

わせ、 歴史の 地域的 勢力 的 反省に 齎ら せられる。 たとえば プレンゲ 等に ついてい うと、 歴史の 形成 は、 民族 を 基 

礎と する 史的 社会の 二 ネル ギ— がすで に 現存して ある もの を 越えて 行く ところの、 現実の 展開と、 その 展開の 過 

程に おける はたらきの 打 出された すがたと しての 精神の 結合に よ つ て 成る ので あ つ て、 世界史 は 普遍的な 一 主体 

において ではなく、 実は 種 を 異にせる 二 ネル ギ ー の 主体 圏が 複数 的に 存在し、 それら 相互の 対立 相関 及び 逐次の 

綜合に よって 織り出され るので ある。 近世 的 世界と は、 かかる 関係に おいて ョ ー 口 ッパ的 主体が 他の 主体、 とく 

に アジアの 主体 を も 含めて 汎 世界的に 普遍 化した ものである。 その 間 二 千年に 亙って、 欧州 的 現実と その 構想 力 



とに 結合した キリスト教 もまた、 近世に おいて は その 主体と ともに 普遍的な 理念と なった ものであるが、 しかし 

世界 西欧の 主体が 先き の 大戦に おいて 崩壊 するとと もに、 また かかる 理念 も 崩壊す る (prnge, Hegel U. weltge- 

schichte, 1931.)。 世界史の 絶対的 理念と しての キリスト教の 絶対 性 はかくして logoelogisch に 否定せられ るの 

であるが、 なお かかる 地域的な 反省 は、 また いわゆる 広域の 観念に よる 世界 秩序の 要請と も、 その 性質の 上から 

は 連関 を も つ たものと みられよう。 

近世 的 世界が 現実に 終結 を 見た の は 先き の 大戦で あ つ たが、 人間 や 歴史の 理念と しての キリスト教 的な 神と 実 

存 との 間の 積極的 断絶 もまた 切実な 時代の 意識と して はこの 頃と いいうる。 その 否定 せられた 世界 西欧の 地盤に 

新たに 地域的 欧州の 圏 域が 対 極 的 緊張に おいて 成立 せんとし ており、 そこに また 新しい 理念が 誕生 せんとし てい 

たが、 しかも、 それらの いわゆる 世界観の 理念に おいても また 神と 人間と はさら に 積極的に 遮断 せられる。 その 

例 は 乏しと せず、 後に も ふれる が、 たとえば ボイ ムラ ー 等に ついて みると、 近世まで も、 ョ ー ロッパ において は 

ラテン 的な ものが ギリシア 的な もの を 支配して 来たが、 現在の 課題 は ギリシア 的な ものに おいて 口 ー マ 的な もの 

を 切り捨てる こと、 キリスト教 的な ものから、 人間的 異教 的な ものが 絶縁して 立つ ことで ある。 ョ ー 口 ッパは 二 

千年に わたって キリスト教の 植民地であった。 ギリシア 的な ものに 血の 親近 性 を もつ 北方の 民族の みが、 現在に 

おいて は ドイツの みが これと 戦った。 先き の 大戦に おいて ドイツ は キリスト教の 敵と いわれた とおりで ある。 口 

1 マ 的な ものの 現実的 征服、 それが 正に 先き の 大戦 後の 課題で あり、 それ はまた ギリシア 的な ものが 口 ー マ 的な 

ものに よって E 倒せられ た徴 たる 人道主義 を 破る ことで あると いう (Baeumler, A., Nietzsche, a. p OJ S. 178fr 

第 六 章 神と 実存との 間 一 三 九 



第 六 章 神と 実存との 間 一 四 〇 

Politik U. Erziehung, 1939, SS. 50fr loo かかる 所論に 対して 形而上 的に 積極的な 目途 を 与える ものと して ハ 

ィゼの ごとき をみ ると、 彼 はョ— 口 ッパの 歴史 を 理念と 実存との 乖離の すがたに おいて 暴露し、 その 乖離 をな さ 

しめた 蔽ぃを 取り除いて 両者 を 一 致せし める ことに 新しい 歴史の 課題 をお くので ある。 彼のい う 理念と はギ リシ 

ァ的、 とくに プ ラトン 的な それで、 宇宙の 秩序で あり、 歴史が それにお いての みあるべき 運命 体 ともいう ベく、 

従つ て 人間 は それへまで 自己 を 深化し 自己 を 捧げなければ ならない。 ところが ョ — ロッ パー 一千 年の 歴史 はこの 両 

者の 相即を 蔽ぃ穢 して 来た。 それが 西洋 的 キリスト教 的な、 また 彼岸 的 超越 的な 伝承の 意識で ある。 欧州の 全歴 

史は 間違った。 その 間違い を 是正 するとい う 悲壮に してし かも 自由な 決断が、 現に 北方 人に よってな されな けれ 

ばなら ぬと いうので ある (Heyse, H., Idee u. Existenz, 1935)。 

三 

近世に おいて、 その 世界 や 文化の 面に おいて 調和 せられた 理念と しての キリスト教 的な もの は、 その 末期に お 

いて は 切断せられ 押し返され、 却 つ て それらの 反撥に おいて 新しき 歴史 を 発足 するとい うような 動きにまで も 及 

んで いる。 もちろん それ だからといって、 決して キリスト教が 豊かに 伝承し、 また 現に もっている ところの、 本 

質的に 宗教 的な ものが 崩壊す るので はない。 それ は 本来 的に 宗教 的な ものの 本質と 根拠と において 明らかにせら 

れ るが、 右に 連関して、 次に は 逆に、 近世に おいて、 世界的 外部 的の ものが、 キリスト教の 成立 性の いわば 内部 



に対して 如何に 制約して 来た かとい うこと を迚 つてみ る。 

宗教改革 を もった 近世 は、 人道主義の 範囲で その 影響の もとに 立った。 しかし それ は 逆に も 見られる。 ルタ ー 

はすで に 人間の 心の奥に おいて 神 を、 また 神の 可能性 をみ たのであった。 爾来 宗教の 本質 は いわゆる 人間性の 範 

囲 内に 截り とられた のであって、 カントの 要請 的な 主張 を はじめ、 へ ー ゲルに おいても その キリスト教の 解釈 は 

キリストの キリスト教 であり、 教団に とっての ところに ある キリスト教で、 いわば 神の キリスト教 ではない。 人 

間 イエスの 生涯が 終わって、 その 死と 復活と いう、 正に 教団に とっての 出来事に おいて キリスト教 (の 信仰) は 

はじまる ので ある (vgl. Religiolhilosophie, (xvp S. 295ff. c. a.)。 シュ ライエル マッハ ー が 神に おいてで はな 

く、 信仰に おいて 宗教の 勝義 をみ るの はルタ ー の 線に 沿う ものと され、 その他、 理論的に も 実践的に も 近世の 主 

流 をな す 神学 思想が、 いずれも 人間、 人道の 裡に 重点 をお いて 来た こと は 周知の ことで、 いわゆる Apotheose 

des rvdenschen を 近世 神学 は その 特質と する ので ある。 そして 程度の 差 はあって も、 神 は その 個体 的な 力と 意志 

と を 失わ しめられて、 あるとき は 世界史の 理念と せられ、 あるとき は 人間の 文化 領域から 都合よ き 虚構と して、 

或いは また、 その 領域の 極めて 限られた る 一隅に その 作用 圏 を 逼塞せ しめられた のであった (例えば カント 派に 

おける 所論)。 

しかし それらに は 調和が あった。 すくなくとも その 反対で はない。 蒙昧の 世界に 出現した 当初の キリスト教の- 

也 上. な もの へ の 宣戦 的 反撥 的 態度 は、 世界に その 理念 を 実現した 近世に おいてはなくなる と考えられる のが、 

へ ー ゲルに とって は 当然であった。 ところが その 調和 は 見て 来たよう に 前世紀の 中期から 破れる。 そこで は 神と 

第 六 章 神と 実存との 間 一 四 一 



て 重要な 一 つの 傾向 を 生じた。 それ は キリスト教の 本質と 絶対 性と いう ことの いわゆる 歴史的な 研究で、 シュト 

ラウス や バウルに 始まる この 線が、 その 「徹底 批評」 的なる と 「正統」 派 的なる と を 問わず、 いずれも 聖書に 識 

された 内容 を、 11 へ ー ゲルに おいて は 教団に とっての、 信仰に とっての 現実と みられた のに、 そこで はさら に 

II 地上 的 人間 そのものの 事柄で あ つ たか どうかと いう 規準に おいて 吟味して 来たので ある。 

前世紀 中期 以来 その 転回 を 始めた 近世 的 思惟 は、 キリスト教の 成立 的 内容にたい しても かかる 限定 を 加え、 そ 

の 本来 的に 宗教 的な もの を も 理性と 合理性の 中へ 解消せ しめんと したので あつたが、 しかし、 それ は 未だ キリス 

ト教 という もの を 客体と して、 人間的に 自然 的に あるいは 歴史的に、 その 事柄に ついて 批判す るい わば 観想 的な 

ものであった。 ところが 第一 次の 大戦 前後から 世界の (就中 ドイツ) の 逼迫と 苦渋と は キリスト教の 思想 を も 震 

撼し、 近世 的な 性格 を もつ 宗教改革 はさら に プロテスト を 要求され て 来たので あった。 キリスト教の 偉大 さは そ 

、 、 

の 経て 来た 過去に よって あるので はなく、 また 遠い 将来に あるので もない。 実は キリスト 者の 現在の 瞬間に おい 

て、 各自の 決断に おいての み 顕現す る その 救いに よって 偉大な ので あると 考えられる。 従来の いわば 観られた キ 

リスト 教 ではなく、 それ は 主体的に 実践し 行なう 者の 態度に おいて 深く 吟味せられ るので あって、 神に おける 人、 

とくに 近世に おいて は 人に おける 神と いわれる が、 最近で は 神に 当面しての、 神の 前なる 自己が 考えられて 来た „ 

神の 裁きと 自己の 負 目との 只 中に 立って 如何に 自己 を処 すべき か。 しかも、 神と 人間との 間 は 前世紀の 思惟に お 

いても 分離せられ たが、 今 は 全く 別な 意味に おいて、 人間が 人間と しての 限り 神への 通路 は 遮断せられ、 その 杆 

格 は 深い。 人 は 神から 突き返され るので ある。 有限と 無限、 時間と 永遠、 人間の 実存と 神の 根源と は 連ならない 

第 六 章 神と 実存との 間 一 四 三 



第 六 章 神と 実存との 間 一 四 四 

人間の 為し 得る 道 はた だ 各自 的に、 その 断絶の 関頭に おいて 自己 を 打ち 離す 「決断」 あるの みと せられる。 

かかる 態度が 最近の 主題で あるが、 その 先蹤 はしかし 既に 前世紀に あった。 それ は 自ら もい うように 摂理に 外 

れた、 時代の 例外 者キ ヱ ルケ ゴ— ルで、 右の 決断と は、 実に 彼 を も つ て 近代の 創唱 といわれ るので ある。 

キエ ルケ ゴ— ルの 所論に ついては 別に 問題と する が、 ここでの、 キリスト教 的 神学 的 連関に ついていうなら、 

彼 はまた 伝承の 教会 信仰 を 否定し、 キリスト教の 経て 来た 史的 経過に も 意義 を 認めない。 キリスト教への 道と し 

て 拠らるべき はた だ 各自 的な 主体性 内面 性 あるの みで、 そこに 真の クリステン トウ ム (クリステン ハイトで ない) 

が ある。 ところで 神と 人との 間、 永遠と 時間との 間に は 絶対の 区別が あり 断絶が あって 連ならない。 それで は 神 

に 参ず ると いう こと は、 その 主体性 内面 性に おいて どうす る ことで あるか。 そこに 難 中 至難の 宗教 的 決断が 要る。 

自己 を 殺し、 自己 を 転 質し、 つくり 換え、 内在性 を 超克す ると ころの 決断が 要る。 

も つ とも 彼に と つ て も 問題 は 神が あると いう ことで はなく 神人が 問題で あるが、 それ は 神と 人との 調和で なく、 

ことにへ ー ゲルの いうよう な 人が 神に なった もので はない。 神が 人に なった もの、 神で あると ころの 個体で ある。 

その いわゆる liistorisch な ものに 先ず 問題の 重点が ある。 史実 的と は 成る ことと、 その 成つ たこと 在 つたこと が 

今 もな お 既往と して あり 続ける ことで ある。 キリストの 歴史、 出来 ごとに おいて、 神が 歴史の 中に 現われた。 史 

実にな つた。 永遠が ある 時、 限定 せられた 時間の 中に 入って 来た。 それ は パラドックス である。 人間の 一 切の 悟 

性 を 突き返し 躓ず かしめ る 絶対の パラドックス である。 das Absurde である。 

即ち この 史実 はた だなる 史実で はない。 たとい キリストと 時代 を 同じく した 者に でも、 悟性 的 感性 的に は 馬鹿 



らしき ことで あり、 神が 人になる 現場 をみ た 者がなかった でもあろう。 しかも かかる 合点の 出来な レ パラ ド" ク 

スの 史実、 嘗 つての 出来事 を、 時代の 如何に かかわらず、 己れ の 現実に おいて、 可能性に おいてで なく 現実に お 

いて、 受容 受持 する ことが キリスト教の 真諦で あり、 信仰の 本義で ある。 

それ こ はどうす るか。 彼に おいても 信仰 は 直接的な もので はない。 その内 面 化に おいて 規 持せられ る 求道の 激 

情 は、 その内 面 性 を ここに も 突き こむ。 そして 逆理、 背理の、 それ 自身の 矛盾に よって 突き戻され、 躓く 度に 激 

発せられて、 それに 切す る 激情 は、 内面的な 苦悩 困憊の 幾重 畳 を 経て、 罪の 意識に 居り、 悔いに おいて 遂に 捨身 

断念 (Resignation) をな し、 そこに 宗教 的 決断に おいて 自己 を 転身す る。 人間の つくりかえが なされる ので ある „ 

ここに 信仰が はじめて 開かれる ので あるが (信仰 も 安らかな 不退転で はない)、 それに は 他からの 力が 要る (捨 

身に 個体の 力 は 精 一 杯で ある)、 啓示に よ つ て 支えられ るので ある。 

ここに パラドックス は 現実と なる。 ある 時、 神が 歴史に 現われた という 史実が、 各自の 現在の 出来事に おいて 

現実になる (その他の 仕方に おいて は、 決して 現実に はならない)。 これが 彼の いわゆる 「瞬間」 の 現 成で ある。 

瞬間と は、 時充 ちた る 時、 永遠が 時間の 中に おいて 成る 当のと ころで あり、 それ は 主体の 内面 性に おける、 上の 

、 、 、 

ような 士方 においての 現在の 現実で ある。 けれども また、 それ は嘗 つて ある 時、 永遠が 時間の 中に おいて 成った 

ところの 出来 ごとの 史実が、 現在の 現実に おいて、 主体の 内面 化 を 尽くして 真摯なる において、 復た 成る ので あ 

るに 外ならぬ。 その 限りで 史実の 現 成が 既往に あり 復た 今に せられる。 しかも それ (今の 現実に 成れる 史実) は 

それ (既往に 現実に 成った 史実) であって 他の 出来 ごとで はない。 そこに 「反覆」 が あり、 キリスト教の 真理が 

第 六 章 神と 実存との 間 一 四 五 



第 六 章 神と 実存との 間 - ブ 

ある。 反覆と は 従って 理念の 内在 化、 想起の ごとき もので はない。 時と 所と を 問わず、 右の 史実が 各自 的な 現在 

において 現実と なる ので あり、 常に それ は、 嘗 つて 成り、 そして 成った ものと して はありつ づける 原なる 史実 を、 

各自に (将来 的な 可能性から) 今にお いて 現実に し、 現在に おいて 成らし める ので ある。 丁度 千年 前に 見られた 

星が 今日 見られる 星の ようにと いうが、 いわゆる 歴史的 時間の 隔たり は とられて いる。 しかも 自然の 星の 場合と 

違って、 その 隔たり をと る こと は 個体の 内面 性に おいて、 そして その 内在性 を 打ち 離した 決断の 当処 においてな 

される ので あり、 そのために は キリストと 時代 を 同じく した 聖者 達の ごとく 己れ を処 すので あり、 キリストとの 

同 寺 性に おいて (これ は 瞬間の 現 成)、 各自の 今 を 右の ような 現実に 齎らす ことで ある。 

四 

前の 大戦 後から 現在に 至る 神学 や 信仰の 思想に ついても、 かかる 主体的な 決断の 課題の 上に おいて、 神と 人間 

との 間 を 問題に する ものと みられよう。 もっとも その 性質に は 異なった ものが あるが、 まず キエ ルケ ゴ ー ル につ 

、て は、 皮 を 存在論の 範囲で 扱わん とする ものと 神学への 連関に おいて 理解す る ものと が あり、 弁証法 神学 等 は 

さしあたり 後者に 属する が、 それ はや はり 神の 超越と いう こと を 根本の 要請と する。 即ち 実存す る 人間の 範囲に 

は 神 も 神性 もない、 神の 似す がた はなく、 神との 「繋がり」 もない として、 両者の 間に 極端な 乖離 をお き、 その 

神学 論に 実存 論 的な 究明の 入る こと を 避けて 来たの は バルトで ある。 神と 人との 連接に ついて、 キ ヱ ルケ ゴ ー 



^バ 観た ような、 また、 ゴ ー ガル テン や、 ことに ハイデ ッガ ー との 連関の もとに、 人間学 的な 観点から する ブル 

ト マンの 主張の ような、 主体の 側から 為される 努力の こと は、 神と 人との 間の 完全な 遮断に よって、 その 神学の 

、 、 (4) 

範囲から 拒否せられ、 いわゆる 人間的な 余地の ある 宗教 を も 否定して、 極端な 恩寵 主義 を 説く のて ある (bsdrs. 

vgl. Dogmatik, I/l, 1932 (2), § 5, Vorwort, 1/2, 1938, § 16, § 17, 人間学 や 無の 問題に ふれて いるもの として は、 曰 お. 

§44, ここで は ヤス パ— スに ふれて いるが、 キ H ルケ ゴ— ル に対して 投げて いる 言葉 はきつ い (S. 133)、 §47, 曰/3, § 50) 11 

『教義 学』 第二 冊 (1/2, S. 372f.) に、 彼の 見る キリスト教、 完全な 恩寵 宗教の 形式に 似 同す る ものと して わが国の 浄土宗 や 

とくに 真宗の 教えに ふれて いる 点に は 今の 問題に 連関して 興味が あろう II 。 従 つ て 彼に おいて は 決断の 課題 も 性質と 

内容と を異 こし、 断艳の 此岸に おける 人間の、 信仰に おける それ 自身と しての 意義 は 転 質せられ、 人間の 決断 は 

小 化せられ るので ある。 それ は 人間の 決断ではなくて 神の 決断になる わけで ある。 そこに 最初に ふれた ように 

「神学 的 人間学」 的、 「存在論 的 神学」 的な 主題の 一方の 極が ある。 これに 対して ゴ ー ガル テン やその 他 謂わ ゆ 

る 弁証法 神学者 達 は 問題の 領域 を この 点に おくので、 従って 主体的な 決断が 問題と なる ので あるが、 いずれに し 

て も 実存の 範囲に 否 をお かぬ もの はない。 その 否の 決断の 彼方 (バルトで は 異なる) において 神の 告知が 現 成す 

ると みられる ので ある。 

一 派のう ちとくに バ ルトは その 信仰から 歴史的 文化的な もの を 遠の ける。 そこに 分裂の 理由 も あるので あるが、 

実際に は それ は 否みが たき 抽象と なろう。 これに 対して 信仰の 成就と 宗教 的 決断 は 時と 所との 連関に おいて ある 

と みられて 来る。 その 一 つ は ティ リツ ヒ による 嘗 つての カイ ロスの 思想と 運動であった。 彼に よると 永遠 は 時間 

第 六 章 神と 実存との? g 一 四 七 



第 六 章 神と 実存との 間 一 四バ 

を 拘束す る。 歴史の 絶対 性 は 超越 的な 神に よって 支配せられ 制約せられ ると ころに あるが、 神の 支配に おいて、 

永遠が 歴史の ある 時期に 現実に 入り こむ。 それ は時充 つる 時 即ち カイ ロスに おいて、 突然に 歴史的 社会的な もの 

に 入り 来って、 世間 的な もの を 震撼させる。 その 時 こそが 危機で あり、 決断の 時で あり、 裁きの 時で ある。 その 

時 はしかし、 啓示に よっての み 告知せられ、 予言者が 接受す るので あるが、 現代の 時期 は 正に その 時で ある。 弁 

証 法 神学 もこの 啓示に 接した が、 歴史 や 時代に 関わらぬ その 無条件 的 否定に よって カイ ロス を 見失った。 カイロ 

ス において 神の 支配す る 歴史 は 絶対的な 意義 を 充足す るので あるが、 それ は 当面の 時代 を あげて 永遠に 託し、 有 

限 的な 営み を あげて 無 制約 者に 委ねる ことによって、 時の 成就が 期せられ るので あり、 彼のい う 社会的 決断が な 

されなければ ならぬ ので あるが、 そのために は カイ ロスの 待望 を 阻害す る クロ ノスが 艾 除され、 神の 国が 地上に 

降りて 来る ために、 地なら しがせられ なければ ならない というの である (vgL wairos u. Logos, in: Kairos, her- 

I. V. Tillich, P., 1926, SS. 5ff., 8fr 35ff. ; ReligiSse Verwirklichung, 1930 (2), § 2—5, u. a.)。 

神と 人間との 間にお いて 課せられる 宗教 的 決断 は、 かくて 個体の みならず、 歴史の ある 限定 せられた 時期に お 

ける 社会的 決断 を も 要求して 来たので あるが、 形の 上で 連関す る ものと して は、 また ナチ ス 治下の キリスト教が 

あげられよう。 もっとも カイ ロスの 考え は 唯物論 的 社会主義に 通じる ものと して 排 せられた が、 一九 三 三年 以来 

の いわゆる ドイツ • キリスト教 はか かる 社会的 決断に 対して さらに 民族的 決断 を 要求す る。 或いは 時代 的な 決断 

に対して 地域的な 決断と もい い 得よう が、 前者の いわば 地域的に 普遍的で あ つ たのに 対して 国家的 民族的と いう 

限界 をと るので あり、 しかも 神と 個体との 間に 置かれる、 前者の 社会と 後者の 民族との 所在の 位置 も 異なる。 前 



者が いわば 神に 対する 社会と 個体で あつたのに 対して、 後者 は 神と 民族に 対する 個体の 関係と みうる。 従って 個 

体が それに 対して 宗教 的 決断 を 課せられる 対象が 神と 国家と くに その 主体と しての 民族で あるが、 そこに ふたた 

び、 しかし 内容 的に は 新たに、 神と 国家との 関係が 問題に なり、 前者 を 後者に おいて 見る ところに ドイツ • キリ 

スト 教の 神学が あり、 後者 を 前者にまで 宗教 化しよう とする 点に ドイツ 信仰 運動の 基本が ある。 しかし それら は 

宗教の 根拠と 機能に ついての 反省 を 介す る ことなしに、 成立 的な ものに おいて 直接に 一致 するとみ るので、 学問 

的 こも, a ハ理 である。 ともかく、 しかし ドイツ. キリスト教の かかる 傾向 は 直接に 教会 や 神学の 内部から 出て 来た 

もので はない の, で)、 その 点で は 先ず 性質 を 別にして 考えなければ ならない が、 その 決断の 態度に おいて 前と 一脈 

通じる ものが ある (bzw. vgl. Schlemmer, H., Von K. warth z. d. deutschen Christen, 1934 ; Winkler, R., Die Mystic 

cl. deutschen Glaubensbewegung d. cl. Mystik d. christlichen Glaubens, 193?) 

かかる 事 青の もとにお いて、 いわゆる 精神的 自覚 的に はいう ところの 世界観 国家と して 成立した ナチ ス 国家 は 

成立 的 キリスト教に 対しても、 その 世界観への 服従と 義認と を 要求す るので あって、 ここに 従来の 教界 内に (国 

家の いうのと は 別な 意味で) いわゆる 世界観の 戦いと いう 問題が 起こった。 従来 世界観と 福音と は 別と せられ、 

或いは 反省 せられる 必要が 従来の 体制に おいてはなかった ので ある。 信仰と 世界観と は 調和し、 また 見て 来たよ 

うに 反撥しても、 国家的 政治的 対立に 齎らされた わけではなかった。 ところが この いわゆる 世界観の 理念 は、 嘗 

つて は 世界観の 養いであった キリスト教 も、 また 十八 世紀 以来の 科学的な それ を も 抛って、 国家の 主体た る 民族 

の 上に おかれ、 固有の 民族性と その 歴史的 地域的 自覚の 上に 置かれた。 そして 国家の 持す る その 精神 性 は 政治的 

第 六 章 神と 実存との 間 一 四 九 



第 六 章 神と 実存との 間 一 五 〇 

意志的 態度 を もって キリスト教 にも 臨む というの である。 これに 対して は 遠の く 態度 も あるが、 これに 応じて 出 

(7) 

て 来た 神学 思想が いわゆる ドイツ 神学で ある。 

結局 それ は 生の 上に おいて 右の 問題 を 解決 せんとす る ものの ようで あるが、 その 例と してた とえば ヒ ル シ等は 

次のように いう。 神学の 仕事と は 人々 に 永生 へ の 道 を 伝える ことによ つ て 世俗 生活 を聖 化する にある が、 一 体 人 

間の 本質的 理解と は、 人間が 如何に 自然 的 歴史的 存在の 裡 において、 神の 前に 立って いるかと いう こと を 知る に 

ある。 しかし その 神と は 隠されて あるので あって 知られる ことが 困難で ある。 まことに 一九 一四 年から 三 三年に 

かけて、 ことに ドイツに おいて は 最も 深刻な 危機 を 味わった。 多くの 人々 は 神 を 捨てた。 しかし そこに 神 は あつ 

たので ある。 人 は 常に、 従って 右の 期間に おいても、 神から 出で、 神の 中に 居り、 神に 向かって あるので ある。 

隠され 蔽 われて ある 神 は 人間の 生の 中に ひらめく、 とくに 民族の 生に おいて ひらめき 出る。 神と は 生に 宿って い 

る もので あり、 生と は 現実の 民族 生活の 外 はない。 大戦 後 現在に 至る 間に ドイツの 国家と 民族 は そのこと を 最も 

深く 味わった ので あり、 それ を 自覚した 者 も 既にあった。 聖 にして 不死なる 生 11 それ は 民族的 生の 鬱 発が 血と 

土地と いい 名誉と 協同と いい、 また 犠牲と 責任と いうと ころの ものである。 単なる 生なら ば 死ぬ こと もあろう。 

しかし 生 は 隠された 神に おいて、 聖 なる 紐帯に 結ばれて いる。 この 聖 なる 紐帯 こそが 真の 生の 法則で あり、 それ 

が 今日 現実の 地上の 民族と 国家の 法則で ある。 人間に なると はこの 紐帯 を 崇拝し 覚 証し 実現す る ことで あり、 そ 

れは 国家と 民族の、 法則と 秩序に おいて 奉仕す る ことに 外なら ない。 宗教 上の 妥当の 要求 や 仕事の 要求 はかくて 

民族に おける 聖 なる 紐帯 を 見た 者に と つ て は 自ら 解決す るであろう。 同時にし かしまた 国家 や 民族の 聖化 という 



こと も、 この 管れ た 威光より 来らぬ もの は 真で はない。 従って、 神への 関係 は 地上の 塁の 生活と 体験の 只 中 

にある、 という 真の 信仰 は、 真に 政治的な 正しい 判断の 下に 属しなければ ならぬ が、 真に 正しい 政治的 判断と 

は、 また 民族の 地上 的 生活と 体験と が、 神への 関係に おいて あると いう ことで なければ ならない というの である 

(Hirsch, Der Weg cl. Theologie, 1937, SS. 7ff., 21fr wtrs. Die gegenw ゆ rtige geistige Lage, 1934, c. 

1323。 

生に おいて 神と 民族 或いは 国民との 結合 をみ ると いう こと は 当初の 考えで はない ともい われる が (くト ^nf 

ョ er, H., vcn K. Barth g (L cleutschen Christen, 1934, S. 33fl)、 すでに 口 ー ゼンべ ルグの 所論 等に ついても 論議 

せられて いると おり (後 掲)、 かかる ところに 一往の 落ちつく ところが 出る ので はない かと 思われる。 それにつ い 

て 一 派の 人で はない がレ ー ゼな どもい う。 彼 は 以前から いわゆる 主流 神学に 反対して 人間学 的 立場 をと るので あ 

るが、 キリスト教 は その ユダヤ 的 ロー マ 的 性格に おいて、 由来、 自然 を 無視し 或いは いわゆる 超克して 来たが、 

今日の キリスト教の 困難 もこの 点が 転じて 禍 となった ものである。 新しき キリスト教の 転向 は 過去へ ではなく し 

て 前方へ、 それ は 自然へ 向かって 自己 を 拡充す る 方向に なされなければ ならない。 そこ は、 人間の 生に おいて、 

血と 民族に おいて、 限定 せられて ある。 自然への 関係と いう こと は、 民族的 規定に おいて キリスト教 を 奉じる こ 

とに 外なら ない。 キリスト教の 中心 は その 教えに あるので はなく して その はたらき にあり、 その はたらきの 場面 

は 生で ある。 生と はしかし その 当の 場面に おいて は 民族的に あるより 外 はない。 従って キリスト教 も 民族的に あ 

る 外 はない。 いわゆる 「種族 固有 性」 という こと は 民族の 力の くり 拡げられて 来た 相に あるので あって、 その 力 

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第 六 章 神と 実存との 間 一 五 二 

の 実体 性 或いは 潜在 性に おかるべき ではない (この 点に ドイツ 信仰 運動 等に おける 解釈との 相違が ある)。 かくて 

民族的 キリスト教 こそが 民族 固有の 宗教で あると いうので ある (vgl. Leese, Ir wasse. Religion u. Ethos, 1934; 

Proljlem cl. ,,Artei^n21 パ 193 ひ ; Religion d. IDrotestantischen Mensclien, 1938, EilllJ §§ W9——3 に, 8 ひ ——87, 10W——108, c. a.y 

五 

キリスト教の 成立 面に おける 世界的 外部 的な ものからの 限定 は、 このような 経過 を 経て 来たので あるが、 さら 

に その 極 は キリスト教の 成立 性への 限定と いう 範囲 を 越えた ものが 出て きた。 それ は 前世紀 来あった ような、 宗 

教の 世界的な ものへの 還元 解消 をい わぬ かわりに、 世界的 外部 的な もの を、 そのまま 宗教 的な ものの 座に 据え、 

宗教 的な ものの もつ 規定 性 成立 性と して 置き換えよう とする 考えと 運動で、 いわば 世界観 的 理念 を、 宗教 的な も 

(8) 

のの 信仰 内容と する ものである。 それが いわゆる ドイツ 信仰 運動で ある。 

この 運動 も その 理論的 組織に おいて は 劃 一 的で ない が、 大体 伝承の キリスト教の 彼岸 的な のに 対して これ は此 

岸 的であって、 生や 自然 や 歴史に おいて 神性 を 見、 ことに それら を 根底 的に 限定す る 血と 民族の 固有 性に、 神 的 

な 究極の 根拠 をお こうと する ので あり、 太古の 民族 信仰と 中世の 神秘 化と 近代の 理想主義と を 結んで、 とくに そ 

れらを 現在の 民族的 自覚の 精神 性に 裏 づけよう とする ものである。 いいかえれば 太古の 信仰に 還る というより は、 

それに 寄せて、 現在に おける 国家的 世界観の 理念た る 民族 固有 性の 自覚の 絶対 性 を 宗教 的に 性質 づける。 従って 



それ は 民族的 国民的 宗教と しての 傾向 を 帯び、 しかし 自然発生 的に ではなく、 いわば 国家的 理念への 政治的 自覚 

と 信仰と いう 形に おいてな される ものである。 それらの うち 代表的と 考えられる ハウ ヮ 1 の 所論 を あげてみ る。 

ドイツ 信仰と はこの ように 現実の 生に おける 民族 固有 性の 信仰と いってよ いが、 ハウ ヮ ー によると、 信仰と は 

究極 不思議の 永遠なる 現実、 即ち 世界が それによ つて あると ころの 根源 的な 根拠に おける 覚りと 謹で あり、 意 

識と 意志に おける 甚 である。 そして かかる 究極の 根拠に 参ず る 信仰と は 最も 内部的な 生の 運動で ある S 員 

W., Dele if 1935(4), I. 10)。 しかも 宗教 的 客体と しての この 究極 的 根拠 は 謹の 生の 秘奥に 宿り 

(K. 3)、 これに 徹し これ を覚る もの もまた やはり 生の はたらきであって、 信仰 は 生と 愛と に 根 を つらねる f 

sich)。 さらに この 生と は 本来 的に 血と 土地の 伝承に よって、 妻 的に 民族的に 限定 せられて あるので あるから、 

従 つ て いわゆる 民舊 有性 を 対象と して 民族 固有 的に 信仰が 把持 せられる わけで ある。 それ を 次のように いう。 

この 生の 根源、 いいかえれば、 信仰の 対象た る 究極 的 根拠と は 何 か。 それが いわゆる ドイツ 信仰の 「ドイツ」 

的な ものに 外なら ない。 その ドイツ 的と いうの は、 民族 固 11 し、 それが 信仰と 結合して は 近東 的セム 的な 

ものに 対立す る 西 インド、 ゲル マソ 的な 血と 精神と いう 創造的 根拠からの 賦性と 約束に 対する 標語と なる i 

U loo 従って 彼のい う ドイツ 的 或いは 民族的と は 単に 政治的 歴史的 乃誓然 的な 意味で はなく、 神 的 根拠、 

囊的 根拠と して 考えられ ている。 即ち 血の 神聖と いうが、 太古から 囊ゃ 氏族、 民族に おける 綿々 たる 血の 継 

承と いう ことこ そ、 思量 を 管ぬ 神秘で あり 神聖で ある。 そして、 それによ つて 成る 生 もまた この 永遠の 神聖な 

根拠から 系譜した ものに 外なら ない。 この 血の 中には 人間 を 運命的 本質へ と 形成す るき; ある。 さらに 血 は 

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第 六 章 神と 実存との 間 



第 六 章 神と 実存との 間 一 五 四 

精神の 根 を 宿し、 血の 黙々 たる 法則に 従って 肉体 もまた 自己 を 形成す るので あるが、 この 血の 運命、 血の 神聖に 

「種族 固有 性」 は 基づく ので ある (K. 1)。 種族 固有 性に ついて、 彼はギ ユン タ I 等の 民族学の 所説に 応じて、 そ 

れは 民族の 内部的な 力で あり、 一 民族の 宗教 的な 創造的 実体 或いは 宗教 的な 原意 志で あると み (K. 10, S. 235f.)、 

11 ここに 上に あげた レ ー ゼ 等との 論 目の 中心が ある 11 、 限定 せられた 血の 中に おいて、 人間 を その 内部的 態 

度、 体験の 傾向 や 直観 等に ついて 限定す ると ころの 心性 的 精神的な 形成 力で あると みている が、 実に かかる 固有 

性 を、 上の ような 神 的 宗教 的な 根拠と して、 彼 は 見たい ので ある (K. 10, K. 9,S. 206f.)。 いわば 血の 根源に 連 

なる 民族 体の 信仰と でもい うべき もので、 難せられ るよう な 単なる 生物 主義で はない が、 それに 神と か 神 的と か、 

その他 有神論 的な 呼称 を 嫁して いるので あ つ て、 その 奥 或いは 外に 別に 神が あ つ て 固有 性 その他 を あらしめ ると 

いうよう に は 考えられて いないと 思われる (この 点はギ ユン タ— 等の 所論と も 考え 併せて 明らかで ある。 vgl. Gtinther, 

H., Rassenkunde d. deutschen Volkes, 1934 (77), §§ 1, 13, 24 u. a.; Rasse u. Stil, 1926, S. 114f.)o 

従 つ て かかる 固有 性の 根拠に おいて 連関し 或いは 収 約せられ て ある もの もまた 神 的で ある。 彼の 前提から は、 

生の 全体 的 本来 的な 主体た る 民族に おける 神性と 応じて、 それらの 歴史に おいて、 この 神 的な ものの 意志の 形成 

が 見られ、 運命の 展開が 見られる ので あり (K. 7)、 自然 もまた この 神性 を 宿し、 そのもの として 神聖であって 各 

瞬間に 神 的な 啓示 を 示す ので ある (K. 2)。 信仰の 対象た る 究極 的 根拠 はこの ように 彼岸に あるので はなく 此岸に 

あるので あるが、 とくに 最も 近く それ は 民族の 各自の 自己 自身の 中に 蔵せられ ている。 最も 内部的な 最も 力強い 

神 的 啓示の 芽 は 自己 自身の、 血の 秘密 を 承け て 固有なる 霊的 根源に あるので あって、 それが 世界 や 生、 運命と 関 



係して 起こり、 展開し、 各自の 内なる 神 的な もの I 面の 世界と 生ませられる 神 的な ものと 不 墨な 相 即と 協" 

において 一致す る 02)。 ここに 主体に おける 信仰の 根 も あるので あって、 その 信仰と は 覚りと 感動と であるが、 

それ は 右の ような 生に おける 凡ての 羹に胸 を 開き、 課せられた 内部的 運命に 活眼 を 寄せ (ヌ .s、 間断な き讓 

を もって 身 を 投げ 放っとい う 自己 救済、 白 己 決断に おいて 遂げられ るので ある ヌ - i。 このよう にして、 

一人の 人に おける 創造 籠 体が 彼 を 民族的な 現実へ と 管、 その 神 的な 根拠に おいて 自由 を 発見せ しめ、 净 化せ 

られた 協同 体へ と 致 同せ しめるならば、 それ は 民族 固有 性からの 一 心機と して 生まれ 出る ので ある (K- BO 

以上が ハウ ヮ ー の 所論の 大体で あるが、 他の 書 も 同様の 主旨で ある。 なお ベルグ マン 等 も 固有の 民族的 宗教 を 

義し、 伝承の キリスト si 性に 反する こと を 指摘して 民族的 雲の ために 「ドイツ 震 I」 の 樹立 を 企 

図す るので あるが (Berg 震 n, Die cliche Nationalkirche, 1933)、 その 神 観に おいても、 やはり 自然と 人間、 

とくに 民族の 力に はたらく 神性 をい うが、 キリスト教 的 用語 を 使って はいても その 内容 は 転 質せられ、 既成の キ 

リスト 教は 否定 さるべし となして いる。 しかし これらが、 ベルグ マンの いわゆる 息 神性 論 や 人間 神 論に おいて、 

とにかく 神と いう こと をい うのに 対して (それが たといい わば。 フレア 二 、、、スティックな 類型に おいて 理解され る 

としても)、 それらの 傾向に ついては、 その 神の 名の かわりに 民族の み をお くべき であると いう 批評 も 見えて い 

る (Kith, W., Die V ひ Ikische Religiosig d. Gegenwart, 1932; Antwort auf d. Myt ぎ, V935)。 

それらの 一々 に ふれる こと は 出来ない が、 全体として は、 普遍的 世界的 キリスト教 は 種族 固有な ものに 反する 

として 民族的 信仰に 帰ろうと し、 そして その 信仰の 対象と して は、 民族の 自己 自身の 全体た る 固有 性 即ち 血に 連 

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第 六 章 神と 実存との 間 



第 六 章 神と 実存との 間 一 五六 

なる 民族性 (或いは 民族 体) を もって 来る ので あるが、 それ は 単なる 生物 主義ではなくて も、 他面に 倫理的で あ 

る ともいう ように、 その 点で、 本来 的に 宗教 的な 所以の、 超越 性に おける 自覚と その 指摘に おいて 欠ける ものが 

ある。 もちろん ハウ ヮ ー の ごとき も その 「絶対 性」 の 要求に おいて、 キリスト教 における それと は 全く 趣 を 異に 

するとい うが (Hauer, a. a. o: S. 242)、 有力な 宗教 史学者で ある にもかかわらず、 いうと ころの 範囲に おいて- 

宗教 性の 省察が 十全で あるか は 疑わしい。 また この 信仰 運動の 特質と して は、 その 基調が 現在の 国家的 政治的な 

世界観 的 理念に おいて 限定せられ ている という ことで あるが、 従って、 この 信仰に おいても たれる いわゆる 太古 

ゲルマンの 信仰と は、 太古 それ 自身の 復活で はない。 それに 寄せての、 現在の 民族精神 (理念) の 崇拝で あり、 

古代 神話に 仮託し、 これ を 表徴と している 点に ついても 問題が あろう (bzw. vgl. M£ler, a. a. OJ S. 47f.)。 いわ 

れ るよう に 新しい 宗教 をつ くるので はない かもしれ ぬが、 しかし そこに は 本質的な 弱点が ある。 

人間 や 歴史の 理念、 或いは 世界観の 理念に おいても、 また 宗教 的 神学 的な 反省に おいても、 神と 実存す る 人間 

との 間に は 上の ような 懸絶が おかれて 来た。 そのような 懸絶 を 前にして、 実存す る 主体の 宗教 的 態度と して は、 

偏え に 彼岸 的 超越 者に 参 じて、 現実 を 遠の くものと、 此岸 的な ものへの 信奉 随順に、 宗教の 既成 性 成立 性 を も 約 

束しょう とする ものと が、 上の 範固 においても 出て 来て おり、 セム的 性格と インド ゲルマン 的 アリア ン的 性格と 

の 対照にまで も 及んで いる (ギ ユン タ ー、 口— ゼン ベルグ、 ハウ ヮ ー 等)。 機能的 本質から いえば 真の 宗教 的 決断が 専 

ら 前者に おいての み 可能で あると いう こと はないで あろうが、 しかし 後者の 形態に は 無理が あるの であろう。 

vor Gott の 決断 は、 究極の 根拠へまで 解体して、 実存の いわば 底辺に 投射して みれば、 実は vorNichts の 決断 



こ 外なら ない。 神へまで の 超越と は、 かりにい わば 等 根源 的に、 無への 讓 であり、 それ は、 存在者と しての 自 

己の、 その 存在の 当処、 超越の 当処 への 超越で ある。 そこに、 本来 的に 囊 的な ものの 機能的 根源 的な すがたが 

ある。 その 超越に おいて ある 存在 惑に おいて、 そこから 見られる 或いは そこに 施設 せられる 対 極 者が、 成立 謹 

教 において いわゆる 超越 的存秦 なのであろう。 形態 的 成立 的に は 必ず これらの こと を 要件と する。 このような 

観点から、 後者の 場合 をみ ると、 国家と 個体との 関係に おいても、 觀 的に は囊的 であり 得ない という こと は 

な、 、も 知れぬ が、 しかし だからといって その 関係 を 直ちに 既成 的 成立 的な 宗教 性に 代換 するとい うこと は 当 を 

得て いない。 けだし、 その 民族と いう 観念に は 宗教 的 超越 的な 対 極 者と しての 性格が 賦 せられて いないの である。 

このような 点から も、 また 宗教の 根拠 や はたらき という ことが、 慎重に 吟味せられ、 それぞれの ところが 明らか 

にされ なければ ならぬ 事情に 来て いると 思われる。 

(1) ョ 1 ロッパ という 名と キリスト教との 結合 は 十八 九 世紀の 交、 ノヴァ リス ゃシ ユレ— ゲルに よってな された という 

(VK ム Roitock, E., Die if Revolutionen, 1931, S. 32)。 へ 1 ゲルの いう 近世 的 自覚 も 「 キゝ リスト 教的ョ 

— 口 ッ。、 」 的で (vgl Encycl., (vm), §163 zusatz) 、「西洋」 が 深い 内面的な 普遍性 を 望む のに 対して. - ョ— 口、 ハ 

P ち キム ト教 的ョ, '口 ッパの 人. S 具体的 霊 を その 性格と し、 臭 的 理性 Is 理 として、 これ 皇 える 何物 もな 

、 と 考えて いると ぐつ (vgl. Phil. d. Geschichte, (XI), S. 423, Encyd. (X), § 393 zusatz)。 

2 Barth r L. if in : Die Thete u. Kl, 1928, S. 21139. 即ち、 神が 人間の 「信仰」 の 内に と 

り 入れら e、 神が 人に なり、 人が 神に なった とみる その キリスト 論に おいて、 ルタ 1 の 主張 は フォイ エル バッハ を 印象、 つ 

ナ、 彼の 所論 を 方向 づけた とみる。 神と 人との 間の 交互 可逆の 関係 は、 その 極、 当然 神学 を 人間学に おき 代えし める。 近 

;: 中 面 こ フォイ ヱル バッハの 所論 を 打ちく だく 権限 を もたない。 フォイ ヱル バッハ は 正に 裸の 人間 を 凝視した ので 

あった。 その 凝視 こそが 神に 至る 最高 必然の 道で ある。 ただ そこに 彼 は 死す る 人間、 悪 ある 人間 をみ ないで やはり 神に 

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第 六 章 神と 実存との 間 



第 六 章 神と 実存との 間 一 五八 

連なる 類 的 人間の 抽象 をみ たので あると いうので ある。 

>) 決断 は 選択で あり、 取捨 択 一 の 内面的 行為で あるが (Kierkegaard, 7: R, Entweder-Oder, (II), S. 141ff.)、 その 択 

一 の 為される 当処は 対立であって 調和で なく、 非 連続であって、 連続で ない。 従って そこに は 深刻な 断絶が あり、 それ は 

主体的な 捨身の 激情に よ つて 決せられる のであって、 倫理的な というよりも 寧ろ 本質的に は 宗教 的な はたらきの 場面で あ 

る。 キヱ ルケ ゴ I ル において はもち ろん 宗教 的 決断が 重要で ある。 そして 最近で は、 とくに 神学の 領域に おいて 特殊 化せ 

られ たが、 ひとり 神学に 止まらず、 現に 歴史 や 社会の 面に ついても 決断と いう ことが いわれて いる。 それらの 自覚 をと く 

に 前世紀の それに 対して 指摘す る ものと して は、 たとえば Sclimitt, p, Positionen u. Begriffe, 194P S. 27lS. u. f 

PVeyer, H., Das geschichtliche Selbstbewusstsein d. 20 Jhts., 1938 (2), bsdrs. S. 18ff. u. a. 

4) 一九 五 四 年に 訪ねた とき、 キヱ ルケ ゴ— ル はじめ、 一連の 人々 に対する 態度 はか わらぬ といい、 人間学 や 宗教哲学 は、 

現象 的な もの をみ ている ので 事 そのもの をみ ていない。 事 そのものと は、 人間の 範囲 を 超えた 神との 関係で ある。 神学 は 

この こと を宣 命し うる ものであるが、 人間学が 関係す る 関係と は 凡て 反省 的な ものにす ぎない。 否定と、, つても、 それ ま 

人間的な もので あり、 口にする だけの ものである。 宗教哲学の 意義 も 亦 この 範囲に あるので あって、 人間と はか かる もの 

だとい うこと を 明らかにし、 どの 点に 人間の 終わりが あるか を 明らかにする ことに 意義が あり、 それ は、 神の こと を 知ら 

ぬ 範囲での ことで あると いっていた。 他の 宗教に キリスト教の 信仰と 同じような 信仰が あるか、 宣 命が あるかと いう こと 

について は、 自分 はわから ぬと いったが、 上記の 浄土宗 及び 浄土真宗 のこと は、 1/2, §17 Die wahre Religion の 箇所に 

書かれて おり、 そのこと について、 私に いろいろ ききただ していた。 

5) いわゆる 弁証法 神学と いっても、 異なった 立場の 人々 が 寄った もので、 一九二 一年 ころから 二 七 年 ころに かけて は 或 

る まとまりが あつたが、 その後、 別 かれ 別 かれに なり、 一九 三 三年の ナチ スの 統制に 対する 関係 を 経て、 現在で は 更に 分 

岐 している といって、 私に 六本の 線 を 書いて 示した。 現在、 自分と 近く、 或いは 同じ 考え方に あるの は トゥルナイゼンで 

あると いっていた。 ブルトマン や ハイデ ッガ— との 対立 は 早い 頃から いわれて いたが、 ブルトマン はゴ— ガル テ ンと 最も 

近い 考え方で あると 私に 語って いた。 なお、 ブルン ナ I は 以前から 人間との 連関 をい つていた 人で あるが、 昨年 (一九 五 

〇) 来朝の 節に も キリスト教 的な 人格主義 を 主張して いた。 その 節、 バルト も 最近 人間学 を 書き、 自分の 説に 近よ つた も 

の だとい つていた。 しかし、 バルト は 彼の 立場に 対して は 冷淡な 態度であった。 



r6) 即ち 世間 や 社 寒 外部からの 宗教に 対する 制約と して、 さきに あげた 観点から みると、 ここで はとく に 直接に 積極的 

こ 政お t:"r ら L 定を 受ける わけで、 従来と 趣 を 異にする (ソヴィエトの 場合と も 異なる。 政治的に 規制 せられる 

i"::) 。すでに 党の 綱領の 二十 四条に は、 I の 存立に 危険 を 及ぼさず、 ゲルマン 民族の 道徳 感情に ほ n るかぎ りに, 

お、 て、 国内 こお ナる 凡ての 宗禁 派の 信仰の 自由が 要求せられ、 党と して は 特定の 宗派 信仰に 属せぬ 積極的 キリスト教 

(ein positive chrisi という 立場 をと ると 規定せられ、 その後の 経過 や 種々 註解せられ た" のにつ いて U て もこの 

艮本ま 変わらよ r (vgl. Rosenberg, A., Wesen, Grundsf u. Ziele d. NSDAP, 1937 (15), Fabni, Das progrim 

r NSDAP Koellreutter, p Der Aufbau d. (lichen n Rosenberg, ff ま In 

u Kultur On : Die Verwartungs-Akademie, Bd. I, Nr. 6, 19, 1,) ; R き, G: Das dritte Reich, doln き Dar- 

llung d. Aufbaues d. Nation, 6 Bde, 193T39, Bd. I, IP 17, n, 22, p 15, V, 23, VI, 23, 昏. Dokule 

d deutschen Politik, herausg. v. P. M. Benneckenstem, 1929J。 

即ち 一 了 政 的 こま 宗 I 制の 始まった 当初に は、 文相 ルストが いったよ うに (一九 三 三年 舂)、 当時の 教会 は 外部の 敵に 

対け つ" て も 最早 や 力がない から、 霞の 手で 改革す るので あるが、 教会 や 信仰 は その 宗教 的 機能 を妨 

" ら M る ことなしに は 先ず 匿、 民族の ものでなくて はならない。 また 他面 唯物論と 結合した 宗教の 社会的 政治的 運動に 

^て气 とくこ 钝 粋に 精神的な るべき 信仰 は その 政治的 世間 的 生活に おいて は 全く 民族的 国家 管理の 下に あるべき あ 

! L せ;; れた。 I ではと くに 公私の 別 を 明らかにする ことが 強調せられ、 覧は 私人と して は、 上の ような 条件の 下に 

おいて 言教の 自由 を 有する が、 しかし 当然 公人と しての 世界観 的 理念 乃至 道義 倫理の 限界 を 出る こと は 出来ない。 その レ 

わ ゆる i 的 キリスト教に は、 国 霧 神の 戦いに 殉じ、 一一 i においてで はなく、 自ら 死 を 決して 神の 秩序の 顕現た る 新し 

き 世界観の ために 戦う ことが 要求せられ るので ある (ケル 口 イタ—、 フ アブ リシ ウス、 塞に この 点で"" 1^;,;:- 

掲 本文 を も 参照))。 従って 教会 や 個人の 内部的な ものに ついては 右の 範囲で 自由で ナチ ス 民族と しての 個人と 民 ^ の f 、;^ 

U ストに ある ことが 承認せられ るので あり、 そのような 関係に おいて 福音教会が とった ような 「国髮 会」 的な 態度 

そこで 民族 協同 生活の 最高 準則と しての 指導者 国家の 世界観 的 理念と 個人の 宗教 信仰の 領域と は 分けられ るが、 しかし 

本質的 組織的に は 別で あっても、 個人の 精神 生活に おいても 民族性の 問題と しても 緊密な 連関が あると せられる。 

1 EUMU 

第 六 章 神と 実存との 間 



第 六 章 神と 実存との 間 一 六 〇 

(7) すでに 口— ゼン ベルグに 民族的 国家的な キリスト教の 考えが 出て おり、 多くの 議論が なされて いたが、 要は 上に あげ 

たような 意味で、 神と 国家との 関係と、 啓示の 解釈と いうよう な 点に 問題が ある。 最初 ドイツ • キリスト教に とつ て 神学 

は 二義的な ものと せられ、 その 成立が 危ぶまれた けれども、 自由 神学 や 正統派の 人々 の 加担 等 も あ つ て 逐次 論議せられ、 

ウイ ネッケ や スタ— ベ ル 等が 知られて いたが、 最初の それ は 自然 的 倫理的な 問題 を 中心として 思想 的 核心に はふれ ていな 

かった と みられる。 その後の 事情 も審 かで ない が、 ゴ I ガル テン 等 特異の もの を 別と して、 一二の 例 を あげてみ る。 

(00) この 傾向 も 古くから あり、 先き の 大戦 前 や 大戦 中に も あ つ たので あるが、 大戦 後の ものと して は、 就中 wund ftir deu- 

tsche w-^«.o^^ や D ひ utsdier chlristent-uncT レ ヴェン トロ フ、 フリッチ、 ファ— レンク 口 —グ 等の 関係した D ひ utsch ひ 

diristliclie Arbeitgemeinschaf t 等が あり、 Bund f • deutsdie ICirche は 後に ル— デン ドルフ 及び その 夫人の いわゆる Tan- 

nenbergbund の 「ドイツ 国民」 運動に 接近し、 雨後 この 「ドイツ 国民」 運動の 盛んな 発展と なった ので あるが、 さらに 

一 九 三 三年 七月に は Germaniscli-deutsche Glaubensbewegung が 成立、 ハウ ヮ,' 、ベルグ マン、 ドレウス 等の 専門 学者 も 

いた。 その 間 変革 を 経て 新たに Deutsche GlaulDenslDewegunw として 発展 をな し (一九 三 六 年まで ハウ ヮ— ゃレ ヴヱン 

卜 口 フが 指導者と な つていた)、 一 九 三 四 年 十月に 結成 せられた Nordische Glaubensgemeinschaft や Nordische glau- 

bensbewegung を 圧して 運動の 本流 をな した かたちであった。 極く 最近の 様子 は審 かで はない が、 一昨年 来た ナチ ス 学徒 

隊の クラッセン (ハイデルべ ルグ 講師) は ドイツ. キリス ト教は 知らな いが ドィ ッ 信仰 運動 は 形態 を も つて やって いると い 

つ た Mtiller, A., .ole neuwermanlscllen ReliTOlonst-lldunTOen d. ^treTOenwart, 1934, ^t^M^re. a. a. 〇., p-ower. M., 

Religion in the Reich, 1939.)。 

由来 この 運動 も 口 —ゼン ベルグの 『二十世紀の 神話』 の 考えと も 連関 を もつ ので あるが、 彼が、 われわれの 信じる 神 は、 

若し われわれの 血と 心と がな か つたならば、 あり はしない (Mythus d. 20 Jhts., 1937 (1071110), S. 701) と 標語す る 

ように、 その 書物 は キリスト教 を 否定 はせ ぬと しても 民族 固有 的に 転 質せられ る こと を 期す るので あり、 その 点 は ドイツ • 

キリスト教に 応じる 一 面で あるが、 しかし 他面に それ は 伝来の キリス ト教の 特質と は 全く 異な つ たもので あると いう 点 を 

つきつめ ると ドイツ 信仰 運動の もつ 線に 通じる ので ある。 (それに ついては 賛否 種々 に 論ぜられ ている。 Z. B. Grtlnna- 

wel, Rosenberg u. rc^^ar 1934, Winkler, a. a. 〇., w^c^^. H., Abendlandische Entscheidung, 1938, wtrs. vgl. M. 

d. き Jhts., a. a. 〇., Einl. z. 3. AufL, S. 5118, Brachmann, w: A. Rosenberg u. s. Gegner, 1938, Rtlhle, a. a. 〇., 



s. Ill, S. 293「u. a.:}。 

附記 この 篇は 昭和 十七 年 (一九 四 二) 四月の 「思想」 に 出された ものである。 外部 的 世界的な ものからの キリスト教 的 

な 考え方の 制約 を 扱う 項の 終わりに、 ナチ ス 治下に おける いわゆる ドイツ • キリスト教 や ドイツ 信仰 運動 を迪 つて 

あるが、 近代の 宗教 思想 史的 状況の 帰結と いう 謂いで は 勿論ない。 当時 見る ことの 出来た 最後の ものであった ため 

である。 tense も 今日で は 違う が、 そのまま にして おいた。 



第 六 章 神と 実存との 間 一 六 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 



初めに 問題の 方向と 見込みが きをして おきたい。 

宗教の 事実 は 人間 生活に おける 現実的な 事実で ある。 それ は 人間の 外面 的 事実で あると ともに、 とくに 各自 

的な 内面的 事実で ある。 そこ を われわれ は 最初の 前提と する。 ところが、 実際の 従って 直接的な 宗教 径験 にお 

いて、 人々 は 色々 な 宗教 的 客体に 関係し 交渉して いる。 そういつ たような 宗教 的 事実の 共通 性と か 類型と か を 

求める ので はなく、 われわれの 問題 は、 それらの 色々 な 宗教 的 事実 や 宗教 的 関係が、 そこ を もとと している と 

ころの いわば 根底、 ないし 根拠 を 尋ねたい ので ある。 その 場合に 先ず 注意せられ るべき こと は、 その 根底 は あ 

くまで も 事実の 底 をな している もので、 事実の 他 処には 求める わけに は ゆかない という ことで ある。 

そこで、 かかる 底 や 根拠の 索め 方 は、 まず 直接的な、 色々 な 宗教 的 事実の 規定 性 や 積極性 を 解き ほぐして 究 

の^ 拠 こと どく、 そこより 外に は ゆきつき 場がない という、 そこが 底で あると みるより 外 はない。 そのよう 

第 七 章 宗教の 根视 について 一 六 三 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一 六 四 

にして 解き ほぐされた、 宗教の 基礎的な 底の 所在 を 見て みると、 われわれの 見込みで は、 めいめいが 現実に 存 

在して いる、 その 存在の 当の 処、 在りの ままのと ころに、 宗教の 究極の 根拠が あると 思われる。 ただし、 その 

在りの ままのと ころと は、 そのもの としての 自己、 主我 的な 自己 を 超えた、 超越 的な、 いわゆる 存在者の 存在 

の 場面で あり、 同時に 其処 は、 後に 叙べ るよう な 意味で、 そのもの としての 自己なる ものの 無 さ、 空し さに お 

いて ある 場面で も ある。 しかも、 それが、 主体的に いえば、 在りの ままの 自己 乃至と くに 一切の 存在者の 真実 

の 存在の 場面で あるが、 そのような ところに 11 撒な くと も 人間 存在の 主体的 究極 的な 在り方に 基づいて みる 

立場から いうと —— 宗教の 究極の 根拠が あると みられる。 そして、 そこにお いて、 そのと おりに 在る こと、 即 

ちその ものと しての 自己 を 無み し、 空しく して 在つ ている こと II それが 自己の 在りの ままに 在る こと — が、 

宗教の 本質的な、 かつ 本来 的な すがたであろう と考えられるの である。 

そこで、 初めに、 われわれが、 かかる 見込みと 予想の もとに、 進んで ゆく 方向と 態度と に ふれて おく ことが 

必要で ある。 

われわれが 前提と すると ころの 宗教 的 事実と は、 客体 的に、 たとえば いわゆる 歴史的 或いは 社会的 現象と し 

て、 斯々 の 事実が ある こと を 中心とする もので はない。 そのような 事実の なかに おいてで は あるが、 とくに 各 

自 的な、 主体的に 径 験せられ ている ところの、 宗教 的 事実 乃至 は 現実の、 当の 場面 を 前提と する ので ある。 即 

ち 先ず 個体が 宗教 的に 実存して いると ころの、 主体的 現実の 当の 場面 を 前提と する ので ある。 

このような 宗教 的 事実の 場面と は、 ごく 素朴 的に いえば、 個体が 或る 規定 性に おける 宗教 的 対象に 対して、 



宗教 的な 態度に おいて 関係して いると ころの 事態で あると いう こと 力 出来る 

もっとも 以上のと ころで は、 宗教 的 事実と か、 宗教 的 対象と か 宗教 的 態度 等と いっても、 未だ その 宗教 的と 

いう 所以に は ふれられ ていない。 ただ 斯々 の 事実が 宗教 的 事実に 外ならぬ という 予想 を もっている に過ぎない。 

ところで、 先ず このような、 宗教 的と 予想 せられる 事実に おいて、 個体が それに 対して 態度 をと つてい ると こ 

ろの 対象 を、 そのもの としてと り 出して 来て 研究す る こと も 出来よう し、 或いは また 態度 をと る 主体 そのもの 

について 研究す る こと も 出来る。 そして、 その 場合の、 客体 そのもの、 或いは 主体 そのもの を、 経験的 或いは 

演繹 的に 遡及して、 実証的に 或いは 形而上学 的に、 「宗教 的な もの」 を 立てて 来る こと も 出来る。 

けれども、 それらの 場合に は、 現実の 宗教 的 事実 性 或いは 事態 性が、 そのままのと ころから 反省せられ るの 

ではなく して、 宗教 的 事実 を 形成して いると ころの、 肢体 的な もの そのもの へと、 転移され ている ことになる。 

わ,, つ e の 方向 は、 かかる 方向に おかれる ので はない。 現実の 宗教 的 事実 を、 いわば、 他の ものに 渡さないで、 

そのままの 事実 乃至 は 事実 性 を、 そのと ころに おいて、 その 仕組み を 解体して ゆこうと する 方向 をと る もので 

ある。 況んゃ 予め 囊的 対象 を 裏の 外に 立てて おいて、 そこから 囊的囊 へと 構成 的に 出て 来ようと する 

もので もない。 或いは 素朴 的な 意味に おいてい われる ような、 宗教 的 本能と いう 如き もの を 立てて、 そこから 

宗教 現象 を 説明しょう とする ので もない。 さらに 他の 究め 方に ついていうなら、 思惟に よる 論理的 妥当性に よ 

つて、 宗教 を 基礎 づけ、 権利 づける という 仕方 も ある。 宗教の 事実 もまた 在る のであって、 無い ので はない。 

在る ものが 在る ところに おいて、 それ は 論理 を もっている であろう。 しかし、 その 論理 は 存在の 論理であって 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一 プ五 



み、 ポ き:^ i という 在り方 は、 先ず 極く 素朴な 意味で いわれて いると おりに 考えて おく 外 はない I (われわれに 

とって は、 今の 場合 それだけで よい。 後に 明らかになる ように、 要処は 実存 するとい うと ころに あるので ある 

から)。 かかる 場面に おいて 経験せられ ている ところの 宗教 的 事実と は、 その 経験が、 いわゆる 成立 的 宗教に 

よると 否と にか かわらず、 すべて 直接的に は、 特定の 規定 性の 中に おいて 存在して いるもの である。 主体が 現 

実に 存在す ると は、 種々 の 積極的な 規定 性に おいて 規定せられ ている からで ある。 けれども、 われ わ,.^ にこの 

ボジ ティブな 諸相 或いは 一般 相 を 集約したり、 または 帰納したり しょうと する ので はない。 当面の 宗教, 大 

ないし は 当事者に とって、 宗教 的 事実と 思われて いると ころの 事態に おける、 ポジティブな 直接的な 事実 性 を 

反省 的に 解き ほぐして、 その 究極の 底に 到ろうと する ので ある 

従って、 われわれの 研究の 方向 は、 宗教 的に 実存す る こと を、 その 当の 処 において 解き ほぐして ゆく ことに 

なり、 さらに その 極 は、 実存 するとい うことの 究極にまで 至る ことになるであろう。 この間、 そのよう に 解き 

ほぐす 経過に ついていうなら、 一応、 宗教 的に 実存 するとい う、 その 宗教 的と いう ことまで も 失われる かに さ 

え 見える。 しかし、 かかる 解体に よって、 立ち至り 得た 実存の 究極 的な 根底ない し 根拠 こそが、 実は 宗教 的に 

実存す る ことの 11 人間 存在の 在り方の 根底に きかれる かぎりの II 根拠で あり、 かつ、 か 力る 根拠へ と 向 力 

つ て 個体が 自己 自身 を処 する ことが、 宗教 的に 実存す る ことの 基礎的な 本質に 外ならぬ ことが 明らかになろう „ 

即ち、 それへ と 向かって、 宗教 的 事実 或いは 宗教 的に 実存して いる こと を 解体して ゆく ところの 究極 は、 そ 

れ において 人間が 存在し 実存す ると ころの 究極で あると 考えられる。 ここに われわれの 求めて 行く 方向が 明ら 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一 ブイ 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一 六 八 

かになる。 

それで は、 それへ と 向かって、 われわれが 求めて ゆく ところの 極処は 如何なる もので あるか。 われわれの 方 

向が 帰趣す ると ころ を 見さ だめて おく ことが 必要で ある。 それ は、 実存に おいて、 現実に 存在す ると ころの、 

個体の 存在の 当処 である。 そこが、 個体が それにお いて 宗教 的な 現存 在 を もち、 宗教 的に 実存す ると ころの 究 

極の 場面で ある。 かくいう と、 宗教 的に 実存す る ことと、 それの もとづく 究極の 根拠との 間に、 隔たりが ある 

ように 考えられる かも 知れない が、 決してそう ではない。 宗教 的に 実存す る こと もまた 実存す る ことで あるか 

ら、 実存の 根拠が 宗教 的 実存の 根拠で あると いうよう な こと 以上に、 かかる 根拠に おいて、 自覚 的に 居る こと 

が、 宗教 的に 実存す る ことの 本来の 様相で あり、 ここ を 逸して は、 本来 的に は 宗教 的に 実存す る ことに はなら 

ぬ ほどの 連関に 立つ ので ある。 

即ち 個体の 存在の 当処と は、 個体 そのものに 内 属して いるので はない。 存在者と その 存在と は、 その 所在 を 

いわば 別にして いる。 この こと は 現象学 的な 考え方に おいて 明らかにされ たが、 ことに、 ハイデ ッガ —の ごと. 

き は、 現象学に おける 志向 性の 問題に もとづいて、 この こと を 最も 明らかにした のであった。 いわゆる 現象学 

的 存在論 等と いわれる 所以で ある。 これらの こと は 後に 明らかにす るが、 個体 もまた そのもの として は、 存在 

者で ある。 その 存在者 は 自己の 存在 を 何処に もっかと いうと、 まさしく 志向 性の 当処 にもつの であって、 それ 

は、 先ず 一応、 観念的た ると 実在 的た ると を 問わず、 或る 相手の ものへ とわたって、 存在者と しての 自己 を 超 

えて 先駆す る。 厳密にいえば いわゆる 世界へ と 超え 出る ので あるが、 この間の こと は 後に 述べよう。 かくて、 



主体が 存秦 としての 自己 皇 えて、 その 超え 出た ところ (それが 即ち 存在の 当の 場面で あり、 世界と レ わ.^ 

ると ころの ものである) ii おいて、 存秦 としての 相手の ものへ と 関係す ると ころの、 その いわゆる 地平と い 

うか、 いわば そこにお いて 相手の ものへ と 亙られる ところの 地面が、 存在者と しての 主体の 存在の 雷で ある。 

同時に、 相手の 存在者の 存在の 場面で ある。 4-、」 において、 私が 相手の ものへ と 亙る ところの、 また 相手の も 

のが 主体の 私に とって 存在す ると ころの、 その 其処、 即ち 私と 相手の ものとの 関係の 然か あると ころの 当処 が、 

^お 者の 存在の 所在で ある。 

このような 構造に おいて、 存在者 は その 存在の 場面 を、 そのもの としての 自己 を 超えた ところに おいても つ 

ている ので あり、 存在者と 存在と は、 その 所在 を 異にする ので ある。 否、 主体的に つきつめて 厳密にいえば、 

存秦と は、 そのもの として は 存在す るので はなく して、 それが 存在す るかぎ りに おいて は、 その 存在 を この 

ような 自己 を 超えた 場面に おいても つので ある。 主体的に つきつめて ゆく と、 そこが 主体の 唯一 の 存在の 場面 

であり、 また、 相手の 存在者の 唯一 の 存在の 場面で ある。 

一切の 存在す る もの は、 白 他 主客 いずれも、 存在す るかぎ りに おいて、 その 存在の 拠り どころ を、 かかる 存 

在の 当処 において もつ。 従って、 存在者と しての 個体が 在り、 また 在り 得る 究極の 根拠 もこ こに 存 する。 しか 

も その 存在の 当処 は、 存秦 そのもの としての 個体 自身から は 超越した 讓性 において ある。 そして、 かかる 

存在者の 存在の 超菌 において は、 そのもの としての 存秦、 今の 場合、 とくに 存在者と しての 個体 は、 無 さ 

空し さ 即ち 無に おいて あると みられる。 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一 力 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一 七 Q 

そして、 かかる 超越 的な 存在の 当処、 即ち、 存在者の 無 さ 空し さの 当処、 しかも そこにお いて、 存在者が 在 

りの ままなる 存在 を もっと ころの 当処 において、 在りの ままに 居る という、 そのような 苦り 方、 処し 方と して 

は、 そのものと しての, I という こと は、 実は そのもの として 措定され ている ところの — 個体 性 を 無くし、 

空しく する ことによって、 そこに 居る こと を 期す る 外 はない。 かかる 超越 的な 存在の 当処、 しかも 個体に とつ 

て は、 自己 自身 11 後に 叙べ るよう な、 固有の 意味に おける 11 の 無の 当処 に、 上に あげた 観 占 ^ から 、こんよ、 

宗教の 本来 的な、 根源 的な 根拠 —— 即ち 理由 11 が あると 考えられる。 

三 

以上の ような 素 書きの 上で 本論に うつりたい。 

人が それにお いて 生きる ところの 宗教に おいて、 神仏 その他、 宗教 的 対象と いわれる もの は、 当然 また 必ず 宗 

教 経験 を 前提して いる。 宗教 経験の 機能的な 根底 は 主体の 自己 否定と いう ことに あるが、 その 本質的 特質と して 

「神秘的」 とか 「超自然的」 とか、 さらに は 「他者 性」、 「拒否 性」 という ことがあ げられ る。 後に 叙べ るよう な 

謂いで、 後者 は 機能的な 機 制に もとづく もので、 より 基本的な 観念で あるが、 宗教 経験が 何に 対し、 何に とって 

他者 的で あり、 拒否 的な のかと いうと、 それ は 個体 的な 主体に とってで あり、 端的に いえば、 主体の 意識に とつ 

てで ある。 その 主体と は 個体 的 自覚の 主体で あり、 世俗的 日常 的な 経験の 領域に おける 悟性 的 分別 的な 主体で あ 



る, I この こと は オット 1 の 主張に おいて はもと より、 デュル ケ厶 等の 所論の 反面から もうかが える ことで ある 

と、 つてよ い II 。 それ は 自己なる ものが、 個 然と あると 考えて これに 対する 相手なる もの を 立て、 それに 欲い 

願い を かけて 分別し 執着し、 あれこれの 待 対 揀択を 事と する 主体で ある。 そのような 悟性 的 情 執 的 主体に とって 

他者 的 拒否 的な 霞 I と は、 そのような 性格と 層 位に おける 主体の 1 において 行なわれ 生きられ ている I 

という ことで ある。 

直接的な 即ち 讓の囊 i において は、 霊し 転じられた 主体に とっての 他者 的存秦 I- むしろ、 この 他 

者 的 拒否 的な 場面から 象徴 化された (デュル ケム )、 或いは その 場面に おいて、 逆に、 図式 化に おいて 捉えられる 

ような (オット ー) 諸 性格の 託せられた、 または、 地上 的 経験からの 類推と 投射 及び 想像に よって 構想され たもの 

、帛密 な 意味で は、 ル ース. ベネ ディ クト など) といわれる ような、 いろいろな 性格 を 自己の 属性と する 存在者 

—— が 観られ 立てられて いるので あろう。 勘な くと も 解釈 的に はそう 考えられる。 けれども ここで は 直接の 宗教 

経験に おける 11 そこで 打ち立てられ ている 1. それらの 対象 的 存在者の もとにお いてで はなく、 この 当の 経験 

の 場面の 基礎的な 構造に ついて、 宗教の 本質的な 事実 性と その 根拠と をたず ねて みる。 

宗教の 存在 根拠に ついては 色々 の 観点から いわれて いる。 近世 以降に おいて は 地上 的 人間的な ものから 出発し 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一 七 一 



由来、 人間の 処世の 営みの 全体 的 連関に おいて 宗教の 問題 を 究明した の は 最近の 科学的 研究の 業績で あつたが 

哲学 もまた これに 相応す る 問題 性 を 開いて 来た。 われわれの 現実の 場面 は、 環境 や 社会 や、 歴史 や 時代 等の 観点 

から も 考えられ るし、 客体 的に それらの 諸 条件に 約して 考える こと もで きる。 また 最近の 社会科学が 緒 をつ けた 

ように、 それらに よる 事情 を 主体的 連関に おいて、 即ち 状況 的 連関と して 考える こと もで きる。 従って また 宗教 

の 存在 根拠 を それらの ものに 求めて 来る という こと もで きる。 フォイ ュ ルバ ッ ハ の 連関から、 彼の 所論 を 半ば 観 

念 論、 半ば 唯物論と して、 これ を 後者に 集約した の は 史的唯物論であった。 しかし、 そこで は 宗教 的な ものの 本 

来 生 は 見失われる。 なかん ずく 右の 傾向のう ちで、 宗教の 根拠の 問題に 卓越した 指針 を 与えた の は デュル ケムで 

あるが、 そのこと について は 後に ふれる。 

フォイエ ルバ ッ ハ につ いて、 その 所論の 吟味と、 上に あげた 問題からの 方向 づけとの ために、 ここで 少し 詳 

(2) 

しく 敷衍して おきたい。 

実存す る 人間の 存在と は、 私と 相手の 汝と がー つに おいて 在る こと、 しかも それ は 相互に 対立 的な ものの 統 

一 において、 ともに 主体的に 一 つに おいて 在り、 協同に おいて 在る ことで ある。 この こと は、 ドイツ 観念論に 

対して 彼の 人間 論の もちえ た 大きな 業績であった。 しかし、 更に 後年に おいて は、 それ は 実は 自然 存在者と し 

ての 私が、 相手の 自然 存在者との 類 的 統一 において、 自然 存在に おいて 存在す る ことに 外ならぬ とみて 来た。 

即ち 実存す る 個体の 存在と は、 一人で 存在す るので はなく、 その 時 その 場に おいて、 対 者と ともに、 しかも 相 

対して 両者の 類 的 統一 たる 自然にお いて 在る ことで あると いう こと、 かつ その 場合、 私と ともに 類 的 統一 にお 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて - - 三 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一 七 四 

いて 在る 対 者 は 数多で あり、 全体で あり、 また あり 得る ところから、 私の 存在が 可能 的に 人類の 存在、 自然 一 

般の 存在で あると いう こと を 明らかにした。 II 彼 自身の いうと おり、 人間 存在 を 決定的に 自然にお いてみ る 

の は 『宗教の 本質』 以後の ことで あり、 とくに 『宗教の 本質 講義』 において この 考え は 徹底す る k。 

宗教の 根拠 を 成立 的な ものの 根底に おいて 索め ようとす ると、 彼の 人間学で もや はり かかる 在り方に, J つ ハて 

現実に 存在す る 人間の 在り方の 根底に おいてみ る 外 はない。 ところが、 宗教の 所在 はか かる 人間の 存在の 場面 

にある ので は あるが、 とくに それ は 実践の 場面に おいて 出て 来る。 実践的と いうの は、 主体的に 自己の 生の た 

めに する ことで あるが、 自己 愛から 発して、 相手 を 自己との み 関係 させ、 自分の 役に立つ ことの ためにの み 関 

係させる ので ある。 宗教の 対象 は、 実際に 存在す る 対象ではなくて、 II もっとも、 根源 的に いえば、 かかる 

対象に 対する ので は あるが、 それから は 離れて 11 、 ただ 右の ような、 自分の ため 或いは 私に とってと いう、 

そのため、 或いはと つてと いう 関係の 場面に おいて 成立す るので ある。 従って、 宗教の 事態が、 かかる 場面に 

おける 主観性に おいて、 主として 問題と される 理由 も ある。 

宗教の 所在と その 根拠 は、 このように、 実存に おいて 現実に 存在す る 人間の 実践の 場面に おいて ある。 その 

実践の 場面と は 自然に 外なら ない。 自然 は 宗教の 最初の また 最後の 根拠で あり、 根源的対象でぁると彼はぃ(^^^> 

『キリスト教の 本質』 では、 宗教の 対象 は 神で はなく 人間の 類 的 本質で あると したが、 『宗教の 本質』 以後に 

おいて は、 キリスト教 も 自然 宗教 も 併 わせて、 一般に 宗教の 第一の 対象 は 自然で あると いう こと を 決定的に 論 

(7) 

断す る ただし、 自然と いっても、 それ は 抽象され た 自然 一般な どで はなく、 この 時 この 場に おいて、 私が 対 



処 する 相手と しての この 自然 I でき)。 そして、 この ことの 理由と 意義と は、 囊 がすべ て1 性に 

もとづく という ことによ るので あるが、 『キリスト教の 妻』 等に おいて は、 それ は 未だ 不徹底であった。 『宗 

教 の奏』 以後と くに 『讓』 において、 蜜が 感覚 性に その 根拠と 根源 を もつ こと を 謹し 強調して 来る の 

この こと は、 フォイ エル パッハと して は 徹底した 考えであって、 ここにお いて、 囊の 根拠が 真に 人 

間 存在の 存在の 当処に 根ざす ことが 明らかにな るので ある。 

従って、 彼の 宗教に 関する 取扱いが 単に 心理的で あると いう こと も、 置 的な もので あり、 そうみ (U て) しまう 

こと は 誤りであって、 やはり 現実の 人間 存在の 当の 場面に おいて 扱って いると みられな けれ (1 ら ない I 

宗教 は 単にた だ 架空な もので はなく、 人間 存在の 即ち 自然の 当処に その 根拠 を もつ ものである。 そこで、 先ず 

宗教の 成立の 根拠 を 実践的な 生の 当処 にたず ねて みる。 

いったい 『囊の 妻』 では、 『キリスト教の 本質』 t 転回して、 囊の 根拠 I 然と 依存 感に 見いだ し 

たのであった (1、 『囊の 本質 補遺』 において は、 主我 的な 「エゴ イス ムス」 が 根源 的な 宗教の 根拠で あると 

考えて 来る ので あり、 『講義』 において は 更に この 主我 的な 自己 愛の 方向 を 徹底し、 最後の 宗教 史的 大著 『神 

譜』 においても それ は 同様で ある。 それらに おいて は、 囊を この 主我 性の 充足の 線の 上に おいて、 充足の 手 

段と して 吟味して いるので ある。 ことに 『講義』 では、 依存 感 とこの エゴ イス ムスとの 関係 を 論じて、 依存 感 

は 宗教の 根拠で あるが、 更に その 隠れた 根拠 まゴ イスム. < であり、 依存 管 超えて その 奥へ と 求められる 宗 

教の 最後の 根拠が イス ムスに 見いだ される といい、 蓮 を 後者に 帰して、 If 間 管 消極的な 自議 

一 七 五 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一 七 J、 

情に 外ならぬ とする。 両者 何れの 方向の 上に 宗教の 本質 を,.^ すかと いう こと は、 彼の 所論 を 吟味す る 場合に 重 

要な ことで あるが、 それらに ついては 後に ふれる。 

これらの ことの 上に おいて、 実践的な 人間 存在の 場面の 有様 をみ ると、 主体の 用いる 手段に は 種々 あるが、 

類別す ると 二つになる。 主観性の 外部に おいて、 即ち 感覚 性に よって 接 しられる 現実的 自然 的な 対象 性に 即し 

て、 手段と しての 対 者 をと る 場合と、 かかる 対象 を 対 者と する ことなしに、 主体の 主観性の 内部に おいての み 

為される 場合、 いいかえれば、 ただ 主体の 主観性の 中に おいて 表象され た 対 者に よって、 右の 対立 を 切りぬ け、 

目的 を 実現 せんとす る 場合と が ある。 前者 は 文化に よるので あり、 後者 は 宗教に よるので あ (^)。 後者 は 現実の 

対 者を俟 たぬ、 従って、 現実の 即ち 自然にお いて 在る 存在の 当処を 遊離して いるので あるから、 それ は 米 1 妄で 

あると いうので ある。 文化と 宗教と に ついて、 同じ 目的の 遂行と いう 点から 今 味して、 フォイ エレ バッハ ま宗 

教 における、 かかる 迷妄 を 暴露す る ことに 急で あるが、 更に 今 は 暫く 止まって、 右の ように 一般に 主の 当処こ 

ぉレて その 根拠と 基礎と を もつ 宗教が、 今度 はとく に 如何なる 状況に おいて ある 時に、 それ は 右の 目的 遂行の 

役目 を も つかと いう こと を検 しょう。 

それにつ いて 大体 三つの 場合 を 彼の 所論の 中から ぬき 出し 得よう。 その 一 つ は、 人間が 無知、 未開、 無 教養 

の 場合、 次に は 生の 緊迫、 危機に おいて、 施す 術の なき 場合、 更に 第二の 場合に おける いわば 特殊 的 状況 をお 

しつめ てみ ると、 人間 は その 生の 当処 において、 常に かかる 在り方に おいて あると いう、 そういう 場合と が あ 

る。 なかん ずく、 われわれが 注目しょう とする の は 第二 第三の 場合で あるが、 彼が 力説す るの は 第一 の 場合で 



ある。 人類 は その 最古の 最初の 時代、 その 幼年時代に おいてす ベて 宗教 的であった。 人の 一生に なぞらえて レ 

えば、 宗教 は 子供の ものである。 子供 は 欲しい こと を 充足す るのに 自分の 力で はなし 得ない。 他の もの、 即ち 

両親 等 を 媒介と して はじめて これ をな し 得る ように、 人類の 幼年時代 において は 無知、 無 経験で あり、 無 教養、 

未開で あるから、 生の 目的の 実現 を 自分の 力で 為す こと は 出来ない。 宗教 は 全く その 起源と 位置 や 意義 を 人類 

の 幼年時代、 最古の 時代 にもつので あつ^)。 しかし 人類の 歴史 は エゴ イス ムスの 根拠に 基づいて、 その 生の 完成 

と 完全 性へ 向かって 進む ので あり、 それ は 人間が 人間的な ものに よって、 非人間的な ものから 去って 真の 人間 

性の 本質 を 実現して ゆく ことで あり、 そして それ は 人間の 存在 を その 実存の 当処 において、 在りの ままに、 即 

ち 自然 (存在) において 在る とおりに 見、 また 生きて ゆく ことで ある。 これが 人類史の 課題であって、 教養と 

文 匕 こ, よって 実現 せられて ゆく ので ある。 そこに 歴史の 進歩が あるが、 後に も 叙べ るよう に、 もの を 自分に と 

つてのと ころに おいての み 見て、 その 在りの ままの、 実存のと おりの 自然 (存在) において みない 宗教 は、 だ 

から 人類の 進歩 を はばむ もので あり、 文化と 教養の 敵で ある。 もちろん 宗教 もまた 教養 や 文化の 類 中に 属する 

が、 しかし、 それ は 未開、 粗笨で、 もっとも 非 教養 的、 非 文化的な もので あり、 人類の 歴史に ついて みれば、 

最初に その 役割 を もつ にす ぎな (1)。 だから 教養と 文化 を はばみ、 人間 存在の 本質に 反し、 そして 既に その 役割 

を 了え た 宗教の 蒙を排 し、 その あるべき 根拠に おいて、 即ち 人間性の 実存の 当処 において、 生の 目的の 実現が 

現実的 自然 的に 努力され なければ ならない。 その 根拠に おいて 人間性の 本質に 根ざす 宗教 は、 しかし そこから 

成立し、 形成され るかぎ りに おいて、 それ は 迷妄で あるから、 従って それ は 現実的な 文化と 教養にまで 止揚せ 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一 七 七 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一 七 八 

られ、 匡され なければ ならない。 そのこと なくして は、 —— 彼の 当時に おいて 11 政治的 社会的 改革 は 何等 内 

(2) 

容を もたぬ ことになるであろう というの である。 

次に 第二の 場合で あるが、 人間性に その 根拠 を もっかぎ りに おいて 肯定され、 しかし その 形成され るかぎ り、 

はたらき を もっかぎ りに おいて、 宗教 は 右の ように 否定され、 文化 を もって これに 代わる ことが 強調され るが、 

しかし、 文化 は 主体の その 時 その 場の 事態 を きりぬけ るに 全能で はない。 そこに は、 その 正邪 を 別と して、 宗 

教が 求められる 領域が ある。 普通の 場合に は、 生の 目的の 遂行の ために、 文化人 は 一般に 文化的 手段、 即ち 自 

然的 科学的 手段 を もって 対処し、 切りぬ けて ゆく。 しかし 生の ある 特殊な 状況の もとにお いて は、 その 時 その 

場に おいて、 その 人の 持ち合わせる 文化的 手段 は ゆきつ まって、 どうに も 切りぬ けられない、 施す 術の ない 場 

合が ある。 自然 的に も 生理的に も、 主体的に いえば このような 場合 は 案外に 多い。 その 場合に 宗教が まず 手段 

を もっと 考えられる。 かかる 場合と は 生が 困って いる 場合、 施す に 術な く、 ゆきつ まった 場合、 つきつめ てい 

えば 生が 危急 緊迫に おいて 在る 場合で ある。 エゴ イス ムスの 根拠に おいて ある 生の 当処 において、 欲しい こと 

と 出来る こと、 在りたい ことと 現に 享受して 在る こととの 間の 対立 を、 現に 在る という 後の 事態にまで 切り開 

こうと する にあたって、 現に 在り、 また 出来る ための 条件に おいて 万策 尽きた ところ、 普通の 人間的 手段が な 

くな つたと ころに、 宗教が、 神が、 求められる。 人間が 普通に 出来る ことに 関して は、 宗教 も 神 も 要らない。 

(0) 

宗教 はこの 危急 非常の、 危機に 際して 要請され る。 それな くして、 或いは そのこと なくして は、 11 普通に は 

つまらぬ もので すら、 とくに 差し迫った その 時の 場合に おいて は、 私に とって、 唯一 絶対の ものと なる —— 主 



体の 生が 即ち 私が 生きて ゆく ことが 出来ぬ とき、 しかも、 それや そのこと は 私の 手中に 入れる ことが 出来ぬ 絶 

体 絶命の、 緊迫 や 絶望の 状況に おいて、 これ を 切りぬ ける ところに 宗教が あると する 考え を、 彼の 著作の 上に 

一 々摘出す る 要はない (1、 このような場合に 処 すると ころに、 宗教に よる 処し 方が あると いう ことに 論及して 

いる こと、 即ち 宗教 を その 対象 や 主観に ついて 見る のでな く、 現実の 生活の 当処 において 「機能的」 に 見て い 

ると いう こと は、 既に 百年 を 前にして、 今日の 宗教学の 重要な 観点に も 応じる ものと して 注意すべき であろう。 

かかる 緊白 一の 状況に おける 最も 苛酷な ものと して、 彼 は 死の 事実 を あげる。 迫り 来る 死に際して、 人間 はすべ 

ての 手段 を 失う。 しかも 生きなければ ならぬ、 生きたい。 そこに 宗教の 求められる 危機 をお く。 死の 事実に よ 

(ョ 

つて 宗教が はじめられ、 死の 事実がなければ、 宗教 は 人間に とって は 要らなかった であろう とも レぅ 

更にし かし、 かかる 生の 危機 や 為すべき 手段の ない という 事態 は、 われわれの 生活に おいて、 ある 時 ある 場 

合に かぎられた、 特殊の 状況に おいての みある のであろう か。 現在の 生の 当処を つきつめて 凝視 すれば、 恐ら 

く あらゆる 現前の 瞬間が、 そのまま 人力に よって 如何 ともなし 得ざる 緊迫 や 危機に おいて あるので はなかろう 

か。 積極的に ではない が、 人間の 現存から 今日の いわゆる 実存 的な 性格 を も 彼 は 注目して いる。 その 点で はバ 

ルト 等の 批難 も 直接に は 軽々 であが、。 ただ フォイエ ルバ ッ ハ はこの 方向 を つきつめて 考える こと をして いない „ 

即ち 生に おいて は 主体 も 対 者の 自然 も 常に 可変 的であって、 確実で ない。 人間 は 生 を その 手中に 入れて しまう 

リナ こ は ゆかぬ ので あ (^)。 私が 現に 生きて 居る の はこの 現在で あるが、 しかし この 現在と は 過去と 将来との 間 

こ あり、 とくに 将来に 対面して、 その 間に、 それ こそ 現在から は、 如何 ともなし 得ざる 懸隔、 隔絶 を もつ ので 

第 七 章 宗教の 根视 について 一 七リ 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一 八 〇 

ある。 事態に ついていえば、 企図と その 遂行の 結果との 間、 観念と その 現実との 間、 あって ほしい ことと その 

実現との 間、 いいかえれば 可能性と 現実性との 間に は、 その 現在から は、 何人の 如何なる 力 を もってしても 確 

保し 得ぬ 絶対の 間隙が ある。 恐るべき 可能性が 現実に なり 了お さんと する 切 点が、 それが 現在で あるが、 そこ 

において は、 ある 不幸 や 邪魔が ありうる というよ うな ことで はなく、 主体の 生の すべてが、 不可知、 不可欠の 

将来性に よって、 将に 転ぜん とする すがたに おいて、 切 しられて いるので ある。 何人も その 生の 次の 瞬間に お 

ける 存続 を 保証し 得ない。 生 は その 死活 を 当 来の 未来 性に 委して 存在して いると いうの が、 その 本来 的な すが 

たで ある。 そして 生の かかる 直 相に おいて、 また 宗教の 成立す る 基礎が あると みる。 

五 

これらの 場合 ももち ろん 人間の 生の 当処 において ある ことで あるが、 其処に おいて あると ころの 如何なる 事 

情に 基づ いて、 宗教 は 形成せられ るので あろう か。 ここに フォイ ュ ルバ ッ ハ の 所論に つ いていえば、 宗教の 根 

拠 を 人間 存在の 現実の 当処 において 求め 得る —— 従って 人間性に 即する という 範囲で 肯定され 得る 11 最後の 

限界が ある わけで ある。 上に われわれ は、 彼が、 エゴ イス ムスの 根拠に 従って、 主体の 自然 (存在者) への 依 

存 性と 自主性との 対立、 なくて はかなわぬ こと 欲しい ことと それ を 持ち 或いは 用いる こととの 対立に おいて、 

生 をみ、 そして、 そこ を 切りぬ ける こと を 生の 目的と している こと を 叙べ た。 そのこと は ここにお いても 同じ 



であるが、 t る 生の当処 において、 主体に 対する 対 者が、 自然 的 対象 性 を もたぬ 1- そこに 宗教の 成立す る 

所在が あるので あるが ー、 いいかえれば 主体と 対 者との 関係が、 上述の ように 根源 的に は 自然に 切 するとし 

て も、 そこから 離されて、 ただ 主観性の 内に おいての み 扱われる ものと して、 そこにお ける、 あらま ほしい 

(wf Chen) と い う 主観性 を 問題 にす る。 

現前 現実の 生の 当処 において、 さ イス ムスの 根拠から、 可能性と 現実性の 対立 を 切りぬ ける という 生の 実 

践の 目的. - 限定的に いえば、 幸福で 在ろうと する ことに 外なら ない。 いわゆる 囊 霧に 基づく ものである。 

もっとも 權 衝動と いっても、 それ は 彼のい う エゴ イス ムス、 白 己 愛の 限定 せられた 寵に 外ならぬの であつ 

て、 前述の ように 人類 的な もので あり、 倫理的、 個人 義 的な 意味で いうので はない。 義とは 彼に よれば、 

,あ デた ような 生の 目的 を 達し、 企て を 遂げ、 あらま ほしき 欲い 願い を 達して いる ことで あり、 かつ それ は 

妻き 义間 I の 中で 処理 出来る もので はなく、 外の 自然 (存在者) に、 主体が 実存す るた めに 無くて は 

すまぬ 対 者の 自然に、 かかる ものである。 それが 宗教に おいて は 誤ってそう でない ので ある。 なお 囊靈と 

いっても、 さきの エゴ イス ムスに ついての 所論から も 明らかな ように、 それ は 特別ない わば 実体 的な ものと 考 

える ので はない。 このように 幸福で ある こと を 願う ところの 生が、 生と して 存在す る 人間性の 根拠で あると み 

られ (s.)。 宗教 もまた かかる 生の 根拠に 基づいて 成立す る こと は 論 を またない。 

では 生は囊 である ことのた めに、 いいかえれば 如上の 対立に おいて、 要る こと を 持つ ことに 転じ、 可能 的 

な もの を議 であると いう 現実に おいて 囊 する ために、 危急 謹の 場合に 際し、 或いは 不断の 謹に おいて 

一 八 一 

第 七 章 宗教の 根拠に っレて 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一八 一一 

在る という 生の 本来の すがたに 当面して、 如何に これに 処す るか。 その 前にし かし、 まず 主体に とっての とこ 

ろ、 即ち その 主観性に おいて それ は 如何なる 事態に おいて あるかと いう こと を してみ なければ ならない。 現 

前の 生の 当処 において、 可能と 現実との 絶対的 隔絶に 当面して は、 自然 的 現実的に は 策の 施しよう がない。 し 

かも そのまま では 死に 至る。 しかし 生の 主体 は エゴ イス ムスの 根拠に おいて、 この 隔絶、 対立 を、 幸福で ある 

ことにまで 切りぬ けなければ ならない。 また 切りぬ けたい。 そのために は、 斯々 で (或いは 斯々 が) あらま ほ 

しい、 と 欲う。 だから その 対立 を 転じる こと は、 主観性に ついていえば、 この あらま ほし.^ という Wunsch の 

裡 にある。 Wunsch はさきに も 叙べ たように エゴ イス ムス の 根拠に おける 表現で あり、 幸福で ありた 、, 對 動に 

もとづく ので あるが、 それ は 現に 持たない 或る もの (こと) が 在って 欲しい という 欲いで あり 願いで ある。 そ 

れは 感覚的な ものに 属する が、 また 意志的で ある。 持つ ことなき、 ある ことなき、 また 出来ない ところから、 

在りたい、 うち 克 ちたい、 という 表現で ある。 しかし、 そこに は 現実に 出来る という 能力がない。 為さん とし 

て 現実に は 為し 得ざる 気の毒な 意志で ある。 もちろん 一般的に いえば v?nsch は、 しかし 現実の 自然 的 対象 

に 切し 得る ので あり、 また 人間の 本質と して 本質的な ものであるが、 今 は 右の ような 緊迫に 処 して、 とくに 自 

然的 対象に 切し ない 場合に ついてい うので あり、 従 つ て 主観性の 範囲に おける すがたと 所作の み をみ るので あ 

る。 

ある 場合に おける、 或いは 生の 真相と しての 不断の 危急、 緊迫に 当面して、 これ を 切りぬ ける ために、 生の 

主体 は斯々 であり 度い と 欲い、 願う。 その 欲い や 願い は、 むしろ その 緊迫が 強い ほど、 強くなる のであって、 



施す 術が 尽く なくなっても Wunsd, は 欲い、 願う ので あり、 且つ これ をな し 得る。 それ は それの みとして み 

れば無 制約で あり 絶対で あり 得る ので.^^。 かかる .ssc 一 S1 において 期々 であって 欲しい という、 その 欲 

しい 内容、 即ち 斯々 というの は、 現実で ない 可能性の 中から 表象に 齎らされ、 表象の 中で 形 を もつ ので あるか 

ら、 それに はまた 何等の 制約 もない。 欲し 得る こと 考え 得る こと を、 すべて その 内容と なし 得る のであって、 

如何よう にも、 その 願いのと おりに 応じ 得る ので ある。 そして このよう にして 欲 しられ、 願われた 斯々 の 表象 

こそ、 フォイ ュル バッハが 宗教の 非現実的、 非 自然 的な 迷妄の 根源と して、 宗教から 破し 去ろうと すると ころ 

の、 単に 主観的な 想像力の 産物で あり、 幻想で ある。 それに ついては 後に ふれる が、 このよう にして、 現実に 

は 為し 得ぬ こと を、 実は 表象に おいて、 想像の 範囲に おいてで は ある けれども、 為し 能う ので ある。 可能と 現 

実との 間の 懸絶 を Wunsch は 表象の 力、 想像の 力で 埋めて ゆく ので ある。 当面の 危急に おいて 為す 術 も 知ら 

ぬ 生の 意力 は、 そのまま 直ちに 己が Wunsch において 対立す る ものな き 絶対 意志の 可能 を 欲う。 しかも、 そ 

れは せつば 詰って、 しかし 其処 を 切りぬ けなければ ならぬ という、 火の ような、 無限の 生の 衝動の 喘ぎの 坩堝 

において である。 どちらで もよ いという 場合で はない。 絶体絶命で、 欲い を かけた 願いの 内容、 霞 は、 願い 

は 願い を 生み、 想像 は 想像 を 加えて、 生きた、 魂の ある 精神の ある、 他から 何等 証明 を 加える こと を 要せぬ 絶 

全能な ものと され、 とくに 実は それ は 表象の、 想像の 裡 なる もの にもかかわらず、 それ は 主観性の 外にお 

いて 客観的に 存在す る ものにまで 思いな される ので ある 

それが 神で あり、 神性で あるが、 だから、 現実に 存在して 人間に 応じる ので はなく、 右の ような W ま。 ぎ 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一 -三 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一 八 四 

の 沸騰す る 坩堝の 中に おいて 産み出される ものである。 そして、 かかる 神 や 神性に 対する 関係のう ちに 宗教が 

形成せられ、 成立す るので あるから、 それ は 何等 現実性 も 自然 性 ももたない ところの 迷妄で あると いうので あ 

る。 しかし、 このような 事情に 基づいて 産まれ 出た 神 や 神性、 即ち 客観的に 存在す るとまで 思い こまれる こと 

によって 創ら れた 神々 は、 当然の ことで は あるが、 人間の あらま ほしいと いう 欲い、 願いのと おりに ある。 そ 

して、 それらに おいて は 人間が 欲い 得る、 願い 得る ことが すべて 充 たされて ある ことにな つてお り、 かかる 存 

在 者と して、 神々 は 今度 は 人間に 応じて 来る ので ある。 神と は 人間の 欲い、 願いの 形 をと つた もの 以外の 何物 

でもな "い。 だから 神と は 人間の 11 従って、 宗教 史的に は その 時代、 その 民族の —— 欲い や 願いの 度合に 応じ 

て 存在す る。 自然 宗教の 神性に は 制約が あり、 精神 宗教の 神に は 制約がない の もこれ にもと づき、 また 人類の 

歴史の 進歩に つれて その 崇拝の 対象の 属性が 変異し、 発展して ゆく の も そのため である。 けだし、 欲い 願いに 

おける、 斯々 でありた いという、 その 斯々 の 内容 をな す 想像の 内容が、 人間の もつ 想像力の 程度に 随 つて 形成 

される からで ある。 

そのような 意味で、 また さきに も ふれた ように、 宗教の 対象 は 人間の 想像の 産物で ある。 ありたい こと を 表 

象の 中で 固形して、 在る 者と したまで である。 しかし、 想像力 は 人間の 生の 本質に 具わった ものであって、 そ 

れ がいけ ない というの ではない。 詩 や 芸術 も 同じく 想像力の 産物で あるが、 それが いけない というの ではない _ 

想像の 中に 固形した 者 を 対 者と して 現実に 処 するとい うこと、 現実に 在り もせぬ もの を 在りと 考えて、 現実の 

/6 ノ 

生の 目的の 遂行 を それに かける ことの 蒙 を 難 じる ので ある。 即ち 想像 せられた 斯々 の もの は、 Wunsch におけ 



る斯々 でありた いという 欲い や 願いに 基づく のであって、 生の 主体が 生 を 営む 途上に 形成せられ、 生の 讓に 

連関 を もつ ので ある。 従って 裏の 対象 は- 1 想像に よって 創ら れ るが、 想像が 願いに 基づく から— すべて、 

この Wunsch a¥ そして この 11 という こと は、 生の 秦 的な ものであるから、 否 

定 すべく もない けれども、 そこにお いて 形成され、 また それに 対して 対処され る 非 震 的 非 自然 的な 奮 カレ 

ナな いという ので ある。 多分に 讓 的な 豪 を 含めて、 人間性の 謹 内に おいて、 自然 (存在) において 自然 

(存在者) を 対 者と して 存在し、 その 範囲で、 在り 得る ところの 完全 性 を 時と 処とを かけて 完成し 籠す る こ 

との 出来る 人間の 本質 即ち 人類 性に— 個体が かかる 人間性に 連なる 所以 は 前に 見て 来たと おりで ある—、 

Wunsch を、 かけるべき であると 彼 はいう。 非 現実、 非 自然 的な、 ただに 主観性の なかでの、 それ も あり もせ 

ぬ もの をぁ りと 考える 鬵の 産物との 関係に おいて、 生 を 営む ような ことがあって はならぬ というの である。 

そして、 さきに あげたよ うに、 生の 根拠と しての エゴ イス ムス は 人類の 歴史の 上に,」 のこと を 籠して ゆく の 

であり、 それが 人間に 課せられる 教養の 謹で あると いうので.^ ザ このような 理由で、 彼 は 現実の 生の 当処 

こおいて ある 囊の 根拠、 いわば 人間性に おける I 的囊を 否定す るので はない が、 そこ t 形成され るか 

ぎりの 囊は すべて 非 置 的な ものと して、 その 謹 を 暴露し ようと &。 彼の 生涯の 仕事 は 囊の秦 を 明 

ら かこす る ことで あり、 『神 譜』 を 後世に 残す にある ともい.^ t、 宗教に 関する 諸 著 はいずれ もこの ことに 急 

であって、 『キリスト教の 本質』 において は、 囊 とくに その 対象 を— 何と なれば、 彼に よれば 宗教の 妄は 

結局 その 対象の 非現讓 にも とづく ので あるから —人間の 本質、 ことに 人間の 意識に おいて 意識され る 人.. 

一 八 五 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一 八 六 

の 類 的 本質に 外ならぬ とする。 即ち 人間の 人間た る 所以 は、 自己 を 意識し、 自己 を 対象と して 意識 するとい う 

ところに ある。 そして、 その 意識に おいて 意識され る 人間 即ち 自己 自身と は、 人間の 人間性 即ち 領と しての、 

間で あり、 そこにお いて は 知情意す ベて 最高の 完全 性に おいて 考えられ、 また やがて それらが 存在し 得る。 こ 

のよう な、 人間が 意識に おいて 持つ ところの 自己 自身の 類 的 本質 を、 自己の 外に 投影し 客観 化して 存. する も 

のと 信じられた ものが 神で ある。 従って、 神と は 人間の 本質 を 転嫁した ものであって、 神の 属性と は、 それ は 

人間、 人類の 属性であって、 なんら 神 自身の 属性で はない。 述語の ない 主語が あり 得ない ように、 属生 のない 

11 それ は 人間から 藉り たもので あるから 11 主体、 即ち 神 は 存在す る もので はない。 しかも、 これ を 存在す 

ると 思いな す もの は、 それ は 人間の 実践的 立場に おいて、 もの を 自分の ためにの み 考える からで ある。 これに 

理論の 立場 を 入れる ことによ つ て、 宗教とくにキリスト教にぉける迷妄はなくなるでぁろぅとぃぅのでぁ(^lw 

ハ^ン 

けれども 力 かる 解釈の 不徹底であった こと を 自ら 告白して、 『宗教の 本質』 等から 以後に おいて は、 『根本 命 

題』 等からの 立場に 基づいて、 神 や 宗教 を 現実に 存在す る 人間の 根拠と 基礎にまで 還元して 考える。 即ち 人間 

存在と は 自然 存在で あるから、 その 自然 存在に おいて 宗教 を テストす るので ある。 もっとも、 そのこと はた だ 

単に 客体 的な 自然 存在者に 宗教 を 還元 するとい う 意味で はない。 主客と もに 自然 存在者と して 相対し、 相 与み 

して 在って いると ころの、 人間 存在の 当処 としての 自然 (存在) について いうので ある。 それ は 実践の 領域に 

おいて、 ものが 専ら 主体に とって 在る という 存在の 場面に おいて、 とくに 自然 (存在) の 場面に おいて、 自然 

ならぬ、 存在に おいて 実存 的で なく、 真の 存在なら ぬ 11 即ち 主体に とってと いう 場面に おいて 在る のに、 対 



者が そのもの として 在る とされる ような、 いいかえれば、 存在者の 在りの ままな 存在がない ような II ものの 

甚だしき ものと して、 実は 存在に おける 主体と 対 者との 対処 関係が、 全然 主観性の 内部に おいて 仮 構され てい 

る ものと して、 宗教 を 吟味、 難駁 する ので ある。 

それらの 難駁の 部分 を 一 々ここに 摘出す る こと は、 われわれの 主題に とって 重要な ことで はない。 われわれ 

の 主 頸) ま、 彼が 難 じる 宗教の 虚構 性 をみ るに あるので はなくて、 その 根拠 をみ るに あった。 かつ、 その 部分 は 

皮の 宗教 論で 曰 M ら膾 炙され ている ところで あるから 贅言 を 要しない であろう。 要は、 宗教と はすべ て 主観性の、 

とくに wunsch のうちに 発し、 そこにお ける 想像力の 産物への 対処 関係で ある。 自然 宗教に おいて は 現実の 

生の 対 者の 自然 を 己が 主観の うちにお いて 創り かえ、 人間 化し 魂 を 入れ、 何 か 意図 を もち 意志 や 感情 を 持った 

者と して これに 対する。 精神 宗教に おいて は 人間 を 自然の 上位に おき、 人間が 存在者に ついて 考える その 存在 

っ艮. 拠に ついて、 その 根拠 或いは 原因 は 存在者に ついて 考えられた ものである にもかかわらず、 これ を 逆転し、 

、 わ ゆる 述語 を 主語 化して 11 その 事情 はさきの 自然の 項に おいて ふれた が II 、 今度 はか かる 根拠 や 原因が 

現き こ 客観的 こ 存在して 11 しかし、 それ は 目に は 見えない、 隠されて いる II 、 世界 や 自然の 中の すべての 

存在者 を、 己が 思いのままに 創り 出した もので あるかの 如くに 想像す る。 孰れ も それら は 想像され たものに 外 

ならぬ ので あるが、 人間の 想像の 範囲 はや はり 人間 自身に 関する 範囲 を 脱しない。 宗教 的 対象、 神々 と は、 程 

度の 差 は あるが、 人間の 本質 11 従って、 その 現実の 実現 は 人類史の 未来に かけられる ものな のに 1. を 想像 

された 個体 的 存在にまで 転嫁した ものに 外なら ない というの である 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一 /七 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一 八 八 

六 

フォイエ ル バッハ が 人間に 課する 課題 は、 エゴ イス ムス の 根拠に おいて、 人間が その 自覚に おいても つと こ 

ろの 人間の 類 的 本質 を 実現す るに ある。 それが 教養の 課題であって、 人間が 人間で ある 所以の もの、 しかし 個 

体の 存在に おいて は それ は 可能 的で あると ころの もの 11 知情意の 完全 性 11 を、 時と 処とを かけて 人間性の 

即ち 人類の 歴史のう ちに 実現し、 完成す るので ある。 そして そのこと はもち ろん 人間の 存在の 場面に おいて 在 

るので あり、 また 為される ので あり、 人間の 存在が、 それにお いて 在る ところの 自然 (存在) において、 主観 

性の 外部に おいて 完成され る ことで ある 11 内部と 外部との 関係 は 見て 来たと おりで ある 11 。 人間性に 違す 

る ものから 人間性に 即する ものへ、 いいかえれば、 存在者と しての 個体が 類 的 本質と しての 人間 存在に おいて 

在る こと、 自然 存在者と して 自然 (存在) において、 有機体 的な 類 的 統一 において、 その 肢体と して 対 者と 与 

つて 真に 一 つに おいて 在る ことで ある。 それ は 私の 外に 現存す る 対 者の 存在のと おりに おいて、 私の 存在が あ 

る ことで ある。 これが 真に 実存す る 人間の 在り方で あり、 本質で ある。 そして それ は 感覚 性に おいて 保証され 

るので あり、 感覚 性の 当処が 即ち 現実性で あり、 真理の 唯一 の 所在であった。 フォイエ ルバ ッ ハ における 人間 

性の 完成と は、 かかる 在り方の とおりに、 現実に 人間が 存在す る ことで あるが、 彼 は 何時の 曰か かかる 時代が 

来る であろうと 嘆 じて お つ た。 



ところが、 宗教 はか かる 人類史の 課題、 人間の 教養の 謹に 違す る ものである。 その 根拠に おいて 人間お 

に 基づき 人間の 議の裡 に 基づく ものであるが、 そこから 形成され るかぎ りに おいて、 非現実的 非 自然 的で あ 

り、 人間性に 背馳す る ものであるから、 人類史の 讓 のために はこれ を 先ず 処理し なければ ならない。 それ は 

しかし 宗教に 対抗す るので はなく、 これ を 純化し 養す るので あると し (て、 神の 代わりに 人類の 可能 力 を、 宗 

教の代ゎりに人間21?^ 囊の もつ 手段の 代わりに 文化の 手段 を もって、 現実の 生に 処 しなければ なら 

しかし、 かかる 所論に は 吟味 さるべき 多くの 問題が ある。 上に あげたよ うな 危急、 議の 場合、 或いはと く 

に 生の 不断の 当処 において ある 危機に おいて、 そこにお いて は 可能性と 現実性との 隔絶が、 その 時 その 場に お 

いて、 或いは 常に、 如何なる 現実的 文化的 手段 を もってしても 切りぬ けられない。 現実の 人間が 自分 だけで で 

はなく、 自分の 外なる 存在者に 依存して のみ 存在し 得る という ことが II それが 人間の 有 (^惑の 根拠で あつ.^ 

が— やはり かかる 場合の 屢々 あり 得る 根拠で ある。 更に また 置 は 常に 可能性 を 前にして、 それ を 震の 中 

に 採り 入れ 了お す こと は 出来ない。 人力の 如何 ともなし 得ぬ ことで ある。 それらの 場合に どうす るか。 フォイ 

ェ ルバ ッ ハ の 指示に よれば、 宗教の 対処の 仕方 は 迷妄で あるから、 現実的 自然 的な 手段に よれと いうので ある 

しかし、 かかる 手段 は 既に、 或いは 本来 的に、 f ている。 しかも、 其処 を 切りぬ けなければ 生 は 確保され ない 

ところが、 これに 応じる 彼の 解答 は、 人間性の 妻に おいて それに 対処せ よと いうので ある。 いいかえれ (^)、 

その 時 その 場の その 個体に とって 不可能な こと も 人間性の 本質に おいて は 可能で ある、 また 可能になる から、 

第 七 章】 【宗教の 根拠に ついて 一 ゾ, 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一九 〇 

それに よれと いうので あるが、 しかし、 その 人間性の 本質と は 理念で あり、 現実的に は 可能 的 存在で ある。 歳 

月 を かけて 人類の 歴史が 逐次 漸次に 実現し 完成す る もので あ つ て、 今 現に われわれが 持ち合わせて いるので は 

ない。 その 現に 存在 しないと ころの 能力に、 今の 絶体絶命の 危機 を 切りぬ ける こと を 課すと いうの は 無理で あ 

る。 ここに 矛盾が ある。 

かかる 矛盾の 由来す ると ころ は、 しかし 彼の 人間 本質の 考え方に ある。 彼の 人間と いう 概念 は、 屢々 叙べ た 

ように 類 的 本質と しての 人間で ある。 それ は 先ず 人間の 本質と しての 自己 意識に おいて 意識され ている ところ 

の 理念で あり、 現実に は 人類史の 完成に よって 完成され ると ころの もので あり、 また 人間の 理想で あつ (ず)、 未 

だ 現実に は 存在せ ぬ 可能 的 存在で ある。 この 意味で 彼の 人間に 関する 概念 は 『根本 命題』 等に おいて、 折角 そ 

の 有限 性の 本質 を 捉えた にもかかわらず、 これ を 逸して、 やはり 近代の 人道主義 的な 見解 を 持して い (幼。 従つ 

て 宗教に おいて 神に よせた 課題 を、 彼の 指示に 従って 人間の 本質に 託する となると、 現実に は 存在し ない 神の 

力の 代わりに、 生の 当処 において、 主体の 私に おいて は 未だ 実現して おらぬ、 そして それ は 理念の かたちに お 

いて あると ころの、 人間性の 能力に よって、 さきの 対立の 事態 を 切りぬ けなければ ならぬ ことになる。 人間性 

の 本質 はやが て は 現実に 実現され、 存在し 得る であろう。 神 はしかし 現実に 自然 的に は 存在し 得ない。 その 相 

違 は あるが、 私が この 時 この 場の 現実の 生 を 切りぬ けて ゆく ために は、 人類に おいて —— そして それ は 私の jrh 

, (S) 

在に おいて —— 、 未だ その 完成 を 見ない ところの 人間性の 能力、 在り 得る 能力で は 間に合わない。 上述の 危機 

を 自分の 力で 切りぬ ける こと は 出来ない。 更に 生の 不断の 当処 において 見た 隔絶の ごとき、 恐らく 人間が 時間 



性の 内なる ものである かぎり、 人間性の 完成の 日と いえ ども、 それ を 如何と も 為し 得ぬ のであろう 従って 彼 

が 指示す る 解答 は、 実践的な 存在の 当処、 生の 当処 において、 対 者に 対処す る 生の 主体に とって は — 宗教 的 

手段 を 要する ような 危機に おいて はとく に 11 何等 安ん ずべき 解決 を 示さない ので ある。 そして、 それ は 人間 

を 類 的 本質と して 見る ことに 急であって、 類に おいて ある 肢体と しての 人間、 即ち 個体の 主体性 を 注視す るに 

不徹底で あ つ たという 責に もとづく ので ある。 

ここ を 吟味す る ことによって、 彼の 所論に 新しい 問題が 開け、 宗教 もまた 前と は 別な 位置と 意義と を 与えら 

れ るであろう。 そして その 端緒 は 既に 彼に よ つ てつ けられて いる。 

に.^ の 存在が 類 的 存在に おいて あると いう こと は 正しい。 しかし 類 的 統一 において、 真に 現実に 実存す ると 

、- うこと は、 その 肢体と して 在る 個体に とって は 如何なる こと を 意味す るか。 自然 存在者と して みられる 人間 

(固体 的 存在者) ま、 しかし その 中の 最高な ものと して、 彼に おいても 謂わば 自然 存在者 ならぬ 自然 存在者で 

1 § 

あった。 その 所以 は、 人間が 自己の 本質 を 意識し、 これ を 対象 化し 得る 自覚 を もっから である。 個体: S その 存 

在に おいて、 自然 (存在) において 在り、 有機的 存在に おいて あると しても、 いいかえれば、 自然 (存在) に 

おいて、 対 者と 共に 自然 存在と して 類 的に 統一 されて あると しても、 その 肢体と して 在る 個体の 事情 は、 他の 

自然 存在者の 場合と は 異なる。 それ は 自己 を 意識す る 高度の 主観性が あるから である。 自己 を 中心とし、 自分 

のために 計らう (上述の ように、 利己主義 的な 意味で はない) という 高度の 主体性 実践 性が あるから である。 

そのこと を 見過ごして、 ただ 直ちに 人間の 本質 は 類 的 存在で ある、 人間 は その 存在の あり方に おいて、 類に お 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一 ブー 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一九二 

いて 在り、 他者と 連なる というよ ラに 安易に 見て は 不都合で ある。 —— こ のこと について は バルト や サン ヮ ルー 

ト、 クルベルグ その他 もい つてい る。 

そこで 人間 存在の 本質に おいて、 その 肢体と しての 個体 はとく に その 主体性に おいて 如何に あるかと いう こ 

とが、 見 究められなければ ならない。 そして 次に は、 真に 実存す る 存在に おいて 存在す るた めに は、 即ち 真に 

類 的 統一 において 在る ために は、 個体の 主体性 は 如何なる 仕方に よって、 そこに 処 せられて 在らねば ならぬ か 

という ことが 問題になる。 宗教の 問題 もこ こに あるので あるが、 この こと は 先ず 人間の 本質と しての 個体の 有 

限 性の 問題 を つきつめる ことで ある。 

いったい 彼が 強調し 得た 新しい 点 は、 自己の 外なる 自然にお いて、 世界に おいて、 真に 現実に 実存す る 人間: 

の 姿であった 箸で ある。 現存す る 人間の 存在と は、 独りに おいて 在る ので はなく、 生の 主体が 対 者に 対し、 こ 

れに処 すると ころの 謂わば 関係 態の 当処 にあった。 そして、 その 当処 において、 真に 実存す る 存在の 本質、 在 一 

り 方と して、 類 的に 一 つに おいて 在る こと、 主体の 存在が 対 者の 存在のと おりに おいて (或いは、 それにお い 

て) 在る ことであった。 そのこと は 実存す る 存在の 当処 において、 肢体と して 在る 生の 主体の、 個体の 在り方: 

本質が、 その 対 者に よって 限定 せられて あり、 制約せられ 限界 づ けられて あり、 いいかえれば 有限 性に おいて 

あると いう ことであった。 個体が 現実に 存在 するとい うこと は、 それ は 本質的 本来 的に 有限 性に おいて 在る と 一 

いう ことであった。 この こと を 彼 は 『根本 命題』 等から 以後に 強調し、 『講義』 等に おいて はとく に 人間性に, 

本質的な 宗教 性の 基礎で あると していた。 しかし、 人道主義 的、 人類 的な エゴ イス ムスの 根拠から これ を 克服 一 



しょうと したので ある。 そこに 禍根が あるので あって、 人間の 個体 性に おいて、 この 有限 性の 本質 は 克服され 

ない。 人間の 本質から この 個体 性 従って 主体性 を 省く わけに ゆかぬ かぎり、 有限 性 は 人間に とって 本質的な も 

ので ある。 — フォイエ ルバ ッ ハも あらゆる 存在者に ついて この こと をい つて はいる II 。 従って そこ を 飛び 

越えて 直ちに か 1 かに 人間 を 論じる わけに は ゆかない。 有限 は 無限 を 含まず とさえ いわれる。 この 隔絶 を 有限 

生の 此岸に おいてお しつめ てみ ると どうなる か。 フォイエ ルバ ッ ハも その 自然 論に ついて 屢々 いうよう に、 私 

の 存在 は 対 者な しに は 無で ある。 即ち私の個体性は私の!^^^にぉぃて、 無に おいて 在る。 それが 個体の、 真に 

実存す る 存在に おいて 在る 在り方で あり、 本質で ある。 それ は 何時か 終わる という 意味で はない。 存在し なレ 

個体 はない が、 存在す るかぎ り 個体 は その 存在の 当処 において、 本質的 本来 的に 無に おいて ある。 主体的 実践 

的な 領域に おいて、 日常 的な 現存の 場面に おいて 主体 (個体) はこの こと を 自覚し ないか も 矢れ なレ し 力し、 

さきに あげたよ うな 緊迫 危急の 状況に おいて、 或いは 人が 神 を 呼ぶ 時として あげた、 不断の 隔絶、 危機に おい 

て、 主体 はか かる 在り方に おいて ある 自己 を 自覚す る 害で ある。 

個体 は その 存在の 当処 において かかる 在り方に おいて あるので あるが、 その 当処 において 在る 意識 性、 主観 

性が 次に は 問題になる。 み^!が意識の関与にぉぃてぁることは既にのべて来たとぉりでぁるが、 真に 実存す る 

存在の 当処 において、 主体の 意識 は それに 如何なる 在り方に おいて 与 かって 在って いるので あるか。 みて 来た 

ように、 存在の 当処 において、 存在が その 在って いると おりに おいて 在る という こと は、 主体の、 私の、 意識 

が 対 者の 存在に おいて、 その 存在のと おりに ある こと、 或いは 対 者の 存在の もとにお いて 主体的に あると いう 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一九 三 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一九 四 

こと —— 主体の、 私の もとにお いて 主体的に 在る ので はなく して —— Sein ftlr mich にで はなく して Sein 

ftir sich のと ころに おいて、 主体の 私の 意識が 在る という ことで ある。 それ は 主体性の 転換で あり、 主体の 私 

について いえば、 次に 叙べ る 実践 性と 直ちに 連関す るが、 私の 主我 性が 無に おいて、 否定に おいて 在る ところ 

の 意識 性で ある。 それ を フォイ エル バッハ は 感性と 愛に おいて 見た。 そのこと はなお 追究され なければ ならな 

いが、 以上に よって、 真に 実存す る 存在の 当処、 存在者と 存在者との 類 的 統一 の 場面に おいて は、 その 肢体と 

しての 存在者なる 私と いう 主体 は、 上 来の 謂いから して、 無に おいて 在る、 否定に おいて 在る ことが 明らかに 

なる。 そして、 そのこと によって、 本来 的、 本質的に 人間の 類 的な 存在 は 完成され、 その 基礎の 上に、 人類の 

文化と 進歩との 課題が ポジティブに 成立す ると みられる。 フォイエ ルバ ッ ハ が 感性の 当処 において 人類に 課す 

る 課題 は、 その 前に、 彼が 感性の 当処と 簡単に いっての けた、 その 場所に おいて、 主体的に は 実に 断絶 的な、 

有から 無へ の 転回の 課題の ある ことが 前提され ている といわなければ ならない。 

その 実存の 当処 において、 主体の 存在が、 上の ような 謂いで、 無に おいて あり 否定 性に おいて あると いう こ 

と は、 直ちに 実践の 領域に 連なり、 生の 当処 において 問題になる。 実践的な 存在の 場面に おいて、 エゴ イスム 

スの 根拠から、 生の 主体 は 対 者 を 自己の ために、 また 自己に とっての ものと して 考え、 かつ 対処す る。 そして、 

その 生の 主体と は、 彼に あって は、 個体と いうより は 人類で あり、 これに 連なる 側に おいての 個体が 問 レーな 

つていた。 しかし、 とくに 生に おいて ある 個体の 主体性の 側から 見る という 点で は 徹底して いな (^)。 けれども、 

われわれの 問題 性から いえば、 ここに は 重要な 問題が ある。 けだし、 両者の 間 は 直接的に は 連ならない。 そこ 



で、 今 は 生の 主体と してと くに 個体の 実践的な 存在が 問題に されなければ ならない。 生の 当処 において その 肢 

体 をな し、 しかも その 主体で あると ころの 私 は、 対 者 を 私の ために、 私に とっての ものと みる。 —そして そ 

の 極端な ものと して、 在り もせぬ もの を 在りと 考えて、 想像の 産物に 囊 的に 対処す る ものと して、 彼は囊 

を難 じる ので あり、 その 対 者 を 在りの ままなる 皇性 において 見て、 これに 対処し、 人道の 舊 内で 人間性 を 

完成せ よと いうので ある。 それ は 本質的に は 正しい としても、 しかし、 そのこと は 私に とって は 相手に どう 接 

する かとい う、 いわば 手段 的な 問題で はなく、 接する 主体の 私の、 主体性の 有無 を 転じる 問題で ある。 私が 対 

者 を 私に とっての ものと して 考え、 対処す るかぎ り、 —その 形式的な 関係に ついて ではなく、 内容 的に は 

—真に 類 的なる 統一 において、 在りの ままなる 存在に おいて、 対 者 は 存在し ないし、 また 私に おいても そう 

である。 私が (私の、 同時に それ は 対 者の) 在りの ままなる 存在の 当処 において 存在す ると は、 私が 受け身で、 

身 を 落とし、 愛に おいて 在る ことで あり、 感覚 性に おいて 在る ことで あると フォイエ ルバ ッ ハ はいう が (感覚 

性の 問題 はいずれ 吟味され なければ ならない)、 しかし それ は 未だ 私 を 立てての 限りで ある (徽 なくと も、 そ 

うでない という 叙述 は 徹底して いない)。 そこに はさきに 実践の 領域に おいて、 宗教に ついて 論じた ように、 

主体 を 立てる かぎり— 霊の 方向に おいて は—、 主我 性が ある。 単に 利己的な 意味で はない にしても、 主 

我 性の あるかぎり、 さきに あげたよ うな 存在の 根拠に おいて、 対 者の、 また 私の、 在りの ままなる、 実存す る 

存在 は 籠し ない。 真に 在りの ままなる 存在の 逢に おいて は 私が 無に おいて 在る という、 さきに あげた こと 

は、 現実的 讓 的に は 主体の 義性を 否定す る ことより 外に はな (^)。 それによ つて 人間 存在の 本質的 本来 的な 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一 リ-ム 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一九 六 

現実が ある。 そして、 その上に ポジティブな ものが、 彼のい うような 課題が、 築かれる のであろう。 

では 生の 当処 において、 かかる 主我 性 を 如何に 否定す るか。 人間の 本来 的 本質的な 存在に おいて、 個体 は そ 

の 有限 性の 限 極に おいて、 無に おいて 在る という ことが、 さきに あげた 緊迫の 状況に おいて、 或いは 日常 不断 

の当処 において、 気づか しめられる であろう。 そこにお いても、 日常 的な 主我 的な 欲い、 願い は、 そこ を 自己 

の 欲い 願いの ままに 切り開こうと 欲う。 進退 谷 わ まって、 自己が 自己の 本来の 姿なる 無に 当面しても、 それ を 

怯え 怖れる。 しかし、 無 を 前にして 怯える ことが 人間 存在の 本来 性で はない。 無に おいて 在る ことが 本来 的な 

、 、 

存在で ある。 そこにお いて は 自己の 無が 自己の 無に おいて 生きられ るので あるから、 怯え は 呑み こまれて いる 

答で ある。 そして、 そこで は 対 者の 存在に おいて、 私の 存在が 真に 一 つに おいて、 現実に 実現 せられて 在る わ 

けで ある。 その 自己 を 無にし 主我 性 を 否定す る — 日常 性の 立場から は むずかしい 11 契機 を、 智目行 足 を、 

多くの 宗教 は 教えて いる。 尠 なくと も その 教え はこの 地盤の 上に 解釈し 得る と 思われる。 宗教 は、 人間の 本来 

性 を、 そして それ は 個体に とって は、 個体が 無に おいて 在る こと を、 個体に 取り次いで 有無 を 転ぜし める もの 

としてみ る ことが 出来るならば、 そこに 新しい 位置が 与えられよう。 その 一般的な 研究 は 当面の 問題で ないか 

ら 後日 を 期したい。 

それで は、 そこにお いて は、 宗教の はたらき は 前の 場合と どう 違って 来る か。 さきに は 宗教 を 人間性の 完成 

の 手段と 見た。 今 も 亦 層 位 を 異にして は、 そういい 得る。 しかし、 その はたらく 方向 は 前と 異なる。 むしろ 対 

蹢的 である。 前に は 欲い、 願い を 充足す る 手段と 見た が、 今 は それ を 捨てる こと、 いいかえれば、 欲い 願う と 



ころの、 在り もせぬ 主体の、 主我 性 を 捨てる ことに 見出されよう。 その 理由と 根拠と は、 丁度 フォイ エル ノ ッ 

ハが 巧妙に 叙述した 宗教の 主観性に おける 基礎と 根拠と を 逆に 遡及して みれば よい。 そして、 そこにお いて 見 

出され、 緒に つけられた 個体の 有限 性 を その 限 極に つめて みれば よい。 また 前と 層 位 を 異にした 意味で、 そこ 

に は 前に あげた 依存 惑からの 自由、 解脱が ある。 主体の 主我 性が 無に おいて ある こと を 知り、 その 無に おいて 

処 するならば、 待 対の 主体 を、 —— という こと は フォイエ ルバ ッ ハが 巧みに 述べた ところに 託して いえば II 

主我 性 を、 否定す るので あるから、 彼此の 対 待に よって 在る ところの 依存 惑から は 自由で ある 答で ある。 けだ 

し、 個体の 主体性 は 対 者の 主体性と 一 つに おいて 在る、 本来 的な 本質的な 存在の ままに おいて 在る からで ある。 

生の 当処 において、 かくして 踏み外し のない ところの、 彼の 言葉に 託して いえば、 持たざる ことの II それ は 

持ち 得る でも 持ち 得ないで もない 11 持つ ことがあり、 幸福で ある こと、 よくな つて ある こと、 が あるので あ 

る。 即ち ここで は、 宗教に 課せられる 役目が 前の 場合と 違う ことになるの である。 前の ような 役目に つけられ 

ると き、 宗教 は 文化の 能力に 比べられ、 後者に よって 超克され る ものと せられ、 迷信 や S 几 術と 並べられる。 

以上、 人間 存在の 当処 において、 宗教の 根拠 を 索め て 来た。 それが フォイ ュ ルバ ッ ハ の 所論に もとづいて.. - 

何に 考えられる かとい うこと を 解釈 的に 展開し、 更に 彼が その 端緒 をつ けながら、 結局 逸して しまった 人間 存 

左 こ. おける 個体の 主体性の 本質、 有限 性の 本質 を おしつめる ことによって、 問題の 開ける こと を 予想して おく 

ので ある。 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて ーリ七 



イデ ッガ ー は 指摘した。 もっとも、 彼の 環境 や 世界の 概念に はすで にか かる 連関が 存 している が、 そこが 主題 的 

に 確保され ていない。 そこで、 以下に 彼の 所論の 基本的な 要処 をた どり、 われわれの 問題と 方向から、 彼の 所論 

を 吟味し、 位置づけ を 試みて みたい。 

従来の 哲学で は、 理性と 感性と を 分け、 感性 的な もの は 論理 を もたない として 放擲され、 人間の 情緒 的 生活 

も 亦 そのような 運命に おかれて いた。 しかし、 人間の 精神 生活の なかで、 ここに は、 自然 的 帰納的な ものと は 

別 こ、 アプリオリな、 そして、 認識 や 意志の 領域に 対して は 優先的な、 存在の 領域が あり はしない であろう か。 

シ H ラ ー は 感覚的、 知覚 的な 個々 の 事物の 奥 或いは 主観に おいて 自然 的に 与えられる 事物 的な 実存 性の 奥に、 

本質的な 存在の 領域 を 認め (^」。 彼 は、 客観的 存在者 や 主観的 存在者が 反省 的に 措定され るに 先立って、 それら 

がー つなる 在り方に おいて 在る ところの、 根源 的な 存在 領域 をお くので ある。 それが 知の 問題領域 としての 相 

存在の 領域で あり、 価値 現象学に おける 価値 や 本質 性の 領域で ある。 ことに、 注目すべき こと は、 一面 ハイデ 

ッガ ー などと も 通じる ことで あるが、 彼が そのうち において、 かかる 存在 領域 をみ ると ころの 範域 は、 各自の 

日常 的な 情緒 生活の なかで あると いう ことで ある。 

皮 もまた 生 ある ものの 生の 根本 を 唯一 の 形式的 根本 衝動た る 自己保存の 衝動に おくが、 それが 事 をな そうと 

する 意欲 こおいて、 意志 作用 や 行為 をな そうとする ときに 出会う ところの もの 即ち 主体に 抵抗す る (...i^^sste- 

! ものが、 彼に おいて は 実在 性と 考えられ (1)。 この 実在 性と 主体 (の 意志 作用) との 交 会の 場面が いわ ゆ 

る 実践的 経験 や 実践的 世界と いわれる 領域であって、 「現象 的な」 事実 的な 存在 領域 もこの 場面に おいて ある 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて ーリ九 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二 00 

と みられる。 もっとも、 その 抵抗と は、 自然 的 客観的な 客体 そのもの における 抵抗で はなく、 現象学 的に は、 

とくに、 主体の 私の 上に はたらく ものと して 体験され た 抵抗で あ „s ?。 そして、 実践的な 意志 作用 や 行為に 対し 

て、 「はたらい ている」 というよ うに 体験され る ものと は、 いわゆる 環境 事物 (Milieuding) であって、 たとえ 

ば、 同じ 森が 狱師 にと つての 場合と 散歩 者に とっての 場合と は 異なる ように、 それら は 孰れ も いわゆる 客体 的 

な そのもの としての 物と は 質的に 異なる。 しかも、 われわれが 現に 実践的に 対処す る 環境と は、 かかる 性質の 

諸事 物の 統一的な 事情に おいて 取り まかれて いるので ある。 そして、 それら は 決して 単に 主観的 事情に 還元 さ 

れ、 或いは 基礎 をお かれる ところの もので はない。 即ち 環境 事物と は、 われわれの 知覚 内容に 呼応す る 諸 対象 

と、 あの、 そのもの として 客観的に 考えられた 諸 対象との 中間に ある 一 つの 中間 領域に 属する ものである。 

こういう 中間 領域に ある 環境 は、 主体の 関心 や 注意 や 知覚が、 それにつ き 当たって、 そこ を 通りぬ け 得ない 

壁の ように 当面する ところの もので あり、 そして、 そこから、 主体の 諸 作用が それぞれの 段階 —— 価値の 段階 

秩序に よる 11 において 限定され る ものである。 主体の 方から いえば、 それ は 客体 的 対象の ように 知覚 や 見通 

し を 經て接 しられる のではなくて、 その 「はたらき」 へ は、 勘 じるな どと いうよう に、 志向 的 体験に おいて か 

かわられ るので あり、 そこに は、 順 違、 充足 不 充足と いう 法則が ある。 

ところで、 一体、 環境と いい 中間 領域と よんだ ところの ものの 本質 は 何 か、 その 形式に は 如何なる 構造 契機 

が 本質的 特質 をな している か、 という ことが 問題になる。 われわれが 実践的に そのな かに 在り、 相互 的に 限定 

し、 それらに 取り まかれて、 そこ を 通りぬ け 得ない 壁に おいて 枠づ けられる 環境 内に おいても、 環境 中の 諸 対 



象 は 種々 に 変化し うる。 しかし、 環境 自身 或いは その 特定の 環境 形態 は コンスタント である。 それ は 恰も 主 

体の 変化 等に よって 前後左右 という ごとき 空間の 方向の 区別が 変わらぬ ような 関係で ある。 この コンスタント 

な 中間 領域の 環境 こそが 上に あげた 存在 領域で あるが、 シ ュ ラ ー によれば、 それ は 価値 諸 性質 (wertqual ま ten) 

OS) 

が 一定の 面 値 事態 (wertverhalt) において ある すがたに 外る らるレ 

即ち 環境と は、 われわれの いろいろな 傾向の 特殊な 段階 秩序に おける 価値 態度 (werteinstellung) ないし 価値 

事態に 対する 態度 を 支配す る 先 撰 律 (vorzugsregel) が、 それに もとづく ところの 諸々 の 価値 性質で ある。 いい 

かえ lf、 或る 環境と は、 或る 特定の 価値 事態 (四つの 価値 様態 (wertmodalits 中の 或る 段階 秩序に おける 

対象 相応の 価値) によって 区切られた 価値 性質で ある。 環境 事物と は、 この 価値 性質が 経験され る 事物に 応じ 

て、 その 段階 秩序 (Rangordnung) (価値 性質 は 四つの 価値 様態の 段階 秩序 を もつ) から 自己 を 相応せ しめたと 

ころの、 事物 相応の 価値 様態に おける 統一 を もつ 価値 事態に 外なら ない。 花 をみ て、 或る人 は 気持よ くお もい、 

""^人 は建康 をし のび、 詩人 は 風流 を 感じ、 聖者 は浄 福を歓 ぶであろう。 しかし、 それらの 体験 は、 ただに 個体 

の 主観に よっての みそうな ので はなく、 また 花 そのものの 直接な 経験で もない。 実に それ は 謂わ ゆる 主観 や 客 

観 を 超えた、 その 奥の 存在 領域の 一 つの 在り方た る 価値 性質が、 それぞれの 価値 段階に おいて 体験され ている 

(8) 

ので あり、 それぞれの 価値 事態に おける 環境 事物が 体験され ている ので ある。 

しかし、 この 環境 事物の こと は、 とくに 生 ある 者の 生に おける 体験の 事情 を 叙べ たもので、 主体の 身体に 応 

じる環境の関係をぃぅので^^ぬ^^ それで、 かかる 段階より もより 高い 段階に おいて、 いうと ころの 「人格」 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二 一 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二 ◦ 一一 

(person) に 応じる 「世界」 (welt) の 関係 を 明らかにする ことによって、 以上の 存在 領域の こと はより 判然と 

してく る。 即ち 上の ような 存在 領域 は、 精神的な 人間に おいて は、 現実に は その 「作用」 及び 「機能 一 におい 

て 与えられ ている。 その 作用の 中心ない し 遂行 者が 人格で あり、 この 人格の 関係す る 対象 界の 具体的 統一が 世 

界 である。 即ち 精神的 存在者に とっての 現実と は、 作用の 遂行され ている ところの 範囲で あり、 それ は 人格の 

志向 的 体験の 当の 場面で ある。 それ 故 一人の 人格に は、 相応の 世界が 相応す るので あって、 ^界は 唯 1 こ 隹だ各 

自 的な 一人の 人格の 世界で ある。 そして 如何なる 対象 11 いわゆる 内部的 世界 や 外部 的 世界の 諸 対象、 関係の 

対象、 観念 や 価値の 対象 等 11 の 領域と いえ ども、 現実に は、 かかる 世界 即ち 人格に 相応す る 一 つの 世界の 一 

苦 分に 外なら ない。 しかも 人格と は、 世界の 部分で はなく、 まさに 一 つの 世界 即ち その 中に おいて 人格が 自己 

を 体験して いると ころの 世界の 相関 体で ある。 

シヱラ —のい う 存在 領域と は、 このように、 純粋 意識に 内在す る 領域で はなく、 普通の 謂いに おける 主観 や 

客観 を 超えた、 或いは その 奥なる、 現実的な 現象 的な 「事実」 としての 場面で あ (^)。 しかも、 それ は 実践的な、 

とくに 情緒 的な 経験の 当の 場面に 常に 露呈され ている。 そこで、 次に はこの ような 性格に おける 存在 領域の 構 

造が 問題になる が、 しかし、 一体、 かかる 存在 領域 はどうして われわれに 与えられ るかと いう ことが 先ず 钆さ 

れ なければ ならない。 ここに はシ r フ ー の哲 学に おいて 最も 困難 を ふくむ 箇処が あるが、 シ H ラ —は 彼のい わ 

ゆる 本質 直観に よ つ てこの こと を 明らかにしよう とする。 赤 さや 青 さと いう 色 自体が 事物 そのものに 翼さず、 

事物 そのものと 離れて わかる ように、 気持よ さや 美し さが、 事物 や 人の もっている 固定 的な 徴表 によって 初め 



て われわれに 知られる ので はない。 それらの 価値 は、 それらの 価値 を 担って いる 事物 や 人 を それぞれ そのもの 

こおいて 知覚し 観念し ないで、 直接に われわれに 確かになる。 そのよう に 直接に 確かになる のが 本質 直観の 故 

である。 主体と 相手との 間の 独特な 各自 的な 体験の 当の 場面に おいて、 価値 性質 は 主体の 各自 的な 直観に 向け 

て、 まさに 相応な 様態 を、 その 場合の 特定な 価値 事態に おいて あらわす (向こうから あらわす) ので あり 諸 

諸の 価値 性質 間の 11 価値 様態に おける —— 高低の 段階 秩序に おいて あらわす ので ある。 本質 直観に おいて、 

価値 性質が 創造され るな どと いう ことがあ るので はない。 現象 的な 意味で、 存在す る 価値 性質が、 或る 段階に 

おいて、 或る 相応の 段階の 志向 的な 体験の 本質に 応じる ので ある。 ——シ ユラ ー のい う 本質 直観 はこの ように 

直接 J;? であ つて、 たとえば フッセ ル におけるが ごとき 還元 を 要しな レ 

しかし、 かかる 存在 領域 即ちと くに 価値 領域の 全体の 構造が 如何にして われわれに 明らかになる のであろう 

か。 それ は 匪な 問題で あるが、 先ず 知の 問題と していえば、 われわれの 「現存 在」 へで はなく 「相 存在」 の 

領域への 関与で あり、 価値の 問題に ついていえば、 財 や 事物で はなく 価値 本質の 全体 を 明らかに するとい うこ 

とのた めに は、 その 存在 領域に 自己 を 転じる ことによって、 これに 関与す るので ある。 そのために は 「生の 苦 

行者」 として 個体 は 自己の 主体性 を 否定し なければ ならない。 これが 彼の 所論に おける 没我 主義と いわれる 所 

以 であるが、 そのこと は 実に 神に なり、 神に 至る ことになる。 また、 後年の 『宇宙に おける 人間の 位置』 等で 

説かれる 「昇華」 の 諸 段階に みられる ごとき 主体の 変化 を 必要と する ことになる。 高い 価値と くに 最高の 価値 

は、 個体の 否定に よって 絶対的な 無に 躬ら 居る ときに 初めて 明らかになる。 けだし、 さきに 人格と 世界との 関 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二 ◦ 三 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二 〇 四 

係に ふれた が、 全 的な 絶対的な 世界 は 神に よって 創ら れ、 もたれて いる。 この 世界に 相応す る もの は 神と 同じ 

人格でなくて はならない。 かくして、 現象 的 世界 即ち 主観の なかに 捉えられた 世界と 所与の 世界との 統一 にお 

ける 事実の 世界が、 あやまり なく 明 証 的に 明らかになる というの であ (が。 

ともかく、 上の ような 本質 直観に よって、 価値 や 本質 性の 領域が 明らかにな るので あるが、 現象学で は、 事 

態 的な 対象の 把握の ために は、 その 対象 をた だ 上の ような 志向 的 作用に おいても つので ある。 そして、 そこに 

現象学が 問題に すると ころの 現象 的 対象の 三つの 分野が 開かれる ので ある。 即ち、 一に は 作用に 与えられる 面 

値 や 本質 存在の 諸 本質 性の 問題、 二に は 作用 そのものの 諸 本質 性、 三に は 作用と その 対象た る 価値 性質 等との 

本質 連関の 問題で ある。 

これらの 問題に ふれる 前に、 しかし、 彼の アプリオリの 所論に 一言 ふれて おかなければ ならない。 シ H ラ ー 

の アプリオリ 論 は、 カントの 形式的 アプリオリ 論に 対して 実質的な アプリオリ を 主張す る 点に おいて 知られて 

いるが、 それ は、 本質 直観に よって 関与され て あると ころの、 所与の 価値 及び 本質 性の 諸 本質 領域が、 アプリ 

オリに おいて あり、 主観 はこれ に 関与して あると いう 点に おいて、 アプリオリ であると する ので ある。 従って、 

アプリオリ は 主観の 側に なく、 客観の 側に あり、 形式に おいてで はなく して、 価値 性質 等の 実質 性に おいて あ 

る。 しかも、 経験 を はなれて ではなく、 経験の 或る 在り方 即ち 本質 直観、 現象学 的 直観に おいて、 アプリオリ 

が あると する。 そこに 作用の アプリオリ テ ー トが 対象の 領域に おいて 保証され る ことになる わけで あ (が。 

そこでまず 第一 に、 さきに あげた 諸 対象 領域の 諸 本質 性と それら 相互の 関係で あるが、 価値 性質 は、 現実に 



は それぞれの 価値 事態に おいて、 財 や 価値 事物に よって 担われて いる。 しかし、 ここで は 価値と その 担い手と 

の 関係の 問題 を 暫く 措いて、 直ちに 価値 領域の こと を 問題に する。 実質的な 価値 性質 は 千差万別で 尽くる とこ 

ろ を 知らぬ ので あるが、 それらの 間に は 関係が あり、 統一が あり、 段階 秩序が ある。 即ち 価値 性質 は それ 自身 

の 領域に おいて、 その 諸 性質 間に それぞれ 統一的な 系列が あり、 その 究極 的 統一 の 体系た る 四つの 価値 様態に 

おいて 統一され ている。 そして、 その 四つの 価値 様態 間に は 実質的で アプリオリな 段階 秩序が ある。 

四つの 価値 様態と は、 一、 快 不快の 価値の 様態 即ち 感覚的 価値 様態。 その 感得 (Fiihlen) は 身体の 部分的 感 

覚 において 受容され る。 二、 生気 的ない し 生命 的 価値の 様態。 その 感得 は 全身 体 的に 受容され る。 三、 精神的 

価値の 系列で、 この 様態に おいて ある 価値の あり方 は、 W 美醜、 ^正邪、 ^真不 真な どで ある。 この 様態に お 

、, て ある 価値の 与えられ 方 は、 前の 二つの 段階に おける ものと 異なり、 身体 や 環境から は 解放され ている 四、 

第 四の 段階 は聖 という 様態に おいて ある 諸々 の 価値 系列で ある。 とくに、 この 様態に おいて ある 価値 は、 他の 

様態に おいて ある 価値と 全く 性質 を 異にし、 この 聖 において ある 諸 価値に 対して は、 他の 段階に おける 諸 様態 

の 諸 面 値 は すべて 表徴と して 与えられる (とくに 宗教 論 における 自然 的 啓示 の 理論 を 参照)。 

これらの ことにつ いて、 更に 詳細 を 尽くす こと は、 ここで は 省略す る ことと して、 次に は、 これらの 実質的 

価値が 主体の 主観に 与えられる、 その 与えられ 方 或いは 受容の 仕方が 問題になる。 対象の 本質と 志向 的 体験の 

本質との 本質 連関が、 現象学の 最高 命題と いわれる が、 価値 現象の 構造に おいて、 諸々 の 価値 性質との 本質 連 

関に おいて あると ころの 志向 的 体験の 本質と は、 それ は、 とくに 情緒 的な 「感得」 (F き 一 S) である。 ただし 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一一 五 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一一 ◦ ム、 

感得 は 感情と は 異なる のであって、 感情 は 経験的な 内容 を もち、 Erscheinung として ある 状態で あるが、 感得 

は 価値の 受容 (Aufnahme) の 機能 (Funktion) である.^ 即ち、 現実に は、 或る 事物 その他が 対象と して 主体に 

対してい るので あるが、 その 際に、 その 対象が 担う ところの 価値 即ち 価値 事態 を、 感得 は 対象と する ので ある。 

その 価値 事態に おいて、 或る 特定の 段階に おける 価値 様態の もとに 価値 性質が あらわれ ている ゎナ である。 従 

つて 感得 は 目標の きまった 運動で あり、 Wertkomponent への 志向 的 関係で ある。 なお、 この場合 こ、 そ, 化 

それの 価値 事態に おける 価値 性質 は、 自己 を 相応の 志向 性に 向って 開示す るので あって、 主観の 志向 性に 対し 

て 応答 反応 を 要求す るので ある。 

価値 性質 はこの ようにして 与えられ るが、 次に 諸 価値 間のより 高き を 高し とし、 より 低き を 低し とする こと 

力 先^ (vorziehen) と 後^ (Nachsetzen) の 機能ない し 作用に おいて 与えられる。 この 先. 巽と 後 ^ま 次の 愛 

憎の 作用と ともに、 その 体験 は 情緒 的 「作用」 (Akt) として、 前の 志向 的 感得 機能と 区別され る。 そして、 感 

得が 価値 性質 そのものと 関係し、 かつ 認知 的 理解 的な 機能で あるのに 対して、 先 撰、 後^ や 愛憎 等の 諸 作用 は、 

諸 価値 間にお ける 高低の 段階に 関係して、 とくに、 それ を 把握し、 認識す るので ある。 かつ、 さきに も ふれた 

ように、 価値の 段階 秩序が 価値の 根本 法則で あると ころから も 明らかな ように、 先 撰、 後^の 作用ない し 機能 

が 感得 を 基づけ るので ある。 

次に 愛憎の 作用 は、 シ f フ ー において は 情緒 生活の 最高の 段階 を 形成す る ものである。 先 撰 等と 同じく、 価 

値の 段階 秩序に おける 高低と 関係す るが、 先 撰 等の (機能的) 作用と 異なる 点 は、 愛 等の 作? fP ほより 高き 価 直 



へと 進み、 価値が その 対象の 側から 自己 を 開示す るの を 霧す るの みならず、 とくに 価 襲 域 を 臭 的に 開く 

こと をな す 乍 用で あると いう ことで ある。 即ち 与えられた 一 つの 価値に 対して、 それ をより 高く し、 又はより 

、 、 、 §o 

£ くして (曽 みの 作用) 把握す る 自発的な 作用と 考えられる 

価値が 主観に 関係す る 仕方 は 上のと おりで あるが、 このよう にして 受容され た 価値の もとにお ける 主観の 状 

態 性が 次に は 問題になる。 情緒 的 生活に 優位 をお く シヱラ ー として は、 そのこと が 感情の 問題と して 扱われる。 

一見、 万別 ある 感情に も 定まった 性質の 相違と 深さの 相違と が存 する のであって、 この 深さ は 裏 (又は 人 

格) の 層 位の 深さからで てく る。 即ち 禱は 本来 的に 裏の もとに あり、 裏と 密着して いて、 主体 はこれ を 

自由に 支配し えない。 このような、 自我との 連関 性に おいて ある 感情 は、 自我の 層 位の 深さが 価値 様態の 四つ 

の 段階 秩序に 相応して いる ことに つれて、 また 四つの 性質に 分かれ (^)。 即ち、 感覚的 感情、 生命 的 感情、 純粋 

に 心的な 感情、 精神的 感情で ある。 

以上に よって、 シ ユラ ー のい う 自然 的經 験の 奥なる 現象 的な 存在 領域 即ち 価値 や 本質 性の 存在 領域と、 それ 

らが 主観の 窗的 体験に おいて 内在 化される 構造 をみ て 来た。 とくに、 価値の 薦 階と、 これに 相応す る 志向 

性の 諸 層 位との 関係に ふれて 来た。 それ は、 宗教に 関する 彼の 所論の 基礎的な 吟味と われわれの 問題からの 位 

置 づけの ために、 必要な 部分 を 要約した ので あつたが、 更に ここで は 彼の いわゆる 宗教 的な ものに ついて、 要 

約 的な 瞥見 をして おく ことが 必要で ある。 彼の いわゆる 宗教 現象学 は、 「具体的 現象学」 ではなく、 宗教の 「本 

質 現象学」 を 説く ものであるが、 その 本質 現象学に は 三つの 目標が ある。 その 一は、 神 的な ものの 本質 存在 学- 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二 七 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一一 G 八 

その 二 は、 神 的な ものが 人間に 自己 を 顕示す ると ころの 啓示 形式に 関する 問題、 第三に は、 この 啓示 内容 を受 

容 する 用意で あり、 かつ、 その 内容 を 信仰に おいて はっきりと 掘む ところの 宗教 的 作用の 問題で あ (1)。 しかし 

所詮、 問題の 中心 は、 宗教 的 作用に おいて、 神 的な ものが 自己 を 開示し、 これ を 主体の 作用が 受容し 体験して 

いると いう、 その 本質 連関の 場面で あり、 とくに、 われわれの 主題から は、 そこにお ける 神 的な ものが 問題と 

なる。 

彼に よると、 宗教の 現実 或いは 「事実」 は、 宗教 的 作用に おいての みある ので あるが、 この 宗教 的 作 弔と は、 

唯 だ 唯 だ 神 的な ものと いう 価値 性質の 志向に のみ 向かい、 聖の 価値 様態に おいて ある 「或る もの」 によっての 

み、 充足され、 実現され る。 そして、 その作用の特徴として次の三点がぁげられ(|^> 

一、 この 作用の 志向 は 世界 超越 的で ある こと、 

一 一、 この 作用 は 唯 だ 神 的な ものに よっての み 充足され る こと、 

ニー、 その 充足 は 神 的 性格 を もった 存在者が 主体に 対して 自身であろう とし 自身 を 接せし める ことにの みよる 

と い V つ こと、 

この 二と 三と から 直ちに 問われて 来る 問題 は、 神 的な もの (das G6ttliche) または 神性 (Gottheit) の 性格で 

あるが、 それに つ いて は、 

一 、 それ 自身からの、 それ 自身に よる 存在 (ens a se)、 即ち 

二、 全能 的な はたらき (wirksamkeit) の ある こと、 



という 二つの 性質 を あげる。 そして、 かかる 性質 を もった 神 的な ものから 宗教 的 作用 は 充足され るので あるが 

その 場合に、 主体 は どのよう になって いるかと いうと、 その 事情 を、 

一、 自己なら びに 世界 一般の 相対的 存在者の 空しき こと、 能の なき ことの 体験、 

二、 しかも、 それらの 存在者 は 空しく は あるが、 無い ので はない。 神に よって 創ら れて あると いう 体験、 

であると いう。 そして、 これらの こと は 上の 神 的な もの 或いは 神性の 二つの 性格と 相応す る。 従って 消極的に 

いえば、 自己 並びに 經験 的な 存在者が すべて 拠る ところな く、 目当て もない ものと して 意識され る。 それが 宗 

教的 経験の 特徴で ある ともいう。 

以上が、 シ f フ ー の宗教 論の 前段 をな す 中心で、 現象学 的な 宗教 的 事実、 即ち 対象の 本質と 作用の 本質との 

本靈 関の 当処の 在り方 を 示す ものであるが、 ここで 問題と なる の は、 かかる 現象 的な 囊的 事囊 いは 囊 

的 関係の 然 かる 所以の 根拠に 関する 彼の 所論で ある。 それ は、 決して 主観の 内部 や 主観の 側に おいて みられる 

ので はな (i)。 宗教 的囊 は、 本質 連関の 場面に おいて あり、 そこにお いて、 神 的な ものが 宗教 的 作用に のみ 自 

己 を 開示す る。 従って、 まさしく 囊の 根拠と は、 宗教 的 作用に おいて 自己 を 開示す る この 神 的な ものに ある 

に 瑕 違ない。 たとい、 宗教 的 作用 即ち 愛の 作用に は 自発性が ゆるされる としても、 宗教の 根拠が たずねられる 

べき 唯一 の 関門た る 本質 連関の 場面に おいても、 優位 は 対象の 側に おかれる。 

ところが、 宗教 的 作用に おいて、 「自己 自身から」 自己 を 開示し (I 一 erschlierny 自己 を 顕示す る (sich- 

offenb 雲) という 神 的な ものと は、 一体、 如何なる ものであろう か。 とくに 『永遠なる もの』 において は、 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二 リ 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて ニー 

その 本質的 規定 性 を、 

1 、 絶対的に 存在 するとい うこと、 

一 一、 聖 である こと、 

という。 『形式主義』 における 神の 理念に 関する 強調 はむしろ 後者に おかれて いると 考えられ るが、 『永遠な 

る もの』 において は、 逆に、 前者に 強調が おかれる。 この ことに ついては、 次に 吟味す るが、 ここに、 宗教の 

根拠に 関する 彼の 所論の 秘密と 困難が ある。 彼の 方法論 上の 建て前から は、 神 的な ものに ついては、 当然、 第 

一 一の 性格から 問題 を迚ら なければ ならない。 

「神 的な もの」 と は、 最高に して 絶対的な 価値 段階に おける 聖の 価値 性質で ある。 それ は、 直接的 直観的な 

宗教 的 作用に おいて 与えられる。 ただし、 宗教 的 作用に おいて は、 唯 だに ひとり 「神 的な もの」 の 本質 性が 与 

えられる に 止まらず、 また 実に 「神の 現存 在」 が 与えられる という。 11 この こと は、 すでに 『形式主義』 に 

おいても ふれられる。 即ち、 宗教 的 作用に は、 神 的な ものの みならず、 神の 理念の 中心としての 究極の H レメ 

ント なる 神の 現存 在が、 神に 対する 愛の 感得と 直観と において 与えられる という こと を、 むしろ 唐突に あげて 

、 §。 , 

レる 11 けたし、 宗教 的 作用と くに 愛の 作用に おいて は、 その 対象 を 次の ような 存在の 段階に おいて 把握す 

る。 即ち その 段階の 存在に おいて は、 その 存在の 相 存在 — 愛の 作用 は、 本来 は 相 存在 を 志向す るので あるが 

11 が、 未だ、 実存す る 存在と も 価値 存在と も 規定され ていない という、 そのような 存在の 段階に おいて、 対 

象 を 把握す る。 主体に とっての、 そのような、 相 存在と 現存 在との 未 分の 段階に おける 存在と は、 それ 自身に 



よ つ て 存在す ると ころの エンス. て セ である。 エンス-て セは 形而上学 的 原理で あると ともに シ ェ T に 

おいて は、 それ は 宗教 的 作用 を 充足し 共同 遂行す ると ころの 絶対者で あり、 神で ある。 

このように、 宗教 的 作用 即ち 聖ゃ神 的な もの を 志向す る 愛の 作用に おいて は、 神 的な ものの 本質 性の みなら 

ず 神の 現存 在が 把握され る。 厳密にいえば、 聖ゃ神 的な ものと いう 価値 性質 は、 それ 自身に おいて 現存在を も 

つ。 囊 経験に 与えられる 究極の エレメント たる 神の 現存 在 は、 明らかに 最高の 価値 性質なる 性格 を もち、 ま 

さに、 聖の 価値の 中に おいて 成立 (bestehen) している というの である。 けだし、 価値の 現存 在と いう こと は、 

それ 自身 一 つの 価値で ある。 また、 すべての 価値 即ち 性質と しての 価値 は、 一 つの 現実に 存在す る 主体の 特性 

である。 従って、 これらの 諸 命題から、 最高 価値た る聖 において、 明 証 的に 要求 さるべき この 価値の 実在 的な 

担い手に はまた、 現存 在が 帰属し なければ ならない という ことが わかる。 このような、 本来 的 本質 自身から 出 

て 来る If もつ 現 存在者と は、 それ は、 ユン ス -ァ- セ であり、 絶対的 価 f その 自己 価値と しても つと 

(so 

ころの 現 存在者で あると いう。 

シ ユラ ー の 所論に おける 基本的な もの は、 上の ように 要約され る。 なお、 神の 現存 在と 宗教 的 作用との 相応 

性 や、 彼の いわゆる 啓示 形式の 問題、 さらに、 神 的な ものの 本質 存在 学 的 究明 等に ついては、 ここで は 詳論 を 

P 以上の 要約 を ふまえて、 われわれの 問題と 方向と から、 彼の 所論 を 吟味し、 位置づけ を 試みて みょう。 



第 七 章 宗教の 根视 について 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて ニー 二 

八 一 

シ ュ ラ ー の 所論に は 始終の 変化が 極めて 多い が、 その 間にお いて 一 貫して いる こと は、 世界の 全体の 中に お 

いて 人間と は 何かとい うこと であ つ た。 或いは 神と 世界と に対する 関係に おける 人間の 認識と いう ことで あつ 

た。 そのこと を 彼 は最晚 年の 『宇宙に おける 人間の 位置』 等で はっきりと 述懐して いる。 その 人間と は 如 可な 

る もので あるか。 彼の 宗教 観に おいても 有神論 的な ものから 汎神論 的な ものへ と 転じ、 しかも 結局 やはり 有 神 

論 的 理念に 復帰して いると みられる ように、 彼の 人間 観に おいても、 結局 有神論 的に 神の 理念との 連関の もと 

に その 本質 を 明らかにしようと している と みられる。 その 要処 はや はり 『宇宙に おける 人間の 立 置』 その他で 

示して いると おりで あり、 その 態度 は 『人間の 理念に ついて』 (一九 一 五) の 態度と 相応して かわらぬ 意図で あ _ 

つたと いう。 もっとも その 人間なる ものの 本質に ついての 所論 も 変遷が あるので あって、 人道主義 的な 普遍的. 

人間 を 語った 場合 も あるが、 しかし、 彼の 所論の 特質 は、 やはり 現実に 存在す る 人間の 在り方 を 問題と した こ 一 

とに ある。 人間 は 理想的 本質で はなく、 所 住の ないし 相応の 世界 もまた 楽園で はない。 人間と は 自己と 世界と _ 

を 超越して、 結局、 純粋 存在 或いは 絶対 無に 当面し、 或ぃはそこに落ちてゅくべきものでぁるとぃ?^ 

ただ そのような 人間の 虚無 性 を 救う ものが 外ならぬ 宗教で ある。 何 かが あり、 何 かであって、 無で はない 所; 

以が、 彼の 形而上学 的 原理で あり、 現象学 的 原理で あつたと 同様に、 また 人間 観の 原理で もあった。 無で はな 一 



くて、 何 かで ある 所以が 宗教に よって 告知 せられる。 但し それまでに は、 人間性に おける 両肢 性が 昇華され、 

克艮 されなければ ならない。 人間の 本質に は 精神と 衝動との 両肢が ある。 そして その 究極 的 統一 は 神に おいて 

のみ 存在す る 状態で ある。 従って 人間に おける 两 者の 統一 は、 神の 実現に おいて はじめて 全うされる。 その 全 

うされ る 経過が、 彼に おいて は 最後の 『哲学的 人間学』 の 中心 課題と して 見られる ので ある。 

このように、 シ ユラ ー において は、 人間の 探究が 神の 理念と 関係す るので、 宗教の ことと 連関す る ことによ 

つて 問題の 具体性 を 得る ことになる。 すでに 彼 は 初期 以来、 宗教の こと をねば り 強く 考えて 来て いるが、 『形 

式 主義』 においても 倫理の 完成が 宗教 を まって なさるべき こと を 主張し、 晩年に おいても 虚無主義からの 脱却 

を 宗教に 寄せて 説いて いる。 

そのよう に みられる ところの 宗教に ついて、 その 究極 的 根拠 を 彼 は 何処に 求める のか。 

人間と は 神 を 求める 者で あり、 神 を 求める 生きた エック ス であると 『形式主義』 ではい う。 しかも 人間 は自 

己の 外なる 神 を 偶然 的に 求め 探す ので はない。 彼に よれば、 神 的な ものに 相応す る囊的 作用 は 人間 精神に 本 

質 必然的な 持参金で ある。 また 神 的な ものへ 関係 するとい うこと は 実に 人間の 本質に とって 構造 的に そうな の 

である ともいう。 従って 或る人 は 宗教 的に 生き、 或る人 は 宗教 的に 生きない という こと は 問題に ならない。 宗 

教的 作用が、 或る人に よって 遂行され るか どうかと いう こと は、 問題に ならない。 11 問題になる の は、 その 

ゾ F 弔の 本質に 逆らって 有限 的 偶然 的な もの を聖 なる 神 的 絶対者と して、 これに 対してい ないか どうかと レ うこ 

とで ある —— 。 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二 一 三 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一二 gj 

現実 生活に おける 宗教の 領域 を、 シ ユラ ー はこの ようにみ る。 宗教の 特殊 領域の 構造に ついては 上に ふ.^ た 

とおりで、 宗教 的価懂 とはいう まで もな く聖の 価値で ある。 それが 価値 事態 的な 相の もとに 「神 的な もの」 と 

いわれる ので あるが、 その 「神 的な もの」 に は 二つの 本質的 規定が 属する。 第一 は 絶対的に 存在 するとい うこ 

と、 第二 は聖 であると いう ことであった。 ここで は、 まず この 聖と 宗教 的 作用との 関係 を,^ してみ よう。 

絶対的に 存在す る 神 は それ 自身に よる 存在 即ち ェ ンス • ァ • セ という 個性 を もつ のであって、 それ 自身 絶対 

的に 存在す る。 或いは 類推 手続と して は 絶対的 価値 は 現存 するとい うことの 価値 を 具有す ると も 説く ので ある。 

絶対的に 存在 するとい うこと は、 現存 在と 相 存在に おいて 絶対的に 存在す るので あるが、 先ず その 相存左 こ, つ 

いて ふれよう。 その 相 存在 は 価値 性質と して 先ず 宗教 的 作用 を 充足し、 宗教 的 作用に おいて 自己 を 顕示 (off さ. 

baren) する。 その 顕示 11 キリスト教 とくに 新教で は イエスに おける 固有の 啓示 を 指す が、 へ ー ゲル ゃシ h ラ 

1 ないし ハ イデ ッ ガ— 等で は offenbarung の 語で、 それぞれ 究極 的な ものの 自己 開示 を あらわす II に は 自然 

的 啓示の 仕方 も あれば 積極的 啓示の 仕方 もあろう。 人格に よる 自己 自身の 啓示 も あれば 事物に よる 機能的 啓示 

も ある。 孰れに しても 価値 事態 的な あらわれ を 特定の 人物 や 事物に おいても つので ある。 勿論、 その 価値 は 人 

格 価値で あるから、 価値の 担い手 は 事物で はない。 事物に あらわれる 機能的 啓示に しても 事物 そのものの 事物 

性に おける 価値と して あらわれ るので はなく して、 事物 を 介し、 それ を 表徴と して 自己 を あらわす ので ある。 

従って、 この 価値の 担い手と しての 事物に ついていつ て も、 事物 そのものの 担う 価値 や 本質と は 別な 聖の価 ま 

かその 事物に 託される までで あり、 それ を 通して 領を 出す までで ある。 



かかる 価値 性質 を享 ける のが 宗教 的 作用で ある。 ところが、 一方、 神 的な ものの 現存 在 はどうな るか。 対象 

の 本質 を 変じる ことなく、 志向 的 体験の 本質 は、 その 対象の 本質に 関与す る。 それが 本質 連関の 場面で あり、 

まず 情緒 生活の 本質に 与えられ るの はか かる 本質 性であった。 ところが 神の 現存 在 はどうな るか。 宗教 的 作用 

に 与えられぬ のかと いうと、 そうで はない。 宗教 的 作用 は、 その 本質 上、 宗教 的 対象の 本質 即ち 聖 である とい 

う 神 的な ものの、 上に あげた 第二の 本質的 規定に 関係す る こと は 勿論で あるが、 とくに 愛の 作用と しての 宗教 

的 作用 は、 未だ 相 存在と 現存 在との 二つの 存在の 分かれない 段階に おいて 相手の 対象 を 志向す る。 従って 宗教 

的 作用 は 神の 現存 在 I 験し、 把握し、 議 するとい うので ある。 ただ、 その 認識の 問題 は、 やはり 情緒 的 体 

験の 領域 内から 出発す るので あって、 決して 他の 領域から ではない。 そして、 その 認識 方法が 独特の 類推 的 方 

法に よるので あり、 「挙 示」 (Aufweisen) や 「反証」 (Nachweisen) というよ うな 知の 二重 性から 来る とされる 

ので ある。 実在 性の 認識と いう 問題 は、 上に あげたよ うに、 対象の 「はたらく こと」 における 抵抗 体験に あつ 

た。 宗教 的 対象の 現存 在の 問題 もや はり その 「はたらき」 従って 「現実性」 からの 抵抗 体験に もとづいて 認識 

される。 そこに は、 直接的な 知が 与えられ るからで ある。 そして、 宗教 的 作用 即ち 愛の 作用 はま さに かかる 両 

様の 作用で あると いうので ある。 

以上で 明らかな こと は、 囊的事 実は 唯 だ 唯 だ囊的 作用の 具体的な 場面に 存し、 囊的 作用に おいて は 神 

の奏 性の みならず、 その 現存 在が 与えられる という ことで ある。 それで は、 かかる 囊的雲 性が 然 かる 所 

以の 根拠 は 何処に あるので あろう か。 かかる 宗教 的 事実 性 は 当の 宗教 的 事実 性 それ 自身に 根拠 を もつ ので あろ 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて • 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて ニニ、 

うか。 そうで はない。 ただ 宗教 的 作用の 場面に 宗教の 事実 は 与えられ るが、 宗教の 事実 をして 宗教の 事実たら 

しめる ところの 根拠 は、 宗教 的 作用で はなく、 かつまた、 本質 連関の 当処を はなれて ではない が、 まさに そこ 

において、 「自己 自身から」 自己 を 啓示し、 宗教 的 作用 をして 意味の 充足 をな さしめ ると ころの 「神 的な もの」 

に 外なら ない。 もっとも、 この 「神 的な もの」 が 絶対的 存在で ある 所以 は、 この 「神 的な もの」 が、 それ 自身 

によ つ て 存在す ると ころの エンス. ァ. セ である こと を、 その 固有 性と する からで ある。 ただし、 こつ エンス. 

ァ. セはー 方に、 形而上学 において 要求され る 第一 原理で も ある。 しかし、 宗教 的 事実に おいて 自己 を 顕示す 

ると ころの 「神 的な もの」 の 固有 性と しての エンス .ァ. セは、 形而上学の 原理の ように、 固定 的 静的な もの 

ではない。 宗教 的 作用に おいて 志向され、 その 作用の 主体と 共に 生きられた 存在者であって、 「神 的なる もの」 

の 本質的 性格と して、 見て 来たよう に、 それ は 人格 的 存在者と して、 作用 遂行の 中心で ある。 そのような はた 

ら きと 現実性に おいて、 宗教 的 作用に おいて は 体験され るので ある。 即ち 絶対的 存在者と しての 神 的な もの は、 

唯 だ 宗教 的 作用に おいての み 自己 を 顕示す るので あって、 その他に おいてで はない。 神 的な もの は、 そのよう 

に、 形而上学 的 原理な どと は 異なる が、 しかも、 それ はま さしく 宗教 的 作用の 当処 において のみ、 その 究極の 

存在の 所在 を もち、 現存 在の 所在 を もつ ので はない。 神 的な ものが 個体に 与えられ、 自己 自身から 自己 を 顕示 

せしめる の は、 宗教 的 作用の 場面で は あるが、 その 元来の 所在 は 当の 宗教 的 作用の 外に ある。 そして、 まさに 

この ことが、 個体に とって、 宗教 的 作用の 当処 において わかられる というの である。 

エンス. ァ • セ という からに は、 ひとり 宗教の 根拠で あるの みならず、 一切の 存在す る ものの 究極 的な 根拠 



である。 形而上学 的 根拠で あると 同様な 資格 を、 神 的な もの は その 生きた はたらき において 具有す ると レ わ.^ 

ると おりで ある。 その 一切の ものの 存在 根拠が とくに 囊的 作用に おいて 皇を禁 して、 囊的 事実 を あら 

しめる ので ある。 そのこと はシ エラ ー にと つて 縷説 を 要せぬ 前提であった。 シ エラ ー において は、 このような 

前提から して、 その 神 的な ものが 如何に 十全に 体験され、 個体と 関係し 認識され るに 至る かとい うこと が、 問 

題で あるば かりで あ つたと いつ て も 過言で はない。 

ここに 彼 自身に おける 素朴 的 存在論の 名残りが 見られる。 神の 存在の 挙示ゃ 反証に おいて、 特別な 類推が 用 

いられ、 旧来の 証明 方法 を 難 じる とはいえ、 宗教 的 体験の 内から 証明の こと を 運ぶ か、 (旧来の ように) 外 か 

ら 証明の こと を 運ぶ かの 相違が あるの みで あると いっても よいであろう。 われわれの 方向から は、 勘な くと も 

今の 問題 場面に おいて は、 これ 以上に、 彼の 所論に 沿って 宗教の 根拠の 主張 を迎る こと はない。 

九 

謹の 事実 を囊の 事実から 明らか f 立証しょう とした こと は、 近代の 宗着 学の 領域 ほけ るシェ ラ1 

の 画期的な 震であった。 彼 は いわゆる 「何 かが 在る のであって 無い ので はな ヒ という、 その 在る ところの 

ものに 論理 を 聴こうと する。 宗教の 論理 を 宗教の 事実の 当処に 聴く、 尠 なくと も その 当処 から 聴く という こと 

が 問題であって、 問題の 中心 場面 は、 宗教の 本質的 事実に おける、 宗教 的な ものの 本質 連関の 場面 を 明らかに 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて ニー H 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一一 一八 

する ことで あ つ た。 

しかし、 シ H ラ ー ほその 当の 宗教の 本質的 事実 性の 所与の 場面に 始終すべく して 始終して はいない。 却って 

そこから、 その 場面 をして あらしめ る 宗教 的 存在者 を 反証しょう とする ので あり、 宗教の 根拠 もまた、 かかる 

究極 的な 11 しかし、 とくに、 宗教 的 作用に のみ 具体的 現実的に 与えられる ところの — 宗教 的 存在者、 絶対 

的 存在者に おかれる ので ある。 けれども、 われわれの 主題の 目指す 方向 は、 第一 段に おいて、 そして、 直接的 

に は、 そのような ところに はない。 また、 方法論 的に 吟味しても、 シヱラ ー のか かる 所論に は、 無理と 矛盾の 

ある こと をまぬ かれない。 われわれが シ H ラ ー の 所論に 賛し 得る の は、 その 現象学 的 究明の 範囲であって、 彼 

の 謂わ ゆる 現象学 的 存在 学への 移行の 経過に あるので はない。 たしかに、 意識の 現象学に は、 「存在 学」 への 

予想と 期待が ある。 しかし、 われわれ は、 現象学から 存在 学へ むけての、 シ H ラ ー のよう な 証拠立ての 仕方 を、 

そのまま にうけ 容れる こと はでき ない。 われわれの 問題 性から すれば、 まず、 彼の 所論 を 現象学 的 存在論 的な 

方向に おいて 吟味す る ことが 先決で ある。 

彼が 人間 存在の 存在 場面 を、 本質的な いわば 機能 性に おいて 明らかにし ようとし たこと はよ いが、 この 場面 

の 範囲ない し 辺 縁 を、 人間 存在の 機能的な 存在 場面の かぎりに おいて 把握し、 これ を 根源 的に 究める という こ 

とが 欠けて いる。 彼 は 自我と 人格と を 分ける。 しかし、 そのい わば 人格 的な 作用 圏、 即ち 各自 的な 人格の 存在 

範囲と いうべき、 各自 的な 人格に 相応し 相関す る 各自 的な 「世界」 の 統一的な 或いは 基礎的な 分析 や 解明 をし 

ていない。 現存 在 や 現存 在が 「現に」 実存す ると ころの、 その 「現に」 の 全体 的な 領域 を、 その 根底に むけて 



捉えて ゆく ことが 彼に は 欠けて いる。 そのこと は ハイデ ッガ ー がすで に 指摘し 難 じたと おりで ある。 もっとも 

「環境 世界」 や 「世界」 の 概念の 中には、 かかる 連関の 存 している こと は 既に 見て 来たと おりで あるが、 そこ 

を 確保し、 固める ことが 為されなかった。 

ただ、 われわれ は 彼に おける、 本質的な 宗教 的 作用の 場面の 確保と いう 新しい 問題領域の 得られた こと をよ 

ろ こばなければ ならない。 即ち 志向 性の 問題 場面が、 現実の 情緒 的な 全 生活の 場面に 拡げられ たこと、 そこに 

現象学 的な 存在論 —— 彼のい う 存在 学で はない I の 問題 性の 端緒が 開かれて 来て いる ことな どの 点が、 宗教 

研究の 領域に 少なからぬ 寄与であった こと をみ とめつつ、 われわれの 問題の 索め られ るべ き 方向に おいて は、 

ひとまず、 皮と 別 かれなければ ならない —— この 後の 点に ついては、 シヱラ ー の 「哲学的 人間学」 の 主題に、 

各自 的な 人間の 有限 的 本質 を 究明した ものが あると して、 ハ イデ ッ ガ ー も 貧え てレる — 

ところで、 シ H ラ ー の所 論から われわれの 主題 的な 方向 を 探し出すなら、 どのように 考えられる であろう か。 

まず 超越の 問題で あるが、 上に あげたよ うに 人間 は その 本質 上、 自我と 相応の 「世界」 と を 無限に 超越して 

ゆく ものである。 人間が 自然 的 存在者から 去り、 本源 的な 自己 自身になる という こと は、 自然 的な ものの 凡て 

からの 超越で ある。 それ はさきに も ふれた ように、 自己なる 主体と これに 相応す る 世界と からの 超越で ある。 

すると、 人間 は 何処に 自己の 所在 を 見出す のであろう か。 人間 は 現に 各自 的に 生きて いると ころの 世界の 外に 

も 自己 を 見出し 得ず、 その 中に も 閉じ こめられて いないで、 自己と 世界と を、 究極 的 根拠と して さきに 上げた 

絶対的 存在者 即ち 神の 理念の もとへまで 超越 するとす るなら、 人間の 側から いうと、 実際に 人間 は、 所属の 世 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて ニー リ 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて ニニ 〇 

界の 何処に その 所在 を もつ のであろう か。 『宇宙に おける 人間の 位置』 においてい うように、 自己 自身と へ自 

覚 した 人間 は、 明らかに 自己 を 現前の 世界の 一部と 考える こと は 出来ない。 存在す る ものの すべての 中に おい 

て、 存在す る ものの すべて を 超越す る 本質 を もつ 人間 は、 純粋 存在ない し は 絶対 無に 自己 自身の 所在 を 見出す 

外 は あるまい。 しかも、 存在 物 も 自己 もない ので はなく、 在り、 更に 創ら れて ある こと を、 ここから わかる の 

が、 宗教で あり、 宗教 は 右の ような 虚無主義の 克服で あると いうので あるが、 しかし、 実は、 根源 的な 謂いに 

おいて、 宗教の よって 成立す ると ころの 根拠 こそ は、 人間の 無限の 超越に よって 当面される かかる 絶対 無で は 

ないで あろう か。 その 絶対 無へまで の 自己 否定が、 基礎的に いえば、 宗教の 本質的 事実 性で はないで あろう か。 

この こと を 少しく 細かに 検 してみ よう。 超越 するとい うこと は、 シ エラ ー において は、 意識の 志向 性に あら 

われる 特性で ある。 けだし、 意識の 志向に は 固有の 体験 構造 を 超越しょう とする 傾向が あり、 また、 その 対象 

の 存在 は、 体験され た 志向 内容よりも 向こうの ものである という ことが 同時 的に 意識され るので ある。 とくに 

宗教 的 作用に おいて この こと を 見るなら、 宗教 的 作用に おいて、 体験され る 存在者 は、 作用の 主体た る 自己 自 

身 を もふくめ て、 一 つの 全体 性の 中に 包括され、 「世界」 という 全体 構造の 中に 存立して いるので ある。 そして、 

宗教 的 作用に おいて はとく に 「世界」 が 超越され るので ある。 すべての 種類の 「世界」 が 超越され るので ある。 

さきに、 宗教 的 作用の 根本的 特質と して、 第一 に その 志向 性の 世界 超越 性 を あげたの はま さしく この ことで あ 

る 11 それが 神 的なる ものに 逢つ て 自己と 世界と を 超越せ しめられ るか 或いは 逆に 自己と その 世界の 否定と 超 

越に よって 神 的な ものに 至る かとい うこと について は、 シ エラ ー も 二様の 叙述 をして いるが、 その 経過に つい 



て は 今 はきく ところではない—。 そして、 n の 宗教 的 作用に おいて 自己 並びに 世界の 相 待 的 存在者の 空し さ 

や 無力 さが 体験され、 自己の 目当てな きこと、 根拠な きこと が、 まさしく 囊的 価値 体験の 当処 において 体驗 

されて いるので ある。 

なお、 この 「世界」 の 超越の 問題で あるが、 さきに ふれた ように、 「世界」 と は そのもの としての 事物 的存 

在 者の 総体 を 指す ので はない。 作用 中心としての 人格 的 自己が それにお いて 自己 自身の 現実 を もち 得る 領域で 

ある。 その 領域と は 震 的に 価値の 四つの 段階 秩序の 霊の 何れ かに 相応す る わけで ある。 主体の 裏の 深さ 

に応じて もたれる ところの 特定の 段階に おける 価値 様態に おいて、 その 全体 性が いわば 染め出され ている とこ 

ろの 存在者の 全体 をい うわけ である。 その 意味で、 個体の 人格 性に 相応す る 世界と は、 たとえば ハイデ ッガ ー 

などが いうよう な、 現存 在の 「現に」 の 存在論 的な 存在の 場面 即ち、 現存 在が、 それ 「へと 向かい」 その 「た 

め」 に 自己 I し、 また 「その 中に」 存在す ると ころの 純粋に いわば 形式的な、 即ち 内容 を 抜いた (ei 

実存 論 的な 世界の 概念と は 異なる— もっとも ハイデ ッガ 1 においても、 その 「世界」 が 純粋に 形式的で あり 

機能的で あるか どうかと いう ことに は 問題が あるが、 これに ついては 別に 叙べ る II 。 ハイデ ッガ ー において 

は 現存 在の 「現に」 の 場面 は、 現存 在が それにお いて 存在す ると ころの 「世界」 である。 それ 故、 彼のい わ ゆ 

る 決意 性に しても 「世界」 を 超えて 実存 するとい うような 性質の もので は 決してない。 却って 存秦 としての 

現存 在に とって、 世界 は 超越 的で ある ——シ ユラ ー のい う 素朴 的 超越 性の 意味と は 異なる II。 しかも 現存 在 

が 存在す ると は、 常に 存秦 としての 自己 皇ぇ 出で て、 この 謹 的な 「世界」 の 中に おいて 存在す る 外に は. 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一一 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一一 ニー 一 

存在の 仕方 はない。 従って 「世界」 を 超越 するとい うような こと は、 如何なる 場合に おいても いう こと は 出来 

ない。 しかし シ H ラ ー の場合 は、 そのような 存在論 的な 意味で、 内容 を 抜いた 「世界」 のこと をい うので はな 

く、 実質的な 価値 性質 を もった、 各自 相応の 実質的な 「世界」 のこと をい うので ある。 

従って、 そのような 各自 相応の 世界が、 各自の 人格 的な (即ち 愛の 作用に おける) 志向 性に よって 超越され 

ると いう こと は、 シ ユラ ー において は 不当で ない と考えられる。 しかし、 自己と このような 相 待 的 存在者の 全 

体た る 世界と を 超越して 何処へ ゆく のか。 その 行く先き が 問題で ある。 宗教 的 作用に おいて は、 あらゆる 有限 

的な もの 又は ある 規定に おける あらゆる 無限な ものから も 解放され なければ ならない。 それら を 超越す るので 

ある。 従って, そこにお いて 当面される ところの もの こそ は、 純粋 存在 か 絶対 無で なければ ならない。 まさに 

シ H ラ ー 自身が いうと おりで ある。 しかし、 シ H ラ ー はこの 絶対 無 を 自己と 世界 超越との 究極の 行く先き と は 

考えない。 ここ を 経ての 絶対的 存在者に 会す るの が、 宗教 体験の 特質で あり、 そこにお いて、 絶対的 存在者 か 

らの 顕示 をう け、 作用に おける 意味 を 充足され ると する ので ある。 宗教 的 作用に おける 感情 状態に しても、 自 

己 自身の 目当てな きこと、 根拠な きこと 或いは 力なき ことから、 浄 福の 状態 を 考える ので ある。 そして、 それ 

は 絶対 無に 止 住しての 存在 感 なので はなく して、 いわば 神に おいて 創ら れて ある ことの 体験に よる 存在 感 であ 

る。 聖の 価値 はか かる 絶対 無に はか けられない。 

そのような 絶対的 存在者と は 即ち 神で ある。 神 は 人格 的 本質で あり、 従って、 その 本質に 相応の 世界が ある。 

いわゆる 「神の 世界」 であり、 各自 的な 世界 を 小宇宙 的な 世界と いうなら、 これ は 大宇宙 的な 世界で ある。 人 



間が 自己と 相応の 相 待 的 世界と を 超越して 行く ところの 行く先き は、 まさしく、 神と 神の 世界に 外なら なレ 

そして、 この場合、 かかる 超越 をな す 謹の 仕手が とくに 人間の 精神で ある。 精神的 主体が 自己 を 超越す るの 

である。 ところで、 神 は 人格 的な 作用 中心として、 やはり 精神的 本質で ある。 その 精神的 本質に 相応す る 大字 

宙が 「中の 世界」 であるが、 人間の 有限 的 精神 は、 この 神の 精神 一般と 大宇宙 的な 世界と に 直接に 参与す る こ 

と は 出来ない。 ただ、 まず その 相 存在に おいて 関与す る ことが 出来る ので ある。 即ち かくて、 かかる 世界 はノ 

間の 精神に は 超越 的で あるが、 しかし 人間の 精神が 神の 精神 一般の 本質 を もった 一例 件と して は、 不充分な が 

ら その 本質 上、 かかる 世界の 本質との 本質 連関に 立つ ことが 出来る ので ある。 もっとも、 そのために は 有限 的 

な 精神的 主体 は 謙虚 や 崇敬と いう 感情的な 資助を 必要と し、 相 待 的な 自己 を 否定し なければ ならない。 そして 

また、 精神の かかる 自己 否定に よって、 神の 世界の 本質が わかられ ると 同時に、 この 大宇宙 的な 世界に 相応す 

る 神 も わかられ、 且つ 上に あげたよ うな 事情で、 神の 現存 在が 認識され ると する ので 1 ある。 そこに 宗教 的な 神 

の 認識の 三 場面が 展開され るので あるが、 それ を 追究して ゆく こと はこ こで は 控えよう。 

けれども、 絶対的 存在者と しての 神が 問題で あると 同様に、 この 精神的 本質に 相応の 世界 も 問題になる。 わ 

れ われ は 各自 的に 常に 有限 的な しかし 全体 的な 世界に おいて 現に 存在して いる。 その 世界に おいて、 宗教の 根 

源 的な 根拠 をたず ねるならば、 それ は、 やはり ハイデ ッガ ー が 指摘した ように、 自己 自身の 「現に」 の 当処、 

即ち 当の 各自の 世界の 当処、 当 相に おいてで はないで あろう か。 ハイデ ッガ ー のい うとお り 1 宗教 的 存在者が 

問題になる の は、 まず 「現に」 の 当処が 実存 論 的に 明らかにし 尽くされてから のこと であろう。 ないし、 この 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて ニニ 三 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一一 一一 3 

問題の 究極 的な 解答 は 下の ような 方向に おいて 索め られ るであろう。 

ここに、 結局 残された 問題 は、 主体が その 志向 性の 本質に 従って、 自己と 自己 相応の 世界と を 超越す る こと 

によって 当面すべき 「絶対 無」 の 問題で ある。 絶対 無に もとづいて 自己 自身の 力無 さ、 根拠 無 さ 等が、 宗教 的 

作用に おいて 体験され ると いう ことが、 今の 問題 場面に おいて は、 まず 宗教の 根源 的な、 そして、 究極 的な 本 

質的 事実 性で はないで あろう か。 また、 この 絶対 無が 従って 宗教の 根源 的な、 そして 究極 的な 根拠で はないで 

あろう か。 これらの こと を検 する ことが、 われわれの 主題から は 興味 ある ことで あるが、 シ H ラ ー において は、 

この ことにつ いて 積極的に 答えられ ていな い。 

約め ていえば、 彼の 宗教の 根拠に 関する 所論 は、 特徴の ある 自然 的 啓示に 関する 所論 等 にもかかわらず、 素 

朴 存在論 的で あり、 有神論 的な 成立 性 規定 性から 解放され ていない。 そこで、 次に は 只管、 主体性 内面 性の 真 

理を とき、 宗教 的と くに キリスト教 的に 「実存す る ことの 如何」 に 生涯 を かけた キ H ルケ ゴ ー ル及 びその 所論 

の 遡源に うつらなければ ならない。 

I 〇 

根源 的な 意味に おいて、 主体が 如何に 存在して いる ことが 宗教に おいて 存在して いる 所以の 在り方で あり、 何 

にもとづいて 主体 は 宗教に おいて 存在して いるが ごとき 在り方に おいて あるので あるか、 という ことが 問題で あ 



るが、 かかる 問題 性に とって は、 特定の 成立 宗教に おける 宗教 径験を 根源の 方向に むけて 解き ほぐして ゆく 仕方 

と、 日常 経験の 諸 領域に 介在す る —— 特定の 宗教の 成立 的 規定に よってな される 宗教 経験で はない ところの — 

宗教 的な 機能 を 具現して いる 径 験の 場面 を 究明して ゆく という 仕方と が ある。 宗教 的な もの 或いは 宗教 性 を 後者 

の 場面に おいて 究める こと は 現在の 主要な 問題領域 であるが、 それに は 二つの 究め 方が ある。 その 一 つ は、 各自 

がその 中に おいて 部分と しての 役割 を もっと ころの、 全体としての それぞれの 社会に 対する 関係、 即ち いわゆる 

構造 機能の 場面に おいて、 問題 を 究める ものと、 他 は、 やはり 個体が 生 を 営な む 制度 的 社会に.^ 3 いて、 それぞれ 

に、 社会的に 決められた 上での、 個体の 環境 や 社会への 適応の 状況 等に ついて 検 する ものと が ある。 科学的に は、 

人類学 や 社会学 及び 精神医学 等に 勝れた 寄与が あるが、 私自身 も、 この 後 4 の 立場との 連関で、 限界 的 状況に おけ 

る 適応の 意味と 宗教 的 経験の 本質的 事実 性との 関係に ついて 屢々 叙べ てきた。 ここで は その 問題領域 を 経由す る 

こと を 省いて、 直ちに 主体が 宗教 的に 実存して いる 当のと ころ を、 根源 的な 意味で、 実存の 基礎的な 構造の 層 位 

にむ けて 解き ほぐして ゆく こと を 考える。 即ち 主体に とって 自己 否定の 外 はない ところの 状況に おいて は、 適応 

の 方法と して は、 その 自己 否定の 状況 を 弁別して、 否定に おいて 自己 を 決する 外 はない ので ある 力、 この 弁ヌゃ 

自己 決定 は 宗教 的な 經験 における 本質的 事実で はなかろう か。 しかし、 或る 場合に おいて かかる 自己 否定の 外 は 

ない ところの 状況に 遭う 個体 は、 本来 その 構造の 基本に おいて 構造 上の 否定 性 を 具えて いるので はない か そし 

て、 人間 存在の かかる 根底 11 それ は 心理学的な 内在の ことで はない 1 に 相応す る ことが、 主体的、 根源 的に 

は、 宗教 的と いわれる ところの 最初の 基礎的な 根底で はなかろう か、 というと ころに 問題 を 据える ので あぞ 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて ニニ 五 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて ニー 一六 

こういう 問題 を 立てる ために は、 まず 解釈 的に 三 段の 領域と その 関係 を 明らか にしておく ことが 必要で ある。 

ここで は、 便宜の ために 上記 中の 前者 即ち 特定の 規定の もとにお ける 宗教 経験の 場合 をと ろう。 即ち 自然 的な 世 

俗 的 経験の 領域と、 この 領域から 質的に かけはなれた 宗教 経験の 領域、 及び この 直接的な、 特定の 性格に おいて 

現実に 存在して いると ころの 宗教 的 経験の 根底 をな すと ころの 本来 的 根源 的な 宗教 的 出来事の 領域と いう 三つと、 

それらの 関係で ある。 実は 第一 一の 直接的な 領域 を 第三の いわば 形相 的な 領域へ と 解体して ゆく ことが 問題で ある 

が、 その 場合に、 さらに 第二の 領域が、 それと 性質 を 異にし、 かけはなれて いると ころの 第一 の 領域から 規定 さ 

れ ている こと を 明らかにする ことによ つ て、 問題の 場面 を 明らかにする ことができる。 

初めに 宗教 経験が 他の 日常 経験と は その 性質が 異なる こと を あげたが、 現在の 研究で は、 宗教 経験が 日常 的な 

ものと は 性質の 全く 異な つ た 超自然的な 領域に 属する こと を あげる。 また 普通の 常識的 科学的な 考え や 処置の 支 

配下に ある 領域で は 処理の 出来ない、 それらの 拒まれた、 従って その 領域の 超えられた、 彼岸 的な 経験の 領域で 

あると されて いる。 これらの こと は、 宗教 経験の 特質 或いは 本質が r 聖性」 にある として 実証的に も 哲学的に も 

論じられて 来て いる。 

なお 主として 人類学の 研究に おいて、 「超自然的」 な 霊的 人格 的な 存在者 又は 非人 格な 力へ の 信憑 や 信念と い 

うこと が 宗教の 最小 定義で あると いわれる。 前者 はァニ ミズ ムの、 後者 は ブレア 二 ミズ ムの 所論であった。 両者 

は その 観点 を 異にし 種々 の 問題が 展開され たが、 今日で は いわゆる シ ュ パ ー ナチ ュ ラ リズム 即ち 超自然 観と いう 

定義に 併せられ、 ブレア 二 ミ スティックな 地盤の 上で 宗教と 呪術の 区別の ように 使われて いる (シュ ー パ— ナチ 



ユラ リズムと いう 術語 はすで に マレット やその 当時の 人々 によっても 使われて いるが、 ことに 最近で は. ロウィ 

その他、 米国の 人類学者 i)。 それ は 自然 的 対象の 自然 的經 験で はなく、 宗教 的 (或いは 呪術 的) 径 験の 然 かる 

所 の 基本 観念で あると され、 その 経験 内容の 性格が 超自然的 とか 神秘的と か 驚異的 (ことに ル ー ス • ベネ ディ 

クト はこの 観念に ついて 詳論した) な ものと いわれて いる。 いずれも 主体の 了 別の 範囲 を こえた、 畏怖 感を おこ 

す 対象 & について いうので ある。 ことに、 マレット は 超自然的な 力の 性格に 神秘性と 拒否 性 或いは 聖性 とが 併 在 

し、 それら は 同質的で あると いい、 マリノ ウス キ ー 等 も それらの 併 在 を 唱えた が、 所詮、 超自然的 という 観念 は 

直接的な 心理的 怪 験の 内容で あ つ て — すでに デ ュ ルケ ムは ナチ ュ リズム の 批判に おいて この こと を 資した II 

r 聖」 の 観念が より 基本的で あると みられる。 

こ の 観念 は 機能的 構造 的な 背景 を も つてい るが、 ロバ ー ト ソン • ス ミスに よって 提唱され たもの は 社会学 的、 

人類学 的な 連関 を もっている。 哲学的に も、 ウィン デル バンド 等 を はじめ、 すでに 色々 論じられて いるが、 なか 

ん ずく、 心理学的な 前提に よって、 認識論 的な 立場から、 r 聖」 の 複合 的な 概念 内容 を 組織的に 究明した のはォ 

ット ー であった。 彼に よると 結局 この 概念の 中心 は 他者 性で あり 拒否 性で ある。 もっとも 彼 は 宗教 經験 における 

この 聖 生の 根源 をヌ ミノ,' ゼ なる ものと し、 主観に おける その 素質 的な 勘 得 ( Ahnung) による 感情 經験を 問題 に 

し、 ヌ ミノ — ゼ なる もの は、 r 聖」 の 経験に おいて、 非合理的 であり、 この 意味に おいて、 絶対 他者 的で あると 

いう。 かかる 経験に は、 自己の 外なる 客体 的な ものが おかれて はいるが、 しかし、 立論の 立場 上、 その 連関 はは 

つきり されて いない。 シ ヱ ラ ー など も 難 じたと おりで ある。 恰も r 聖」 の 所在 を 客観の 側に おいて 究明した の は 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて ill ニニ 七 1 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて ニニ 八 

シ エラ— であった。 しかし、 彼の いわゆる 段階 秩序に 分かれる 実質的な 価値 性質の 論議 や、 現象学から 存在 学に 

わたって、 神の 現存 在 を 反証す る 経過 や 論法 は、 われわれの 今の 問題領域に は あわない。 すでに 叙べ て 来たと お 

りで ある。 けだし、 われわれ は 「聖」 の 在り方 を 宗教 經 験の 当の 場面の 構造 的な 機能 性に おいてみ る ことが 正し 

いと 考える からで、 この 点に 関する 卓越した 所論 は デュル ケム によって なされた。 人間 存在の 基本的な メカ ニズ 

ム において、 個体が それにお いて 存在す ると ころの 「社会」 — とくに、 社会の 情緒 的 興奮の 状態に おける II 

の、 成員た る 個体に 対しての、 外在 性、 拘束 性に 「聖」 をみ たので ある。 宗教に おける 成立 的な 諸 要素 は、 かか 

る 原初 的、 基礎的な 存在の 形式と 機 制に もとづく 表現で あり 象徴 化で あると 解釈され る。 

ここで、 われわれの 問題と 方向に そって、 宗教の 基本 観念に 関する 問題の 要処を 選びとって おきたい。 

デュ ルケ ムの r 聖の 観念」 のか わりに、 ラ ー ド クリフ = ブラウン は 儀礼的 関係と いう 表現 を 用いて デュ ルケ 

ム のトテ ミズ ム 理論の 批判 をす るが、 そこで は 宗教 経験の 固有の 領域が 逸 しられて いるよう に 思われ、 社会的 

連帯 性の 強化と いう 主張に も 疑問が でて きて、 私 は ロバ ー ト ソン. ス ミスの 著作 をよ みかえして みた。 そして、 

宗教 生活に おける、 あまりに 単一 的 閉鎖 的な 集団の 社会的 拘束 や 規制の 特異な きっさに 戸惑った。 デュル ケム 

ゃラ ー ド クリフ = ブラウンの 所論が 彼の 所論に 負う ところが 大きい ところ からして、 かえ つ て 彼等の 所論の 偏 

りに 気づいた わけで ある。 ただ、 デュル ケムの 所論 は 直接に 事実の 有様 をた どると いうより は、 それ を リファ 

レンスと して 理論 化され、 宗教の 固有の 領域 を 確保して いる。 即ち、 人が そのな かにお いて 成員と して 存在す 

る 社会の 興奮 状態に おいて、 成員が うける その 「社会」 との 関係、 即ち 「社会」 の 拘束 生、 外在 性に つ いて、 



その 「社会」 の 表徴と して 「聖」 をみ る ものである。 いいかえれば、 聖を それが 拠って 成立す る 基盤で あると 

ころの 社会に おいてみ、 ないし、 その いわゆる 「社会」 が 個体に 対する 機能的 関係に おいてみ て、 しかも、 こ 

の聖の 領域 即ち 宗教 的な 領域 を 確保して いる。 ラ ー ド クリフ" ブラウン 等の ように、 社会の 直接的な 構造 機能 

の 面の なかに、 いわば この 意識 性 を 消去し ないで、 宗教 的 経験の 領域 を 確保す る。 このように、 われわれから 

いえば、 直接的な 宗教 的な 事実の 領域 はこれ をみ とめ、 そして、 その 宗教 的な 聖の 事実の 底の、 いわば 存在論 

的な 機能的 関係 をみ る 点 は、 やはり、 われわれの 最も 参考と すべき 点で あるが、 しかも 結局 その 基づく ところ 

の 背景から いえば、 上の ような 謂いで、 それが 宗教 的 生活の 一般 を掩ぅ もので はない ことになる。 また、 じつ 

さい、 人類学者 たち は、 社会学 的に は 犠牲 や 制裁の 宗教 性 を 中心に み、 その 社会的 連帯に よる 拘束 や 規制 を あ 

げる。 しかし 現在の われわれの 社会に おいて は 勿論、 いわゆる 未開社会に おいても、 いろいろな 理由で、 宗教 

の 機能が、 一律に ここに あると はいいが たい。 

こういう 点から 考える と、 ラ ー ド クリフ = ブラウン や デュル ケムの 理論と は 別に、 事実 的に は、 宗教 的 生活 

が それらと はまた 別な 部面に おいて 行なわれ ており、 ちがった 意義 や 機能の ある 点を検 しなければ ならぬ と 思 

われる。 

宗教の 基本 観念と して、 他の 主なる ものに 「超自然 観」 が ある。 主として 英米の 人類学に おいて 展開され、 

心理学的な 連関から、 直接的な 經 験の 有様に ついていう ものである。 しかし、 ここで は それらの ことに 立ち ヌ 

ら ないで、 オット— の 所論 を 問題に しょう。 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて ニニ プ 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二三 〇 

彼 は 心理学的 前提に 立ち、 認識論 的 立場から、 フリ— ス などの 所論 を 背景と して、 r ヌ ミノ ー ゼな もの」 の 

内在 化 (ァ ー ヌング による) による 感情 経験に ついて、 「聖」 の 複合 的な 概念 内容 を 組織的に、 即ち 認識論 的 

に 究明した。 彼に よると、 結局 この 概念の 中心 は 他者 性で あり 拒否 性で ある。 それ は、 とくに 個体の 経験の 合 

理 的な ものに 対して、 宗教 的 経験が 非合理的な もので あり、 聖の 本質が 非合理 性に ある こと をい う。 宗教 的 経 

験に ついて、 その 対象 その他に ついて、 合理的 概念 を もって 示される もの は、 この 非合理的な ものの 図式 化に 

外なら ない とする。 なお、 彼はヌ ミノ ー ゼな ものの 客観的 対象 性 を 前提して おり、 宗教 的 経験 は 心理学的に 単 

に斯々 の 心地が するとい うので はなく、 自己の 外なる ものに おける 機能的な 拒否 性に 値う こと を いうが —— こ 

の 点 は 現象学に おける 存在 学の 問題 性から も 考えうる ことで は あるが、 彼 自身で は 認識論 的な 立場で ある 11 、 

組織的な 所論の 範囲で は、 それ を享 ける 主体の 素質に 帰す るに とどまる。 このような 謂いで、 彼 は 宗教 的 経験 

における この 聖 性の 根源が 特異な 感情 経験に 具わる として、 直接的 経験の 立場 をと るので、 シ H ラ,' も 難 じた 

ように、 客観的 連関が はっきり しない。 われわれの 観点から いえば 存在論 的な 支えがない。 

けだし、 彼 は 他者 的、 拒否 的な 聖を 宗教 的 経験の 直接の 層 位に おいてみ るので あって、 そして、 そこ を 認識 

論 的に 位置づけよう とする のであって、 宗教 的 経験 を、 それが 拠って 成立す ると ころの 究極 的な 層 位にまで 遡 

(^ 

源して、 問題の 取り扱い をして はいない。 彼の 所論に 存在論がない というの はか かる 謂いで ある。 

ところが、 われわれの 問題 性 は、 直接の 宗教 的 経験 を、 それが 拠って 成立す ると 解釈され る 基礎的な 根底に 

まで 解体し、 そこにお ける 基礎的 機 制 をみ ようとす る。 この 点で は 上に あげたよう な デュル ケムの 所論と 或る 



親近 性 を もつ ものであるが、 ともかく、 かかる 基礎的な 層 位に おいて、 人間の 主体的 存在の 主体的な 在り方 を 

究極 的に つきつめて みると、 そこに は、 存在の 極処の 非合理 性が あり、 主体に とって 他者 的、 拒否 的な 基礎的 

機 制が あると 考えられる。 

それぞれの 学派 や 観点で 観る ところが 異なる けれども、 このように みて 来る と V 宗教 的径 験の 本質的 特質 は 人 

間 存在の 場面に おける 機能的な 他者 性、 外在 性 及び 拒否 性に あり、 日常 的な 経験との 異質 性が 明らかになる。 超 

自然観と は、 かかる 拒否 的 他者 的な 機能 性を享 ける ものの 直接的な 経験で あり、 そこで 超自然的な 力 や 存在者が 

経験され る。 11 それら は、 この 経験に おいて 現われて 来、 或いは 立てられて 来る 心的 表象 乃至 象徴で ある。 も 

ち ろん、 その都度、 各自が そういう 心象 や 象徴 を 創造す るので はなく、 それら は 社会的 伝統的に 決まって 来て い 

る 11 



宗教 経験に おける 以上の ような 特質 を 前提して、 上に あげた 三つの 領域の 関係 を迎 つてみ る。 まず 以上の よ 

うな 特質に おいて、 世俗的な もの を 超えた 宗教 径験 といえ ども、 それが 現実に もたれる 場所 は、 個体が 現実に 存 

在す る 場面より 外に はない。 その 場面 は 社会的 伝統的に きまった 日常生活の ただ 中に ある。 従って さきに あげた 

ような 第三の 領域に おいて その 原 態 を もち、 そこ を 根底と して 実際に 存在す ると ころの、 第二の 領域に おける 宗 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二三 一 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二三 二 

教的 事実 は、 やはり 第一 の 領域からの 規定 を うけてい る。 即ち 宗教 経験の 当事者た る 個体と、 その 個 本が そこに 

おいて 自己の 現実 を もっと ころの 彼 相応の 世界と は、 たとい 超 世俗的で はあって も、 それが 現実に 存在す ると こ 

ろの 姿 相に おいて は、 尠 なくと も 肢体 的に は 第一 の 領域からの 諸 規定から 全く 放 たれて いる わけで はない。 そこ 

に それぞれの 宗教 経験に おいて、 それぞれの 規定 性、 成立 性の 出て 来る 所以が ある。 

このような 関係に おいて、 本来 的に 宗教 的な もの も、 それが 現実的に 存在す る 場面で あると ころの 或る 個 本の 

特定の 宗教 経験に おいて は 11 宗教 経験の 本質的 特質から いえば、 たとい 二次的に では あっても、 実際に は 特定 

の 自然 的 環境 や 人間 生活の 諸 営 為 即ち 広い 意味の 文化の 諸 領域の 中に おいて 存在す る 現実的な 出来事で ある 以 

上 11 、 それぞれの 文化 理念 や 文化財、 社会的 状況 等と 種々 の 交渉 を もつ。 現実に 宗教 経験が なされて いると い 

うこと は、 必ず かかる 諸 契機に よって 規定され ている ことになる。 そして、 この 二つの 領域の 交渉の 経 Ha や 結果 

において、 個体 や 或いは 団体の 宗教 的な 行 業 ゃ実修 における 思想 的 文化的 乃至 社会的 等の 諸 態度 や 諸 形態が 規定 

されて 来る のであろう。 この 範囲の ことに ついては 宗教 史学 派の 諸 研究が 実証 するとお りで ある。 

たとえば 或る 既成 宗教の 場合に ついて 考えて みると、 教祖の 宗教 経験 は、 解釈 的に いうと 本来 的に 宗教 的な も 

の を その 根底と する。 しかも その 当時の 伝承 や 時代 や 環境と 交流し、 それらの 諸 要素が 現実の 宗教 経験 を 肢体 づ 

ける。 そして 特殊な 規定 を もった 宗教 経験と して 教祖 その 人に もたれる。 かつ 更に それらの 諸 要素 を 肢体と して 

特殊に 規定 せられて、 その 宗教 経験が 表現され 伝達され ると き、 ポジティブな 性格 をと るので あり、 ついで 教団 

において それらが 更に ポジティブに 固定 化され 規準 化されて 来る ので ある。 それが 伝承され る 際に は、 また それ 



それの 時代と 地域に おける 教団の 個体の 宗教 的 径験を 規定す る。 その 個体の 宗教 経験 も 亦 もちろん 本来 的に 宗^ 

的な もの を 根底と している ので あるが、 しかし それ は 既に 既成 性 を もった 教義 その他の 諸 伝承に よって 規定され 

ると ともに、 また 一方に は、 その外なる 時代 や 環境に よって 規定され 或いは いわゆる 革新され るので ある。 なお、 

もちろん この 宗教 i の 領域と 世俗の 領域との 交渉 は 交互 的であって、 成立 的に 規定され た 宗教 的な ものの もつ 

理念 や 組織が、 逆に 世俗的な もの を 限定す るので あるが、 その 点 は 今の 中心で はない。 

これ は 複雑な 一例で あるが、 現実に 存在す る 宗教 怪験は いわゆる 既成 的た ると 否と にか かわらず、 実際に は ど 

れ だけ かの 特定の 様相 や 形態 を もち、 規定 的ない し 成立 的な 諸 雲 を もつ。 そして、 そこで は、 妻 的に 宗教 的 

な ものが 文化 や 社会の 特定の 場合に おいて 順応し 形態 化された すがたと して、 理解し 解釈され なければ ならない。 

1 二 

以上の ように 解釈して ゆく と、 直接的な 宗教 経験の 領域た る 第二の 領域から 世俗的な 文化的 社会的な 第一 の領 

域の 要素 皇引 くこと によって、 本来 的 宗教 的な 第三の 領域の 形相が 求められて 来る。 その 操作が いわゆる 「解 

体」 の 操作であって、 そこに 宗教の 奏的事 謹が 明らかになる。 その 本質的 事実 性が よって 立つ ところの 究極 

的 根拠 は 何 か。 苟 くも 或る i が囊的 経験の 事実で あるかぎり、 必ず その 事実の 根底に は 宗教 的 I が 宗教 的 

経験と して f る 所以の 根源 的な 根拠が 具わって いる 零 ある。 しかし、 それ は 決して あれ やそれ の 宗教 的な 諸 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一二 一一 一 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二三 四 

現象の 公約され た 性質 をい うので はなく、 また 経験的な 場面に おいて 直接的な 宗教の 事態と して あらわれ ている 

ところの 成立 性、 既成 性の 範囲の もので もない。 従って 直接的に 信憑の 対象と なって いると ころの 神で もない。 

端的に いうと、 主体の 宗教 経験 或いは 宗教 的 経験 11 前者 は 特定の 宗教に おける 経験、 後者 は、 特定の 宗教の 経 

験に おいても 具わ つてい るが、 そうでない 場合に も あると 考えられる ところの、 宗教 的と いう 性格 を 具えた 経験 

の 謂い 11 、 即ち、 総 じて 宗教 的に 実存す る こと を、 根源の 方向 即ち 我 在りと いう、 その 存在の 根底のと ころへ 

の 方向に おいて 解体す る ことで あり、 それに は、 当の 経験に おける それぞれ ポジティブな もの を 実存の 根源へ む 

けて 解き ほどいて ゆく という 操作 をと る。 

すると、 宗教 的に 実存す る ことの 根拠 は 実に 実存す る ことの 本来の 根源に 存し、 この 根拠に おいて、 また 根拠 

へ 向けて、 自己 を処 する ことが、 宗教 的に 実存す る 主体の 在り方の 本質的 本来 的な 即ち 「根源 的」 な 「如何に」 

のす 力た であると 考えられる。 もっとも、 主体が 宗教 的に 実存す る ことの 根拠 を、 実存す る ことの 根 tsi にたず ね 

ると いえば、 すでに 観る ところの 領域に 「ずれ」 が あり はせ ぬかと 案じられる かも 知れぬ が、 そうで はない。 相 

応 1- る 所以 は 後に 明らかにな るが、 まず 「私が 宗教 的に 現に ここに 在る」 という 命題 を 考えて みる。 「宗教 的- 

に という こと は 「実存 論 的な」 我 在りの 「実存 的な」 本来 的に か 非 本来 的に かの 在り方の なかに 在る であろう。 

したが つ て 問題 はこの 間の 関係 を:^ す ことによ つ て 足りる。 

かかる 問題 性 を 実存 哲学の 線に おいて 迎る とすれば、 先ず キ H ルケ ゴ ー ルが 問題になる。 彼に よると、 実存す る 

ことの 最勝義 は 宗教 的に 実存す る ことで あり、 それ は キリスト教 的に 実存す る ことに 外なら ない。 キリスト教の 



始終 は、 固有の また 最 勝の 実存 解釈と その 伝達と いう 問題に ある。 その 実存 解釈と は、 個体が く orGott に Nichts 

こおいて あると いう ことで ある。 それ は 個体が 実存に おいて 神 或いは 永遠な ものと わかり 合う こと を 現実的に も 

ち 得ぬ という ことで ある。 何故なら、 個体 は その 実存に おいて 構造 的に 永遠な もの を もたない からで ある。 これ 

ら のこと は、 『哲学的 断片』 や 『後書』 によく 叙べ られ ている が、 『不安の 概念』 とも 関係して、 ことに 『死に 至 

る 病』 等で は、 実存と は、 個体に おいて 自己が 自己に 関係す ると ころの 関係で あると いう。 それ は 現実的な 自己 

と 可能 的な 自己、 とくに 可能性に おける 永遠なる 自己との 関係の 謂いで、 この 関係と は 「統一」 或いは 「綜合」 

という 課題 性で ある。 そして、 かかる 綜合 を 課題 づけた もの は 実存で はなく、 第三者 即ち 神で あると いう。 実存 

の 根拠 は、 彼に おいて は、 実存に ふくまれて いないと ころの 永遠な ものない し 神で ある。 

しかし 一方 彼 は 主体性の 真理と 真理の 主体性 を 説きつ づけた。 後年に おいても キリスト教の 眼目 を 「史実」 と 

しての イエスとの 「同時性」 におく が、 そのことの 成就 出来ぬ 構造 上の 制約に 立ち、 かかる 課題の 前にお いて、 

身の程 を 知る こと 即ち 永遠な ものと くに 神と 現実的に 関係 出来ぬ こと— それが 彼に おける 負 目 やとく に 罪の 規 

定 である 1 まで を 実存の 限界と する。 自己と 自己との 関係 或いは 有限と 永遠との 綜合と いうが、 それ は 課せら 

れた 理念で はあって も、 人間の 本質で はない。 それ は 人間の 様態に 属する ことであって、 実存に おいて は、 永遠 

な もの を 「欠如」 の 在り方に おいても つ 外 はない。 

従って、 宗教 的に 実存 するとい うこと は、 宗教 性 A において は 永遠 性 を 目当てと し、 宗教 性 B において は あの 

永遠 者 即ち キリスト を 目当てと して、 これと わかり 合う という ことで あるが、 実存の 舊内 において は そのこと 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二三 五 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一二 一二、 

は 出来ない。 構造 上、 出来な さに おいて あり、 事実 的、 実存 的に も 到達 出来ない。 この 出来な さに 身 をお き、 出 

来ない 事態に 「真摯」 に 悩みぬ くこと が 宗教 的 実存の 面目で ある。 そこ を 捨身と もい い、 悩み ゥ負 目の 意識 及-.' 

(S) . 

とくに 罪の 意識に いる ことと いう。 

I 三 

このように、 宗教 的に 実存す る ことの 本義 は、 彼に おいても 根源 的に 解いて いえば、 まず 悟性 的な 自己の 否定 

にある。 但し 彼に おいて は、 この ことに 相応す る 実存の 存在論 的 究明が 欠けて いるので あって、 いわば 在る とお 

りの 人間 を 描く のに、 目指された かぎりの 範囲に わたる 人間 を 描いた。 われわれの 問題 性から いえば、 宗教の 根 

拠の 問題に 関して、 彼が 緒に つけた 態度と 方法から 求めら るべき 「本来 的」 な 根源への 方向 — それ は 意識の 内 

在に おいてと いう 謂いで はない —— において それ を 求めず、 実存の 彼岸に それ を 求めた という ことになる。 

この 線に おいて われわれの 問題 をたず ねる と、 どうなる のであろう か。 紙幅 を はばかって、 迎る こと を 省く が、 

ヤス パ ー スゃ ティリ ッヒ 或いは ブルトマン 等、 最近に いたる まで、 宗教 的 実存ない し キリスト教 的 実存の 問題 性 

は、 キ ヱ ルケ ゴ— ルの 展開した 問題 範囲に おさまる ともい い 得よう。 そうみる ことが 出来るならば、 根拠つ nr;- 題 

は それらの 所論と は 別に、 或いはより 根底 的に、 ハイデ ッガ— の 所論に ついて みられなければ ならない。 

ハイデ ッガ ー は その 基礎的 存在論に おいて、 「我 在り」 の 在り方 を geworfener Entwurf として 見出し ヒ。 殳 



げ手も 彼岸の 行くても、 積極的な もの はない。 その かぎりの 実存が しかも 根拠で ある。 ただし、 一 。亇ュ g ゆ" orund- 

sein einer Nigkeit という 構造 的な 欠如の 在り方に おいて あり、 5. 1 な 在り方に おいて ある 根拠で 

ある。 その 在り方 を 彼 は 「負 目」 ある 存在 ともいう。 実存と は 可能性の 領域に おいて あり、 しかも 制約され た 可 

能 性の 領域に おいて 在って、 その 制約 を どうす る 力 もない 構造に おいて ある。 

実存の 領域が 可能性の 領域に おいて ある こと を 早くす でに 的 示した の は t ルケ. T ル であった。 但し 彼 は 

実存 を 「生成」 において みる。 その 生成と は 論理の 中に あるので はなくて、 時間と 寵 のなかでの、 運動に おけ 

る 犬 態の 変化で あり 移行で あると みる。 この こと を 彼はァ リスト テレスの キネ シスの 概念から 学んだ。 運動と は 

可能 的な ものの 現実的な ものへの 変化で ある。 そこで、 生成の 変化 即ち 可能 的な ものの 現実性への 移行と いう、 

実存の 場面に おいて、 可能 的な もの— それ は 必然的で はない— の 不確か さ を あげて、 実存 を 支配せる その 可 

能 性の 領域 即ち 実存の 領域が、 主体に とって 「支え」 がな く、 無に おいて あり、 無に おいて 迫って いる こと を あ 

げる。 もっとも その 無と は、 何でもない 無 や 漠然たる 無で はなく、 実に 罪 ある こと、 負 目 ある ことが、 その 無 を 

通して 迫る ので ある。 負 目と は 永遠 性に 連なる ことの 出来ない vorEwigkeit の 無で あり、 罪と は 神に 連ならず、 

神と わかり あう ことの 出来ない vor Gott の 無で ある。 個体 は 永遠な もの を 奪われ、 それ を 素質 的に も、 忘失の 

過去に も、 もっていない。 また、 それ を わかる ことの 要件 ももって はいない。 従って、 それに 対して は 如何と も 

する ことが 出来ない。 それが 右の 無で あるが、 その 無 はしかし、 上に あげたよ うな、 実存の 限界 内に おける 在り 

の 無、 即ち 可能性の 領域に おいて 実存す る ことに 具わる 不確か さの 無に よって 支えられて いると みられよう。 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二三 七 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一一 三に 

個体が、 この 無に おいて 自己 を 無み する ことが、 唯一無二 的に 無の 彼岸 即ち 永遠 性 や 神への 道で あるが、 しかし、 

この 道 はこ こへまで の 道で ある。 従って、 永遠 性の 前なる、 また 神の 前なる 無 (連なり、 わかり あう ことの かか 

、 、 ( 9 ) 

な レとレ う 無) は、 この 実存の 構造 上の 無 即ち 確かで ない 無に 支えられて いると みられよ;^ に そこで、 ポジ ティ 

ブな 規定 を もつ 罪の 問題 は 暫く 措き、 負 目の こと を あげる と、 主体が 生成の 変化に おいて ある 実存の 一齣に お、 

て、 或る 課題 性 を 志 ざすと、 その 途端に その 志 は 実現され る ことなく 過去 的な ものになる。 しかし 真に 過去 的な 

ものに なり 切る ので はなく、 志 ざされ た 当の こと は 将来 的な ものに 転じて、 可能性の 支配す る II 即ち 無の 支配 

する —— 実存の 領域に おいて 先方から 迫って 来る。 それが 負 目の 本質で、 罰に も 似る というが、 とくに 全体 的な 

負 目と して は、 上述の ような、 永遠な ものとの 一致と いう 課題 性が 構造 的に 実現され る ことのない 負 目と して、 

常に 将来 的な ものに おいて 迫って 来る というの である。 不安 や 罪の 問題 もす ベて かかる 機 制に おいて 明らかにさ 

れ るが I そして それ は 次の 問題領域 であるが II 、 とにかく 彼の 所論に おいて、 実存の 構造 を 基礎的に とき ほ 

ぐして ゆく と、 可能性の 支配 下にお いて ある 実存の、 欠如に おいて ある 無が、 土台に なって いる ことに 掘り あた 

る。 ただ それが 存在の 根拠と 断 じられ てはいない にしても、 しかし、 われわれの 問題の 方向から 吟味して 来る と、 

それ はそう いうと ころに おさまらなければ ならない。 ハイデ ッガ— では、 上述の ように 実存に おける 欠如 を それ 

自身の 構造 的な 負 目と して 基礎的に 的 示した。 

しかも、 かかる 欠如の 在り方に おいて ある 実存 性が 外ならぬ 実体 的な 根拠で あると いう。 実存 性 は 彼のい わ ゆ 

る 超越に おいて あるが、 また この 超越が 根拠で ある ともいう。 主体的な 方向 を 根源 的に 究めて ゆく とこうな るの 



であろう。 

I 四 

宗教 的に 実存す る ことの 根拠 を 根源の 方向に おいて 求めて ゆく と、 それ は 実存す る ことの 根拠に ゆきあたる。 

実存す る ことの 根拠と は、 実に 構造 上 欠如の 在り方に おいて あると ころの、 超越の 在り方に おいて あると ころの、 

実存 性で ある。 すると かかる 実存の 基礎的 存在論 的な 当処が 宗教が それにお いて 成立す る 究極の 根拠であろう か。 

実存の 構造 的な 欠如と は、 見て 来たよう に 主体に とっての 機能 性に ついていう — 無と いう 「存在者」 ではな 

く 遮 絶 性 をい う —— ので、 キエ ルケ ゴ ー ル において はもと より、 ハイデ ッガ ー においても、 それ は 「存在 的」 理 

解 を 事と する 主体の 接続 を 拒む。 いい 得るならば 悟性 的 把握 を 拒む 11 キヱ ルケ ゴ ー ル はそう 断言した が、 ハイ 

デッガ ー はこれ を 実存 的な 問題と して 主題 的に して はいない。 なお、 悟性 的 把握と ともに 通常の 謂いに おける 意 

欲 的 接 独 を 拒む という こと も、 キ H ルケ ゴ ー ル その他 最近の 実存 哲学で は 明らかで あり、 いわゆる 魔 的な ものに 

対応す る ことで あるが、 存在論 的な 問題 性から、 ハイデ ッガ ー はこれ を ことわって、 捨てた。 ケラ ー や クンツ 等 

スイスの 学者 達 は 新たに ここ を 問題と している II 。 

根拠と しての 実存 性 或いは 超越が、 存在 的 理解 或いは 悟性 的 把握 を 超えて いると いう こと はどうい うこと か。 

「実存 的」 な 無の 出来事 即ち 機能的な 遮 絶に 会う 事態に ついて、 ハイデ ッガ ー は 僅かに 『形而上学と は 何 か』 で 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二三 リ 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二 四 Q 

ふれて いる。 それ はたし かに 存在者と しての 現存 在の 拒否で ある。 最近の 彼 は 「存在」 の 問題 を 究明し はじめた。 

従来の 問題 性との 関係が 種々 にい われて いるが、 彼 自身 は 変わって いない こと を 語って いた (一九 五 四)。 もっと 

も、 当時の ガ ダマ— 等の 主張の ように、 存在の 内実 性と いう こと も 問題になる が、 それ は ともかく として、 その 

存在に ついて まさに das Ungeheuere という。 それ は 悟性 的 主体 をよ せっけない。 実存 性 も 超越 も、 さらに は存 

在 も、 つまり 実存の 根拠の 当処 は、 より 主体的に いえば、 「実存 的」 に は、 それと して 悟性 的に とらえる こと を 

超えて いると いい 得る と 思われる。 実存 的な こ の 点で は、 一層 ヤス パ ー スゃ ティリ ッヒ の 所;^ 冊に お ハて、 積極的 

に 出て いる。 

われわれ は 宗教の 本質的 事実 性と 根源 的な 根拠 を 人間 存在の 基礎的な 根底に 求めようと している。 成立 的な も 

ので はなく、 宗教 的 経験が 拠って 存在す ると ころの 基礎的な 地盤が、 右の ような ところに ありと すれば どうで あ 

ろうか。 それと して 捉えられぬ 領域の こと は、 より 主体的に つきつめ ると、 以上の 人々 の 所論から 更にす すめら 

れ なければ ならない が、 とにかく、 この 領域 は 構造 的に 悟性 的 主体に とって 他者 的で あり、 外在 的で あり、 拒否 

的で ある。 しかも、 そこが 人間 存在の 本来の 根底で あると すれば、 それに 即 くこと が 本当で はなかろう か。 それ 

は 悟性 的 主体の 否定に おいて 得られる。 それが 宗教 経験の 本質的 事実で あると いい 得ぬ であろう か。 

聖の 概念 はさきに あげた。 オット ー において は それに 副う 状況が なく、 聖を 担うべき 存在論がない。 デュル ケ 

ムには 卓越した 聖の 機能的な 構造 論 或いは 存在論と いうべき ものが あるが、 しかし 問題の 場面 は 偏して いる。 た 

だし、 上述の ように、 直接的な 宗教 怪 験の 根底 をな す 層 位が みられて いる こと はとく に 留意すべき である。 それ 



で、 ここで は デュル ケムと は 別な 問題の 方向に おいて、 即ち 端的な 主体的な 存在の 領域に おいて、 以上の ように、 

ォ ット ー と は 見る ところの 層 位 を 異にする が、 その 非合理的な 本質に おける 聖の 構造 論 或いは 存在論と いうべき 

もの をみ うる。 そして、 そこにお いて、 宗教の 基礎的な 原 機 制と 主体 化 を 尽くした 存在論 的な 根拠が みられる の 

ではない かと 思われる。 

鈴 木 先生 は 早くから、 ゥ H 1 パ ー 等の 所論に 応じて 宗教の 「型 理学 的」 立場 を とられた。 その 線 は 現在 も 活発 

な 問題領域 であり、 ことに ヮッ ハ等 がその 問題の 頂上 を 志 ざして 現象学 的 領域に 入って 行こうと した。 私に とつ 

て それ は 将来の 問題で、 今 は それらの こと を も 念頭に もちつつ 根拠の 問題 を 論じ、 謹んで 小論 を 先生に ささげる。 

rl) この 稿 は 鈴 木宗忠 先生の 賀 寿の 記念論文集 (文化、 ニー ノ五、 昭和 三 二 年 九月) に 同じ 題名で 寄稿した ものである。 

宗教の 根拠 を 人間 存在の 主体的 根底に 索め ようとして 来た 私の 考え方の 経過 を 要約した もので、 宗教哲学 における 存在 

する ものの 存在論 的 根拠の 究明の 線に そい、 更に、 キヱ ルケ ゴ ー ルゃ ハイデ ッガ ー の 所論 を、 その 所論の 軌道に そって、 

主体的に つきつめ てこれ を 超えた 問題領域に 出ようと した 試みの 要約で ある。 

今回、 初めの 見込みが きを 昭和 一 七 年の 稿に よ つ て 加え、 宗教の 基本 観念に 関する 叙述に も 諸家の 所論に ふれて 新たな 

吟味と 私の 問題 性からの 位置づけ をして、 多少の 補足 をした。 ことに フォイ エル パッハと マクス *シ ヱ ラ ー の 所論に 関す 

る 吟味と、 右の ような 問題 性に 照らしての 位置づけ や 方向 づけに 関する 部分 を 入れた。 

(2) フォイエ ルバ ッ ハの 所論に ついては 「宗教の 人間学 的 根拠 11 フォイ ヱ ルバ ッ ハの 所論に 関する 試 稿 I 」 (ヒ、 中、 

下)、 文化、 六ノ 九、 一 〇、 七ノニ (昭和 一四 年 九月、 一 〇 月、 一 五 年 二月) 参照。 

以下の 部分 は、 上記の 問題 をす すめて ゆく 経過 を 明らかにする ための 助けと して、 右の 稿の 最後の 部分 を ここに 入す た 

ものである。 従って、 フォイ エル バッハ の 吟味 や 方向 づけ も、 上の 問題との 連関に おいてな されて いる こと を、 ここに こ 

とわって おきたい。 なお、 フォイ エル バッハの 著作に ついての 引用 は、 巻、 丁数と もに ボ リンと ョ— ドル 編の 新版 全集 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて . 二 四 一 11 , 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 一一 四 一一 

9. samtliche Werke, herausg. v. W. wolin u. F. Jodl, Stuttgart, 1903ff.) による。 

广 3) OH. Vorlesungn (vorlesungen tiber das Wesen der Religion, 1851, (vm)), SS. 25, 16, Jodl, Vorrede, in: Bd. 

>, S. V. なお、 自然に 関する 彼の 考え方の 展開に ついては、 拙稿、 上掲、 (中) 及び 同上 三 頁、 注 * * * 参照。 

(4) ibid., SS. lor 78, wtrs. SS. 39f., 113, W. d. C. (Das Wesen des Christentums, 1841, (VI)), SS. 223f., 225. 

(5) bsdrs. W. d. R.(Das Wesen der Religion, 1845, (VII)), SS. 500fL, 404, Vorlesungen, (vm), SS. 39f., 66, 222. 

なお、 この こと は、 根源 的 対象に 関する 所論 を 異にする けれども、 すでに 『キリスト教の 本質』 においても 強調 せら,. I て 

い る (cf. W. cL nj (VI), SS. 19ff.)。 

(6) W. d. R., (VII), SS. 440, 441, 458, Vorlesungen, (vm), S. 42. 

(7) N. B. Vorlesungen, S. 221f. なお 拙稿、 上掲、 (下)、 五 頁、 註 * 参照。 

(8) W. d. R., S. 432, Vorlesungen, S. 48. 

(9) cf. z. B. W. d. p, (VI), S. f W. d. R., S. 433, Vorlesungen, S. 24f. 

(s) vorlesunTOSl, S. 14f. 

(u) 拙稿、 上掲、 (下)、 八 八 頁 以下 参照。 

(じ) cf. Vorlesungen, SS. 43146, W\ d. R., s. ね 34. 

(s) 私が 他者に 関係し、 他者に よって 制限せられ 限定され ての 限りに おいて、 はじめて 私 は 現実に 存在す る。 この こと は 

『根本 命題』 等に 強調せられ ると おりで、 現実に 存在す る 個体の 有限 性の 根拠であった (有限 性の こと は 既に 『死の © 想』 

等に も ふれられ ている)。 この こと は、 私の 存在が 他に 依存して あると いう ことに 外なら ない (vorlesungen, SS. 17, 41f •)。 

ところで、 現実的な 存在に は、 その 当処 において、 主観性が 即ち 意識が 与って いる。 私の 存在に はまた 私の 意識が 与って 

いる。 上に も ふれた ような 理由で (拙稿、 上掲、 (上)、 (中)、 参照)、 私の 存在と はまた この 意識の 当処 にある ともい い 

うる。 おって 私の 存在が 他者に 依って 在る という こと は、 主体的に は、 他者 即ち 対 者と しての 自然に 依って 在る との 意識 

g ち 依存 感 において 在る という ことで ある。 これが 実践的な 存在の、 即ち 私の 生の 当処 の、 在り方で あり、 宗教の 根拠 も 

ここに ある (cf. Vorlesungen, SS. 31, 39, 43, W. d. R., S. 434. シュ ライエル マツ ハ ー の 依存 感情との 区別に つ 、, て 

は vorlesungen, S. ひ^)。 



(J Vorlesungen, SS. f 69, 64, wtrs. SS. 42, 251ff., W. d. R., S. i. さらに 拙稿、 上掲、 (下)、 七 頁 以下 参照。 

彼のい う エゴ イス ムスと は 普通に いわれる ような 個人的な 或いは 道徳的な 利己主義の ことで はない。 すでに 『キリスト 

教の 本質』 等に も 出て 来る けれども、 上に ふれた ように、 『宗教の 本質 補遺』 から 後に、 ことに 強調 せられる。 彼の エゴ 

イス ムスと いうの は、 存在の 主体性の 性格で あり、 実践的な 生の 本質で あると みられる。 即ち エゴ イス ムスに っレて 彼 

ま 人間の 人間的な 所以の ものた る 人間性に 即して、 他の 非人間的、 非 自然 的な ものに 対して、 自己 皇 張し 裏す る もの 

であり、 それな しに は 人間 は 存在し えず、 生きて ゆかれぬ もの をい う (cf. Vorlesungen, SS. f Erginzungen z. J. 

d. (ErgEungen unci Erlgerungen zum "Wesen der Religion:, 1845, (VII)), SS. 392?, 417)。 

、5) w. cl. R., S. 467f., vorlesunTOSl, S. ^ひ 9f. 

r6 し Vorlesungen, SS. 261ft.> 269, 175f. 

、7.) ibicr SS. 268f., 47. 及び 拙稿、 上掲、 (上) (中) 参照。 

、8 し Vorlesungen, SS. 259ft: 266f. 

(s) ibid., S. 271, u. a. 

§ Theogonie (Theogonie aus den Quellen des klassischen Altertums, 1866, (IX)), SS. 49, 41 if., 61—65, 32f., 82, 

wtrs. Vorlesungen, SS. 41f., 253f., 262, w. d. R., s. 466. 

(s " B. Theogonie, (IX), SS. 4lft., 61ft., Vorlesungen, SS. 32—39, Erganzggen z. W. d. ?, (VII), cs. 424, 

さ 2f., 404. 

§ Vorlesungen, S. 4lf. u. a. 

s) Barth, K., Feuerbach, in: Die Theologie und Kirche, 1928, SS. 2121239. 拙稿、 上掲、 (上)、 四 頁 参照 

(お) W. d. S. ^ひ 9f., vorlesungen, S, :B ひ 3. 

、5) W d S. 493f., vorlesungen, S. 2s, Tti さ TOOnie, SS. 611., 32 ト. 

、6) 皮, の 一 ^命に ついていえば、 『宗教の 本質』 でも 『講義』 でも 精神 宗教 乃至 その 過渡的 段階の 叙述から、 宗教の 所在 をす 

ベて この Ischen において おり、 『神 譜』 S) に 至って 更に 徹底す る。 彼の 宗教 論に おいて 最も 重要な ものである。 な 

お、 前に あげた、 ためになる というよ うな 叙述 は、 主として 自然 宗教に おける 自然崇拝 や 動物崇拝の 基礎に ついて 論じら 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二 四 三 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二 四 四 

れ るので あるが、 しかし、 自然の 根拠、 感覚 性の 基礎に おいて 宗教 をみ ると なると、 やはり そのこと は 重要な ことと なる。 

われわれの 問題 性に つ いていって もそう である。 

(W) Theogonie, SS. 72f., 79f., Vorlesungen, SS. 251, 288f., 249. 

(^) Theogonie, SS. 79, 321. 

(^) Vorlesungen, SS, 32lff. 

(お) Theogonie, SS. 63, 49, w. d. R., S. 466f. 

(お) ibioL, SS. 33f., 80, vorlesungen, SS. 314ft., 253f., ^. d. R., S. ,464. 

(お) 『神 譜』 は 多くの 事例に ついて 論じて いる。 Theogonie, SS. 25f., 30, 42f., 49, 83, 312r 320f., wtrs, SS. 34f., 46f., 

63f., 234f. u. f vorlesungen, SS. 307fC., 312f., 337f., Erganzungen z. W. d. S. 393. 

(M) Theogonie, SS. 1 に If., 307f: 31lf., 18f., vorlesungen, SS. 288f., 29lf., W. d. R., S. ひ 03f., Er ^ゆ nzun^en z. W. d. 

R., S. 392. 

(お) z. R Vorlesungen, SS. 318f., 239f. 

(^) ibid., SS. 227ff., 236. 

(お) ibid., SS. 249, 250ft. 

(お) il^ioL, SS. 349f., 353ff., 359, 312ff., 267ff. 

(go ibid: S. 28f., Aphorismen (Nachgelassene Aphorismep (X)), SS. 344, 326. 

s ibid, S. 345. 

(^) cf. W. d. p, (VI), SS. ifL, 14ft., 223ft., 238ft., 235f., wtrs. Anhang, (VI), SS. 338f., 34lff., u. a. 

(^) Vorlesungen, SS. 16f., 24f. 

(^) このような 意味で、 歴史的に 存在した 人格 も、 それが 信仰の 対象、 宗教の 対象と なるとき は、 決して 歴史的で はなく、 

やはり 主観性の うちにお いて、 欲い 願いの 対象と して あると して、 ィ ェ ス のこと 等 を あげてい る (vorlesungen, SS. 237f. 

10° 



この 占に 関して ま キエ ルケ ゴ— ルも 彼の 名 を あげて 同 意し、 一八 00 年 前の キリスト、 また 一八 8 年来の キリストと 

いう こと 塞定 して、 実存す る 個体が その 現在の 主体性に おいて キリストと 自分と 対面す る 「同時性」 の 逆説的 真理 をと 

く rS Kierkegaard, Der Begriff der Auselhlten, i. v. Th. Haecker, 1917, SS. 102, f 1§. なお 「同 

時 性」 ま キエ ルケ ゴ— ルが 始終に わたって キリスト教の 眼晴 とする もので、 『羣的 断片』 から 後年の 『瞬間』 にも 強調し 

『日 己』 こも 屢々 識 している。 「反復」 や 「瞬間」 の 理論と 相応す る 概念で ある)。 また 上の ような 問題に ついて フォイエ 

ル バッハと キエ ルケ ゴ ー ル との 関係 を 叙した もの は、 wohlin,T., ヌ ierkegaards dogmatische Anschauung, 1927, S. 

も 4ff 

なお、 宗教の 所在 を、 いわば 宗教 的 関係 態、 作用 態に おいて 主体の 主観性の うちにお いて 見る という こと は、 ff;- 

とと 連関して 重要な 問題で ある。 かりにた とえば シ エラ— 等の 所論と も 連関して ? Vorlesungen, S. 39f., W. cL R., 

SS. 501ft., 488, Erg き zungen z. W. d. I^., S. 404 ト.、 

(4 し cf. ibid., SS. 222r I. 237ff., w. d. f SS. 469r 477—487, 502f. 

(!^ ) Aphorisms, (X), S. 303. 

(^) ibid,, SS. 326, 344. . 

s Vorlesungen, S. ir oer Einzige, (Das Wesen des P.I in Beziehung auf den "Einlen ih 

Eigentu ョノ 1845, (VII)), S. 303, Gottesbegrift- (Der Gottesbegrift als Gattungswesen des Menschen, 1842, (vll)), 

S. 260f. 

sy, A で llorismsl, S. 307. 

£w z. B. Vorrede v. W. d. p, (VIP s. 281. 

(^) Gottesbegrift, S. 264. 

z. w. vorlesunTOep S. :367f., Apliorismen, o. 300. 

(w) 拙稿、 上掲、 (上)、 ニニ 頁 以下、 (中)、 一四 頁 以下 参照。 

SW W. d. P, S. ift. さらに 上掲、 (中)、 五 頁 以下 参照。 

S 上掲、 (上) 参照。 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二 四 五 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二 四 山、 

(S vorligen, S. 117f. 

(E:8) その 点 は Der Einzige, (VII) や Der Gettesbegritf, (VII) 等に よく 出て いる。 

§ 彼 も 自己 否定の ことに ふれて いるが、 存在に おける 個体の 主体性 を 中心として 凝視して いるので はない。 自己 否定と 

いっても、 それ は 自己の 本質と しての 類の もとにお いて は、 やはり 自己 肯定で あり、 やはり 自己 愛の 方向に 外ならぬ とす 

るので あり、 更に 類の 存在の ために 手段 的に 自己 否定 をみ て、 個体の 存在の 本来 的 本質的な ものと しての 無 を、 類との 隔 

絶に おいて、 主体的に みて はいない (cf. Vorlesungen, S. 79, Erganztrngen N. W. d. S. 395f., -rheogonv S. 

325)。 

(^J なお 彼の 所論に ついては 吟味 さるべき 多くの 問題が ある。 さきに 提起した もの も あるが、 とくに、 たとえ, ま 『根本 命 

題』 等から 出て くる 我と 汝の 関係の 問題、 その 関係の 仕方の 機能的な 追及、 或いは その 関係の 所在 を 自然と する ことにつ 

いての 問題 等 も あるが、 しかし、 それら はい わば 有の 領域での 問題であって、 主体の 主我 性の 無に おいて 在る こと を、 应 

の 所論から 索め て 来た 今の 場合に おいて は、 まず 最初の 問題で はなく、 その 次に 出て 来る 問題と いい 得る。 

§ マクス • シヱラ —に関する 以下の 叙述 は、 昭和 一四、 五 年の 講義 を 昭和 一七 年に まとめて、 一連の ものと ともに 印書 

に 付した ものの 中の 最後の 部分と、 その 前の 部分の 簡単な 要約で ある。 

彼の 宗教 現象学から 彼の いわゆる 宗教の 本質 存在 学への 展開に ついての 吟味 は、 この 稿で 行な つ たような 線と は 別な^ 

も ありうる。 一般的に いえば、 現象学から 存在 学への 方向で、 宗教の 対象 論 をな す 場合に、 あらためて 取り あげられ るべ 

きこと であり、 別に ふれた こと も あるが、 ここで は、 上 来 叙べ てきた 問題 性からの 吟味と 位置づけ を 試みる もので あり、 

いわば 現象学 的 存在論の 方向 を 求めよう とする ものである こと を ことわ つてお きたい。 

(SJ cf. :Formalismus, (scheler. Max, Der p-ormalismus in der Ethik und die materiale Wertethik, 3Au ュ.、 Hallf- 

1927.) SS. 260r 12. 

(6) ibid., S. 159, wtrs. cf. IKosmos, (Die ひ tellun^ des Mensclien im ICosmos, (1928), Darmstadt. 1930, (4-6) •) 

(^) Formalismus, SS. 135ff. 彼の 実在 性の 概念に ついては 『形式主義』 から 後年の Idealismus-Reaiismus, in; philo- 

sophischer Anzeiger, Jg. 2, 1927 等に わた つ て 特色の ある 考えが 叙べ られ ている。 即ち 実在 性の 本質 は Widerstand に 

あり それ は wirken の 故に Wirklichkeit であり、 その Gewirktheit が Widerstand であり RealitSt である。 この 



71 70 69 68 67 66 65 64 

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J につ いて は 別に 論じる。 

F^ormalismus, SS. 141., 134, 46, .13f. 



wtrs. 397ff. 

ibid., S. 7fT. 

ここに は 多くの 困難な 問題が あり、 諸家の 批難 も ある。 が、 それらの 一 々につ いて はこ こで は 省略して 別の 稿 (上 註 

一 参照) に ゆずり、 Di^ 近の もの も そこで ふれる ことと する。 

cf. Der F-ormalismus, ひ. 68. 

ibid., SS. 44ff., Vom Ewigen, (vom Ewigen in Menschen, 2 Bde., 1921), S. 443f. 

JFormalismus, SS. 99, 103f., 88tf. 

cf. ibid., SS. 260r 272f., 263. 

cf. ibid., SS. 84ff., 265, 103, 211, wtrs. SS. 249, 266. 

ibid., SS. 267r 84fT. 

ibid., S. 268f. 

ibid., SS. 343f., 345ft., 103ff. 

Vom Ewigen, SS. 373r 376. 

ibid., SS. 390, 529f. 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二 四 七 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二 四 八 

S ibid., SS. 385, 420f., 426f: 376r 381f,, 386f. 

(^) シ ユラ— は その 倫理学に おいて カントに 対抗した ように、 宗教 論に おいても シ ユラ ィヱル マッハ —などの 主観 主 こ 

反対す る (cf. Vom Ewigen, SS. 588tt.)。 

(M) cf. iMcL, SS. 397 ff., 68^f.> :Formalismus, SS. 400f., ^12. 

(SB) Vom Ewigen, SS. 379, wtrs, cf. S. 388. 

(SB) Formalismus, SS. 302—304, cf. Vom Ewigen, S. 639. 

s) Vom wwigen, SS. 639, 342ff., 546, 114ff., 334f., 348fL, 386f. 

(^) ibid., SS. 638, 389, 360, 547, Formalismus, SS. 21, 304. 

(50 Vom Ewigen, S. 638, ^Formalismus, s. 21. 

(g) これらの 項目に ついても 別に まとめた ものが あるが、 別に 印刷して 発表の 機会 をえ たい。 

(g) bsdrs. Kosmos, S. 108f. 

この 点に 関して はとく に 

Haecker, TTr Was ist der Mensch ?, 1936, wtrs. 〇eist undWahrheit, 1937, L6with, ヌ: M. Scheler und das Problem 

emer {Dllilosof^lllscllen Antllrop-oloTOie, in: TlleoloTOische Rundschau, 193 ひ, Hft: 6, s. w.sf. 

s Vom Ewigen, SS. 559, 399. 

(^) cf. bsdrs. Sein und Zeit, SS. 46f., 139, u. a. 

(g) Hdde^TOer, M., Kant und das Prot>km der Metapliysilc, 19 に 9, SS. ^ooff., u. a. 

(w) cf. Kosmos, S. 105f. 

(g) Vom Ewigen, S. 529. 

(go ibid., S. I. 

(磨) ibid., S. i. 

(m) cf. ilDid., S. 138f. u. A.nm. 

(爾) cf. Heidegger, M., Vom Wesen des Grundes, (sonderdruck aus der Festschrift ftlr E, Husserl), 2 Aup 1931, 



き 



S. 98 Anm. 

(m) 『宗教 経験の 基礎的 構造』、 第一章、 参照。 

(S) 同上、 及び 本書、 第二 章 参照。 

(^ン 上掲 書、 第三 章、 「宗教 経験に おける 超自然的な もの」、 第 四 章、 「宗教と 呪術 及び 科学」、 参照。 

ヽ c^) で- JJfl、 、はン参昭、:0 

(リ オット ー ま 『聖』 の 第二 章に おいて 次のように いっている。 「聖」 は 宗教 的 領域に おける 固有の 解釈 及び 評価の 範疇 

Jfl Bewertungs-kategorie) である— 私 は 従来 一 O 版 (一九二 三) を 使って いたが、 最近の もの (三 エー 一 

五お、 一九 六 三) では、 何 か を 「聖 なる」 として 認識し 承認す る こと は、 先ず 最初に 宗教 的 領域に あらわれる 固有の 評価 

である、 となって、 Deutung という 字 はなくな つてい る (ただし 一 〇 版 s. 7 と 新版 s. 7 の 叙述 は 同じで ある/ し 力し、 

われわれから いえば、 聖は 宗教 的 経験の 事実の 本質 を 解明し、 更に、 その 真理なる 所以 を 明らかにす るので ある 力ら お 

来の ような 表現の 方が 調子が よく わかる ように 思われる。 なお、 その他の 点で も 多少 瞧の 仕方が ちがって 来て いる- 7 

かつ、 そ e ま 合理的な ものと 非合理的な もの, I 合理的な ものと は 全く 種類の ちがった、 概念的 把握で は 行きと どかぬ 

従って、 いい 表わしえぬ 雲 ー との 併 わさった 複合 的な (この 語 も 一九 六 一一 一年 版に はない) 範疇で ある。 由来、 聖。 は^; 

遠,」 云 承 的な 意味で、 道徳的な ものの 述語と して 使われる が、 それ はこの 語の 根源 的な 意味 を あらわす もので は? ^ 

ま 门れら のこと を 併 わせ もって はいるが、 さらに、 これらの こと を 超えた 過剰 3fs を 含んで いる。 この こま 

聖こ; っナる 根源 的な ものな ので、 ,s 固有な 構成 囊を 究める ために、 少なくとも 研究 上の 暫定的な 使用の ために、 聖か 

ら 道徳的 要素 及び 合理的 雲 を 控除した ものに ついて、 特別な 名前 を 工夫して おく ことが 便利で ある。 けだし、 この 意味 

こお ナる聖 と は、 すべての 宗教に おける 本来 的に 最も 内面的な もので あり、 それな くして は 宗教が 宗教たり えな レ ものな 

^ で、 それ 相応の 固有 性 を はっきり させ、 かつ、 それに 属し、 それから 展開す る 諸事 情 を 明らかにしうる 名前が 考えられ 

このために、 彼 は das N 画 i という 語 をつ くり、 固有の ヌ ミノ 1 ゼ 的な 解釈 及び 評価の 範疇の ことと、 この 範疇 



こよって、 ヌ ミノ 1 ゼ 的な i 的な 状態、 即ち この 範疇が 用いられて、 対象が ヌ ミノ 1 ゼ的 として 経験され ている 場合に 

S 現われる 感情 状態の こと を 叙べ ようとす る。 なお、 この 範疇 は 独特の ものな の だから、 他の 根源 的な 基礎的 事実な ど 

第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二 四 



第 七 章 宗教の 根拠に ついて 二 五 ◦ 

と 同様に、 厳密な 意味で は 定義し 得ず、 ただ 研め て 位置づけうる のみで ある。 以下 三 八 六 頁 補註に *1 く。 

(刚) 上の ような 問題 性と 方向と から、 キヱ ルケ ゴ— ル について 叙べ たものと して、 拙稿、 r キヱ ルケ ゴ— ルの 宗教 論の 吟 

E、 上 下 (哲学 雑誌、 昭和 一 八 年 一 〇 月、 一 一月)、 「実存 哲学に おける 時間 性の 問題」、 上、 下、 (宗教 研究、 一 一九、 

一二 〇、 昭和 一九 年 四月、 七月)、 「キエ ルケ ゴ— ル における 主体性の 問題」 (東北大 学 文学部 研究 年報、 六、 (一九 五 五))、 

宗教の 根拠に 関する 研究 11 キヱ ルケ ゴ— ルと ハイデ ッガ— の 所論の 吟味に そって — 」、 (同上、 ,,、 、一.,, 五 七))、 『宗 

教 経験の 基礎的 構造』、 第二 章、 等 参照。 

(g) 『哲学的 断片』、 『後書』 及び 特に 『死に 至る 病』 等で 明らかにする ように、 個体 は 永遠な ものに 連なり、 わかり あわ 

なければ ならない。 自己と 自己との 関係と いう、 その 際の 自己と は、 永遠な ものの もとなる 自己で ある (『死に 至る 病』)。 

そこで 課題 は、 可能性に おける 永遠な もの を、 個体が 自己の 現実性に おいても たなければ ならぬ ことになる。 ところが、 

永遠な もの を 個体が 現実的に もっとい うこと は、 事の 本質 上、 出来ない。 時間の なかに おいて 実存す る 個体が、 時間の な 

力に お レー」 時間の 外なる 永遠な もの を もっとい うこと は 不可能で ある。 試みて 出来ない のみならず、 本質 上出来な、,。 

ところが、 一方、 永遠な もの は、 厳密な 意味に おける 変化の 遂行に おいて 現 成されなければ ならない。 ァ リスト テレス こ 

したが つ て、 生成 を 可能性から 現実性への 移行で あり 変化で あると みた キヱ ルケ ゴ— ルは、 プ ラトンの 『。ハ ルメニ デス』 

にしたがって、 変化の 箇処を 不思議な 瞬間に おいてみ る。 キリスト教 的に いえば、 「瞬間」 と は 永遠な ものが 時間の なか 

に 挿入され ると きに 現 成される。 その 時と は、 現在 を 唯一 の 場面と する が、 瞬間の 現 成と は、 各自の 現前の 今にお いて 期 

される 外 はない。 それ は 各自の 自己との 死別に おいて、 辨証 法的な 質的 飛躍に おいて 試みられる (『不安の 概念』、 『哲学的 

断片』 及び 『後書』)。 このように、 永遠な もの を 目指す 途上に おいて、 また 永遠な ものと 出会わなければ ならない。 合 も、 

このような、 永遠な ものの 重複と 同じように、 出来ない 無と 構造 上の 無と が、 彼の 所論に は 重なって いる。 この ことにつ 

いて は、 上 註、 (而) 拙稿、 参照。 

(^) 宗教 的 主体性の 観点から いえば、 現象学 的 存在論の ような モ ティブ を もった 構想 性 を も 更に 超えて ゆかなければ なら 

ない。 そして、 その上で、 或る 辨明ゃ 媒介 を 経た 上で 別な 構想が 立てられる 害で ある。 この ことに ついては、 本書、 第 人 

章、 第 九 章 及び 『宗教 経験の 基礎的 構造』、 第二 章、 第一 〇 章 及び 「信の 人間学 的 根底と 機 制」 (日本 仏教 学会 年報、 二八 

(昭和 三 八 年)) 等 参照。 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 

—哲学に おける 無との 対応に おいて. 



宗教で 無と いうの は 議論 や 論理学で いう 無と は 性格が ちがう。 シ ユー フィエル マッハ 1 は schlechthig な 

依 憑と、,^ つたが、 それ は 一 も 二 もな き 只管なる 謂いで ある。 道元の 謂わ ゆる 「ただし 心 を もて はかる ことな かれ、 

ことば を もてい ふこと なかれ。 ただ わが 身 を も 心 を も はなち わすれて 仏の いへ になげ いれて、 仏の かたより おこ 

よまれて、 これにし たが ひもて ゆく とき、 ちから を も いれず、 こころ を もつ ひやさず して」 という 呼吸が、 端的 

素朴 こいって 宗教の 境地であろう。 この場合 における、 通常 的な 謂いでの 自己なる ものと その 係わり あいの 斯々 

の 事 どもが、 無で あると いうの が、 まず 直接的な 謂いに おいて 宗教の 無で ある。 

マクス • シ H ラ ー はか かる 謂いで、 神 的な ものとの 関係に おいて 自己の 無 を 知る というが、 一方で は 別の 書で、 

自己の 無に おいて 神 的な もの を 知る と 規定した。 ティリ ッヒ はいう ところの non-bein^ について、 曾て、 そ., 

は 抽象的な 無で はなく unableness to be の 謂いで あると 私に 語った。 また 神経組織 学の ゴ ー ルド シュ タイン も 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて 一一 五一 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 五 二 

いうと ころの 無に ついて、 やはり 抽象的な 無で はなく、 処世に おける どうに もなら なさ、 確かで ある ことの 出来 

なさ を 指す ので、 しかも この こと は 生の 構造に 具わって いる ことなの だから、 これに 処 する 道 は 宗教の 外に はな 

いであろう とい つ ていた。 

恰も ここに は 宗教の 無に ついて 種々 の 答えが 示されて いる。 一 に は 自己の 無に おいて 宛らに 宗教 的に いる こと、 

一 一に は 在るべき ところへ と 敢えて 疏 通し 趣く ことの 出来な さ、 三に は 宗教の 此岸の 世界が 主体に とって どうに も 

ならない こと をい う 無で ある。 これらの 関係に おいて、 これらの 無 は それぞれの オン トロ ギ ー を 展開して いるが、 

通じてい えば、 宗教への 此岸 的な ものの 無が いわれて いる。 しかし、 そこから 超え ゆくべき 彼岸 的な もの は 何処 

にあり、 何な のかと いうと ころに 種々 の 問題が ある。 

まず、 以上の ようにい つた だけで は 三つの 無が 揺らいで おさまりが ついていない。 それにお いて、 自己が 無で 

ある ことによって 宗教 的で ある もの、 或いは それに 対して、 自己が 無で あると ころの 宗教 的な ものと は 何 か。 普 

通 直接的に は、 それぞれの 宗教 経験に おいて、 神仏 その他の 宗教 的 対象へ と 自己 を 無み し 超え 出る といわれる。 

しかし、 根源 的に いえば どうであろう か。 とくに 立場の 制約に 従って、 ここ を 此岸の 側から たずねよう とするな 

らば 如何であろう か 11 彼岸の 側 は 今の 立場から いうと、 その後の ことで あり、 いい 方に よって は、 特殊な 艮定 

を 荷なう 神学の 問題領域 となる II 。 ここの こと は 形而上学の 問題領域 とその 根獰を 連ねて いる。 つとに シ H ラ 

1はここにっぃて t^onformitatssystem の 提唱 をな した。 もっとも、 すでに 批判 せられた 多くの 形而上学 的 主張、 

たとえば 宗教 的 対象 を そのもの として 素朴 的 存在と 考えたり 唯心論 的 存在と 考えたり する ものに つ いて は、 ここ 



では 関説の 要はない。 より エラ ボレ 1 トな 謂いに おいて、 現象学 ゃ寒羣 における 形而上学 的藝 において 問 

とな つ たと ころ を 注意 すれば ょレ 

上の こと をよ く 考えて みると、 自己 を 無み して 宗教 的になる にしても、 宗教 的に いる ことが 自己 を 無み してい 

る ことで あるに しても、 自己 I みする こと は、 神仏 その他の 囊的 I に 趣く 中途 的 操作で あると いうより は、 

いわば その 前に、 或いはと くに その 根底に おいて、 白 己なる ものの 無の 当処塞 由して、 それらの 彼岸 的な もの 

にか かわり、 ポジティブな 謂いに おいて 宗教 的に 居る ことで はない かと 思われる。 いいかえれば、 自己の 存在の 

無に 即 いて 自己なる もの を無 にして こそ、 神仏 その他の 対象に 囊的 にか かわられ るので はない かと 思われる。 

—自己の 無に おいて、 囊的 になり 或いは 囊 的に 居る という こと は、 有神論 的 蟹から いうと お t い。 も 

ち ろん、 ここで は、 襲 的な それぞれの 宗教 的 濃 ほいて この ことが 行なわれる というの ではなく、 薦 的な 

ものの 層 位 を 掘り下げて、 根源 的な 謂い 或いは 解釈 的に 解体しての 謂いで いうので ある, I。 

この場合、 自己の 無と は、 自己 を 無にした 上で 宗教 的な ものに 趣き 超える というので はない。 自己の 無 こそが 

i まというよ りむし ろ &i きで ある。 厳 雷い えば この 無 は 超越の 領域に おいて ある。 自己 を無 みする という 

こと は、 心理的な 或いは 唯 だ^ ことで はなく、 まさしくき 越 的な 無に 即 くこと に 外なら ない。 

存在 や 無の 超越 性の 問題 性 は 実存 羣 にあり、 とくに 存謹 的に は ハイデ ッガ 1 が 展開した— もちろん 彼 は 

宗教の こと を 書の 問題に はしない。 囊 のこと は 彼の V つ 決意 性の 範囲の もので はない。 自己 霊の 決断と い 

うような こと は 正気の ことで はない ともいう。 しかし、 彼が 見送った 「実存 的」 な問鬵 域に はこの ことへの 問 

.:、 二 二 五三 

第 八 章 宗教に おける 無に っレて 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 五 四 

題 性が なく はない。 この ことに ついては すでに 叙べ た。 

なおこれ と 連関して 「存在者」 の 性格 規定 も 問題と なる II 。 しかし 彼の 現象学 的 存在論の 所論に は、 やはり 

たとい 神で はない にしても、 恰度 その 位置に 「存在 的」 な 対象が 影の ように 立てられ ている。 やはり 伝統的な 考 

え 方の 跡が あると もい いえよう。 レヴ イットな ども この こと をい つていた ことがあ るが、 ともかくも、 キ H ルケ 

ゴ— ルは wxistenz vor Gott の 無 をい い、 ハイデ ッガ— は Existenz vor dem Tode ないし vor dem Enck の 

無 をい う。 それ故に こそ 彼の 所論の 特色 は あるが、 しかし 現象学 的 存在論と いう 方法論の 建て前に は 差支えが 出 

(3) 

ると 思われる。 

それで は、 さらに 端的に、 主体的な 究竟に おいて 機能的な 無と いう ことが 存在論 的な 存在の 構造の 場面に おい 

て 検出で きないであろう か。 こういう 問題の 連関から、 ここで は、 とくに 仏教に おける 無の 問題 をたず ねて みる。 

もちろん 成立 的な もの を 介す るが、 それに 寄りそう ので はなく、 ここで は 根源 的な 謂いに おいて、 そ, a らの良 底 

について みょうとす るので、 まず 解釈 学 的な 操作 を 必要と する。 しかし、 教理 論に おいて は 特異な 解釈 や 了解の 

深度 や 異質 性が 問題に なり、 そこに 特有の いわゆる 教相 論が 展開す る。 これらの こと を 経て 右の ような 根底 を 問 

題と しょうと するとき、 解釈 学 的と いっても、 以前の ような、 生に もとづく 通有の 解釈 や 理解 はこ こで は 拒まれ 

る。 けだし、 宗教 的 経験が 生の 日常 的な 領域 を 超えて いるからで、 その 超えて いる 層 位に おける 了解 や 解釈 を^ 

題と しなければ ならぬ からで ある。 このために は 現在の 存在論 的な 解釈 学に 適当な 問題領域が 見出だされる ($、 

ここで は、 これらの 前提 を ふまえて、 宗教 的な 無の 主体的 究竟 を遂 つた ものに ついて ふれて みょうと する。 



二 

ヒし 先ず、 このような 問題の 所在と 扱いの 霞 や 連関 を 明らかにする ために、 近来の 哲学に おける 「無」 に関する 問題 

(5) 

の 所在 や 扱いに ついて 鳥瞰して おきた レ. - 

実際の 宗教に は 信者 や 崇拝者が 行 業 を 運ぶ 何等かの 対象 的 存在者が ある。 教義 や 教団 等、 いわゆる 既成 性が 増して 来る と 

その 宗教 的 対象 は、 はっきりした 性格 を もつ ようになり、 弁護 学 的 神学 的に 高められ、 かつ 合理的に 修飾せられ 昇華せられ 

て 来る。 ところが、 かかる 対象に ついて、 とくに 近代の 人間 主義 的な 考え方 は仮藉 なき 批判 を 向けた のであった。 勿論、 祌 

学の 一部に は、 神の こと 信仰の こと は 人間の 知性 を もって 窺知し 得ず、 只管、 恩寵 を俟 つべき ものである とする 観点 も ある 

が、 総 じていえば I 先ず 西洋 的、 ョ, '口 ツバ 的な 考え方 を 中心に していう と —、 中世に おいて は、 真理 は祌 とともに あ 

つた。 ところが 近世 以降に なると、 一般の 考え方 は 形 を 変じた。 中世に おいて、 神 自身に よって 保証 せられた 神の 存在 や は 

たらき は、 近世に おいて は 人間に よって 保証 せられる。 しかも、 その 保証と ともに 祌は 人間性の 裡に 取り入れられ たので あ 

つた。 いわば 神 自身が 問題で なく、 人間性の 裡 なる 神性が 問題に なった のであった。 

一体 近世 ョ —口 ツバに おいて は、 その 現実の 地盤に おいて、 ギリシア 的な ものと キリスト教 的な ものとの 綜合 1- 前者の 

主軸に おいてと もい われ、 最近で は 後者の 主軸に おいてと もい われる I によって、 いわゆる キリスト教 的 人道主義 という 

考え方が 形造られた とせられる。 オクシデント という 名の 下に 当時の 人々 は 異教に 対する キリスト教の 高さ を 意識した。 ョ 

1 口 ッ。、 こいう 名に おいて 近世の 人々 は 世界の 主体た る こと を 意識す ると 口— ゼンスト ックは 『ョ ー 口 ッ ノの諸 革命』 グ中 

で識 している が、 ョ— ロッパ という 名と キリスト教との 結合 は 十八 九 世紀の 交、 ノヴァ リス ゃシ ユレ— ゲルに よってな され 

たとい われる。 近世 的な 普遍的 性格に おいて 世界史 を 把握した の はへ— ゲルで あつたが、 彼のい う 近世 的 自覚 も 「キリスト 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 五-" 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 五山、 

教的ョ —口 ッパ」 的で、 「西洋」 が 深い 内面的な 普遍性 を 望む のに 対して、 ョ I 口 ッパ、 キリスト教 的ョ ー 口 ッパの 人々 は 

具体的 普遍 を その 性格と し、 自覚 的 理性 を 原理と して、 これ を 超える 何物 もない と 考えて いると 『歴史哲学』 や 『H ンチク 

口べ ディ』 で識 している。 近世 的な 人道主義の 特質 をよ く 示して いるが、 由来、 この 人道主義の 考え方で は、 神と 自然と 人 

間のう ち、 人間 を 中心として、 人間の 性質の 中に 神 や 自然 を も 同じ 性質の ものと して 取り込み、 人間の 力の 絶対 を 信じ、 理 

性と 道具 を 使う 人間の 能力の 重に よって、 人間の 力 だけで 世界と 人生と を 完成す ると 考える。 もちろん、 或ると き 或ると 

ころで は 個人 も 多数 も 不完全で ある けれども、 かすに 時と 広さと を もってすれば、 人間が 人間と して 考え 得る かぎりの もの 

11 それが 完全 性の 範疇で あるが —— になり 得る、 進歩 するとみ て、 人間の 本質 を 人類に おいて 考え、 完全 性に おいて 考え 

たので ある。 - 

このような わけで、 近世に おいて は 人間と は 神に 代わって 全知と 全能の 別名と なり、 宗教の こと も 寧ろ そのもの としての 祌 

を 要せず、 只管 人間性の 範囲の 内で 信仰の 処置が つくと さえ 考えられた のであった。 ルタ— の 宗教改革 によって 近世の 人道 

主義 は 影響 を 受けた ので あるが、 逆に もい い 得る ので、 近世の 人道主義 は 宗教の 部面に かかる 影響 を齎 した。 ルタ— は 既に 

人間の 心の奥に 神 を 見、 神の 可能性 をみ たのであった。 由来、 近世の 神学が 人間 を祌 として 崇める といわれ、 if 

desMenschen といわれる 所以で ある。 神 は 自己 を 知る かぎりに おいて 神な ので あるが、 それ は 人間に 拠って 自己 を 知る 外 は 

なく、 神 は 人間の 本質の 実現 を俟 つて 自己 を開顕 する ことになるので、 今日に おいて、 祌は (人間の) 主観の 側に 住む とへ 

—ゲル もい う (『ヱ ン チクロべ ディ』、 『宗教哲学』)。 

人クノ たる 所以が 神の 神た る 所以で あると いうへ— ゲル は、 近世 的な 考え方 を 代表し 結論 づける 一人で あるが、 もし 4^ に 

続く 直ぐの 時代 即ち 前世紀の 三十 年代から、 かかる 近世 的な 考え方が 動揺し、 形 を 変える ようになって 来た。 そこで はこう 

レ われる。 一体い われる ような 人間と は 何処に 存在す るの か、 実は それ は 人間が 考える 力に 委せて 頭の 中で 考え出した 人間 

という ものな ので はない か。 近世 的 人間の 棲 家 は 人間の 頭の 中に ある。 ところが 現実に その 日 その 日 を 過ごして いる 人間 即 



ト -1tD7^-l ? . る Q : それが 明らか こせられ なければ ならない、 というの である. - この 端緒 をつ けた 

ち 実 さする 人間 は 如何に 存在して, > るび 力 そ. W 力 カ,^ .V- ナ ( - 

のが フォイエ レ バッハであった。 さらに、 現実の 人間と は 歴史的な 社会的な 関係に おいて、 そして 唯 だ その 裡 において のみ 

本質的 こ 存在 するとみ て 来たの が 彼に 続く いわゆる 青年へ 1 ゲル 学徒で あり、 史的唯物論の 考えに 展開して 来たので あった。 

稍々 寺 を 同じう して、 やはり 右の ような 實られ た 人間に 対して、 人間の 囊と 真理と を 各自 的な 直の 内面 化の 方向に 求 

めて 来た 考え方が 出て 来た。 そこで は 人道主義 的な 人類 的な 人間で はなく、 一切の 客体 的 外部 的なる ものから 断 たれた 有限 

な 自己が 見出された。 実存と は 直が 皇に 係わる 或いは 対決す る 関係で あると キエ ルケ f ル はいう。 その 主体性、 有限 

ま 一- I こっき つめたと ころに、 彼 は 人間 gf とおりの 姿 を 即ち 理性的 神 的な 人間で はなく、 いわば キリスト 的 人間に.' 

わる こ、 i を 追われて 罪の 不安に 怯える アダム 的 人間の 姿 を、 きので ある。 神の 前なる 自己の 無 を さとり、 皇を 無み 

する、 それが 「正気」 の 人間で あり、 人間に 死 するとい うこと、 それが 「精神」 の 力で あり はたらき であると、 後年の 『日 

記』 や 著作で 屡々 語って いる。 、 、 

皮 の盲艮 の 呼吸 はい われる ように ニイ チェと ともに 現代に 再生した。 理性の 絶対的 優越 をョ丄 ツバの 原理と する (へ— 

ゲル) 近世 的 i は、 第一 次の 大戦 以来、 生や 実存と しての 人間への 反省に よって 超えられる。 即ち 近世 的 人間 は 上の よう 

な 本質 こ 従って その 理念の 謹に 向かうよ うにみ えたが、 しかし、 内に はやが て 神に も 等しい 人類の 力 を もってしても 人間 

ま 自己 自 f 支配し きれない。 神の かわりに 頼み を かけた 人間の 裡 なる 道徳 性の 権威が 破锭に 瀕し、 外に は 自己の 幸福の た 

め こ 築いて 来た アバ? トが 却って 人間の 自由 を 余す ところな く 縛って しまったと みられて 来た。 さらに 基礎的に は 人間 存 

在の 構造 を 死への 存在と しても 自覚して 来たので ある。 このような わけで、 かって 無限と 全能と を 誇った 近世 的 人間 は、 百 

きの 方、 その 反対の 事情と 構造と において 自己 を 自覚し、 人間の 本質に おける 普遍性に も 動揺 を 来たした のであった 

ここで 注意 せられる こと は、 人間の I における 神と 人間との 謹と いう ことで ある。 近世 的 人間に おいて は、 中世 的な 

神から は 去った としても、 神と 人間と は 人間性の 範囲のう ちで 調和せられ、 ともかく、 神に 連なる いわば キリスト 的 人間が 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて 一 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 一一 五, > 

考えられ ている。 へ ー ゲルの 言葉 を かりてい えば、 第一 の アダム は 第二の アダム 即ち キリスト たる 約束に 立って いるので あ 

るが、 最近の 人間像に は 神に 連なる この 摂理 も 運命 も 断 たれて いる。 堕ちた 第一 の アダムの 限りの 人間が 見られる ので あつ 

て、 いわゆる 裸の、 現存 在の 範囲に おいての み 存在す る 人間の 姿に は、 神 も 神性 も 奪われて いる。 Mensch ohneGott とい 

われる が、 ここで は 神と 人間との 調和 は 破れ、 人間 は 神から、 永遠から 断絶して あるので あって、 そこに は それ 自身の 責任 

において 生き、 それ 自身の 自由にお いて 生きる 人間の 直 相が 露わになる であろうが、 それ は 神に よってで はなく、 存在者 を 

その 存在の 当処 において 拒否す る 無に よって 基づ けられて いると みられる。 

力くて いわば 神 的 人間から その 祌性を 抜かれた 人間の 自己 反省の もとで、 無の 存在論が 語られる ので ある。 由来 郷国 を 

離れた ユダヤ 民族の ヱグジ ィルの 事情が そうさせる のか、 ユダヤの 伝統 は 自然と 自然 的なる もの を 拒み、 或いは これ を 主宰 

する 建て前で、 神と 人格 性の こと を 中心とする といわれる。 へ— ゲル も その 青年時代の 『キリスト教の 精神と その 運命』 で 

この こと を 指摘して いるが、 キリスト教 もこの 伝統 を享 けて いると みられよう。 それ は ともかく としても、 さきに ふれた よ 

うに、 近世の 人道主義 は 神と 自然と を 人間性の 裡に 取り こんで、 いわば 人間の 一本立ち である。 その 人間, f ら 伸と 祌生 とが 

(6) . 

奪われた とき、 そこに はまた 拠るべき 自然 もないで あろう。 即ち 生 ある 者 は 死ぬ、 そのような 生き ものと しての 人間の 考え 

方阆ち 「実存の 理念」 を、 踏み外し のない 最後の ものと して、 これ を 実存 論 的に、 現実の 各自の 存在の 構告 j に 畳み こんで 考 

えて 来たの が、 いわゆる 基礎的 存在論で ある。 ここで 無の 存在論が 語られる わけで あるが、 それが 如何 だとい わ ば、 そ 

れは それまでの ものと いう 外 は あるまい。 いわば 地獄 谷の ような 陥没で、 そこに は、 其処からの 発条 は 約束せられ ていない。 

ここに ポジティブな キリスト教 神学の 足場 を もとうと する 動き もあった が、 しかし 本質的に は、 それ は 当 を 得ない とい わね 

ばなる まい。 けだし、 木に 竹 を 接いだ ようで、 人間に 関する ミニマム. ディフィニションと でもい うか、 究極 的な 徴表 とし 

ての 実存の 理念が 根本的に 異なる からで ある。 従って かかる 立場の 人間学と キリスト教 祌 学との 間 は、 パシト のよう な 拒否 

を 用いない とすれば、 キ H ルケ ゴ— ルゃ 現在の 新教 神学に みられる ような、 特別な 理由 づけに よる 橋 わたし を もって、 疏通 



を 試みる 外 はない ことになるであろう。 

所詮、 死 を 最後の 法廷と する この ニヒリズムに は、 一切の 妥協 も 転轍 も 管れ ない。 こうと 思い 見当 づけて いる 実存の 理 

念が こうで あるかぎり は。 そして、 みて 来たよう な 事情で、 そのよう に 思われる 理由 も ある。 人々 は 神な き 人間の 行く手が 

無なる 奮 や、 神 を 奪われた 人間の 終末 観が 己れ の 死なる こと を 意識した といわれ るが (へッ 力- 『人間と は 何 か』、 T 

ゼンスト ック、 上掲 書)、 ハイデ ッガ— の 所論 もまた、 自分で もい うように かかる 意識の 存在論 的 告白に 外なら ない。 しか 

し、 ここに は 色々 な 問題が あり 得る。 その 理念の 当否と いうよう な こと も 問題に なり 得る であろう。 更に また、 一体 この 基 

礎 的 存在論で は、 かかる 理念と 存在論 的 究明の 方法と は 別々 にして 考える こと もで きる。 もちろん ハイデ ッガ— の 所論の 特 

色 は、 右の 理念と 現象学 的 存在論と いう 学問的な 方法と が 併 わせられた ところに あるので、 自分で も 『存在と 時間』 の 中で、 

この 理念 を 存在論 的に 考え抜い たもの だとい つてい るが、 われわれの 見るべき は 寧ろ その 理念で はなく、 その 方法が 抉 剔し 

た 実存の 基礎的な 所在と 機能的な 構造と である。 死 は 生き ものに とって、 従って 人間に とって、 最後 的 決定的であろう が、 

しかし、 その 事柄が 問題な ので はなく、 緊要な こと は、 実存の 場面に おける 存在の 構造で あり、 そこにお ける 死の 在り方で 

ある。 そして、 ここにお いて は 生き ものの 死と いう 事柄で はなく、 存在論に とって 最も 大事な 場面に おいて、 死の 転 質せら 

れた すがたが 見られて いるので ある。 この 場面に おいて は、 凡ての ものの 存在 は 存在 可能と いう 在り方に おいて 存在し、 そ 

れは、 この 当の 場面の 構造 上、 「負 目 ある」 在り方に おいて ある。 死と は ゆ Gsssrste M6glichkeit として、 この 場面に おけ 

る最 固有の 存在 可能に 外なら ない。 ここ は 論議の あると ころで、 後に 問題に する が、 ともかく、 われわれ はこの 存在論が 明 

ら かにした 実存の 基礎的な 所在と 其処に おける 機能的 構造と について、 大きな 参考 を 得る と 思う ので ある。 なお、 特に この 

^こつ、, て は、 後に 叙べ るよう な 宗教の 無の 問題 性との 関係と いう こと も あるが、 その都度の ことと しょう。 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 六 〇 



三 



もの は 在る のであって 無い ので はない という こと は、 形而上学への 出発で あり 驚きで あると いわれる。 或いは、 

は 無にして 然 かも 無で はない。 自己の 無に おいて 神 をみ る、 ないし は祌の 有に おいて 自己の 無 を 見る。 これが 宗教の よろこ 

びで あり 存在論で あると もい われる。 また、 論理学 や 認識論の 上で も 無が 問題に なって いるが、 一体 「無」 と は 何な のか、 

如何なる ことにつ いてい われる のか。 

論理学 や 認識論の 領域で も、 有から 無が とり 出される 場合 も あり、 無から 有が 導かれる 場合 も あるが、 しかし、 西洋の 思 

惟に おいて は 一般に 有が 無に 優先す るの が 本筋と せられ、 「無からの 創造」 というよ うな こと もい われて いるが、 それ は 実 

は 神からの 創造と いう こと を 意味す るに 外なら ない。 ex nihilo nihil fit. 無から は 何物 も 生じない ので ある。 

知られる ようにへ— ゲル は 『論理学』 で 「有」 (sein) から 「無」 (Nichts) を 導く。 その 「 始源」 においても みられる よ 

うに、 無 は 有からの 無 或いは 有の 無であって、 無 だけの 存在が はじめに 有る ので はない。 直接的な 意味に おいて 無の 有で は 

ない。 止揚 せられた 意味に おいて はいい 得ても、 へ ー ゲルに おいて は、 そのような 無と は r 定有」 (Dasein) である。 そこ 

では 無 は 移行して 来て いる こと 即ち 「成」 (werden) においてたず ねられる ので あるが、 それ は 契機と してであって、 無 は 

それ 自身の オン トロ ギ— を もっている わけで はない。 へ ー ゲルの 弁証法の 主体 は 精神で あり、 弁証法 は 精神の 自覚 過程 或い 

は 自己 実現の 論理と 理解 せられる。 さらに 一 般に 弁証法が 過程の 論理と して 或いは 存在の 論理と して 解釈 せられて 来て いる 

が、 ともかく 弁証法的 過程 を 可能に する 根拠に は 否定と いう ことがある。 否定 は 一般に 有の 限界に おける 転移で あるが、 具 

体 的 段階に おいてと くに 明らかな ように、 否定せられ たものと の 関係 を はなれて は 無の 意味 はない。 

なお、 かかる 有と 無との 間にお いて、 それら は 全体 的な 矛盾に おける 対立で あるの か 或いは 同一な ものの 二 面と してい わ 



ば 部分的な 対立で あるの かとい うような 点に も 二様の 解釈が あり 得よう。 しかし、 いずれにしても、 へ— ゲルに おいて は 双 

方 間にお ける 転移の 場面に 徹底 しないと ころが 残る。 この 点 を 追究して 行った の は キエ ルケ ゴ ー ル であった。 

「成」 はへ ー ゲルの 『論理学』 において は 時間 や 空間の 中に おいての ことで はない。 論理の 中で 扱われる までで ある。 し 

かし 実際の 成 即ち 生成 (werden) という こと は、 時間と 空間との 中に おいて 現実に 存在す る ものの 在り方の 変化に ついて 

いわれる ことで なければ ならない。 かくて キエ ルケ ゴ— ルは トレン デ レン ブル グの 所論に 導かれて、 へ— ゲルの 論理学から 

ァ リスト テレスの 「運動」 の 概念に 迪 りついた のであった。 そして、 生成 は 或る ことの 可能 的な 在り方から 現実的な 在り方 

への 「変化」 であり 「移行」 であると なした。 ところが 状態の 変化に おいて は、 或る ことが 可能 的で あるかぎり は 現実的で 

はなく、 現実的で あるかぎり は 可能 的で はない。 従って 論理的に は 変化の 箇処は 見当たらない。 けれども 変化 は 実際に は あ 

る。 即ち 変化 や 移行の 箇処 は 不思議な H クサ ィフ ネスで ある。 。フーフ トンの 『パルメ 一一 デス』 によって キ H ルケ ゴ— ル はこの 

こと を 見、 さらに 変化の 行なわれる この 「瞬間」 (Augenblick) において、 逆説的に 永遠 性が 具わらなければ ならない とし 

たのであった。 

ここにお いて、 実際の 成 即ち 生成の 変化 は、 厳密な 意味に おいて、 固有の 質的 飛躍に おいてな されなければ ならぬ とせら 

れ るので ある。 即ち、 十全な 意味に おいて 生成の 変化 は 歴史に おいて 行なわれ るので あるが、 厳密な 意味に おいて かかる 変 

化の 行なわれる 場面 は 個体の 実存に おいてで ある。 それ は 個体の 実存に おいて 或る ことの 可能 的な 在り方から 現実的な 在り 

方への 状態の 変化と いう ことで ある。 この 際、 否定 は 正に 徹底した 課題と なる。 即ち、 厳密な 意味に おいて 生成 は 「瞬間」 

の事戎 において のみ 行なわれる。 瞬間と は 時間の 中に おける 現在の 確立で あり、 それに は 永遠な ものが 時間の 中に 交叉す る 

という ことが 要件で ある。 キ H ルケ ゴ— ル によれば、 この ことなしに は 厳密な 変化 や 移行 は 行なわれない。 11, 】 とに 彼が 

究極の 問題と した 宗教 的 実存の 課題と して は 勿論で あるが、 『哲学的 断片』 等に おいて は、 一般に 厳密な 意味に おける 変ィ 

即ち 個体の 実存に おいて 行なわれる 外 はない 歴史的な 変化に ついて、 n のように 主張 せられる 1。 従って、 そこで は 時間 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 六- 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 六 二 

的なる ものから 永遠なる もの へ の 状態の 変化と いう ことが 課せられる。 

けれども、 時間の 中に おいて 実存す る 個体 は、 実存す るかぎ り 永遠な もの を 持たない。 ここに 実存に おける 矛盾と 逆説と 

が存 する。 時間の 中に おいて 実存す る 個体 は、 実存す るかぎ りの 自己の 否定に おいてで なければ、 厳密な 意味に おける 生 

成の 変化に 与 かれない。 ここに、 常に 如何なる 場合に おいても 実存の 否定せられ なければ ならぬ 所以の、 換言すれば 実存の 

「無」 なる 所以の、 オン トロ ギ— が ある 答で ある。 それに ついては、 永遠 性 を 内在的に 自己 自身の 中に 蔵して おらぬ 実存が、 

Existenz vor Ewigkeit において、 永遠 性 を 自己に あてがって みて、 永遠 性の 欠如に ついて 実存の 無 をい うこと も 出来る。 

事実、 キ H ルケ ゴ— ルは かかる 主題の もとに 自己の 無 を 知り 自己 を 無み する こと を 主張し 抜いた。 

しかし、 また 彼の 考え を 深く 見き わめて みると、 却って 永遠 性との 連関に おいてで はなく、 実存す る こと そのことの 内部 

的 構造が 無の 支配 下に ある ことが 明らかにされようと している。 

『不安の 概念』 等に おいて、 実存 を 「負 目」 の 構造に おいてみ、 実存す る ことが 可能性の 領域に おいて 底の ない 深淵の 上 

に 所在し、 不 きまり 不決定な ところに おかれ、 無に 臨んで いる 所以 を 指摘した のであった。 

へ —ゲルに おいて は 個体 や 実存の こと は 問題で はない し、 このような こと は 勿論 明らかにせられて はいない。 否定 は 常に 

契機と して それ 自身の オン トロ ギ— を もって いないが、 今や 実存の 弁証法に おいて は、 質的 転移の 否定が それにお いて、 或 

いは 常に それに 相応して、 行なわる ベ きそれ 自身の オン トロ ギ— を 有する ので ある。 

しかし、 さらに この 弁証法的な 行為 や 構造 は 「実存 的」 な ことと して 除外し、 只管、 実存の 無の 構造、 空しき 所以の 構造 

を —— それ はすべ ての 存在す る ものの 存在の 構造 を —— 基礎的 存在論に おいて 究明した の は ハイデ ッガ— であった。 そして 

実に 彼 は 有 を 無の 根底に おいて 明らかにし ようとす るので ある。 

「純粋 有と 純粋 無と はだから 同じ ものである」 というへ— ゲル 論理学の 命題 は 正しい。 有と 無と は 一緒に 組み合わ さって 

»> る しかし、 それ は、 へ I ゲルの ような 考え方から いわれる ように —— それらが 無 規定 性と 直接 生と において 一致す 



ると いう ことで はない。 有 即ち 存在 そのもの は、 その 本質 上 有限であって、 無に おいてす がた を 持す る 現存 在 (Dase5) の、 

その 超越のと ころに おいての み、 自己 を あらわな らしめ ると ハイデ ッガ— はいって いる。 

彼 こおいて は、 凡そ 存在す る もの は 究極 的に 各自に とって 如何よう にかに 在る ので あるが、 その 在る という 場面 は 存在者 

の もと を 超えて いる。 そこ は 実に 現存 在の 実存の 領域で あるが、 この 実存の 領域 即ち 現存 在が 現に 存在して いると ころの 

「現 こ」 の 場面が、 その 構造 上、 無に 支配し 抜かれ、 無に 染め抜かれ ている。 彼 は 存在の 意味 を 時間 性の 構造から 明らかに 

したので あるが、 とくに 『存在と 時間』 において は、 現存 在の 存在が 死への 存在と して、 死の 在り 得る、 終わりの 在り 得る 

という i、 とくに 拒否 性に おいて 支配し 抜かれて いる こと、 そして、 投げ出された 投企 として、 この 可能 的な 無の はたら 

きを 思いのままに する 力の ない a 在り方に おいて 実存の 当の 場面が 成り立つ ている こと、 を 明らかにした。 

いわゆる 「負 目」 (schuld) において ある 現存 在の 存在の 構造 を 明らかにした のであった。 

一体 われわれが 何 か を 問題に するとき、 それ は 何 かで あるので あって、 その他で はない。 悟性 的に は、 常に このように 

或る こと をば、 そうでな いもの 他の ものとの 区別と 仕切りと において、 問題に する ことが 出来る ので ある。 ところが、 この 

区別 や 仕切り は 「ない」 という 否定に おいてな されて いるので あって、 それ は、 何等かの 在る ものの 無い という 仕方に おい 

てな されて いる。 それで、 ここで は 有が 無に 優先的な ように もみえ る。 

けれども、 何 かの 在る という ことが 問題になる ために は、 「ない」 という 否定の 拠る ところの 領域 即ち 「無」 の 領域が あ 

つて、 そこからの 否定 (vernei 醒 g) による 限定に よって、 在る ものが 浮かび 出て 来、 それであって あれで はない という 決 

まりをつ けられて いるので はない か、 とも 考えられる。 しかも 霊が 無に 優先す るので はなく、 無が 霊に 優先す る、 そし 

て 有が このような 無に 優先す るので はなく、 このような 無が 有に 優先す るので はないで あろう か。 

「ない」 という Verneinung の 否定 は、 それ 自身からの 理由 や はたらき によって 相手に 「ない」 を あてがう ので はなく 

他からの 理由 や 機能に よるので ある。 即ち 外ならぬ 「無」 の 拒否 あるいは 「無み する」 91 さ) はたらきに 依存して、 否 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 六 三 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 六 四 

定は 「ない」 という ことが 出来る ので ある。 それ 故、 否定が 無に 優先す るので はない。 否定の 根源が 無に あるので ある。 無 

の 拒否 あるいは 無み する はたらき こそ は 否定 I それ は 思惟に よる — と はちがつて、 対立し 拒絶し 禁止す る 冷厳 さ、 鋭 さ 

苦し さが あるので あ つ て、 否定な どよりも 遙 かに 拠る ベ きと ころがな く 従 つ て 躬らに 責壬を もつ 重节 である。 

四 

このような 無の、 拒否 的に かかって 来る 力の 中に、 現存 在 は 投げ出されて 存在す る。 無が その 拒否 性 即ち 無み する はたら 

きを もって 現存 在の 存在の 場面 を 貫いて いるので ある。 そして、 すべて 存在す る ものが 存在す る 場面が、 外ならぬ この 現 J 子 

在の 存在の 場面で あり 実存の 場面で ある。 

存在す る ものが 存在す る ものと して、 存在者と して、 いわゆる 存在 的 (ontisch) (存在す る ものに かかわる,、) こ 根拠 

づ けられる の は、 実は 現存 在が その 「現に」 のと ころに おいて 存在論 的 (ontologisch) (存在す る ものの 存在に かかわる 謂 

し J な 存在の 場面 即ち 実存 を 開 敷し (welteny 道 をつ ける という、 その 場面の 上での ことで ある —— この こと はとく こ 

『根拠の 本質』 参照 —— 。 ところが、 現存 在 は その 「現」 にの 場面 即ち 存在の 場面 を、 このように 無の 拒否に おいて 支配し 

抜かれて いる。 ものが ものと して 在る の は、 このような 無の 拒否 性に おいて 染め出された 地盤 即ち 存在 や 実存の 上に おいて 

であるから、 だから、 そこで、 「ない」 という 否定に よる 仕切りに おいて、 在る ものが 問題に せられる こと も 出来る ので あ 

る。 

かくて 根源 的な 「無」 の オン トロ ギ— の 領域が 確保 せられる。 —— なお、 このように 無 を 取り あげる の は 主として 『形而 

上 学と は 何 か』 における 主題で、 彼の 他の 書で は 無が それほど 積極的に 取り あげられて はいない。 『カントと 形而上学の 問 

題』 や 『根拠の 本質』 等に おいて、 存在す る ものが 存在す る ものと して 成り立ち、 われわれが 関係す る ことの 出来る 構造 を、 



月ら かにす る 底に は、 やはり こ S 無の 問題が 伏せられて いると 考えて よいであろう。 平 灰 は 合うよう になって いると みられ 

る。 『存在と 時間』 において は、 このような 無の はたらきの 上に おける 存在の 領域が 拒否 的な 在り方に おいて あり、 現存 在 

の 存在の 場面 をな して いる 可能性の 領域が 無の はたらき において 支配せられ ている こと を 説く ので あると みられる。 そして、 

ことに そこで は、 存在論 的に 死の 問題が とりあげられ ている こと は 知られる とおりで あるが、 今の 主題との 連関に ついては 

後に ふれよう。 

さらに、 『形而上学と は 何 か』 では、 根源 的な 無の 出来事 即ち 無が はたらき を あらわす 仕方の 場面が 迪られ ている。 いわ 

ゆる 「実存 的」 な 扱いで あるが、 それ は 他の 書に 見られない 特色で ある。 もちろん、 ここで も 無が 自己 を off する 

こと をき いて はいるが、 その 仕方 は 無の はたらき たる 拒否 を あらわす 顕露 (Enthlmung) において 示されて いる 11。 

さて、 それで は 根源 的な 無 は どのような 具合に あらわにな るか、 その はたらき において 顕 露になる か。 

無 は 存在者の すべてに わたる (Allheit) 絶対的 否定で あると せられる。 もっとも この テ ー ゼは 無の 根本 本質 をい い 明かし 

たもので はなく、 匿に 準じて 無 を 規定した ものにすぎ ぬが、 一応の 手がかり として 進もう。 否定 は 見て 来たよう に 悟性が 

事と する ことで あるが、 悟性 は 存在者の 凡てに わたって 係わる こと も 出来ないで あろう。 まして、 「すべての 存在者」 では 

なく、 「存在者の 全体 (Ganze)」 を そのもの として 把握す る こと は 出来ない。 けだし、 仕切り や 区別 を 超えた 全体 を とらえ 

ると いう こと は 悟性の 分で はない からで ある。 かつ 上に あげたよ うに、 無 や 無の 拒否 性 は、 悟性の 行なう 墓な どよりも 根 

源 的で あり、 層 位が 異なる。 否定 を 重ねても 拡げても 無に とどく ことで はない。 

ところで 無の 所在、 いや 正しく は 無が その はたらき たる 拒否に おいて 顕 露になる 場面 は、 常に 全体の 雷で ある。 従って 

無に かかわる という こと は、 この 全体にお いてで なければ ならない ー 存在者の 存在 は 存在者の もとに 内 属しない。 そこ を 

超えて いる。 その 存在の 場面と いうの は 実に 基本的に 現存 在の 存在の 場面 即ち 実存の 場面で ある。 ここが いわゆる 世界 内 

存在と か 「現に」 といわれる 場面で あるが、 ここ は 常に 各自 的な 了解 や 自覚の 及ぶ 範囲と いうべき まとまり を もち 全体にお 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 六 五 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二」、 六 

いて ある。 マクス • シ エラ ー がすで に そのこと をい つてい るが、 その 各人各様の 内実に おける まとまり 即ち 全体から、 そ 

の 内実 を 抜いた 「全体としての まとまり」 において ある ことが、 実に この 存在の 領域の 性格で ある。 そして、 さきに も ふれ 

たように、 無 は その 拒否の はたらき において この 全体の 領域 を掩 い、 或いは この 全体の 領域の 底の ない 底 をな している ので 

ある。 このような 連関の もとに、 無と は 全体にお ける 無で あり、 無 は 全体にお いて 問題になる ので ある。 何も彼も rr- てと い 

う 謂いで はない。 顕露 (EnthlLillung) という 言葉で あらわされる はたらき もまた 全体にお いて 蔽 いの とられる こと を 意味す 

る —— 

ところで、 存在者の 全体 を そのもの として 絶対的に 把握す る こと は 出来ない。 把握 するとい うこと は 相対的な 区別に おい 

てで なければ 出来ぬ からで ある。 けれども、 存在者の 全体と いう、 その 全体の 所在 は 上に あげたよ うに、 現存 在の 存在の 場 

面で ある。 従って 各自 は その 存在の 場面に おいて 存在し、 いいかえれば、 この 全体の 場面に おいて 存在して いるので ある。 

それ 故、 各自 は 常に どのよう にかに 顕露 せられた 11 この こと は 『存在と 時間』 の 初めに 仔細に 論じられ ている —— 全体の 

裡 において 存在す る ものと かかわり 合 つてい る こと、 存在者 どもの ただ 中に おかれて いる こと を 見出す ので ある。 その 場合、 

その 裡 において、 存在者との かかわり 合いの なされて いる 全体と は、 「気分」 あるいは 「存在 感に」 おいて あらわれ ている。 

そこで、 無が 自己 を あらわに するとい うこと、 換言すれば 無が その はたらき において 顕 露になる の は、 この 気分に おいて 

でなければ ならない。 それで は 各自が かかる 無に 出会う 固有の 気分と は、 如何なる ことで あり、 そこにお いて 無 は どのよう 

な はたらき をな すの か。 

そ. W は 「不安」 という 根本 気分に おいてで ある。 といっても、 それ は あれ それの ことに 心配す る 謂いで はない。 右の よう 

に 全体にお ける 気分で あるから である。 たとえば、 われわれ はよ く 不安に おいて 「気味が わるい」 という こと をい う。 その 

場合、 何物に 対して 何者が 気味が わるい かと 問いつ めたら、 何だか 知らない けれど、 何だか 気味が わるい の だとい うで あろ 

う。 この場合、 何物と いう こと も 誰と いう こと も、 はっきりした 目当てに はなって いない。 「何だか」 なので あり 「何だか 




知らない けれど」 である。 何物と いう こと も 誰と いう こと も 表に は 出ないで 沈んで いる。 しかし、 それらが なくなって、 る 

ので はない。 相手の 何物と いう 存在者に ついて、 はっきりした 見当が つかない、 決まりが つけられない。 ー 存在者と して 

の 自分に ついても 同様で ある I。 即ち 当の 相手に は 手が とどかない、 摘めない。 しかも、 不安に おいて 何だか は 此方に 力 

、 つて,^、 迫って 来て いるので ある。 正に これが 不安の 根本 現象で、 それ を 不安が つた 当の もの は、 不安が 過ぎ去れば 何で 

もない。 正しく 不安 がられる 当の もの は、 この 「何だか」 であり 「何でもな ヒ ところの 無な ので ある。 

即ち われわれ は 全体の 裡 において 存在す る 存在者の 唯 だ 中に 自己 を見 出し、 彼れ 此れの ものに かかわつ てい るカ、 不安に 

おいて、 それらの 存在者が、 右の ような わけで、 遠の き、 すべり 菅て ゆく。 しかも、 そのこと を 此方に 見せつ け 迫らせつ 

つで ある。 かくて 当のと ころ 即ち 気分の 当のと ころに は、 何の 支え も 残って いない。 ここに 残って いるの は、 そして、 この 

気分 こおいて われわれに おそいかかって 来る の は、 この 支えの 「無 さ」 である。 

無が 自己 を あらわに する 仕方 はこうで あるが、 これに 関する ハイデ ッガ— の 叙述 は巧敏 とはいえない。 『存在と 時間』 等 

こも 一応 図式 的に は ふれられ るが、 総 じて 意 を 尽くす ものと は 思われない。 もっとも、 彼 は その 書に おいても 実存 的な 即ち 

事実 的な 問題の 取扱い を 除外して いるので は あるが。 この 点に 関して は、 キエ ルケ ゴ1 ルの 『不安の 概念』 や 『哲学的 断片』 

等 こお ナる极 いこ 生彩が こもって おり、 背景と して は、 『人生 行路の 霞 階』 の 1 や ことに 青年時代の 『曰 記』 に識 され 

たもの こ、 迫真の 様相が でて いる。 グリ —ゼ バッハであった か、 ハイデ ッガ —の 不安 は 置き ものであると いったよ うな こと 

を 叙べ ていたが、 ともかく、 無が 拒絶しながら 迫って 来る というい われ を も 充分に 明らかにして いない。 存在の 場面が 一 。* 

性の 領域で あると いう こと を、 ここに ヴァ イタルに 入れて 叙 ベれば、 叙述が 生きて 来る であろうと 思われる が、 彼 はこの よ 

うな こと を 避ける。 

まてい えば、 無 は そのもの として、 存在者と して、 とらえられない。 上述の ように、 そのもの として とらえられる こと 

を 超えて おり、 そのもの として とらえられる ものよりも、 より 根源 的で ある。 一体、 無が あらわになる、 顕示す る (きき 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 六 H 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 六 八 

ren) といっても、 その 仕方 は顕 露になる (enthlillen) という 仕方に おいてで ある。 根源 的な 気分 即ち 不安に おいて、 無 は 

その はたらき において 自己 を あらわす ので ある。 

即ち 全体にお いて 存在せ る 諸々 の 存在者 を、 その 全体の 当の 処 において、 そこから 滑り落ちさせ 拒絶し、 し .5 も ■ そ,. I ら 

を —— 存在者が 全体にお いて 存在せ る 場面と は、 現存 在の 存在の 場面で あり、 等 根源 的な 投 企と 気分 性との ゆきわたれる 範 

囲で あるが. I , ここにお いて、 現存 在に 見せつ け 迫らせる (手のと どかぬ ままに して、 おそいかからせる)。 これが 無の 

所作で ある。 現存 在の 存在の 場面に おいて、 存在者た る 現存 在が 存在者た る 相手に かかわって いるであろう。 だが 自他い ず 

れ もの 存在者 は そこから 滑りお とされる。 そこに は 何の 支え もない、 寄る辺 もない。 この 無 さが 現存 在の 存在の 暴 面、 即ち 

全体にお いて 存在者が 存在せ る 場面 を領 して、 上の ような 所作 をす るので ある。 不安が 過ぎる と、 ああよ かった、 叮 でもな 

かった という、 その 何でもない 無が、 不安に おいて は、 何だか 知らぬ が 何だかな ので ある。 それ は 存在者で はない。 全体の 

領域 を領 していて、 不安の 根本 気分に おいて 所作 をな す、 無み し 拒否す る 出来事 を 仕出かす ので ある。 このはたら きが 無の 

本質であって、 NiclltunTO といわれる。 無 は 自ら これ を 行なう。 

もっとも、 かかる 出来事の 起こる 根源 的な 不安 は、 常に 起こって はいない。 最も しばしば 抑圧せられ ている。 しかし、 と 

い つて、 不安がない ので はない、 いわば 眠って いる。 さらに、 不安に おいて、 初めて 無が 産まれる ので はない。 無 は 間断な 

く 拒否し つづけて いる。 現存 在の 存在の 場面に おいて。 ただ、 日常、 人 はこの 本来の いわれ を 知らぬ ので ある。 

以上に よって 無に 関する 問い は 答えられた。 無 は 悟性の 領域の ことで はない。 悟性が 事と する 存在者に 属する ことで はな 

い。 それら を 超えた、 存在者が そこにお いて 存在す ると ころの 全体の 場面に おける 問題で ある。 形而上学と は、 一体、 その 

語が 示す ように 存在者に かかわる ことで はなく、 そこ を 超えた 超越の 領域に たずさわる 学で あるが、 正しく 存在者の 領域 を 

超えた 無の 問題 は 形而上学の 問題で ある。 そこで 無 は 何かと 問われれば、 無 は 凡そ 何者かで はない。 無 は その はたらき にお 

いて 自己 を顕 露に する。 その はたらきに 遭う ことにお いて わかられる。 そのような 出来事 は 根源 的な 不安に おいてであった。 



無 ま 無み し 拒否 するとい うはたら きを その 本質と する 

このような 無の 所在 は 超越の 領域で あると いわれる が、 存在 や 存在者との 構造 連関 は 如何であろう か。 

存在者の 存在 は 存在者の もとに あるので はない。 ものが 在る と は、 在る ものの もと を 超えての ところに 在って いるので あ 

る。 存在者と しての 現存 在 は 他の 存在者よりも 震 的に その 存在の 場面 を この 超越に もつ。 ところが 無 は 存在者 を 超えて い 

る。 無の 所在 は 超越の 領域であった。 即ち 無の 所在と は 実に 存在者の 存在の 観に 外なら ない。 存在者の 存在の 摄を 根源 

的に 無が 領 している。 無の 拒否 性が 貫通して いるので ある。 だから、 無 は 存在の 本質に 属する といわれる。 その 謂い は、 存 

在の 在り方が 拒否 性に おいて 在る という ことで ある。 また 存在の 在り方が 有限 性に おいて あると いう 謂いでも ある。 

さらに 存在者と 無、 とくに その 拒否 性と は 如何なる 連関が あるか。 存在者 は その 所在 を 超越 的な 存在の 場面に もっている。 

存在の 場面 は 右の ように 無の 拒否 性に 貫通せられ ている。 従って 存在者 は その 存在に おいて 無の 拒否 性に 制約せられ ている。 

さきに 否定の こと を あげたが、 存在者 は あれで あれば 此れで はない。 そのような 仕切りと 区別と において 存在して いる。 な 

、という 否定の 上に 浮かび 出て いる。 その 否定の 根源 は 実に この 存在の 場面に おける 無の 拒否 性に 外なら ない。 無の 拒否お 

こ SZ せられて、 実に 存在者 は 存在者と して、 それぞれ 分際の 乱れぬ 存在者と して、 存在す る ことが 出来る ので ある。 とく 

こ 根源め こいえば、 現存 在との かかわり において 存在す る ことが 出来る ので ある。 けだし 現存 在が 無に つながれ、 その 開 敷 

する II 『根拠の 本質』 にいうよ うな Welt の weltenll 存在の 場面が 無に 支配され ている 構造から いって、 無に おいて、 

a^J 子 主 は 字 在 者に 関係す る ことが 出来る というの である 

『存在と 時間』 において、 ハイデ ッガ ー は 現存 在の 存在 を geworfener Entwurf として、 そこの 基礎的な 在り方 を 「負 

目」 の 構造 こおいて 見出した。 即ち niges Grundsein einer Nichtf it なる 在り方に おいて ある こと を 明らかにした 

ので ある。 実存 哲学の 勝れた 讀の 一つ は、 各自の 現実の 存在の 場面が 可能性の 簾で あり、 しかも、 制限せられ た 即ち 

Nichtf it の 支配す る 可糧の 領域で あると みたところ にある。 Nichtf it というが、 それ はわれ われの 現実の 場面 即 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて 11 ニブブ II _ 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 七 G 

ち 心の ゆきわたれる 範囲、 Entwurf の讀 が、 あれで あれば それで はない、 という 制約の ある 可能性の 領域、 この 「ない」 

という ことで 無限に 制約 せられる 可能性の 領域、 の 在り方の ことで ある。 かつ その 可能性の 領域、 実存の 領域 は どこまでも 

不 決まり 不確実な Abgruncl の 領域で あると いうので ある。 しかも、 そこにお いて、 実存の 主体た る 各自 は、 それ を 無 制約 

なよう に は 出来ない、 真に 自由に は 出来ない。 nie-machtig な Grundsein であると いう こと を 明らかにした。 

このような 謂いで、 存在者の 存在と くに 現存 在の 存在が 無に おいて あり、 音 ある 在り方に おいて あると いわれる ので あ 

る。 存在者の 存在の 爵、 寒の 場面が、 無の 所作なる 無み する niehten する はたらき において 支配され ている といわれる 

ので ある。 なお、 この場合、 「それ」 から nichten の はたらきの 来る、 その 「それ」 は 如何であろう か。 『形而上学と は 何 

か』 では 上の ように 示される が、 『存在と 時間』 では 特に この 機能 性が 時間 性の 構造に おいて 示される。 そして、 もちろん、 

存在論 的に は、 「存在 的」 な、 その ニヒ テンす る もの 即ち 無が そのもの として 問題に はならない。 しかし、 前 存在論 勺こ存 

,^カゎかられ、 かつ、 その わかられ 方 を 規定して いると ころの 「実存の 理念」 において は、 実存の 最後なる 死が 目安に なつ 

ている。 そして、 その 所懐 を 存在論 的に 追究した ものが 自分の 存在論で あると ハイデ ッガ— はいって いる。 それで、 実存^ 

的な 還 場面に おいても、 実存の 最早 や 無い こと、 実存の 不可能 性、 つまり 死の ことが、 義の 法廷で あると いう。 そこ か 

ら 一一 ヒー アンの はたらき は 存在の 場面 を 常に 無み し、 nichtig に 染め出して いる。 それが 普通に はわ から ない が、 開示 性と 

くに 投企 において、 その 一番 向こうの 最 固有の 可能性の 端にまで 行き当たる 先駆 的 決意 性に おいて、 時間 性の 統一が 得ら I 

存在の 意味が 得られる というの である。 

以上に よって 存在す f のが 存在す る ものと して 存在し、 存在者と して われわれ がその 存在者に かかわる ことの 出来る 根 

拠と しての 無の オン ト n-TI つた。 無が 存在の 本質に 属する 所以の 謂い まった。 ところで、 基礎的 存在論の 還 雷 

において 直接に は 問題に ならぬ としても、 ハイデ ッ f において はや はり に はい わば そのもの としての 無 や 死の こと 

か 考えられて いると 思われる。 そして、 いい 方の ちがう— 『形而上学と は 何 か』 では 時間 性の ことが 明らかで なくぶ 一。 ぎ 



のい わば 方向が 示されて いないが ー 慕に おける 無の こと 死の ことの 関係 は 如何 かとい うこと も、 一応 (^) 考えて みる こと 

く 出来よう 11、 とくこ 『存在と 時間』 では 存在論 的な 場面に 存在 的な 死が 過当に 顔 を 出して 来て いる I。 いずれに して 

も、 ここで 気の つく こと は、 vor Ewigkeit の 実存 を 説く キエ ルケ ゴ— ルの 存在論 を 十九 世紀 的と いった 彼 は、 くミま 

Nichts の 実存 を 説く ことにお いて 、神の 代わりに 無 や 死 を、 やはり 向こう側に 立てて ゆく いわば 伝統的な 傾向 性 は 超えて い 

な、 と 考えても よいであろう。 ^も マクス .シヱ ラ ー は 現象学 的な 問題 場面に 立ちながら、 そこから 絶対者 を 透視して 行つ 

た。 ハイデ ッガ— はそう は 行かない。 けれども 向こうに ある ものが 立てられ 伏せられ、 微 なくと も 残って いると いう ことが 

、 (9)0 

以上で、 龍 学 や I 論の 領域に おける 無の 問題 を該 ねて、 形而上学 における 無の 問 ¥1 つたわけ であるが、 未だ 残つ 

た 問題が ある。 けれども 次に 囊に おける 無の 問題に 入って ゆく ことによって、 必要な ことに ついては そこから 振り返る こ 

とに しょう。 



五 

宗教の 領域に おける 無と いうと、 或いは あたかも 神の 代わりにお きかえられた 無と いうよう な ものが 考えられ 

るか も 知れない。 宇宙 森羅の 根源、 元 極と しての 無、 万物 生成の 源泉と しての 無と いったよ うな もの、 乃至 この 

ような 構想に 近い ものが 考えられる かも 知れない。 しかし、 今 はか かる もの を 問題に する ので はない。 かかる も 

の を 云為す る ことの 不当な ことに ついては、 すでに カントが はっきりした 限界 を 敷いた のであった。 これらの も 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて . 七 一 



、うこと か。 足りる ようにし、 思いのままに する ための 地上 的 努力と 宗教と は、 本質的に いって 層 位と 筋が ち 力 

う。 宗教 は 本質的に いえば、 仙術 や 巫術、 况 術と はちが う。 たとい 実際に は、 それらが 混在し、 併 在し、 ないし、 

或いは いわゆる 呪術. 宗教 的な 素地 や 段階が あると しても。 また、 足りな さや 思いのまま になら なさの 構造と い 

つたが、 囊に、 その 構造 や 仕組み を 打ち こわす 力で も あるかと いうと、 そういう ことで もない。 足りな さや 思 

いの ままに ならな さのと ころに いて、 足りる ようにし、 思いのままに しょうと する 情 謂 情 執の 取りち がえ を 超え 

る こと、 否定す る こと 力 

宗教の 根本的な 本義で ある。 

宗教の こと を 以上の ように 約め て みても、 欠如と か 思いのまま になら なさと か、 超える とかと いって、 そこに 

は、 霊 (前節に あげたよ うな 悟性 的に 限られた 謂いで なしに) や 拒否の 蔵せられ ている ことが、 直ちに 気づか 

れ るであろう。 

ここで は これらの こと をたず ねようと する ので あるが、 しかし、 上の ように 約言 せられる こと は、 一 々の 宗泰 

が、 直 管 かかる すがたで 行なわれて いると いう 謂いで はない。 それぞれの 囊の底 をな している 囊の妻 的 

事実 性 をい うので ある。 実際に は、 それぞれの 宗教 は それぞれの 成立 的 積極的な すがたに おいて 存在して いる。 

いわば 上に あげた こと を 骨組みと して、 それぞれの 皮肉 をつ け 衣装 をつ けて いる。 そして、 この 層 位に おいて は、 

それぞれの 宗教 は 種々 の 観念 傾向 や 観念 形態 を もち、 固有の コスモ ゴ 二 ー や 世界観 を もって ポジティブに 成立し 

ている、 と 解釈せられ るので ある 11 かかる 骨組みから 実際の 宗教が 発生した というの では 決してない。 発生..^ 

拠 をい うので はなく、 実際の 宗教の すがた を 解釈 的に 「解体」 し、 解き ほぐして ゆく とか かる 底に 行き当たる。 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 七三 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 七 四 

そのような 操作で 行き当たられる 底に ついてい うので ある。 それで、 また、 実際の 宗教の 骨組み をな し 底 をな す 

本質的 事実 性 を もって、 実際の 宗教の 代わりに 置き換えようと いうので もない。 手法 はちが うけれ ども、 恰も 力 

ント がその 『宗教 論』 で、 謂う ところの こと を もって、 実際の 宗教に 代換 しょうと する もので な、, とした 考え を、 

われわれ は 想起す る 11 。 

このような 観点から いうと、 右の ことから も 直ちに 了解 出来る ように、 宗教の 根本的 事実 は 各自の 現実の 当処 

について 見 きわめられなければ ならない。 実際に 行なわれる 宗教 生活に おいて は、 当事者の 目 は 神仏 その他の 対 

象に むけられて いるであろう。 しかし、 本質的な 究明 は、 宗教 を 行なって いる 当の 各自の 現実の 場面に ついて、 

その 底が きわめられなければ ならない。 即ち、 主体が どのように 現実に 存在して いる ことが、 宗教に おいて 存在 

している 所以の 根源 的な 在り方で あるかと いう ことと、 更に、 究極 的に は 何にも とづいて、 主体 は 宗教に おいて 

存在して いるよう な 在り方に おいて 在る ので あるかと いう ことが、 根源 的な 仕方で きかれなければ ならない。 

恰も、 この こと を 宗教 的な 無の 問題 は 答えて くれる と 思われる。 もっとも、 宗教 的な 無と いえば、 宗教の 経験 

から ポジティブな 要素 を 解き放して 行 つ た 極 相になる わけで、 それ は 相手と して 立てて 鬼 や 角と いう こと は 出来 

ぬ 性質の ものであろう。 とくに 仏教の 諸 観点 や 否定 神学で もい うとお りで あり、 また 近 かくは オット— など も 的 

示した とおりで ある。 そこで、 ここで はや はり 無の 論議 を迎 つてみ る ことになる 外 はない が、 われわれ として は 

別の 場合の 必要 も あ つ て、 ここで はこの ような 問題 性に 恰好な 手がかりと いうか 或いは 解答 をな している 仏教、 

ことに 中 観 系の 観点 を迎 つてみ たいと 思う。 従って、 そこに も 或る 既成 性 成立 生が あるが、 ここで は、 それら を 



解き 去り 差し引き にし、 カツ コに 入れて 考えて おきたい。 もちろん、 それぞれの 成立 的な 宗教の ポジティブ なす 

がた が、 こうで なければ ならぬ というの ではない。 これらの 点 はすで に 叙べ たと おりで、 ボジ ティブな ものの 底 

の 場面の 在り方 を、 以下のような 論議に 寄せて 迎 ろうとす る ものである, 

さて 仏教 は教 といわれる。 その 教とは 常に 相手 を 予想し 前提しての 教えであって、 宗教の 醍醐 を 伝えよう とす 

ると いうの が 根本の 建て前で ある。 従って 伝え 方に も 色々 ある わけで あるが、 総 じて 解脱と いい 涅槃と ぃレ 脱 

苦 与 楽な ど ともいう。 また その 彼岸に 至る 道と して、 六 度な どと いわれる こと も 知られる とおりで ある。 即ち 繋 

縛 を はなれ 苦界 を 超える ので あるが、 空 観 は 観 法と して は、 その 一 つの 方法で あり、 広く は 行 法の 一 つで も ある。 

けれども 総 じて 仏教が 脱 苦の 教え 涅槃の 教えで あると いわれる その 根本 観点、 根本 地盤に、 空と おさえ 或いは 無 

とい,, つれる 固き の 存在 領或 11 といっても、 下に 叙べ るよう に、 それ は 現実の 当の 場面 を 離れて 別に ある わけで 

はない 1. をみ ている ので ある。 それで、 以下に は 仏教の プラク シスの 一 つと しての 空 観 をで はなく、 空の 観点 

がよ ると ころの 場面 を 解釈 的に 究明して、 宗教に おける 無の こと を 明らかにしたい。 

六 

われわれの 現実 を 歴史 や 環境に ついて みる こと も 出来る し、 身 口 六 作に ついて みる こと も 出来る。 しかしと く 

に 各自 現前の 心の 場面に ついて これ をみ ると いう ことが、 今の 場合と くに 大事な 観点で ある。 もちろん それ はも 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 七 i 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 七 六 

のが 井戸の 中に あるよう な 謂いでも なければ、 壺 中に 外の ものが うつって いるよう な 謂いでも ない。 人間 存在の 

主体的な 端的の 領域 は 自覚の 場面に あると いわれる が、 かかる 観点から いうと、 各自が 現実に 存在して いると い 

うこと は、 各自が 何 かへ とか かわって、 現に 如何よう にかの 心の 有様に おいて 存在して いる ことで ある。 

このような 心の 有様の 現に 存在す る 所在 は、 そのもの としての 心の中に 在る ので はなく、 そこ を 超えて、 何 か 

へと かかわって 在って いるので ある。 このような 在り方、 在り 処 において、 各自 現前の 心の ゆきわたれる かぎり 

の 範囲が、 端的に いって 各自の 現実の 領域で ある。 そして、 この 観点から いうと、 ものが 現実に 存在して いると 

いう、 その 所在 も 実に この 領域に 外なら ない。 あの 見聞 覚 知の 相手なる もの も あるで はあろう。 しかし、 ものが 

現実に 存在す る 場面 即ち 各自の 心の ゆきわたれる 範囲なる 右の 場面に おいて は、 各自の 心の かかわり において あ 

り、 如何なる もの も、 如何よう にかに、 各自に とって 在って いるので ある。 このように、 ものが 各自に とって 存 

在して いる 場面、 また 各自の 心が ゆきわたり、 それへ とか かわって 存在して いる 場面 を、 かりに 第三の 領域と し 

よう。 相手 どられ る 相手の もの そのもの (と 実は 立てられ 考えられ ている ところ) の 領域 を 第一と し、 自己なる 

もの (と 立てられ 考えられ ている ところ) の 領域 を 第二の 領域と しょう。 現実に ものが 存在して いると いう、 そ 

の 存在の 領域 は 実に この 第三の 領域であって、 もの そのもの 自己 そのものの 領域た る 第 一 第二の 領域の 中に 存在 

している ので はない。 

この 第三の 領域の 在り方 を さぐる ことによって、 現実の 構造 を 明らかにし 得る し、 その 真相のと おりに 身を処 

する ことに 涅槃 や 脱 苦の いわれ も存 する ことが 明らかになる。 



このような 現実の 場面と は、 在り 来り 在り 行く 径路の 一齣で あると も 考えられよう。 この場合 は 変化に ぉレ 

て 存在す る 主体の、 過去から 将来へ 趣く 間の 一齣と 考えられる。 或いは また 現実と は、 そのような 素朴 的な 謂い 

において 存在して いるので はない。 過去と は 現実が 既に 在って しまった もの、 将来と はやが て 現実で 在り 得る も 

のとい うように 考えられる かも 知れない が、 一体 どこから が 過去で、 どこから が 将来な のか。 過去と 将来と を 決 

定す るの は 現在で はない か。 現在から、 過去と いい 将来と いう ことが 出来る ので はない か。 その 現在と は 結局 人 

間 各自が 立つ ところの 今の 現前のと ころで はない か。 従って、 現実の 所在 や 場面と は、 現に 各自が 存在して いる 

ところの 当のと ころに 外なら ない。 しかも、 そこの 在り方と して は、 過去 的な もの や 将来 的な ものが、 主体の 現 

に 存在して いる この 当のと ころに 折り返し、 折りた たまれて 在って いるので あると みられる— 知られる ように、 

仏教で は 時間に それ 自身の 体 を 認めない。 ものの 在り方な いし はたらき (はたらきの 在り方) に 寄せて 時 をい う 

ので ある。 一番 寿な どと いわれる 有 部 等の 實方 I るが、 唯識 やその 系統から、 さら i の 籠した 大乗に 

いたる まで、 三世 を 現在の 一念に 摂 して 考えて いる。 もちろん そこに は 計 を 破 するとい う 謂いで いう 場合 も ある 

が、 時の 積極的な 在り方と しても 主張せられ ている — 

それ 故、 かかる 観点から いうと、 次に ふれる ように、 現実の 当の 場面 は、 常に 在り 得る という 在り方に おいて 

在って いる、 或いは、 とくに 在り 得る (外 はない) ように 在り 来たって いると みられる。 それ も、 あれ や これ や 

の 事柄が、 現に 在り 得る ように 在って いると いう だけで はない。 まさしく その 構造 上、 われわれの 現実の 場面 は 

在り 得る という 在り方に おいて 現に 在って いると みられる ので ある。 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 七 七 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 七 八 

そこで、 あれ やそれ やの ことに ついては、 それでも 在り 得、 それでな くも 在り 得る。 病気で も 在り 得る し、 病 

気で なく も 在り 得よう。 しかし、 その 在り 得る という 在り方に おいて 在って いる 現実の 領域が、 その 構造 上 どこ 

まで も不 きまりで、 そこ を 自在に 選択し 勝手にす る ことが 出来ぬ ように 在って いると も みられる。 また、 究極 的 

に、 それで 在り 得る の 外 はない ように 現に 在って いると いう 構造 をみ る こと も 出来る。 死の 在り 得る ように 現に 

存在して いる 外に、 死の 在り 得る ように 存在して いない 在り方 を、 各自 は 現にして はいない。 愛しき 者と 別 かれ 

る ことの 在り 得る という 在り方に おいて、 現に 存在して いる 外 はない とも みられる であろう。 或いは また 前の 場 

合の ような 見地 をと つて、 死ぬ ように 成って 行く、 愛しき 者と 別 かれる ように 成って 行く 外 はない ように、 成り 

来た つ ている と 考える こと も 出来よう。 

四苦八苦 などと 仏教で はい われて いる。 四諦ゃ 十二 因縁の 考え方と 連関す るが、 それらに も 種々 の 解釈が ある。 

十二 因縁に ついても、 三世に わたる 解釈が あるが、 しかし、 縁起 は 本来、 現前の 現実の 場面の 在り方で あつたと 

いわれて いる。 かつ、 学派の 展開し 解釈の 進む につれ て、 現前 一念の 当処に 縁起の 在り方 をみ る 考え方 も 出て 来 

ている。 すると、 現前 一念の 当処 において、 縁起の 諸 支 は どのような 在り方に おいて 在る のか。 ことに 老死な ど 

は 如何 か。 現在 死んで はいない ではない かとい うこと にもな ろう。 事柄と して 考える かぎり、 将来の 時期、 将来 

の 時に 起こる ことと 考える 外 はない というよう になって 来る のであろう。 しかし、 従来、 未来 世に 措かれた 諸 支 

も、 在り 得る という 在り方に おいてみ ると き、 現在の 当処 において、 その 所在 を 得る ことにな ろうと 思われる。 

さきに あげた 「時」 の 解釈の 問題と も 関係して、 当然 そのよう に 考えられて 来る ように 思われる 11 なお 宇井 博 



士は、 原始 仏教で は 十二 縁 I 生存の 在り方 を 示す と V つ 卓説 を 主張 せられた。 しかし、 老死 等の 問題 は、 未来 

的な ことと し K 現在の 生存の 在り方 ほない という 矛盾 を 指摘して、 霞 雲の 11 屈^わぬ こと を 叙 

ベら れて いるが、 上の ような 解釈に 際して 参考になる II 。 

いずれにしても、 各自 現前の 境界 は、 逼迫に おいて 在って おり、 思いのまま にならぬ ように 在って いる。 とこ 

ろで、 震の そのような 構造 を 破 却して、 逼望 迫の 拠って 存在す ると ころの 構造 上の 根底 を 断つ ことが 出来る 

かとい うと、 それ は 出来ない。 身 を^に でもし なければ 出来ない。 

けれども、 このように 逐ぃ 迫られた 苦の 境界 を 超える こと は 出来ない であろう か。 右の ような 構造 を 破 却す る 

こと は 出来ない が、 さらに そこに 別な 問題領域が あるので はなかろう か。 ままに ならな さ 足りな さに おいて 存在 

している 現実の 場面で、 ままに しょうと 欲い、 足りる ように 在りたい と 願う ところに 問題が あるので はなかろう 

か 

讓の 場合に、 ままに しょう、 足りる ように 在りたい というと ころに は、 目星が あり 相手が ある。 あれ それ 自 

他 を 相 待し 対立に 立てて、 そうして、 一 を 願い 他 を 拒まん として、 そこに 欲い 願い を かける ので ある。 各自の 現 

実の 雷と は、 まさしく この 欲い 願いの ゆきわたつ ている 領域で あるが、 そこ は、 本当 は、 上の ような 構造の 場 

面で ある。 ところが、 その 場面に おいて 在りながら、 今や 書の 問題と なる 領域が、 このような 欲い 願いの 雷 

において 現われて 来る。 

欲い 願いの 場面に おいて は、 欲い 手 願い 手と 欲い 願われる 相手と が、 待 対に おかれ、 しかも、 その 相手が また 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 七 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二八 ◦ 

あれ それと 待 対に おかれて いる。 それ 故、 主体が あれ を 願い それ を 拒む ように 在って いるので ある。 しかも、 総 

じて ままに ならな さの 支配し、 自在で は 在り 切れぬ 右の ような 構造 場面に おいて 存在して いるので あるから、 思 

いの ままに ならぬ 逼悩 逼迫に 逐 われる ので はないで あろう か。 II 縁起の 諸 支 を あてて いうなら、 有に おいて 現 

に 存在せ る 各自が、 愛に おいて 在り 取に おいて 在って いる。 何処で かとい うと、 現実の 場面 即ち さきに あげたよ 

うな、 在り 得る という 領域に おいてで ある。 老死の 在り 得る という 在り方の 当処 において 老 なる もの を 疎んじ 死 

なる もの を 願わず、 老 ならぬ もの 死ならぬ もの を 立てて、 これに 愛着して 取 着の ふるまい をな すと いう 有様で あ 

ろう —— 

こうなる と 常に 其処に おいて 現実の 営まれる ところの、 その 其処の 構造 を どうしょうと ハ うので まなく 

また、 どうしょう もない が — 、 その 場面に おける 主体と 相手との かかわり 方 かかわり 振りの 場面に、 問題の 領 

域が 遷 つて 来る。 制限 せられた 可能性の 領域に 住んで おり、 従って 不 きまりな 領域に 所在して、 一 が 願わしく 他 

が 疎ましい。 しかし、 構造 上、 決定的に そのよう にす る わけに は ゆかない。 

ここに 苦の 因由が ある わけで あるが、 一 体、 願われ 或いは 疎まれる 一 とか 他と か は 何な のか。 死と そうでない 

ものと は 何な のか。 それ は 願われ 疎まれる 行く手に 此方で 立てた 目当て 目印の 数々 ではない のか。 おそれられ 又 

ねがわれて いるの は、 事実の 死 不死の つもりで いる けれども、 相手 どって いる 当の もの は、 実は 分別して 待 対に 

立てて、 此方から あれ それと 仕切って 振舞い、 愛着 取 着 を 寄せて いるので はないで あろう か。 すると、 ここに 喰 

い 違いが ある。 そして、 ここに 最も 躬近 かな 問題領域が 出、 如何に 処す るかと いう 宗教 的な 処置の 問題 も 出て 来 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二八 二 

である。 しかも、 ものが このように 存在す る 所在と は、 最勝義 において 各自の 現実に 存在して いる 場面 即ち 各自 

の V の ゆきわたれる、 各自な りの 全体としての まとまり において 在 つ ている 場面で ある —— 各自ない し 各自の、 じ 

なる もの もまた そのもの として 存在す るので はない。 存在す るかぎ り、 相手へ とか かわって いるので、 まさしく 

その 存在の 所在 はこの 場面で ある,^。 

従って、 そこにお いて、 もの は そのもの として 在る ので はなく、 在る かぎり は 縁起の 在り方に おいて ある、 即 

ち 縁り 由って 在って いる。 そして、 そこにお いて、 ものが そのもの として 在る のでない というの は、 品物 や 事物 

の それ 自体の 有無 をい うので はない。 右の ような 現実の 場面に おいて、 それと 立てられ 分別せられ たもの、 換言 

すれば、 あれ それと いって、 あれで ない もの、 それでない ものとの 区別 や 仕切りに おかれて いると ころの 分別の 

仮 立に よる ものと いう 謂いで ある。 そこで、 ものの 在り方 は、 そのもの として 在る ので はなく 縁り 由って 在る、 

勝義 について いえば、 各自に とってと いう 縁り 由り 方に おいて 在って いる。 か 4i:^4iJXJ.i,,i,,^ ? で 在って い 

る。 この 当の 存在 場面が 第三の 領域で あると いうので ある。 —— われわれ は 天台の 観点から 叙述 をす すめて ゆ こ 

うとす る ものであるが、 時に 実相 論 は 縁起の 考えに 疎で あるな どと もい われる が、 それ は 誤りで、 いわゆる 妙法 

勝義の 縁起 をみ ている。 性 具な どと いうの がそれ で、 その 縁起の 最 勝の 要処が 実に ここに あると みている ので あ 

る 11 

有名な 竜樹の 『中 論』 観 四 諦品第 十八 偈は、 羅什 訳に よると、 衆 因縁 生 法、 我 説即是 無、 亦為是 仮名、 亦是中 

道義と せられ、 三論 や 天台で は、 因縁 所 生 法、 我 説即是 空、 亦為是 仮名、 亦是中 道義と いわれて いる。 なお 梵本 



では、 この 法に 当たる 字 はない ので、 本意 は 縁起なる もの、 謹と いう こと、 等の 藻で ある。 総 じて 前後の 用 

例 や 論議の 謦 から 考えて、 羅什 訳に 法と あると ころ はブマ ヴァ 即ち ものの 謂いで ある、 勘な くもそう 受けと 

つて 養えない という 研究が なされて い (s.)。 もっとも 次の 第 十九 偈に は、、 タルマと いう 字が 二度 出て 来る。 未曾有 

一法、 不 従因 縁生、 是故 一切 法、 無不龜 者と 訳されて いる。 凡そ 如何なる 法 も 縁起に おいて 成立せ ざる はない、 

縁起に おいて 成立せ る 故に 空で あるとの 謂いで ある。 その 法が 如何なる 法 を 指す か は 明らかで ない。 対 破の 論点 

からみて 七十 五 法で も あるであろう。 なお 竜 樹が法 空の 主張 をして いるの はこ こに はか ぎらない。 知られる とお 

りで ある。 このような わけで、 いずれにしても、 ブハ 1 ヴァ でも ダル マで も、 もので も 法で も、 それら は 縁起に 

おいて 成立して いる。 そして 縁起に おいて 成立して いるもの は 空で あると いうの が、 震の 根本 観点で あると み 

CS) 

られ る。 

後に 叙べ るよう な 事情で、 勝義の 縁起の 観点から いえば、 もので あろうと 法で あろうと、 凡そ 「それ」 或レは 

「そのもの」 として 問題に せられる もの は 空で ある— ものが それにお いて 存在す ると ころの 法 もまた、 法 その 

もの、 法なる ものと して は、 ものと 同様な 位 S おいて 空で ある—。 従って I 的 霞の 我議 有と か 名 仮 法 

需 どの 立場に 対して は、 いずれも 籠と 断 じられ る。 何故かと いえば、 謹の 故にと 答えられる。 もっとも、 

法 空と いう I は いわゆる 小乗 部 派に もないで はなかった であろうが、 解釈の 径路 や 理由が ちがう。 なお、 ここ 

で 法と いうの は 七十 五 法 等の 謂いであろう が、 もちろん、 右の 観点から 一般的に いえば、 それらに はか ぎらない 

まさに 因縁 縁起の 法と いえ ども、 そのもの として 相手 どれば、 これ また 空で ある。 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二八 三 



たずね、 空の 極意 をたず ねれば よいので、 この 勝れた 類別に 沿ってお こう。 いわゆる 生滅、 無 生、 無量 無 作の 

四で あるが、 しかし、 法に 対する 根本的な 観点の 相違 は析法 観と 体 法 観と に存 する。 

約して いえば、 析法 観と は、 法の 体系 を 客体 的に 扱う もので あり、 体 法 観と はい わば そのよう に 扱う 扱い 手た 

る 自己 を も 法の 領域のう ちに 併 わせ 入れて 観て いるもの である。 とくに 後者 は その 縁起 観に ついて みるの が 基本 

勺で あると 思われる。 即ち、 もの は そのもの として 在る ので はない。 在る かぎりに おいて 縁起、 性 具の 在り方に 

おいて ある。 どこまでも 縁り 由って 在る という 在り方に おいて ある ,1 縁起の 本義 は 縁り 由って 在る という こと 

である。 縁り 由って 在る 存在の 場面 は、 十二支の 仕組みに よって 見られる ように、 各自の 心の 開 敷し、 各自の 心 

の ゆきわたれる 領域で ある。 事実 的に は、 何 かへ とか かわって 在って おり、 相手の ものが 各自に とって 在って い 

る、 その 当の 場面で ある。 心と は 勿論 端的に 各自 直爾の 心で、 別に 心性、 真心と いうので はない — 。 だから、 

凡そ ものが 在る と は、 さきに も 叙べ たように、 主体た る 各自に とって どのよう にかに 在る という ことで ある。 ど 

のよう な 内実に おける 存在の 仕ぶ り をして いても よいが、 その 根底に おいて、 主体に とって 在る という 構造 的な 

在り方に おいて 在る ので ある。 

しかも、 そのよう に、 ものが 主体に とって 在り、 主体との かかわり において 在る という こと は、 縁り 由って 在 

ると いう 因縁、 縁起の 在り方、 在りよう における 重要な 在り方で あり、 根本的な 在り方で ある。 何故なら、 主体 

にと つて 在る という ことが、 縁り 由っての 縁起に おいて あると いう ことのう ちから 見落とされ 除外され るなら、 

ヒ こい 如何に 縁り 由って 在る といわれても、 それ は 因縁 縁起の 在り方 を 尽くさない。 そこで はものの 在り方と さ 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二八 五 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二八 六 

体との 間が 個々 に 離れて おり、 従って 縁り 由って 在って いるので はなく、 相 待し 対立して 立てられ ている わけで 

あるから である。 即ち 主体に とって 在る という 在り方 は、 ものの 因縁 縁起に おいて 存在して いる 捧義 である 

もっとも この場合、 ものが 主体に とって 在る という、 その 主体なる もの も 勿論 そのもの として 存在す るので はな 

レ する 力き りに おいて 主体 もまた、 そのもの として は 在る こと 無き 在り方に おいて ある。 即ち 相手の ものの ま 

つてい る 場面に 繰り出して、 その 存在の 場面に おいて 縁り 由って 在る かぎり を、 主体の 本質た る 心の 在りの まま 

の 在り方と し 在り 処 とする ので ある —— 。 

このように、 主体に とっての というと ころ、 心の ゆきわたっての というと ころ、 において ものの 在り方 を 昆、 

そこに 勝義の 縁起 或いは 性 具の 在り方と 所在と をみ ると いう ことが、 体 法 観と くに 体 法 無 作と いわれる 要処 であ 

ると 考えられる。 かかる 観点から みると、 法 を 客体 的に 扱う 立場 はどうであろう か。 七十 五 法で もよ い、 因縁の 

法で もよ い。 ただ今 は 叙述の 連関に したがって 後者 をと ろう。 智顗も 四 種の 因縁 観 を あげてい る。 存在す る もの 

の 在りの ままの 在り方 や 所在 を 示す 因縁の 法と いえ ども、 それが 客体 的な 体系と して 扱われる かぎり、 実は その 

ものと して みられて いるので、 まさしく その 因縁の 法 は 勝義の 因縁の 法の 在り方、 在り 処 において みられて はい 

ない ので ある。 客体 的な 体系と して 扱われる 因縁の 法なら、 そのもの として 立てられて いるに 違わず、 全く、 そ 

の ものと して 立てられ たものと 同じに 吟味 せられる。 即ち 実は そのような 因縁の 法の 体系 は、 主体に とって どの 

ように かに 受け とられ、 解釈せられ ている ので ある。 まさしく 客体 的な 因縁の 法が 主体に とって 在る という、 そ 

の 当の 場面に、 勝義の 因縁の 法の 場面が ある。 客体 的に 扱われる 因縁の 法の 体系の もとに、 因縁の 法の 群: P が あ 



この;; うに、 もの は そのもの として 在る ので はなく、 法に おいて 在る とみて、 ものの 存在 を 法の 体系へまで 見 

とど ナる 観? 0、 さらに、 もの そのもの はもと よりの こと、 そのような 法の 体系 もまた 現に これ を 相手 どって い 

る 当の 主体に とってと いう 場面に おいて、 どのよう にかに 在って いるので はない かとい うように、 そこに 問題の 

要処 をみ る 観点との 相違が ある。 これが 析法体 法 二 観の 囊の 根本的な 相違で あると 考えられる。 後の 観点て は 

法の 体系と くに 縁起の 法の 体系 を も、 そのもの として 客に おかない。 これに 対し これに 零る 主体と 縁り 由って 

在って いると ころの 当処 に、 まさしく 因縁 縁起の I の 所在 をみ るので ある。 体 法と くに 天台な どで いう 無 作ね 

法の 観点 はこ こに 立つ。 

従って、 もの や 法の 所在 や 在り方 を 明らかにす るのに、 もの や 法の 成り立ち 成り ゆきのと ころへ 往 f てず 

をみ る ものと、 もの や 法 (の 体系) の 現に 在って いる 場面、 即ち 現に 各自に 受け とられ、 かかわられ ている 当の 

場面に おいて、 それらの 在りよう をみ る ものとの 相違が ある わけで ある。 一は、 もの は そのもの として 在る ので 

はなく、 在る の は 実なる 法の 体系で あると して 我義 有な どと いい、 他 は、 主体的な 端的の 雷に おいて、 もの 

そのもの はもと よりの こと、 法の 体系 もまた そのもの として 在る ので はない とみて、 塞 塞と いうので ある。 

この こと は、 たしかに 大きな 観点の 相違で あり、 問題の 領域が 転回して 来て いると みられる。 



二八 七 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二八, = - 

九 

もので も 法で も、 凡そ それらが 問題になる という こと は、 それらが 如何よう にかに 在って いると いう 謂いで あ 

り、 それらが 在る かぎり は、 それらの 如実の 所在 は、 勝義の 縁起の 場面 即ち 上に あげた 第三の 領域で あると いう 

ことが 明らかになった。 ところで、 ものな り 法な り、 凡そ 存在す る ものの 如実の 所在が、 この 当処 にある という 

こと は、 換言すれば、 在る ものが そのもの として 在る ので はない という こと は、 実は 在る ものの 在りの ままの 在 

りょう 即ち 存在の 当 相が、 つきとめ 得ない 取りと め 得ない という 在りよう 在り方に おいて あると いう ことで ある- 

次に はそう いう ことが 問題になる。 

けだし、 もので も 法で も、 それらが 取り とめられる かぎりに おいて は、 そのもの として、 それと 立てられて、 

それでない ものとの 仕切りと 区別と に 措かれる ことになる。 即ち それら は 相 待 的 規定の もとに とらえられる 外 は 

ない。 しかし、 ものの 如実の 在り方 は 縁起に おいて 在り、 どこまでも 縁り 由って 在って いる。 縁り 由って 在って 

いると いう こと は、 あれ それの 仕切り や 待 対に おいて 在る ことで はない。 かりに 第一 第二の 領域と いった もの そ 

の もの、 心 そのものの 領域 —— という こと は 悟性 や 分別の 始終し 事と する 領域 11 に 所在して いるもの ならば、 

それと つきとめ、 それと 取りと める こと も 出来る であろう。 しかし 見て 来たよう に、 縁起の 領域 即ち 第三の 領域 

は、 それらの 領域 を 超えて いる。 それら 第一 第二の 領域に 取り込み 内在 化する ことが 出来ない かぎり は、 取りと 



め 得ない。 そして、 これらの 領域に 取り こまれる かぎりに おいて は、 如上の 勝 義は 失われる ので ある。 このよう 

に、 在る ものの 所在 や 在り方が、 第三の 領域 即ち 勝義の 縁起の 場面に おいて 在って いて、 取りと め 得ない と 道破 

して、 「幻 化」 のよう な 在りよう、 構造に おいて あると みるの が、 体 法 観の 実に 勝れた 観点で あり、 空 観の、 最 

も 端的に 引きよ せた、 究竟の 観点で ある。 

それ 故、 もの は 各自に とって 在って おり、 各自 は 相手へ とか かわって 在って いると いうの も、 実は 一応の 表示 

で、 実に は 各自 も 相手 も、 心 ももの も、 そのもの として 在って いるので はない— という こと は 決して 唯名論 や 

普通の 藻の 無 宇宙論 を 唱えて いるので はない。 主体的 |験批 判の 観点で あり 存在論 的な 観点で ある—。 在 

つてい るかぎ り は、 そのもの として 立てられる 心なる もの、 ものなる もの、 の 11 えた 現実の 当処 において、 

縁り 由って 在って いる。 従って、 ものが 在る と は 実に そのもの として 在る ことなき、 その 無 さに おいて 在って い 

るので ある。 かつ、 ものの 讓の 在り方が、 そのもの として 在る のでないならば、 そのもの としてで なければ 捉 

える ことの 出来ぬ II あれと いえば あれで ない ものと 仕切る ことになる。 仕切られる こと は 第一 第二の 領域の 中 

へと 内在的に 措き かえられる ことになる, I 分別 や 思議に よって は、 その 在って いるま まの 在り方 はう かがえ な 

い。 不可 得 不可思議 といわれ、 空と いわれる 所以で ある。 そして、 このように、 そのもの として 在って いるので 

はない という ことと、 思議 分別に よって はう かがえない という ことと は、 全く 相応 じ 奪した ことに 外なら ない" 

在る ものが 在りの ままに 在って いる 所在が このように 明らかになり、 そこにお いて 在る ものの 在り方が、 空と 

いわれる 所以 も 稍々 明らかになった。 空と は、 もの そのものの 中に 入って、 そのものの 有り 無し をい うので はな 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて ーズ 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 九 〇 

い。 ものが 無い とか 有る とかと いうと き、 それら いずれも 如何よう にかに 在って いるので ある。 その 現に 在って 

いる 当の 場面に おける 在りぶ り 有り様 をい うので ある。 そこで 今 この 場面の 在り方 を迎 つ て ゆこう。 

法と はものが 在る ように 在る 或いは 在る ようにして 在る という 謂いで ある。 在る ものが 在る という、 その 在り 

の 当処は 法に おいて 在る。 法に おいて、 在る ものが 在る ように 在り、 在りの ままに 在る —— 法爾 本来のと ころに 

ついていえば、 在る ものが 在りの まま にないと いう こと はあり 得ない —— 。 法の 根本 は 縁起に あるが、 天台な ど 

では 性 具 ともいう。 性 具と いうの も 具体的な 現実の 当処 における 縁起の 当 相に 外なら ない。 主体的な 観点から い 

えば、 法の 所在 は 第三の 領域で あり、 そこが ものの (法に おいて) 存在す る 全 場面で あり、 また 法が 法と して 存 

在す る 全 場面で ある。 そこ を 法界と いう。 従って 法界と はもち ろん 固定 的に 在る ので はない。 

ものごと 凡てが 問題になる の は、 それが 如何よう にかに 在る 場合で あるが、 その 在る かぎりに おいて、 常に そ 

の ものの もと を 超えての ところに 在る のであって、 それ は、 このように 法界に おいて 在り、 その外に 在る ので は 

ない。 存在の 当の 場面 即ち 法界と は、 細工 や 工夫で こしらえられ るので はない —— それぞれの 法界ぶ りの 内実 は 

それぞれの 為人、 人柄に 応じる であろうが —— 。 作の 所 成に 非ず、 見聞 覚知を 超えた 場面で あり、 しかも 色香 見 

聞 等、 所 縁 念 も 能 縁 念 も、 現実に それらが 在る かぎりに おいて は、 常に ここが それらの 在り 処 である。 

ここの 在り方が 「妙」 などと もい われる。 ここ は 絶 待の 在り方に おいて ある。 妙と は 絶 言 絶 思、 不可思議の 在 

り 方 をい うのであって、 強いて それ を 絶 待と いいあらわす という。 この 絶 待と は 相 待に 対しての 絶 待で はない。 

相 待に 対する 絶 待と いうよう な 相 待 的な 規定の 絶せられ た、 いわゆる 待絶俱 絶の 在り方 をい う。 しかし、 ここに 



は 未だ 能 絶と 所 絶と が あるか もしれ ない。 そこ を も 絶した 能所俱 絶と いう 意味で 妙 を 絶 待と よぶので ある。 けだ 

し、 去界 の当処 において 在る ものの 在り方 即ち 法の 在り方 は、 如何なる 意味に おいても そのもの として 在る ので 

は, よ、,。 そのもの として 在る ことなき 在り方 を、 常に 我 他 彼此と 相 待 的に 規定し、 従っても の そのもの を 立てる 

ことになる ところの 思議に よる 規定 を 超えた、 或いは 思議の 裡 なる 規定 を 超えた、 思議 情 謂の 絶に おいて、 示 そ 

うとす る ので ある。 

このような 不可思議 絶 待の 在り方と は、 相 待なる もの を 超えて おり、 待 絶 能 所の 俱絶 において 在る ので あるが、 

しかも、 そのような 在り方 は 11 概念の 上から い つ て も 明らかな ように —— 相 待なる ものの 外にお いて 或いは 相 

待なる もの を 無くす る ことによって、 はじめて 在る ので はない。 相 待なる ものが 在るならば、 在る という その 当 

のと ころに おいて、 それ を 隔てる ことなき、 そして それ を 併せ 摂 しての、 妙で あり 絶 待で ある 箸で ある。 そうで 

ょナ れょ俱 絶の 妙が やはり 相 待 的に —— 従つ て そのもの として —— 立てられる ことになるの であ つ て、 妙の 妙た 

る 所以で はない。 このような 在り方 を俱 妙な どと いう。 宗教 的な 極意 をい う 観点であろう。 

1 〇 

在る ものの 在りの ままの —— 在る という 当のと ころに おいて 在りの まま にないと いう こと はない — 在り方が 

待絶俱 妙で ある。 如何なる ものが 如何よう に 在る ので あっても、 その 在りの 当処 において 妙な ので あり、 不思議 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 九 一 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 九 二 

なので ある。 空と は 在る ものの 在り方で あり、 在りの ままの 在り方であった。 すると 空と いう 在り方が このよう 

な 絶 待の 在り方で ある ことになる わけで あるが、 それ は 如何いう 謂いであろう か。 

在る ものが 在る という、 その 存在の 場面 は 各自の 現実の 当処 であり、 それ は 法の 領域で あり 法界で ある。 そこ 

は 縁起の 勝義 において、 縁り 由って 在って いる。 どこまでも 縁り 由って 在る という こと は、 そのものが そのもの 

として 在る という こと を 超えて いる。 そこの 在り方が 空な ので あるが、 ことに、 そこ を 捉える という 問題 性に お 

いて はどう 答えられ るか 11 実は 在り方の 空に すでに その 意が 出て いるので あるが —— 。 

所設、 捉える という ことになると、 斯々 であると いう 外 はなく、 従って 斯々 というよ うに、 それと 取りと める 

外 はない。 従って、 このように 捉えられ たもの は、 そのもの としての 領域に 属する ので、 相手 か 此方 かの 領域の 

ものに おろして 来る ことになる。 第一 や 第二の 領域に 所属させる ことになる。 しかし、 ものの 存在の 当処は 第三 

の 領域であった。 この 領域 は 第一 や 第二の 領域と は 別な 層 位に おいて 在る のであって、 両者と はかけ はなれた 領 

域で ある。 よく 引かれる 譬えで あるが、 鐘の 響きが 鐘 や 撞木の 中に ないように、 或いは 鏡 中の 像が 映る 物 その も 

ので も 鏡面 そのもの でもない ような 具合で、 その他 いわゆる 十喩 などと いわれる とおりで ある。 鐘 や 撞木の 中 を 

さぐ つ て 鐘の ひびき を 捉える ことが 出来ない ように、 われわれが そこにお いての み 現実に 存在す ると ころの 現実 

の当処 即ち 第三の 領域に おいて 存在す る当処 は、 その 在りの すがた を 在りの ままに 捉えよう がない。 本来 本爾 に、 

ものの 存在の 当 相 は、 それと 捉えよう のない 構造に おいて 在る ので ある。 捉えれば、 そのもの となって、 縁起の 

当 相 を 逸する。 ここ は 相手の 中に も 此方の 心の中に も 取り込んで 来る ことが 出来ない。 二つの 領域 を 超えた 領域 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 九 H 

の当処 において 空 や 仮の 在り方が 別々 に 在る ので はなく、 また 空の 当 処に仮 や 中の 在り方が 没して いると ハ うわ 

けで はない。 ものの 存在の 在り方、 いいかえれば、 その 存在の 当の 場面た る 各自の 現実の 在りの ままの 在り方が、 

そのままに 中に おいて 在り、 空に おいて 在り、 仮にお いて 在る。 この 当処 がそれ と 取り とめられる 一切の 相 待 的 

存在者の 領域 を 超えて いる。 その 当の 在り方が、 空で あり、 しかも 無い ので はなく 宛らに 在り、 在りの ままに 在 

るの が 仮で あり 中の 在り方で ある。 

従つ て 空と い つ て も、 空と いい 切る ので はない。 如実の 在り方 は、 空で ない ので はない が、 同時に 仮で あり 中 

である。 それ 故、 空と いっても 仮 を 具え 中 を 具えて いると いう 謂いで ある。 ここ を不但 空と か不但 中と かとい い、 

とくに 即空 とか 即仮、 即中 という。 いずれにしても 相 待 を 超えた 絶 待の、 という こと は 相 待を摂 じた 絶 待の、 在 

りょう を、 意に こめて い つ ている ものである。 



このような わけで、 空と いっても、 それ は 決して 空なる もの 無なる ものと いうよう な 存在者で はなく、 またも 

の を 産み出す 形而上学 的 源泉で もない。 ものの 存在の 根源 的な 在り方 をい うので ある。 それ 故 単に 論理的な 否定 

の 契機と いうよう な 謂いでも ない。 空 じる、 無み するとい うこと をい うが、 その 実践 力 を 空が 所持して いると い 

う いで もないで あろう。 ただ、 如実 如法に 各自が 処 するとい うこと は 空の ように 自ら 処 する、 空に 契って 自己 



なる もの を 空 じる 無み するとい うこと になる のであろう。 II このように、 空 じる とか 無み するとい うこと も 

ただ 心理学的 内在的に そのような 心地 や 心 もちになる とか 居る という ことで はない。 在りの ままと か 空と いう こ 

とに 自己 を 相応させる ので ある。 このような、 心理学的な もの を 超えた、 いわば 主体的な 存在論の 支えが ここに 

は ある。 この こと は、 宗教 論の 観点と して、 充分に 注意すべき ことであろう II 。 

即ち われわれが 現実に 存在 するとい うこと は、 まさしく その 現実に 存在す る 場面 を この 絶 待の 領域 にもつので 

あり、 そのもの としての 存在者 を 超えた 領域に おいても つので ある。 そのもの として 存在す ると 考え かつ 処 して 

いると ころの 自己なる もの を超 えた、 そのものと しての 自己なる ものの 「空」 なる 構造に おいて ある 在り方に お 

、て、 われわれの 現実の 当処は 在って いる。 そして、 そのもの としての 自己なる ものの 空と 無と において 在る と 

ころの 当処 は、 自己なる ものの 主観性 —— 即ち 悟性 的 分別 的 主体の 心ば え、 心の 在りぶ り II であると ころの 主 

我 的 悟性 的な 分別 や 情 謂で は 立ち至られぬ 不可思議 不可 得な 在り方に おいて ある。 

このように、 そのもの として 存在して いるよう に 考えて いると ころの 自己なる ものが、 現実に 存在す ると ころ 

の、 その 現実の 存在の 当処 は、 自己なる もの を 超え、 自己なる ものの もとにお ける 主観性 1 分別 的 悟性 的 主体 

の 主観^ 1 では 捉える ことが 出来ない。 それで、 存在す る ものの 存在の 当処 とくに 自己なる ものが 在りの まま 

に 存在して いると ころの 在り方の とおりに、 自己 をお き 自己 を諦ら かにしょう とすると、 自己 は 自己なる もの 

—— 自己なる もの 相手なる もの を 立てる 分別 的 主体 —に 止ま つてい る わけに は ゆかない。 自己なる もの を 超え 

た当処 へまで、 自己なる もの を 転じなければ ならない。 そうでない かぎり、 ものが 在りの ままに 在り、 自己が 在 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて ニ大五 



うこと であるが —という かぎり、 それ は 主体に とっての ところに おいて 存孝 るので ある。 そのような 存在の 

場面に おいて、 或る ものが 存在 するとい うこと は、 上の ような 絶 待の 在り方に おいて 存 孝る という ことで ある。 

そこ は、 そこが あらためて 自覚せられ る ことによって 初めて 形成せられ ると いうよう な 場面で はない。 主体の 存 

在に ついても また 同じで、 識 ると 識ら ざると にか かわらず、 存在す るかぎ りに おいて は、 やはり 右の 当処 におい 

て その 本来の 存在の 所在 を もつ ので ある— 恰も この こと はさきに あげた 待絶 俱 妙と V 在り方と 相応す る—。 

なお、 ここから 仏性 撃 を 中心として 色々 な 問題が 出て 来て いるが、 行の 建て前から みると、 迷いの 凡夫 をす て 

て!^ りの 仏に なり 変わって ゆく こと はない。 無明 即ち 妙、 迷いに おいて ある 凡夫 そのままの 在り方と くに 在りぶ 

りが 直ちに 仏の 性質に おいて 在る ので あるから、 戒律 も 修行 も 要らぬと いうよう な 考え も 出て 来る。 さらに はま 

た、 いわゆる 本 門久成 等の 考え も かかる 連関 を もとにして 出て 来る。 

rl) この 稿の 一 及び 五上 一までの もの は 「宗教の 無に ついて」 として 「文化」 一 ニノ 六 (昭和 一一 三年) の 金 倉 博士 震 

己 I こ 寄せた ものである。 もともと、 かなり 以前に r 実存 哲学の 無と 宗教 的 空 観」 として 草し (時期が はっきり しな レ 

-n:ip; にお さめた 昭和 一七 年の ものより 後、 終戦の 前 か 後に 書いた ものであろう)、 その 5, 昭, 和.;! f 八 口 年で 

九) 六.? 改 稿して 「哲学の 無と 宗教の 無」 として 或る 雑誌に 寄稿し、 校正刷 をみ た 覚えが ある 力 書肆の 者 合て U 雑 

従って 未 雲の ままに なって いたので、 § 「文化」 に は、 この 中から 「宗教の 無」 に関する 部分" 

i いて 出した ものである。 それで、 今回 は、 以前の 論文に あった 「哲学の 無」 の 部分 を そのまま 一丁 四の 八 号 ポイント 組 

^HH. 今回、 字句の 訂正の ほか、 多少の 書き入れ をし、 竜樹 の 中 I の 解釈に 関する 二三の 研究 書 を註 記に 加 

えた ほか は、 もとの ものの ままで ある。 

二, L 七 

第 八 章 宗教に おける 無に ついて 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 九.^ 

(2) 「宗教の 根拠に 関する 研究 —— キ ュ ルケ ゴ I ルと ハイデ ッ ガ ー の 所論の 吟味に そつ て — 」、 東北大 学 文学部 研究 年報、 

第 八 (昭和 三 一 年) 所収 参照。 

(3) 本書 第五 章 参照。 

(4) 『宗教 経験の 基礎的 構造』、 第二 章、 第一 〇 章、 参照。 

(5) 以下の 二から 四までの 節に おける 引用 は 邦訳した が、 人名、 書名の 原文 その他、 発行 年 等の ほとんど は 本書、 第 六 章 

に 出して あるので、 ここで は 略した。 

(6) すでに ニイ チヱ はョ— ロッ パニ 千年の 文化から 神の 死 を 宣言した。 真に 人間的な ものが 神の 否定に よつ て 始められな 

ければ ならない。 神の 死と ともに 人間の 故郷、 本来の 所在と しての 無が 露わに せられる。 神の 死によ つて 甫 めて 人間 は自 

由 を 得る。 しかし、 それ は 死への 自由で、 これが 人間 本来の 面目で ある。 それ 故、 人間の 仕事 は、 神の 死と ともに 自己の 

責任と 意志に おいて、 この 無に つく ことで ある。 そこに 神 を 失った 消極的な 無から 本来の 無に つかん とする 積極的な、 

nicht wollen から Nichts wollen へ の 課題 をみ たのであった (ボイ ムラ ー 、 『ニイ チェ』。 レヴ イット、 『ニイ チェ の 哲学』、 

U 〈—ゲルから 一一 イチ ヱまで』 等 参照)。 似た ような 観点から 最近で は Theologie ohne Gott や 神学 的 人間学が 説かれる。 

ク— ル マ ン など は 後者に ついて 近世 的な Apotheose cles Menschen と 全く 反対の 人間 神化 を 語り、 無に おいて 人 存在 

の 絶対 を 見て、 その 無に つく 謂わば 無力への 意志、 wine zur Macht でな く Wille zur Machtlosigkeit を いう (『神学 的 

人間学』)。 哲学的 信仰 (ヤス パ— ス) などと いわれる こと も、 この 部面に おいて 一 つの 問題 を 投げて はいるが、 しかし、 

われわれ は 此処で は 基礎的 存在論が 明らかにした 無の 姿 をみ ようとす るので、 実存 的な 問題 は 後の ことと しょう。 

(7) 拙稿、 r キヱ ルケ ゴ— ルの 宗教 論の 吟味」、 (哲学 雑誌、 昭和 一八 年、 一 〇、 一一 月) 及び、 上 註 (2) 参照。 

(8) 上 註 (3) 参照。 

(9) 本書 第 一 章の 該当 註記 参照。 

(^) やはり、 そこにお いて 成立 的なる もの を 解き 去って ゆかなければ ならぬ が、 私 はこれ を 別の 主題と して 独立に 叙べ る 

ことと する。 — 拙著 『宗教 経験の 基礎的 構造』 第二 章 及び 第一章 参照 — 。 

S 以下の 論議と 上 来の 哲学に おける 所論と を 対比して 順列 をつ けようと する ので もなければ、 接合しょう というの でも 

ない。 類比 的に 推理 出来る というの でもない。 組織的な 問題と して は 別に 扱われなければ ならない。 ここで ま、 二心 そ,, 



ぞ. の 看 位に お いて 考えて みると いうので ある。 

まこ、 司 じく S とか ニヒルと かとい つても、 上に 迪 つたよう な 近代の 西洋に おける ニヒリズムの 性格と 東洋に 伝承 せれ 

たものと ま 根本の 気分に おいても 異なる であろう。 同じく 人間的な ものの 無 をい うにしても、 一はい わば 一本立ちの 人間 

S であり、 5 の それ は 人間的な ものの 否定に おいて、 天地 間の すじに 契う とか 或いは 仏教 等で いうよう に 人間的な も 

のの, お、, て 法爾を得 ると 観る。 後者に ついて みても、 取り違え や 仮の 有の 否定であって、 真の 無と は 妙有 に 通じる と 

、うように、 いわば 「あて」 がな く はない と 思われる。 西洋の 考え方から いえば 徹底 しないと いわれる ので ある 力 他矿 

に は 具体的に 徹底して いると もい い 得る であろう 

(匸) 宇井 伯 寿、 『印度 哲学 研究』 第二、 参照。 

(^) この ことにつ いて 詳密な 研究 は、 金 倉 円 照、 「仏教に おける 法の 意味」 (国土、, 刊号) 参照。 

S こ.. -ら のこと について は、 拙著、 『天台 実相 論の 研究』、 第二 章 参照。 

§ 稲幸紀 三、 『竜樹 裏の 研究』、 囊了 i、 『国訳 一切経』、 中 観 部、 一、 さらに 中 村 元、 『文化交流 における 仏教 思 

想』、 中 村 元 選集、 九、 上田 義文、 『仏教 思想 史 研究』、 「縁起 思想の 発展」、 講座 『東洋 思想』、 五、 (東大 出版 会)、 長 尾 菊 

人、 「中 観 哲学の 根本 立場」、 哲学 研究、 三 一 ノ九、 一一、 三 ニノ 一、 二 参昭ハ 、t 

(6 ノ ひろく これらに 関する 学 史上の 連関 等に ついては、 宇井 伯 寿、 『仏教 思想 研究』 等の 外 「我 空 法 有 • 我 空 法 空」 仏 第 

研究、 一 ノー。 「空 観の 仏教」、 文化、 六 ノー 一。 宮本正 尊、 「空 観」、 理想 社、 世界 精神 史 講座、 三、 山 口 益、 『仏教 学 序 

説』 (平 楽 寺 書店) 等 参照。 



第 八 章 宗教に おける 無に ついて 二 一 



第 九 章 法華経 本 門の 宗教) 

1 宗教 経験 の 本質に もとづ く 解釈 学 的 理解, 



法 奮 仰と いえば、 宗教学の どの 分野から でも、 これ を 問題に しうる。 法董 想と いえば、 また、 宗教学の ど 

の 分野に おいてで も、 これ 臭け とめて 問題に しうる。 さらに、 法 華 思想 を囊 学の なかに 捉えき たって、 解体 

し、 解釈す る こと ¥1 とともに、 いわば 逆に、 讓 思想 は、 囊 学が これ を享 けて 己れ の 滋養と し 培床 とす 

る ことので きる もの を もっている といえ よう。 この こと を も 心して、 ここで は、 上の 主題に ついて、 存在と くに 

人間 存在 を 根底と する 存在論 的な 解釈 学 的 立場から 明らかにし、 そして、 さらに そこにお いて、 いうと ころの 法 

華 思想に おける 囊 性の 問題 をたず ねて みたい。 論者に とって は、 従来 ふれて きた 問 霞 囲から さらに 一歩 をす 

(ー) 

すめて みょうと する 試みで ある。 



第 九 章 法華経 本 門の 宗教哲学 的 理解 三 ◦ 一 



のこと ながら、 教え 手、 授け 手の 側から が 主で ある。 そして、 すでに I 説 示の 雲に も 出て いる ことで あるが 

それに 従って、 教相 論に おいて は 夙に 応機、 対 機 を 軸と する 解釈が 用いられ、 ことに 化 儀の 四教 論の ごとき は、 

習い 手、 受け手の 事情 や 事態 を 掬んでの 解釈が なされ (な。 しかし、 諸 法 実相の 法 観が 如何に 高く 或いは 徹底の も 

のであって も、 それが 各自の 受け手の 身に つかぬことに は、 本当の 意味 は 失われる。 就いては、 より 一歩 進んで、 

或、 ま 掘り さげて、 習い 手、 受け手の 身 もとにまで、 経 を 引きと つて 来て、 習い 手、 受け手の 機根 や 時代、 在所 

等に 照らし あわせて かんがえる 工夫 はない か。 たとえば、 よい 薬が 発明され た。 名医 は その 要素と 構成 をよ く 知 

つてい る。 そこへ 患者が 来た。 医師 は その 薬 を 調剤して 彼に 与えた。 ところが 患者 は 医師に その 薬の 成分 処方 を 

まじめ、 医師の 診た て や 飲み 方 や 効果の 始終 を ききただし、 医師と 同じ 霊にまで、 これらの こと を 知悉した 上 

で、 その 薬 を 用いる。 果して 効果 はあった。 しかし、 もし 尊敬し 信頼す る 謹の 与えた その 薬包 を、 一 々の 謂わ 

れゃ 処置 をた だす こと を俟 たずに、 然るべき ものと して 早速に これ を 用いる としても、 効果 は あるので なかろう 

か。 もし 効果 は 同じと すると、 同じ 薬 に対するの だから、 これ を 受ける 受け手の 震に おける 農の 相違 や 層 位 

のちが いが 問題になる。 

拙いた とえで は あるが、 f 説かれる 経過 をみ て ゆく と、 こういうち がいに 思い あたる。 そのち がいが 謂わ ゆ 

る迹 門と 本 門の 関係に 示される ので あるが、 天台で は、 本 I なりと いえ ども 不思議 一と か、 迹の妙 を 解 すれば 

本の 妙遙 かなる にあらず、 ただ 離合の 異なる のみ 等と いう。 そのと おりで、 迹 門の 理も本 門の 事 も、 その もとづ 

くと ころの 根底に おいて かわり はなく、 孰れ も 讓議の 在り方に おいて ある。 そして、 すでに 智頻も 譲の 勝 

第 九 章 法華経 本 門の 宗教哲学 的 理解 三 三 



第 九 章 法華経 本 門の 宗教哲学 的 理解 三 〇 四 

義を、 諸 仏 一乗の 開 願と、 開迹顕 本、 本地久 成の 本 仏 本土の 開顕 及び 師弟の 遠近、 即ち 師弟の 本 因本果 にあり と 

(3) 

している。 しかし, 上 来、 みて きたよう に 実相の 当 相 は、 かかって 各自が これ を 身に つけ、 事 証し 具 成して いる 

ことにお いて、 その 首尾 をうる。 しかも 行に 約して いえば、 機の 浅 深が あり、 そこに は 体 達の 段階が ある。 方便 

品 を 中心に 説かれる ところ は、 教主が 究尽 したと ころ は斯々 の 法で あると いう ことで、 天台の 止観 はい わば、 教 

主の 事 証し 具 成した とおりの 跡に 随 つて やって ゆこうと いう 仕方で、 さきの たとえで いえば、 前の 方で ある。 し 

かし、 同じく 実相の 具 成が 得られる ものなら ば、 後の 場合の 方が 捷径で ある。 日蓮 は 五 綱の 教判 をた てて、 この 

ことに 応える。 日蓮 教学で は 末世と 凡夫が 中心であった。 かかる 観点から、 日蓮 は 『諸宗 問答 抄』 や 『開 目抄』 

等に おいて、 三種 教相ゃ 五重 相対の 教判を もって、 本 門の 意義 を択 びと つた。 

経の 涌 出品に は 奇妙な ことが 識 されて いる。 教主の 説 示 を 了 得 賛嘆した 弟子た ちが、 教主の 滅後、 この 経 を 護 

持し、 広く 伝道した いと 申しで たと き、 教主 は、 いや その 必要 はない。 自分に は 常に 既に 幾千 万、 幾 百万の 弟子 

たちが あり、 彼等 は 皆 この 経 を 護持し、 広く この 経 を 宣布して いる。 教主が こう 語った とき、 この 姿 婆 世界 は 地 

が 裂けて、 そのな かから 無量 千万 億の 菩薩、 摩 一 訶薩が 出て 来た。 何とも 奇妙な ことなので、 弟子が 教主に その わ 

け をたず ねる と、 教主 は、 すでに 久遠の 昔から、 この 世界に おいて、 これらの 人々 を 教化して 来たと いう。 弟子 

は 衆 疑 を 代表して 更に、 それ はわから ぬ ことで ある。 教主 は 王子のと き 出家して、 ガヤから 遠から ぬ 所で 修行し 

て 成 道し、 爾来、 四十 余 年に わたって 法 を 説いた。 しかし、 どうして、 この 暫 らくの 間に、 かく も 多くの 弟子た 

ち を 化導した のか。 それ は、 まるで、 二十 五 歳の 若者が 百 歳の 人 を わが 子と いい、 その 百 歳の 人が 若者 を わが 父 



というよ うな ことと 同じで、 まことに 信じが た, > と 不審 力る 

そこで 寿 量 品に おいて、 挈の三 請、 さらに 重ねての 請いに 応じて、 靈の本 身が あかされる。 よく 聴く がよ 

い。 普通の 人々 はこの 釈迦が 以前 出家して ガヤの 近くの 道場で 成 道した と 思って いる。 しかし、 実は 自分 は 成仏 

して 已来、 百 千万 億 那由多 劫になる。 そして、 その 間、 数え きれぬ 諸々 の 世界 を 果てしな きまでに 説法 教化し、 

種々 の 教説を用 い、 また、 種々 に 身 を 転じ 或いは 入滅した ともみせ かけた。 それら は 孰れ も 人々 に 道 を 得させる 

ための 方便で ある。 しかし 本 仏なる 自分 はこ こにいる。 久遠の 過去から 居り、 将来 もまた これに 倍す る ほど 居る 

であろう。 まさに 常住 不滅で、 所在 は 常に この 娑婆で ある。 このように、 実に は 居る ので ある けれども、 顚 倒の 

衆生に 対して、 実は 近くに いるの だが、 わざと 入滅して 見えぬ ようにし たので ある。 そうする ことによって、 人 

、ま渴 仰の 心 をお こし、 仏 をみ ようと 身命 をお しまぬ ようになる。 そのと き、 あらため てこの 世に出る。 それ は 

方便の ことなので、 実際 は 常に ここに 在って 滅 する こと はない。 

このよう なわけ だから、 会 座の 弟子た ち 諸子よ、 久遠の 本 仏なる 自分の 説く ところ はみ な 真実で 不虚、 疑って 

はならぬ、 という。 ついで、 経 は 分別 功徳 品に 入って、 如来 本 仏なる 教主の 寿 量 長 遠なる こと を 深く 心に 信受す 

1 よ、 上に あげたよ うな、 經に 示した 有り様が 明らかに わかり、 その 功徳 無量なる ものが あろう。 また、 如来な 

る 自分の 滅後 にこの 経 をき いて 信 解し、 さらに 受持 する もの は、 まことに 如来 を 頂戴し、 如来の 無上の 知 慧を起 

こすで あろうと 説く。 そして、 この こと は 余 他の 本 門 流通の 諸 品に も識 される。 

第 九 章 法華経 本 門の 宗教哲学 的 理解 三 五 



第 九 章 法華経 本 門の 宗教哲学 的 理解 三 〇 六 

三 

さて、 日蓮 教学の 諸釈 によって、 以上の 教趣を 充分に 解釈す る 用意 を 私 はもたない が、 径の本 門に は、 おそる 

べき ことが 示されて いる ことに 注意し なければ ならない。 この こと は 後に ふれよう。 まず 經の本 門に 入る と、 教 

主の 重味が ちがって 来る。 迹門 では、 始覚の 教主が その 得た ところの 諸 法 実相 —— 梵文 原典に は 諸 法の 語がない 

とか、 十 如是の 全 支が 整って いないと いうが、 それ は 今の 本質的な 問題で はない。 また 諸 法 実相と は、 天台の 本 

義 として は、 諸 法の 実相と いうので はなく、 諸 法が 即ち 実相な ので ある 11 の 内容 在り方 を 説く が、 本 門で は、 

その 教主が 実は 久遠の 本 仏で 常住 不滅、 此土 にあって 化導 を 行ないつ づける。 この こと を信受 し、 この こと を 報 

じた —— ただの 記録で はなく、 伝えて 受け手に わからせよう とする —— 経 を 信 解、 受持 せよ。 その 功徳 は 無量と 

ある。 たしかに、 迹と 本と は 層 位が 異なる —— この こと は、 すでに 天台 もみと めた —— 。 そして、 いいうるなら 

ば、 さきに 拙いた とえで あげたよ うに、 要は 与えられた 薬 を 服す るに あり、 その 成分、 処方 を 分析 知悉した 上で、 

これ を 用いて わが 身に つける 間 尺 をお くこと はない。 種 熟 脱の 経過 は、 偏え に 信 解の 端的に おいて 種 脱の 直結と 

なる。 それ は 如来の 力と 施策に よって —— 日蓮 も 天台の 教観を 否定す るので はない。 智顗を 外相 承の 師と すると 

おりで、 それ を 踏まえ、 それ を 下敷きと しての 本 門 立ちで ある 11 。 即ち 与える 医師 を 信じ、 与えられた 薬 をい 

われる ままに 信 解して 受用 すれば、 わが 身に その 効 はっく。 経に 説かれる 肝要 を 妙法 五 字に 包んで これ を頂受 し、 



服 すれば よい。 所 fi^、 薬 は その 要素の 知悉に よって 効く ので はなく、 服して 治 病の 効の ある ことにお いて 薬た る 

意義が ある。 

ところで、 医師 を 信じる か、 医師の しむける 薬の 内容 を 信じる か、 即ち 第一義に おいて、 教主 本 仏 を 信の 対象 

とする か、 本 仏説 示の 経 を 信の 対象に する か。 論議 すれば 余地 はあろう。 しかし、 経の 説 示 を みても、 双方 相俟 

つて 説いて ある。 択一 の もので はない のであろう。 寿 量 品に おける、 良医なる 父と、 彼の 与えた 薬と、 その子の 

服薬の 譬えに も あるよう に、 用いて 病 を 治す るの は 薬効 だが、 用いる ようにす るの は 良医で ある。 けれども また、 

経 こも あるよう に、 後代 者 は 経 を 信 解し 受 持して こそ、 教主 本 仏 を頂受 する。 

しかしながら、 良医 治 子の 譬えに も あるよう に、 顚 倒の 衆生 は、 容易に 教主の 示す 本 仏の 法 味 を 信じて これ を 

服す る ことができない。 そこで、 教主 は、 教主 自身なる 本 仏が 種々 の 方便 を須 いると いう。 

ここに、 さきに あげた、 おそるべき ことが 託されて いる。 信 とても、 普通の 謂いで は、 まことに 容易な ことで 

はない。 そこに は 弥勒 を はじめ、 会 座の 人々 が 当惑した 背理が 仕む けられて いる。 經を もし 一 つの 劇と くに 史劇 

とみたて るなら、 本 門に は 劇中劇が 説かれて いる。 経が 釈尊に よって 直 説され たもので ない という こと は、 今の 

ま r 題で はない けれども、 径に識 るされ るかぎ り、 事 は 実際に 起こった 事態で ある。 即ち 覚り を 得た 世 尊、 釈迦が 

王 舎 城の 霊 鷲 山で 多くの 弟子た ちに 法 を 説き、 弟子た ちが これ を了受 して、 滅 後の 護持、 弘教 のこと に 及んだ と 

き、 教主 釈迦が いうと おり、 無数の 四 衆が 地から 出て 来て、 教主 を 恭敬、 賛嘆す る。 弟子た ち は 不審が り、 弥勒 

が 教主に 事の わけ をき くと、 教主 は、 では 本当の こと をき かせる から 信ぜよ。 自分 は 久遠より このかた、 これら 

第 九 章 法華経 本 門の 宗教哲学 的 理解 — 三 〇 七 



第 九 章 法華経 本 門の 宗教哲学 的 理解 三 〇 八 

の 四 衆 を 教化して 来たの だ、 という。 そして 寿 量 品に おいて、 正しく、 当面の 会 座の 教主 釈迦が 久遠 以来の 本 仏 

である ことが 打ち あけられる。 

これらの こと は、 経に 識 される 範囲で は、 まさしく、 霊 鷲 山の 会 座で 行なわれ、 起こった ところの 事実 的な 出 

来 事で あり、 地上の 歴史的な 出来事で ある。 しかし、 弥勒が 不審 を I したよう に、 このような ことが 地上の 歴史 

に 起こる 箸 はない。 また、 釈迦が 久遠の 本 仏で、 常に この 世界に 住して 不滅で あり、 過去、 現在、 将来に わたつ 

て 化導 を 実際にし ている、 また、 する であろう、 その 寿命 無量、 などと いう こと も、 おかしい。 不可解、 不条理 

であり、 それ は 逆説で ある。 しかも、 重ねて 教主 は、 自分が 本 仏で ある、 久遠 実 成の 本 仏が、 この 世界の 人々 の 

ために 11 彼等 は 悪業の 因縁に よって 本心 を 失い、 事の 本来 を顚 倒して 考えて いる。 それで、 本 仏と して は、 種 

種の 方便 (寿 量 品に もま ことに 屢々 この 方便の 意義が 説かれる) を須 いて —— 、 種々 と 説法 教化し、 種々 に 身 を 

転じて、 或いは 現われ 或いは 滅を とる。 実は 常住 不滅で ある けれども、 現に ここに こうして 法 を 説く の も、 その 

ための 姿に 外なら ない。 これらの こと は、 すべて、 悶乱、 顚 倒の 衆生 を 導いて、 その 人々 を 度 せんがた めで ある。 

この こと は 全く 真実で あるから、 疑う ことなく、 信じて、 わが 説く ところ を 信 解し、 受持 せよ という。 

霊 鷲 山の 会 座に 在った 人々 は 教主に 接し、 涌 出品の 奇妙な 事態 を 目の前に 見、 かつ 教主 自身の 打ち あける 本 仏 

の 謂われ を 直接に きいた であろう —— そして、 経に よれば、 会 座の 会衆 はこれ を享 ける に 相応した 人々 であった 

答で ある I 。 ところが、 後代の 者 は 如上の 斯々 のこと を 経 を 通じて 伝えられる。 厳密にいえば、 如是我聞なる 

人 か、 ないし はこれ を識 した 経の 著者に よって 伝えられる。 そして、 端的に いえば、 伝えられて 今 ここに 私に ま 



で 届けられ ている。 方便 品に いうと ころの、 「今 正に 是れ 其の 時」 は、 時 を 隔てての 今の 私に とって、 今 正に 是 

れ 其の 時で ある。 各自の 今 を 外して は、 径が 如実に 信受 され、 その 伝える ところが 現実と なる 時 はない。 否、 数 

多くあった であろう。 しかし、 それら は 曾て 誰かに もたれた 現実であって、 今の 現実で はない。 主体的に いえば、 

こうなる。 霊 鷲 山の 事態 も、 それ は 歴史で はあって も、 事件で はない。 本 仏の 打ち明け は、 その 相応の 弟子た ち 

に対して 行なわれ、 弟子た ち は それ をそうと わが 身の 深 心の 現実に 受けと つて、 これ を 後代に 伝えた。 それ は、 

その 弟子た ちの 信受 における 現実の 出来事で ある。 

そこで、 後代 者に とっても、 問題 は、 各自、 当人が 径を享 けて これ を わが 深 心の 現実の 出来事と する かどう か 

にある。 即ち 経に は 久遠 以来の. 常住 此 不滅と いうが、 この 本 仏 を信受 し、 本 仏に おいて、 われら も 亦 もとよりの 

会衆た る こと を わが 身に つける かどう か、 にある のであろう。 日蓮 上人の 上 行 菩薩の 自覚 も、 まことに、 経の 説 

示 を わが 自覚の 出来事と するとい うこと と 呼吸が あう ので は あるまい か。 今の われわれ、 私 も、 本 仏 本土の 説 示 

からい えば、 本国 土の 衆生で あり、 常に 既に 本 仏の 会 座に ある。 要は、 経に 説く いわば 劇中劇に わが 身 をお いて、 

これ を 今の われの 現実に する ことであろう。 霊 鷲 山の 事態 も、 さらに、 そこで 示される 本 仏の 久遠 以来の 成 道 や 

教化 も、 今の 各自の 当座に おける 信 解、 受持 なしに は、 所詮 は 曾ての 史実 か 物語りと して 埋まって しまう。 そし 

て、 若し 誤って いないと すれば、 経に は 没 在 苦 海の われら を 救いと つたと は 書いて ない。 救われる ために ふさ わ 

しい あらゆる 手段が、 本 仏に よって 常住に 用いられ ると ある。 従って、 われら も 常に 本 仏の座に 会して 常に 信 を 

-.. われて おり、 受持を 期せられ ている。 そして、 法華唱 題の 妙 業 は、 ここに 踏まえて、 日蓮 教学に よって 示され 

第 九 章 法華経 本 門の 宗教哲学 的 理解 三 リ 



第 九 章 法華経 本 門の 宗教哲学 的 理解 三 一 〇 

るので は あるまい か —— もちろん、 私 は 日蓮 教学に 宗乗 としての 規矩の ある こと を 知っている。 以上 は その 層 位 

で 筆 をと つてい るので はない。 初めに あげたよ うな 観点 を 規準に して、 趣く まま を 叙べ たまでで ある —— 。 

四 

次に は、 以上に 叙べ てきた ところが、 どのように、 宗教 的で あるの か 或いはない のか を 考えて みなければ なら 

ない。 

経 は、 方便 品の 初めに 諸 仏の 智慧 は 難解 難 入、 唯 だ 仏と 仏の みがよ くこれ を究尽 する のみと いい、 弟子た ちが 

教主の 得た 法の 説 示 を 請う とき も、 屢々、 わが 法 は 妙に して 難 思、 説く こと はでき ない。 言辞の 相 寂滅 するとい 

う。 本 門に 入っても、 久遠 実 成の 姿 や 謂われに ついて、 やはり、 この こと はくり かえされる。 ただし、 説 をな し 

事 を 示現す る ことの あるの は、 常に 方便、 因縁、 譬喩に よる 説 示であって、 それ は 常に 衆生の ために 宜 いように 

との はからい である。 そして 終窮 において、 正直 捨 方便、 ただ 無上 道 を 説き、 或いは、 本 門に おいて 事 を 示す と 

ある。 その 境地、 境界 は 本来 不可 説で、 説く こと も 示す こと もで きない。 説いても わからず、 示しても 見えない。 

しかし、 それでも、 説いたり 示したり する の は、 みな 相手の ために、 然るべき 理由が あって、 方便 を 用いての、 

いわば 間接的な 処置で ある。 ただ、 時 到って、 相手が それに ふさわしく なれば、 境地 境界の 本意、 本 身 を あかす 

という 11 この 三 段の 構え は、 夙に 天台が よって その 教相 論の 基軸と したと ころで、 教義 解釈の 方法の 上で、 宗 



教史ヒ こ 精彩の ある ものと 思われる が、 それ は ともかく — 、 智頭 もまた この 境地、 境界の 不思議 不可 説 を 基 

盤と して、 体 法 無 作の 縁起 や 空の 要諦 を 明らかにする。 その 所以 は 上述のと おりで、 要は、 最も つきつめた 謂い 

こ 、つ、 て、 この 当 処当相 は、 それと して 捉えられる こと を 超えて おり、 本質的に は、 分別 情 執の 主体の かかわり 

が 拒まれる。 

こういう こと は、 宗教 的 経験の 本質的 特質に 照らして どうであろう か。 

宗教 的と いう ことにつ いて、 ここで 多くの こと を 論じる こと はで きないが、 科学 や 哲学の 研究の 結果 は、 超自 

然 性と か聖の 観念が 宗教の 最小 定義 や 基本 観念と されて いる。 宗教 的. 経験の 基盤に、 超自然的 神秘的な ものと 聖 

の 要素ない し 形式が 併 在 するとい うこと もい われて いるが、 機能的な 意味で、 より 深く その 複合 的な 要素 や 形式 

を 分析して みると、 「他者 性」 と 「拒否 性」 という 性格が 出て くる。 ただし、 そうはい つても、 それらの ことが 

心理学的に いわれる のか 或いは 社会学 的に いわれる のか、 ないし 形而上学 的に いわれる のか 等、 孰れ も それぞれ 

の 立場の 相違に よって 観る ところの 要処 がちが う。 けれども、 つきつめて みると、 それらの はたらき は 孰れ も 主 

体の 意識の 場面に おいて、 いわば 主体が はたらかれて いると ころの ことで あり、 その はたらきの 機 制の もとづく 

ところ を 社会から のとす るか、 心理的に 投射され たものから のとす るか、 或いは それ 自体の 存在 や 価値から のと 

する か、 などで ある。 ところが、 更に、 右の ように、 主体が 現に はたらかれて いると ころの、 当の 場面み ずから 

の基楚 的な 在り方に おいて、 まさしく 他者 性 や 拒否 性が 具わって いると みる (実存の) 存在論 的な 観 方が ありう 

る。 恰も この 場面の 存在論 的 根拠 を 実存 哲学が 事と する ので あるが、 われわれ は 更に それら を 吟味して、 われ わ 

第 九 章 法華経 本 門の 宗教哲学 的 理解 一一 ニー 



第 九 章 法華経 本 門の 宗教哲学 的 理解 三 一二 

れの 問題 性から は、 そこ をより 主体的に 扱わなければ ならない。 この ことに ついては 既に 述べた ことがあ るので、 

ここで は 詳論 しないが、 他者 性 や 拒否 性 は、 それ 自身の 実存の 存在論 的な 構造に 具わる 在り方 (構造 上の 欠如 性) 

における、 存在 的な (即ち そのもの としての) 自己なる 者 (ないし 他なる 者) への 拒否 性で あり、 他者 性で ある 

と みられる。 

このように みて 来る と、 各自の 現に 存在せ る 諸 法 実相の 当処、 当 相 は、 それと して は 存在 的に 捉えられぬ 要処、 

妙処 であって、 そこ は 分別、 合理の 領域 を 超えて おり、 分別の 主体に とって、 まさに 他者 的で あり 拒否 的で ある。 

そういう ことが ゆるされるならば、 以上に みて きたと ころ は、 まさしく 宗教 的な 機能的 場面で あり、 現前 直爾の 

在りの ままの 当処に 在りの ままに 生きる ことが、 宗教 的で あると いう ことになる。 なおまた、 宗教 的 経験に とつ 

て 必ずしも 本質的な ことで はない が、 いずれの 宗教に おいても — 原始 宗教に おいても 至上 者 や 起因 者の 信仰が 

ある ことが 指摘され ると おり II 、 最究意 者 (たとえば ズ ブス クンツの ごとき) との 一致と いう ことが ねらわれ、 

解明され る。 この 点に ついて、 マ タス • シ エラ ー はコ ンフォ ー ミテ ー ッ • ジス テ —ム のこと を 主張した が、 以上 

のと ころから も 明らかな ように、 実相と は、 微 なくと も 主体的に は、 存在す る 者の 存在の 極処 であって、 そこに 

そのと おりに 生きる こと は、 人の 本来のと ころに 即 くこと になる。 さらに、 本 門で 常 在 比 不滅と いうよう に、 、,, 

わ ゆる 「事」 の 相の もとにお いても、 そういい うる。 ただ、 この 点に おいて は、 みて 来たよう な 経緯で、 宗教学 

的に いうと、 そこに は 大事な 飛躍の 論理 を 必要と し、 転回の ュク スキュ ー スを いわねば ならな (.1〃 



因みに、 宗教の 基本 観念に ついて、 少しく 敷衍して いうなら、 現在の 囊 研究で、 囊 S における 蒙 的な 

ものと して、 代表的な もの を あげる と、 超自然 観 (シュ 1。 ハ 1 ナチュラリズム) や 至上 者、 起因 者 等への 関係、 さら 

に聖の 観念 等が ある。 第一の もの は、 菅然 的な (霊的 人格 的) 存秦 または (非人 格 的な) 力への 信念ない し 

信 依と いう こと を、 宗教の 最小 定義 や 蒙 観念と している。 前者 はタ イラ— を はじめと する ァニ ミズ ムの、 後者 

は マ レツ トを はじめと する プ レ ァ 二 ミズ ム の 所論で あ つ た。 両者 は 元来 その 観点 や 内容 を 異にし、 種々 の 問題が 

展開され たが、 今日で は、 いわゆる シ r 。マ ナチュラリズム という 囊に 併せられ、 ブレア 二、、、 スティックな 

地盤の 上で、 囊と f の 区別の ように 使われる こと も あ (が)。 それ は、 息 的 対象の 自然 的な 経験で はなく、 宗 

教的 或いは 呪術 的な 經 験の 然 かる 所以の 基本的 観念で あると され、 その 経験 内容の 性格が 超自然と か 神秘的と か 

驚異的 だとい われて いる。 いずれも 主体の 了 別の 範囲 を こえた、 神秘 感ゃ 畏怖 感を おこす 対象 性との 関係に つい 

ていう ので ある。 ことに マレット は、 超自然的な 力の 性格に、 神秘的 性格と タブ ー 的 性格、 即ちい うと ころの 他 

者 性と 拒否 性に 相応す る ものが 併存し、 それら は 同質的で あると いい、 マリノ ウス キ—等も それらの 併存 を 唱え 

たが、 I、 超自然的 という 観念 は藝 的な 心理的 i の 内容であって、 社会に おける 構 if 適応 機能に お 

いてい われて いるので はない— そのこと について は、 すでに デュル ケ ムゃラ —ド クリフ I- ブラウン 等が、 その 

第 九 章 法華経 本 門の 宗教哲学 的 理解 三 一三 



第 九 章 法華経 本 門の 宗教哲学 的 理解 三 一 四 

立場から 強く 批判して いる。 ただし、 それ だからといって、 これ を 捨てて はならない。 デュル ケムの 所論 も 重ん 

せらるべき であるが、 両者の 所論 は、 立場の 前提 をみ た 上で、 ことに、 それぞれの 異なった 所論の 層 位に ついて、 

重んぜら るべき である —— 、 ひとまず、 聖の 観念が より 基本的で あり、 機能的な 機 制に 相応す ると 思われる。 

聖の 観念 は 構造 的 機能的 背景 を もってい るが、 社会学 的ない し 人類学 的な 連関に おいて は、 とくに ロバ ー トソ 

ン • ス ミスに よつ て 提唱され たもの を 中心とする。 また、 哲学的に もす でに いろいろ 論ぜられて いるが、 就中、 

心理学的な 前提に 立ち、 フリ ー ス などの 所論 を 背景と して、 ヌ ミノ — ゼな ものの 内在 化に よる 感情 経験に ついて、 

聖の 複合 的な 概念 内容 を 組織的に 究明した の は オット— であった。 彼に よると、 結局 この 概念の 中心 は 他者 生で 

あり、 拒否 性で ある 11 それ は、 とくに 個体の 経験の 合理的な ものに 対して、 そういう ことが 中心 II 。 ただし、 

彼はヌ ミノ— ゼな ものの 客観的 対象 性 を 前提して いると はいえ、 組織的な 所論の 範囲で は、 それ をう ける 主体の 

主. 力 素質と して もっている ことにと どまる。 このような 謂いで、 彼 は 宗教 経験に おける この 聖 性の 根源が 特異 

な 感情 経験に うつり 或いは 具わる としてい るので、 シ H ラ ー も難 じたよう に、 その 客観的 連関が はっきり しない。 

われわれの 観点から いえば、 存在論 的な 支えが ないし、 且つ 状況 的な 連関が みられて いない。 聖の いわゆる 価値 

性質 を 客観の 側で 究明した のはシ H ラ— であった が、 その 結論に おいて は、 われわれの 問題領域から は 遠い。 けだ 

し、 われわれ は聖の 在り方 を、 経験の 当の 場面の 構造 的な 機能 性に おいてみ る ことが 正しい と 考える からで あ (; ^。 

この 点に 関する 卓越した 所論 はデ ュ ルケ ム によって なされた。 人間 存在の 基本的な メカニズム II 各自が 成員 

として、 そのな かに 存在す る それぞれの 社会に おいて、 その 社会が 情緒 的 興奮の 状態に おかれる とき、 これ を享 



ける 成員の、 「社会」 に対する 関係に、 r 聖」 の 観念が なりたつ II において、 意識の 面に ぉレて 個体 力 それ 

において 存在す ると ころの、 「社会」 の 外在 性、 拘束 性に、 聖を みたので あった。 

デュル ケムの 立場 をす すめた 代表者の 一人に ラ ー ド クリフ" ブラウン がいる。 彼 は その 社会 構造 論に おける 

「関係」 の 機構 こおいて、 人間 を その 関係の 単位と し 11 関係と は 単位と 単位との 関係、 とくに 生活 体の 生理学 

的 関係に おける ごとき、 部分が 全体に 対する 関係 をい う — 、 とくに 制度 的 社会の 全体にお いて、 その 全体に 奉 

仕す る 部分の 役割 者と みる。 そして、 宗教 を、 かかる 社会の 「関係」 の 機構に おいて、 その 連帯 性 をつ くり、 か 

つ、 これ を 維持す る 社会的 価値と してみ るので ある。 それ は 専ら 儀礼的 価値で あると している が、 そこで は む 

しろ、 宗教の 固有の 領域 は 問題と されて いないと い つ て もよ いであろう。 

ありてい にいえば、 私 は、 この ラ ー ド クリフ "ブラウンの 所論に 疑義 を もち、 ロバ ー ト ソン • ス ミスの 『セム 

民族の 宗教』 をよ みなおした。 そして、 宗教 生活に おける あまりに 単一 的 閉鎖 的な 集団の 社会的 拘束 や 規制の 特 

異な きっさに 戸惑った のであった。 デュ ルケ ムゃラ ー ド クリフ" ブラウンの 所論 はこの ロバ ー ト ソン • ス ミスに 

負う ところが 大きい ところ からして、 かえって、 彼等の 所論の 偏りに 気づいた わけで ある。 ただ、 デュル ケムの 

所論 ま、 実の 有様 をた どると いうより は、 それ を リファレンス として 理論 化され、 宗教の 固有の 領域 を 確保し、 

上の ような 関係に おける 「社会」 の 表徴と して 聖を みる ものである。 聖を、 それが 拠って 成立す る 基盤で あると 

ころの 社会に おいてみ、 ないし、 その いわゆる 「社会」 が 個体に 対する 機能的 関係に おいてみ て、 しかも、 この 

聖の 領域 即ち 囊 的な 領域 を 確保して いる。 ーフ1 ド クリフ" ブラウン 等の ように、 社会の 謹 的な 構造 機能の 面 

第 九 章 法華経 本 門の 宗教哲学 的 理解 三 一 五 



第 九 章 法 華径本 門の 宗教哲学 的 理解 三 一六 

のなかに、 いわば これ を 消去し ない。 このように、 われわれから いえば、 宗教 的な 聖の 事実の 底の、 いわば、 存 

在 論 的 関係 をみ る 点 は、 依然、 最も われわれの 参考と すべき 点で あるが、 しかも 結局 その 基づく ところの 背景 か 

らいえば、 それが 宗教 生活の 一般 を掩ぅ もので はない という ことになる。 また、 じっさい、 人類学者 たち は、 社 

会 学 的に は 犠牲 や 制裁の 宗教 性 を 中心に み、 その 社会的 連帯に よる 拘束 や 規制 を あげる。 しかし、 現在の われ わ 

れの 社会に おいて はもち ろん、 いわゆる 未開社会に おいても、 いろいろな 理由で、 この こと は 一律にい いえない。 

こういう 点から 考える と、 ラ —ド クリフ = ブラウン や デュル ケムの 理論と は 別に、 事実 的に は、 宗教 生活が それ 

らと はまた 別な 部面に おいて 行なわれ ており、 ちが つ た 意義 や 機能の ある 点を検 しなければ ならぬ と 思われ (が)。 

そこで、 オット— の 所論が ふりかえられる。 彼の 所論に ついては 上に 評した とおりで あるが、 われわれの 問題 

の 場面に これ を 依 用で きる かどう か。 彼の 所論 は 現在で も 多くの 人々 によって 拠り どころ とされて いるが、 われ 

われから いえば、 宗教 経験に 基づく 彼の 認識論 的な 立場 は、 基礎的 存在論の 層 位にまで 掘り さげて 来たと ころ 

で、 問題に されなければ ならない と考えられる —— その 意味に おいて は、 上述の ように デュル ケム が、 違った 着 

眼で は あるが、 宗教 生活 を 支える 根底の 層 位 をみ ている という 点で 意義 ふかい 11 。 ともかく、 このような こと 

を 必要な 前提と して、 オット ー の 所論 をみ ると、 われわれの 問題 性に 意義 ふかい こと を 答える。 彼に おいて は、 宗 

教 的な ものの 本質 は、 聖 とくに 他者 性と して、 それ は 合理的な もの を 超えた 非合理 性に おかれる 11 彼に は 多く 

の インドの 宗教 史 に関する 著述が あるが、 就中、 Das neilige, 1923, 10 Aufl., SS. 49f., 202f., Das Geftlhl des 

Uberweltlichen, 1932, SS. 241ff., 251, 253£f. 等に おいて は、 仏教 ことに 中国 や 日本の 仏教に おける、 、湼藥 の: K: 



験に おける 合理性 を こえた 無の ことに ふれて いる—。 ともかく、 私と して は、 ひとまず 如上の 存在論 的な 追究 

による 無の、 或いは 存在の、 主我 的 悟性 的 主体に 対する 拒絶の 機 制に おける 場面、 即ち 当の こと を それと して 合 

理 的に 捉える こと を 超えた 領域に おいて、 問題のお さまり をつ けて おきた レ 

T) この ことこつ いて ま、 すでに 「終末論と 宗教 性」 (『宗教 経験の 基礎的 構造』 第一 〇 章)、 及び 「信の 人間学 的 根底と 機 

制」 (日本 仏教 学会 年報、 二八、 昭和 三 八 年) に ふれた が、 ここで、 それらの こと を 上記の 立場から; す" き』;:: 

する ものである。 そして、 このような 极 いは、 ひとり 法華経に とどまらず、 他の 経典の 教 についても、 同様な 位置つ け を 

なしうる ものと 考えられる。 なお、 U の 稿 は 「宗教学 からみた 法 華 I」 (望月 蒙 編 『近代に おける 法 華 仏教の 展開』 

所収 ン の 後半の 部分で ある。 ,r 

(る 拙著 『宗教 経験の 義的 構造』 第 六 章、 「蒙 経 解釈の 宗教 羣的 立場 ー 教 判の 組織的 意図に そっての 解釈 ー」 

(坂 本 幸 男 編 『法華経の 思想と 文化』 所収)、 及び 『天台 実相 論の 研究』 第三 章 参照 

(3) 『天台 実相 論の 研究』、 上掲、 第三 章、 とくに 一 四 三 頁 以下、 参照。 、 

(A このき ついては、 「終末論と 宗教 性」、 文化、 二 六 ノー、 『宗教 経験の 基礎的 構造』 上掲、 第一 〇 章 参照 、 

S 拙稿、 ns 研究の 立場と 宗教 的 奪の 問題点」、 『宗教 経験の 義的 構造』 第 七 章、 「信の 人間学 的 根底と 機 制」 上 

これらの ことに ついては、 「宗教 経験の 基礎的 構造」、 『宗教 経験の 基礎的 構造』、 上掲、 第一章 参照。 

上 註 (6)、 拙著、 第三 章、 第 四 章、 参照。 



(6) 一 

(7) 

(8) 

(9) 



本書、 第 七 章 参昭、 ぃ0 

この 占 m こついて は、 上 註 (5) 及び 「終末論と 宗教 性」、 上掲、 さらに、 前 註 (6) 所 引の 拙著、 第一章 参照- 



第 九 章 法華経 本 門の 宗教哲学 的 理解 一一 二" 



第 一〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 

—最近 わが国に おける— 



宗教学が ョ ー & ッパで 専門の 学と して 独立して きたの は 一 八 七 〇 年に マクス • ミ ュ ラ ー が ロンドンで 宗教学の 

講義 をして からだと いわれて いる。 ついで ョ ー ロッパ では、 オランダ (一八 七 六 年)、 スヱ ー デン (一八 七 八 年)、 

フランス (一八 八 〇 年)、 ベル ギ ー( 一八 八 四 年)、 デンマ ー ク (一九 〇〇 年)、 ドイツ (一九 一 〇 年) などで、 宗教学の 

講座が おかれ、 或いは 講義が 開かれた。 わが国で 東京大学に 宗教学の 講座が おかれた の は 一九 〇 五 年で、 その後 

官 私の 大学が これに つづいて いる。 宗教学と いう 名の 講義 はすで に 一 八 八 七 年に 井上 円 了 博士に よって 哲学 館で 

なされて いるが、 英国で ギフ ォ ード. レ クチ ュヮの 開かれた 翌年、 一八 九 〇 年に は 井上哲次郎 博士が 東京大学で 

宗教学の 講義 をして いる。 

こういう ように 日本の 宗教学 は 学 史上の 名門で あるが、 ことに その 研究分野の ひろがり や 幅の 点で ュ 一一 クな展 

開 を もっている。 宗教学が ョ ー 口 ツバで 成立して 以来、 学史の 上で は 宗教の 歴史的 研究と 人類学 的 研究と が 最も 

第一 〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 三 一九 



第一 〇 章 M 宗教 研究の 問題と 動向 三 二 〇 

大きな 寄与 をな している が、 欧米で は 狭い 意味に おける 宗教 研究の 専門家 達 は 多く 歴史的 研究の 分野に 属して い 

た。 それ にもかかわらず、 宗教の 研究に は 心理学、 社会学 及び 文化人類学 などの 分野から 大きな 業績が 出されて 

いる。 けれども 多くの場合、 これらの 業績 は 宗教学の 分野に 属する 人々 によって ではなく、 他の それぞれの 分野 

における 専門家た ちに よ つてな された のであった。 

ところが、 日本に おける 宗教学の 研究 は、 その 初めから 趣きが 異なる。 西洋 諸国に おいて、 当初、 斯学の 研究 

が 歴史 研究 や 神学 研究の 部門に 依存して いたのに 対して、 日本で は 斯学の 講座 創設の 当初から 独立の 研究領域と 

研究者の サ— クルと を もった。 この こと は 明治維新 以来、 因襲 を 脱して 自由と 開化 を 求める 文運と、 すべての 宗 

教 教団から 独立であった 帝国 大学の 機構 や 学風の 影響に よる ものである。 かかる 事情 は、 その後に おける 宗教の 

自由な 研究 を 約束した。 そして、 この こと はまた 日本に おける 宗教学の 専門家た ちが、 他の 専門分野 における 方 

法と 知識と を 身に つけて、 自己の 分野で、 或いは 心理学的、 社会学 的 及び 人類学 的 その他の 仕方で、 研究 を 進め 

て 来た 学界 傾向と も 密接な 関係が あると 思われる。 

姉 崎 正 治 博士 は 一九 〇〇 年に 『宗教学 概論』 (五 七 二 頁) を 著わした が、 その 序文で 次のように いっている。 宗 

教の 科学的 研究 は 今や 宗教学と いう 新しい 学科へ と 進まなければ ならない。 この 宗教学 は 従来の 比較 宗教学 或い 

は 宗教 史 より 一歩 を 進める ものである。 自分が この 書で 試みよう とすると ころ は、 諸 宗教の 特殊 歴史に も あらず、 

また これが 比較に よ つ て その 歴史的 関係 を揣 摩しよう とする 比較 宗教学で もない。 あまねく 諸々 の 宗教 現象 を稽 

査 して、 それが 人心 自然の 要求と 発表で あり、 また 社会的 人文 現象で ある ことにつ いて 一貫 統一 の 観察 を なすこ 



とで あると。 この 書 は 宗教学の 性格 及び その 対象 を 論じた 緒論と、 宗教心 理学、 宗教 社会学、 宗教 病理学 (宗教 

意識に おける 一部の 病的 現象 及び これと 社会 或いは 自然 的 環境との 関係 を 扱って いる) の 四 部に 分かれ、 二十 六 

章に 及んで いる。 なお 著者 は 第三 部の 宗教 社会学の 中で 自然 的 宗教、 国民的 宗教 及び 世界的 宗教の 特質に ついて 

論ずべき だが、 この 書で は 割愛す ると 書いて いる。 

宗教学に 関する かかる 組織的 構想 は 当時の 日本で 最も 進んだ ものであった。 この 著者が 既に 携わって いた 宗教 

の 歴史的 研究 や 哲学的 研究 を 併せる と、 姉 崎 博士の 構想 は 現在 わが国で 行なわれ ている 宗教学の 研究の 全 領域 を 

おおう 道標 をき ずいた ものと いってよ い。 因みに われわれ は 仏教、 神道、 キリスト教、 回教 等 を はじめ、 諸 宗教 

の 歴史的 及び 比較的 研究と 宗教 現象の 諸々 の 社会科学 や 哲学の 方法に よる 研究 を 合わせて 宗教学の 研究分野と 考 

えて, S り、 History of Religions とか Comparative Study of I^eligions という 名で よばれる 研究 内容 を ふくめ 

(ー) 

て、 一 股 的に 宗教学 (science of Religion) と い う 名 で よんで レる。 

前世紀の 末から、 西洋 諸国に おける 斯学の 研究 は 著しい 発展 をな したが、 わが国に おいても また これに 呼応し 

て、 その 研究の 方法 的 分野に おいても 対象 的 領域に おいても、 著しい 展開 を 示して きている。 一九 五 五 年の 日本 

宗教学 会 第一 五 回 大会で 小口 偉一 は 日本に おける 宗教学 五十 年の 歩みに ついて 叙べ たが、 彼 はこの 期間 を 三つに 

分け、 第 一 期 は 今世紀の 初めから 一 九 一 五 年頃に 至る 時期、 第一 一期 は その後 一 九 三 〇 年に 至る 時期、 第三 期 は 一 

九 三 〇 年から その 当時に 至る までの 時期と した。 そして、 それぞれの 時期の 研究 傾向の 型 や 代表者 を あげてい る 

が、 その 見と おし は 大体 正しく 且つ 興味 ふかい。 ただ、 現在で は、 いうと ころの 第三 期 は 一九 四 五 年 を 境と して 

第一 〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 三 ニー 



第一 〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 三 ニニ 

二つの 時期に 分けた 方が よいであろう。 戦後 日本の 学界 は 非常に 大きな 変化 を 受けた からで ある。 宗教学 も その 

例外で はない。 対象の 面で も 方法 や 技術の 面で も、 従来より もより 広汎な ひろがり を もって 来、 もはや 狭い 視野 

からで は 研究 を 進めが たくな つてき ている。 ことに 研究 上の 分野が 益々 ひろがり、 人文科学、 社会科学の 多くの 

分科 及び 自然科学の 一部と も 密接な 関係が 出来て きている。 それで、 諸 分科 及び 分科 間にお ける 問題 性 をまず 鳥 

瞰 してお くこと が 必要であろう。 

二 

社会科学 や 哲学 を はじめ 神学の 主流 的 傾向にまで も、 人間 を 中心に して、 それ を 統合 的な 仕方で いろいろな 分 

野から 研究しょう とする 動きが ある。 社会科学の 領域で は、 社会 構造 論ない し 構造 機能 論 も あるが、 ことに 最近 

では ヒ ュ ー マン • ェ コ ロジ ー とか ヒ ュ ー マン. リレ— ショ ンズ などと いう。 それ は 生の 営みの 全体 的な 連関から 

人間 を とらえよう とする もので、 アメリカで 目立つ やり方で あるが、 それ は 唯物論 や 実証主義 のように、 人間 を 

その外 側から 規定して いる 要素 や 条件に 還元したり 或いは 託しての み 考える ので はない。 環境 や 制度な いしい わ 

ゆる 文化に よって 制約せられ、 それらな りに 限定 せられた 上で、 人間が 自己の 欲求 を 充足す るた めに 適応して ゆ 

くと ころの 関係の 場面 を、 分析したり 解釈した りする ものである。 したがって、 その ダイナミズムの 主体 は 

である ことが 特徴で あるが、 しかし その 個体 はお かれて いると ころの 文化 や 制度な りに セット されて ハる ものな 



ので、 その 枠外に 出る こと は 一応 出来ない。 

こういう 辛 づけの 上での、 個体の 欲求 充足の ビへヴ ィァを 環境との 関係 や、 ことに 対人関係に おいてみ るの が 

アメリカの 社会科学の 一 つの 基調 ともいう ベく、 文化人類学 や 心理学 及び 精神医学の 諸 分野に 通じる。 なお、 フ 

ランス 社会学 主義 や 英国 人類学の 歴史主義 や 機能主義の 背景 も あるが、 かかる 基調に 対する G . H . ミ ー ドの影 

響 を わすれて はならない。 ことに これらの 諸 分野 を 通じて 全体の 根底 をな す もの は 心理学的な ものであるが、 一 

つに は 実験的な 立場が あり、 他に は新フ ロイド 主義が ある。 前者で はや はり ネオ • ビ へ ヴィォ リズムが 底流と み 

られ、 それに 場の 理論 を 加えて 機能的 全体の 場面 を 問題に する。 

也 方 アメリカ では サイコ ロジ ー といえば サイ カイ アト リ ー か サイコ アナリシス かと 普通に いわれる ほど、 精神 

分析 学 ことに フロイドが 盛んで、 分派 も 数多い が、 なかん ずく、 その 左派と いわれる 新 フロイド 主義 は 社会科学 

に 大きな 影響 を 与えて いる。 その 中で 目立つ の は ワシントン 精神医学 大学 や 二 ュ ー ョ ー クの ホワイト 研究所 を 中 

、しとす る 一 派で、 H • S • サ リヴァ ンの 流れ をく み、 人間の 概念 を かえた といわれる 彼の インタ —パ ー スナル • 

リレ ー シ ヨン シップ 定説 を 奉じる。 それ はい わば フロイドの 父 主義に 対して 母 主義の 考え方で、 人間の 基本的な 

形成 を 乳幼児 期の 母子 関係に 見、 母の 是認 非認、 賞罰 等に 応じて 人格が 形成され ると みる。 それが さらに 家族 関 

係、 学童 関係、 前 思春期、 前期 成熟期、 後期 成熟期の 対人関係 によって 逐次 文化 変容 をう けて 定まって くると い 

うので ある。 一 々ここに あげない が、 0. ランク (最後に 米国に 住んだ) や ホル ナイ、 フロム "ライヒ マ ン、 E. 

フロム、 E • ワイ ガ ー ト などの 名 は 日本で も 知られて いる。 系統が 少しち がう が、 A • 力 ー ディナ ー など も 興味 

第一 〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 三 二三 



第一 〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 三 二 四 

ふかい。 彼 は フロイド における 個体発生の 公式 を種属 発生の それに 転用した 越権 や 社会心理学の 貧困 を あげ、 個 

体 発生の 現在 学が 「制度」 において 決定され ている こと を 見、 これ を 未開社会の 実態に おいて 検徴 しょうと する。 

なお 以上の 実験的 立場と 新フ ロイド 主義の 立場と は 今日 境 を 接して 来つ つ ある。 イリノイの モウラ ー の 批判 ゃェ 

1 ルの キヤ メ 口 ンの 転回 を 興味 ふかくみ る ことが 出来よう。 

こういう 傾向の 中で 注目す ベ きこと は、 諸 科学の 協同に よる イン テグ ラテ ィ ブな 寄与と いう ことで ある。 さし 

あたり カル チ ュヮ. エンド. パ— スナリ ティ • ム ー ブメ ント といわれる ものな どが それで ある。 こ の 動き は 人類 

学が 主導した もので、 精神医学 ことに 新 フロイド 主義との 接触が ふかく、 E. サ ピア、 ル ース. ベネ ディ タト、 

M:、、ー ド、 リントン、 クラック ホン 或いは デュボア、 ハロウェル など、 多く の 人々 がいる。 

未開人と 文明 人との 間に は 文化の 上で 異質 的な 断層が あると いうの が、 今世紀の 第一 四 半世紀に おける 研究者 

の 黙契であった。 これ を 破った の は マリノ ウス キ ー などで あつたが、 「生活 体」 としての 人間に は、 衣食住 その 

他の 欲求 や 適応に おいて、 未開人と 文明 人との 間に 質的 相違が あるので はない と みられ、 文字の 有無 も 文化の 質 

的 相違 を 構成 しないと 考えられる ようになって、 現在で は 方法論 的に も 対象 的に も、 社会学 や 心理学と 文化人 類 

学と は 歩みよ つてい る。 アメリカの 学界で は 少し この 傾向が 過剰で あると もい われる が、 クラック ホン は 自分に 

対して は 心理学的で ありすぎ ると いう 批評が あり、 それ は 当た つ ている と 私に もい つ ていた。 

精神異常者と 子供と 未開人 は その 心性に おいて 通有性 を もち、 かつ 正常の 成人と 接続す る。 いな、 彼等の 心性 

は 正常の 文明 人の 心性の 特殊 化された 特性と も みられる ベく、 その 索引と もされる ベ きで あると いう テ— ゼを考 



えれ よ、 右 こいった こと ははつ きりす るであろう。 

実験的 立場の 心理学 も 今日 アメリカ では 人類学と 提携して いる 面が あるが、 フロイド とくに 新 フロイド 主義の 

提携 は 大きく、 かつ 多くの 業績が ある。 また、 社会心理学 や 臨床心理学 に対する 精神医学の 交流 や 疏通も 右の テ 

1 ゼを 切,, -こ. して 考えれば 容易に 理解で きょう。 もっとも あまり 接触し すぎて、 二 ュ ー ョ ー ク では 州の 法律問題 

こまで なって いたとの ことであった。 もちろん こういう 傾向に は 難点 も あり、 批判 も あるが、 しかし 一 つの 大き 

な 動きと して 注目し なければ なるまい。 

三 

ョ ー ロッパ においても、 戦後 フランスで 精神分析 学が アメリカと は 別に 再興され て 来て いる。 ドイツで はべ ル 

リン 学派 すでにな く、 昔日の おもかげ はない が、 ハイデルべ ルグの ミッチェル リツ ヒを 中心とする アメリカから 

逆輸入の フロイド 主義 研究が ある。 医学の 領域よりも むしろ 社会科学 関係に 人気が あるが、 そこで 出して いる 国 

際 的な 編集 組織 を もつ 機関誌 『プシ ュ ケ』 は 興味 ある 主題 をのせ ている。 

深層心理学 は スイスに おいて、 多くの 問題 性 を もっている。 ボス や パリ ー など は フロイドから 実存 哲学に 

た 精神医学者 であるが、 ョ ー 口 ツバの 動きで 注目すべき もの は、 哲学 自体の それ も ある けれども、 ことに 実存 哲 

学 や 人間学と 精神医学 や 心理学との 結びつき である。 最近 バルセロナで 開かれた 第 四 回国 際 精神 治療 学 会議で は 

第一 〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 三 二 五 



第一 〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 三 二 六 

「実存 分析」 を 会議の 中心 テ ー マと した。 

主体的な 人間の 在り方 をみ るに は アウト パ テ— テ ッ シな 方向と ジン パ テ ー テ ッ シな 方向と が ある。 前者 は 自己 

を その 可能性との 関係に おいてみ きわめよう とする もので あり、 後者 は 自己 を 他人 や 社会 或いは 世界との 関係に 

おいてみ る。 キヱ ルケ ゴ ー ルを はじめ ハイデ ッガ ー や ヤス パ ー スも 前の 線 をと つ た。 人間 存在の 構造 上の 欠如 や 

無の 意味 を 最も 明らかにする ものである。 日本に きた マルセル や ミュンヘンの ガル ディ ニイ、 スヱ ー デンの ルン 

ドの 人々 や ブルン ナ ー さらに マルティン • ブー バ ー 等 は 後の 線 を 強く うち 出して いる。 

か つて この 後の 線で 業績 (Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen) を 出した レヴィ ッ トは、 しかし 最近 

まで この 傾向に 反対して いたが、 いわゆる 実存 的な 問題 性に もす ぐれた 手がかりが この 後の 線に は あるので 注目 

すべきであろう。 ゲッ ティン ゲンの プレス ナ ー など は 人間学 的 社会学 を 提唱し、 シヱラ ー の 所論な どに も 関係し 

つつ、 この 後の 線から 問題の 場面 を ひらく。 ドイツで は 現に 生物学 的 傾向と でもい うべき ものが 出て おり、 人間 

学 や 生の 哲学から 展開して 新たに A • ゲ —レン や H • シヱル スキ、 A • ボ ー トマ ン、 さらに は 心理学的な P . レ 

ル シゃホ ー フス テツ タ— などの 傾向が ある。 ゲ ー ブサッ テル や ワイツ ゼッ 力 ー など は 早くから 人間性の 問題に 入 

つ た 精神医学者 であるが、 近く はミ ユン ヘンに マッセ ッ クな どもい る。 ことに ハ イデ ッ ガ ー の 実存 哲学と 精神 医 

学の 結びつき では、 スイスの ビンス ワン ガ ー や 上記の ボス や バリ ー、 心理学で は クンツ ゃケラ ー の 名 を あげよう- 

ヤス パ— スの 精神病 理学の 中で はすで に 哲学の ことに も ふれられ ており、 その後 彼に は 哲学の 大著 も あるが、 し 

かし 精神医学と 哲学との 連なりの 問題 は 十全に 展開され ていない。 今からの 問題で あると いってい たが、 この 点 



I 



に関して 学派 的な 継承 はない。 ビンス ワン ガ ー は ハイデ ゾガ ー の 哲学から 精神医学の 基礎 を 得、 クンツ は ハイデ 

ッ ガ ー の 存在論に おける 実存 的な 問題 性 を とりだして 心理学 をた てる。 なお かかる 傾向 はフ アン 二 アル • ホ ルス 

ト など オランダの 精神医学 にも 波及して いるが、 アメリカ でも かかる 線が 出て 来つ つ ある。 東部で はパ ウル • テ 

イリ ッヒの 影響が つよく、 キヱ ルケ ゴ ー ルの 英訳 もこの 線 を 助長した といわれ、 マルティン • ブー バ ー の 影響 も 

みられる。 E • ワイ ガ ー トは 早くから 実存 哲学と 精神医学 ことに 精神分析 学との 関係 を 問題に していた が、 最近 

では R. メイな どが 活動して おり、 ワシントン 精神医学 大学 を 中心とする 人々 にも 実存主義 精神医学の 傾向が 強 

い。 機関誌 『精神医学』 は 注目され てよ い。 

人間の 心の 機 制 を 人間 存在の 存在論 的 構造に つけて 考える という こと は 実存 哲学の 業績で あ つ た。 心理学 や 精 

神 医学が 人間の 人となり や 人 がら を 問題と する かぎり、 それらに は 全体 的な 人格 的 主体性が あるので、 そこに 哲 

学 的な 問題 性が 出て くるの は 当然で ある。 精神医学の 領域に おいても、 人が その 本来 的な 在り方に つくと いう 課 

題 性からの 逸脱と いう 線から 考えれば、 明らかな 解釈と セラ ピ ー の 答えが 出て 来る はずで ある。 ともかく、 この 

ように 人間の 研究が、 横に 相手との 関係ない し 人間 相互の 関係に おいて、 また 縦に 自己の 過去 や 将来との 関係に 

おいて、 いろいろな 学問から 統合 的に 究められようと している。 

四 

第一 〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 三 一一 七 



第一 〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 三 二八 

こういう:^ 勢に 連鎖して 最近の 宗教 研究 は その 手法に おいても 対象 面に おいても 変化 をみ、 従来の 傾向の 上に 

ダイナミックな 生態学 的 研究の 一面 を 加えた。 とくに 宗教の 経験 や 現象 を それだけ として 抜き 型に して 研究す る 

のでな く、 人間 生活の 全体 的 連関に おける 特殊な 形態 或いは 機能と して 捉えよう とする。 この こと は 上記の よう 

な 人類学、 心理学 及び 機能的 立場に ある 精神医学 等に おける 相互 連繋の 傾向と 結んで、 宗教 的 適応の 状況 的 及び 

制度 的 乃至 は 人格 的 プロ ジ ュ クシ ヨン の 問題と して、 宗教 的ビ へ ヴィァ の 機 制 を 研究す る 傾向と な つてい る。 と 

くに これらの 点に ついては、 制度 や 社会 等 客観的な ものから みるに しても、 或いは 主体の 適応の 点から みるに し 

て も、 いずれも それらの 機能 性が 中心に な つてい る。 一は デュル ケム ゃラ— ド クリフ = ブラウン 等の 線、 他 は マ 

リノ ウス キ ー 等の 線で、 アメリカに おいても 歴史主義の 地盤の 上に これらの 影響 は 大きく、 かつ 新 フロイド 主義 

の 諸 傾向と も 交 会して いる。 総 じていえば 構造 機能と 適応 機能との 双方から 手がけられ、 前者に おいても、 たと 

えば 文化の 概念な どに ついて、 アメリカ 東部の 学界に みられる ように、 心理的 或いは 価値 的な ものにまで 迫って 

おり、 後者に おいて は 深層心理学の 領域に ふれて いるが、 それが また 出来るだけ 社会的、 関係 的な ものにまで 分 

析 されて 来て いる。 そして 最近の 傾向で は 双方と もに 「変化」 を 問題に している が、 こういう 問題の 場面で、 宗 

教の 問題 は フラスト レ— ショ ンゃ 危機と いう 場面 構成の もとで 扱われて いる こと を 注意したい。 

こういう ように、 宗教の 研究が 全体 的 連関に おいて 考えられ ている 点から も 直ちに 気づかれる ように、 その 研 

究 対象 も 既成 的 或いは 成立 的な 形態 を もつ いわゆる 宗教の みならず、 むしろ 日常 的な セキ ュ ラ ー な 生活の 特殊 場 

面に おいて、 宗教 的な 機能 を さぐる 研究が すすめられ ている。 この こと は 新しい 問題の 場面と して かえって 也の 



分野から 注目され て 来た。 

最^の日本にぉける研究も如上の傾向と問題性とに連なる。 戦後、 とくに ダイナミックな 研究 や 実態調査 或い 

は 実験に 新生面が ひらかれ、 諸 分科の 協同が 著しい。 その 著しい ものに 一九 四 七 年に 出来た 現在の 九 学会 連合が 

あり、 その 趣旨 や 事業に この 傾向が よく あらわれ ている。 いわゆる 地域 研究の 方法で 多くの 離島 調査が なされ、 

ま. こ I、 火、 曰 一又 近で は 死 や 生長の 主題に ついて 各 分野からの 協同 研究が なされた。 こういう 構成で はない 力 三 

笠宮の オリ ユン ト 学会な ど はや はり その 性格 上 統合 的 或いは 地域的 研究の 傾向 を 具えて きている。 また 文部省の 

科学 研究費に よる 綜合 研究に もこの 傾向が みられ、 継続 中の アジア 地域 研究 を はじめ、 東北大、 九州 大を 中心と 

する 東北 農村 文化の 研究、 九州 文化の 諸 局地 研究な ど、 多数の ものが あるが、 それらの いずれに も 宗教の 分野 か 

ら 大きく 参画して いる。 戦時中に もす でに 行なわれ ていた ことで はあった が、 戦後 日本の 学界が 外地の 調査 研究 

に 著しい 進出 をみ せた こと は 注意す べきで、 中東、 アジアの 中央 高原 地域、 東南アジア、 東南 太平洋、 南米 等に 

おもむいた。 これらの 場合、 宗教の 専門家が 参加した 場合 も あり、 そうでない 場合 もき まって 宗教 習俗が 問題に 

なって いる。 また 逆に 宗教の こと を 主軸と した 調査 研究で 綜合 的な ものに は 東北大の 「東北 地方に おける 宗教と 

又 術の 機能と 形態」、 九大の 「九州に おける 宗教 形態の 分析」 などが あり、 都立 大 中心の 「農耕 儀礼 を 通じて 見た 

日本 文化の 源流」 など も 他の 諸 分科からの 参 劃 を 得て いる。 三 笠宮、 松 平 斉光を 中心とする 「に ひなめ 研究会」 

の 『新嘗 の 研究』 も 統合 的な もので、 注目すべき ものである。 さらに 「基礎的な 宗教 観念の 研究」 に は 東大 を 中 

心と した 綜合 研究が あり 、「文化 創造と 囊」 の 綜合 研究 は 京大 中心に 行なわれた。 また 戦後に 出た 講座 ものに も 

第一 〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 三 二 九 



第一 〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 三 三 〇 

このような 意図が みられ、 ことに 創 文 社の 宗教 講座 等 は 宗教の 社会的 • 心理的 及び 社会 史的 連関 を 注意して いた。 

この間、 日本 宗教学 会で は 一 九 四 八 年に 『宗教 研究』 で 「宗教学の 問題」 に関する 特集 を 出し、 さらに 翌年 同 

学会の 第 九 回 大会で は 宗教学と 隣接 諸 科学との 関係に 関する シンポジウム を 開いた。 いずれも 最近に おける 研究 

領域の 拡大に ともなう 研究 分科の 多岐 や 対象 領域の 問題に 関する 反省と 整理と を 企図し、 全体 的な 見 透し をえ よ 

うとした のであった。 ことに 後者に おいて は 各 研究 分科 間の 統合 的な 関係 を 明らかにし、 さらにい わば 縦の 連関 

をた ど つ て 理論と 実証との 相応 性 或いは 相関 性 を 問題に したので あ つ た。 

宗教 研究に おける 方法論の 問題 は、 海外で も 今世紀の 最初の 時期に 出、 さらに 二十 年代 及び 三十 年代に も 出た 

が、 その後の 時期で は 各 分野 ごとに それぞれの 道 を 歩み、 ぺ ッッ アツ ォニ ゃハ イラ ー、 ウイ デング レンな ども 五 

年 ほど 前 (一九 五 四) に は 未だ 理論的 組織よりも 資料と とりくむ ことが 先決の 問題 だとい つていた が、 しかし、 

以前から すでに それぞれの 資料に とりくむ という ことが、 上の ような、 問題の 反省と 整理 見 透し を 要求して 来て 

いた。 ところが、 これらの 人々 が 申し合わせ たように、 一九 六 〇 年の 頃までに、 宗教の 組織的 一般論に 関する 業 

績を 出し、 また IAHR の 機関誌 「ヌ ー メン」 にも、 いわゆる 宗教 現象学 的 研究に よる 理論的 組織 を 意図した も 

のが、 ちょうど、 この間に 屢々 のせられた —— 

最近で はヮ ッ ハ が 最も 熱心で あ つ たが、 ェ リア ー デゃ E • • ジヱ ー ムズ 或いは 積極的で はない が グスタフ • 

メンシング などに もこの 関心が ある。 わが国に おいて は、 やはり 今世紀の 二十 年代 前後に 方法論の 問題が 論議 さ 

れ たが、 最近で は 上記の 企てが 意義 ある ものであった。 たしかに、 領域の 拡大 や 方法の 多岐になる につれ て、 現 



在で は 問題の 所在 や 研究の すすめ 方に 関する 見 透し なくして は 研究の 組み上げ は 出来ない。 あたかも 一 九 五八 年 

夏に は 第 九 回国 際 宗教学 宗教 史 会議が 日本で 開催され、 この 国際 学会 自体の 歴史に とつ て も 日本の 学史 にと つ て 

も 記念すべき 催しで あつたが、 この 会議 を 前にして、 やはり、 この 問題 をと りあげ、 わが国に おける 斯学 研究の 

回顧と 将来への 展望 を 行なう ことにな つて、 四十 五 人の 代表的な 人々 により、 十五 分野に わたる 「宗教 研究の 問 

望と 方法」 に関する 綜合 研究が なされた。 その 成果の 一 部 はこれ を "Religious Studies in Japan" (五 〇 七 頁) と 

して 上梓し 海外に も 送った。 宗教 研究の 全 分野 を 網羅して はいな いまでも、 斯学 関係で はまず 今日 手に しうる 最 

も 包括的な 範囲に わたる 論集で ある。 

つ 、くで 全 役 的な 問 gS として は 右の 国際会議に ふれなければ なるまい。 会議 は 一 九 〇〇 年に 創立せられ たが、 爾 

来ョ ー ロッパ でのみ 開催され、 他の 地域で 開かれた の は 今回が 最初であった。 正式 会員 四 七 七 名 中外 国人が 一二 

三 名、 国籍 別に すれば 三 〇 力 国、 代表が 派遣され た 国 は 二 六 力 国 及び 一 国際機関であった。 従来の 会議で は アジ 

ァゃ アメリカからの 参加が 非常に 少なかった が、 今回 は アジア • アラブ 地域 一 四 力 国からの 代表者 三 二 名、 ァメ 

リカから は 三 九 名の 学者が 参加した。 会議 は コ ング レスと しての 規模 を もち、 更に ユネスコの メ ー ジャ ー • プロ 

ジ ヱ タツの 一 環 をに なって、 東西の 宗教と 思想に 関する 過去 一 〇〇 年間の 交流に 関する シンポジウム を 行なった" 

コングレスの 研究発表 は 九 六 (うち 日本人 四 三)。 四つの 部門に 分けた が、 分野 的に 分けてみ ると、 歴史的 研究 三 

九 (日本一 六)、 哲学的 研究 二 六 (日本 八)、 神学 或いは 宗学的 研究 一 七 (日本一 三)、 人類学 的 研究 五 (日本 三 )• 

心理学的 研究 五 (日本一)、 社会学 的 研究 四 (日本 二) であった。 

第一 〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 三 三 一 



ものである。 宗教の 極 相 を キリスト教 的 伝統の 枠から はなれて みょうと する 意図に も 通じる ものである 

なお これらの ことと 連関して、 国際会議の 前年 一九 五 七 年の 日本 宗教学 会 大会で は シンポジウム を 催し、 神仏 

基 及び 新 宗教 それぞれの 立場から、 共通の 問題た とえば 神、 魂、 救い その他の 問題に ついて 討議し、 それぞれの 

考えり 艮> ^にある もの を わかり あう ことの 試み をした。 また 越えて 昨年の 第一 八 回 大会で は 「諸 宗教と 宗教」 に 

関する シンポジウム を もって、 右と 同じ 意図と 態度で 論議が 進められた。 国際 宗教 問題 研究所で も 最近 同様の 考 

えから、 日本に おける 諸 教団の 中堅 的 代表者に よる 真摯な 討議 会 を 催して、 共通の 問題 性 を 理解し、 深めて ゆ こ 

うとして いる。 この 傾向 は キリスト 教団の 審議会で も 台頭して 来て いる 動きで、 ひとり キリスト教 内の ェキ ュメ 

ニズム にと どまらず、 他の 宗教 宗派との 関係に ついても 学び あい 理解 をす すめようと している。 総 じて アジア、 

アラブ 諸 地域に おいて は 固有の 宗教の 復興の気 運が 著しい が、 キリスト教 伝道者 層 或いは その 調査 態度 は それら 

こ 対して 必ずしも 敵視 的で はない ようで ある (たとえば シカゴの P . ビ ー バ ー の 所論)。 なお 付記すべき こと は 

右の 国際会議で 同国 際 学会の もとに アジア • アフリカ 部会 会議 を 設立す る ことが 決議、 勧告され、 日本の 委員会 

がその 設立 準備の 世話に あた つてい る ことで ある。 

五 

次に 固々 の 分野に おける 問題 性 や 研究 動向 を あげる と、 まず 人類学 だが、 以前から デュル ケムゃ 英国の 機能 主 

第一 〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 三 三 三 



第一 〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 三 三 四 

義等 及び ウィン 学派の 所論が われわれの 学界に 強く 入り、 学説 上の 研究が 多く 為されて いた。 その 点で は 最近 も 

棚 瀬 襄爾、 阿部 重 夫 等の 業績が あげられ るが、 戦後と くに アメリカの 学風が 入り、 学説 的に も 研究され るが とく 

に 実態調査 や 社会 調査に 活用され て 来た。 さきに も ふれた が 人類学の 領域が 文明社会 や 文明 人の 範囲にまで 拡げ 

られ たの は、 主として 米国 人類学の 先蹤 による もので、 戦後 ことに 現地から 閉め出された 日本の 人類学に はこの 

ことが 幸いして 日本の 農 漁村 その他に 人類学 的 調査 研究が 行なわれ、 上述の ような 機能的な 問題の 場面で 文化 変 

容 のこと などが とりあげられる。 東北 等で は 戦後の 迷信 や タブ ー の 変化が しらべられた。 古野 清 人に は 前から 台 

湾 現地に 関する もの、 その他、 棚 瀬に は 他界 観念に 関する もの、 その他、 いずれも 多くの 研究が あり、 また、 竹 

中 信 常、 中 村 康隆、 岡 田 重 精な どに それぞれの 業績が ある。 社会学 的 研究 も これらの ことに 関係す るが、 従来は 

デ ュ ル ケム 学派 ゃゥ H バ —、 ジ ゾ メル 等の 所論が 古野 や 小口 11 新 宗教 教団の 社会学 的 分析が 後者に よ つ て 着手 

された 11 その他の 人々 によって 研究され ていた けれども、 近来 やはり アメリカの 社会学が とり 入れられ、 柳 川 

啓 一な どが 理論的に も 広く 深く やって いる。 社会学 的な 調査 は 上述の ように 人類学 的な やり方と 境 を 接し、 民俗 

学の 領域 もまた その 範囲に も 入って いる 趣き を呈 している。 宗教に 関する 現地調査 は、 早くす でに 宇 野 円 空、 原 

田敏明 等に よって 着手され て 来たが II 原 田 は 最近 宗教 的 集団の 形成 過程 を 調査し、 また 「社会と 伝承」 誌 を 主 

宰 している II、 池 上 広 正 は 社会学 的 立場に おける 専門家で 多くの 離島 調査 や 最近で は 山の 宗教に 関する 調査に 

業績 を あげてい る。 なお 山の 調査に は 岸 本 英夫を 中心に 東大の 若い 諸氏が 関係して いる。 井門 富 二 夫の 都市化と 

宗教の 研究 もこ こで あげてお こう。 次に 民俗学の 分野で は 堀 一郎が 我が国 民間 信仰 史の 研究 を はじめ 多くの 業績 



をち デ、 曰 一又 近で は 右の ような 分野への 関与 を も 示して いる。 しかし、 民俗学の 歴史への 関係、 及び 社会学 や 人類 

学への 関係と いう ことに はいろ いろな 問題が あろう。 歴史の 文献と 民俗 的 資料との 区別の 問題が あり、 また、 い 

わ ゆる 「残存」 の 問題 は 人類学の 進化論 学派の 理論で あるが、 それでよ いか、 また、 それが 機能主義 的な 論拠 を 

もつ 現在の 里 論と どのよう にくみ 合わせられ るか、 さらに は ディア クロ 二 ックな 問題領域と シンクロ ニックな 問 

題 領域と は どのように 位置づけられ るかな ど、 つまり、 時の 関係の 問題と 方法の 問題になる。 堀 も 最近 はこうい 

う 問題に つ いて 視野 を ひらこうと している ようで ある。 

宗教の 心理学的 研究 もまた 古い 歴史 を もってい るが、 やはり 戦後 その 傾向 はか わり、 アメリカの 影響が 強い。 

宗教心 理学 は 以前から アメリカで 進んで いたが、 近来 その 伝統 はか わった。 日本に 最近 入った もの も その 新しい 

傾向で ある 11 竹 中 は 最近 以上の 経過 をた どった 労作 を 出版した —— 。 岸 本 はすで に 宗教 的 人格の ケ ー ス • スタ 

ディに 着手し、 脇 本 平 也 や 野 村 暢清も その 線 をす すめ、 野 村 は T . A • T 調査な どで 業績 を 出した が、 彼 は 最近 

宗教 的 適応の 意味 を とらえようと している。 この 点に 関して は 宗教 的 適応の 状況 的 分析 を 限界 的 状況な どに 寄せ 

て 行なう 仕方 もあって、 われわれ も 携わった ので あつたが、 かかる 分析 や 解釈に は 機能的 立場に おける 精神医学 

や 人類学 等と も 連関して くる。 かかる 点で は 松 本滋ゃ 小野泰 博な ど 東大、 東北大、 大 正大な どの 若い 人々 が 研究 

をす すめ、 一 部 は、 臨床心理学 とも 関係して パ スト ラル • カン セ リングの こと も 問題に している。 なお 岸 本は以 

前の 研究 を 整理して 宗教 神秘主義の 研究 を 出した。 内容 は 比較 神秘主義の 考え を 背景と した ョ ー ガの 体系 を 扱つ 

たもので ある。 

第一 Q 章 宗教 研究の 問題と 動向 三 三 五 



第一 〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 三 三 六 

宗教の 哲学的 研究に は、 今世紀の 第一 四 半世紀に おける がごと き 分野 的 統一 が 現在 はない。 欧米に おいても、 

日本に おいても 実存 哲学が 主軸 をな している が、 一 つに は 弁証法 神学の 台頭 以来、 神学との 対立、 連接 乃至 交流 

が 注意 さるべき ことで あり、 多くの 自由 神学、 哲学的 神学 は 実存の 哲学 を 底と している。 しかし、 現在に おける 

実存の 理念 (たとえば ハイデ ッガ I の ごとき) を 背景と する かぎり、 実存の 哲学 は キリスト教 神学に 連ならぬ 節 

が あり、 ブルトマン ゃゴ ー ガル テンな どに 見られる ように、 最も 展開され たものに おいても、 その 出発点に 問題 

が 残る。 ヤス パ— ス のよう な 問題のと り 方が 宗教哲学の 正道で あるか どうか は 問題で あろうが、 さらに 今日で は 

上に あげた ジン パ テ— ティ ッ シな 方向に も 興味 ある 展開が みられる。 なお 今日で は 或る 哲学の 体系の 中で 宗教 を 

位置づける という 仕方 は 少なく、 却 つ て 或る 成立 的な 宗教の 資料 や ドクトリン を 解釈 学 的に 実存の 在り方 を 仲介 

として 理解す る 方法が とられて いるが、 仁 戸田 六三郎 など はこの 方法 をと つてい るよう であり、 武内 義範が 原始 

仏教に ついて 強靱な 究明 を 続けて 業績 を 出して いるのに も かかる 背景が ある。 西 谷 啓 治が 最近 神話の 問題 を 解明 

している の もや はり 実存の 在り方 を 下敷きと している。 楠正弘 など も 近世 初期 以来の 宗教哲学 を やはり 同じよう 

な 視点から 整理しょう とする。 所詮 これら は 神学 的な もの や 成立 的 資料 或いは 文献 等 を 介しての 実存 論 的 解釈と 

いう ことにな ろう。 星 野 元 豊ゃ藤 田 富 雄、 館熙 道、 阿部 文 雄、 武藤 一雄の 研究な ども、 その 構造 論 的 背景に おい 

て はや はり 実存の 問題 を ふまえよう とする のであろう。 なお キリスト教 神学の 立場が 哲学の 立場と まじわ つ てい 

るので、 その 方面の 人と 業績の こと を あげる はずで あるが、 夥しい ことになるので、 ここで は 遠慮したい。 ただ 

ブルトマン などと 連関す る 最近の 多くの 研究に、 われわれ も 注目し なければ ならぬ とおもう。 さらに 他の 線 は、 



最初に あげた 傾向に 連鎖す る ものであるが、 宗教の 科学的 研究の 成果 を 哲学と くに 実存の 哲学と つきあわせて 矿 

合 的に みょうと する ものである。 上 叙の ような 哲学 体系の 中には 宗教の ことが 却って 貧しく、 今日の 科学 は 宗教 

の 機能 や 機 制 を 豊かに 収獲して いるので、 それ を 哲学的に 反照し、 裏の 究極 的 霞 をみ ようとす る。 従って 宗 

教の奏 的な もの や 根底 を 人間 存在 や 社会の 根底に おいてみ るので あるが、 この 点に ついて、 人 撃 等に おける 

聖ゃ 超自然の 学説の 展開 は 哲学的 考察に よる 根拠 づけに も 興味 ある 連なり を もって 来て いる。 なお、 この 線に お 

いて は 他方た とえば 前述の 精神医学 などに おける がごと く、 諸 科学の 業績が すでに 哲学の 分野に 入って 来つつ あ 

る こと も 看過 出来ない ことであろう。 われわれ も これらの 点に 興味 を もつ ものである。 

次に 神道、 仏教、 キリスト教 等に 関する 神学 的 分野に ふれなければ ならない。 キリスト教 神学に おいても、 組 

織 的な もの や 新旧 約の 歴史 神学 的な ものに おいて、 哲学 や 史的 研究が 相 接し、 或いは 双方が 交 会して いる。 たと 

えば キリストの 出来事の 解釈が 実存 解釈 を 背景と する 哲学的 究明と キリスト教 成立 史 以前の 歴史的 及び 思想 史的 

追究と が 交 会して おり、 キリスト教 成立の 源流 を さかのぼって はグノ シスと へ レ 二 ズムと ユダヤ教 とくにい わ ゆ 

る 後期 ユダヤ教との 交錯が 問題と なる。 こういう 次第で、 最近で は囊 学の 分野で 考えら るべき ものが 多く ある 

が、 また 上記の ような、 最近に おける キリスト教と 諸 宗教との 関係 や 調和に 関する 問題の 台頭 はこの こと を 要求 

して 来た。 しかし、 ここで は、 宗教 史学 的な 範囲で、 石 原 謙の 最近の 教会史 論 ゃ大畠 清、 中 川 秀恭、 関 根 正 雄、 

前 田 護郎、 赤 司 道 雄 等、 筆者の ふれえ た 業績に ついての み、 その 著者 を あげてお くば かりで ある。 また 仏教 研^ 

においても、 思想 史的 研究 や 文献学 的 研究の 内容 や 手法に 関する 種々 の 展開の 外に、 ことに それらの 成立 資料の 

第一 〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 三 三 f 



第一 〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 三 三 八 

背景 をな す 社会 や 文化の 関係 をた どる 傾向が 出て いるよう であるが、 筆者に 充分の 能力 もない ので 省く II 因み 

に 日本学術会議が 一 九 五 五 年に 出した 日本 宗教学 会 編の 文献 目録、 宗教 篇は 戦後から 当時に 至る もの を 大体 網羅 

し、 また 昨年 印度 学 仏教 学会 十 年の 歩み を 出して、 宮本正 尊の 努力に よる 機関誌 創刊 以来の 執筆 項目 をのせ てい 

る 11 。 ただ 比較 や 類型的 研究に おいて、 最近で は 注目すべき 傾向が 出た が、 わが国で は 中 村 元 を はじめ 増 谷 文 

雄、 丸 川 仁 夫、 諸 井 慶徳、 H ニァュ モウ リン、 玉城康 四郎、 岩本裕 等の 労作と 上田 閑 照、 田 丸徳音 等の 研究 を あ 

げ よう。 鈴 木 宗忠は 多年の 主張であった 宗教学に おける 型 理学 的 研究の 立場から、 法 華 仏教、 秘密 仏教、 浄土 仏 

教 三部の 力作 を 書きお ろした。 神道の 研究 は 戦後 種々 の 展開 をみ、 極言 すれば 宗教 研究の すべての 分野からの ァ 

プロ ー チが 試みられ かけて いると いっても よいが、 堀 一郎が 一九 五 四 年に しらべた 統計に よると、 戦後の 研究の 

六 〇。 ハ I セン トを こえる ものが 社会学 や 民俗学の 分野に 関係す る 調査 や 民間 祭祀 等の 研究で あ つ た。 国 学院 大学 

を 中心として 戦後 間もなく 出来た 神道 宗教学 会で は、 宗教学 的 理論 を 背景と して 神道 理論の 研究が 試みられ、 小 

野 祖教、 西 田 長男、 安津 素彦、 近 藤 喜 博、 戸田 義雄、 平 井 直 房 等の 人々 が 関係して いる。 西 角 井 正 慶ゃ岩 本徳ー 

の 神道 祭祀の 研究 や 国 学院 大学 を 中心とする 隠岐の 地域 調査 も あり、 さらに 神道 史ゃ 神道 思想 史等 全般に わたる 

ものと して は 村 岡 典嗣の 神道 史 その他の 選集が 出、 西 田 長男の 日本 宗教 思想 史 研究 及び 神道 学会の 編集した 神道 

論文 集 等が ある。 

最後に 歴史の 分野に おける ものであるが、 通じてい うと、 この 分野に 属する ものが 量 質と もに 多い。 とくに 日 

本 宗教 史 に関する ものが, 多く、 回教 はじめ 中近東に 関する もの は 少ない。 イスラム 研究に ついては 前嶋信 次、 井 



第一 〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 三 四 〇 

のとして 高 田修を 中心とする 仏教 美術の 研究が あり、 さらに 井上 光貞の 日本 浄土教 史の 研究 等が 傾向 的に 目立ち、 

田 村 芳朗の 時代 史的な 研究 も ある。 また、 上記 社会学 的な 研究と して は 小冊ながら 古野の かくれ 切支丹の 研究 は 

特殊 社会の 様相 を 抉 剔し、 田 北 耕 也 は 同じく 九州の キリシタン 集落に ついて その 文化 変容の 形態 を 長年の 研究に 

よ つ て 出版した。 さらに 高木 宏 夫の 岩波 その他から 出した 新興宗教 に関する もの も 確かな 社会学 的 背景 を もち、 

小口 や 佐 木 秋 夫 その他の 労作した 新 宗教に 関する もの も その 見識に 強味 をみ せる。 その他 社会 史的 史眼 を も つ て 

書かれた 村 上 重 良の 近代 民衆 宗教 史の 研究 も 鋭い。 このほか、 高橋梵 仙の 秘事 法 門、 森 岡 清 美の 農村 宗教、 竹 田 

聴 州 や 西 山徳の 民俗学 的 研究な どが 思いう かぶ。 なお 純 歴史的な もので はない が、 柳 田 国 男の 民俗学 的 集積から 

出て 来る 数多の 諸 論 著 や 関 敬 吾の 論策、 桜 井 徳太郎 の 日本 民間 信仰 論、 さらに 松 村武雄 やとく に 歴史的 民族学の 

立場に おける 松 本 信宏の 日本 神話の 研究 等 は 宗教学の 分野から も 注意 さるべき である こと を あげて 筆 を 措く。 

(1) 昨年 (一九 五八) 日本で 開催され た 第 九 回国 際 宗教学 宗教 史 会議の 名称の 訳語が 問題に なった。 この 会議 は 宗教 史の 

会議 で 宗教学と いうべき ではない、 宗教学と いう 呼び名で は 或る 分野の 人々 は 賛成し か ねる というの である。 し かし 外国 

で History of Religion, History of Religions というの は 正しく わが国で いう 宗教学の ことで ある。 学史 のない 頃から マ 

クス • ミュラ ー はじめ、 人々 によって Science of Religion の 首 葉 も 使われて いた。 ただ、 ョ— 口 ッパの 宗教 研究の 狭義 

の 専門家 は 従来 上述の ような 理由 もあって、 古代 以来の 成立 的 宗教の 歴史の 領域に たずさわって いるものが 多かった。 ァ 

メリ 力で はむしろ その 伝統 は 少ない が、 しかし、 Science of Religion というと 仲々 わからない。 こういう 事情で、 宗教 

学の こと を History of Religions といって いるが、 それ を 宗教 史と 訳して 日本で いう 宗教学と は 別の ものの ように 考え 

るの は 当 を 得ない。 もっとも 上記の 会議 名 を 宗教学 宗教 史 会議と したの は、 広い 範囲の 宗教 研究で、 とくに 諸 宗教の 歴史 

的 研究の 部門 も 多い こと を 内容 づけた ためで もあった。 —— 因みに、 一 九 六 〇 年の 第 一 〇 回国 際 宗教学 宗教 史 会議 (マ— 



ル ブルダ) の 理事会で、 ウィンの コパ— スは 宗教学と いう 観点から、 この 名称 変更の 提案 を だした が、 協議の 結果、 I^is- 

tory of I 八 elisions の 名で 通って いるの だから、 そのままに しょうと いう ことにな つた II 

(2) これらの ことに ついては、 拙著、 『宗教 経験の 基礎的 構造』、 第二 章 参照。 

自記 この 稿 は 昨年 (一 九 五 九) 春の 九 学会 連合の 年次 大会で 課せられた 宗教学の 研究 動向の 発表に 手 を 加えて 「宗教 研究」 

一 六 三 、召 和 三 五 年 三月) に 載せた ものである。 内容に ついても 過不足が あり、 充分で なく、 不注意から 落とした もの も 

あるか もしれ ない。 ここに 妄言 を 謝し、 叱正 をね がう ものである。 

なお、 九 学会 連合と いう 場で 報告す るた めに 稿 を 起こした ものな ので、 統合 的 研究の 動きに 重点 をお き、 かつ 鳥瞰 的な 

ものに なって いる こと をお ことわりしたい。 学 史上の ことに ついては、 『宗教学 論集』 (東京大学、 宗教学 講座 二十 五 周年 

記念 会刊) 及び 上記 Religious Studies in Japan の 序文に も識 した ことで ある。 



第一 〇 章 宗教 研究の 問題と 動向 三 四 



第一 一章 北欧の キエ ルケ ゴ— ル 研究 その他 



I 

コ ぺンハ ー ゲン は 十 一 世紀 以来の 古い 町で あるが、 市庁 舎 前の 広場 やその 他の 盛り場 以外 は 夜な ども 早くから 

ひっそりして、 ふき 抜けの 風に すねた 姿で 娘が 自転車 を かってい ると いうよう な 風景で ある。 旧 市 域の 中心 だつ 

た クリスチャン ボ ー グの 堀の 岸に は 今 も 朝々 漁船が 寄る とのこと であった。 ベ ル リンに 四 回と 国内に 一 一回の 旅行 

の ほか は、 キ- ルケ ゴ ー ルは 始終 この 町に 過ごした。 

クリスチャン ボ ー グは今 は 議会の 議事堂 その他に な つてい る 旧 王宮の 所在地で あるが、 そこから 歩いて 数 分の 

所に キエ ルケ ゴ— ルが 生まれて 育った 邸の あった 「新 広場」 二 ュト— フが ある。 百年 前の 絵と 比べても、 広場の 

様子 は 今と あまり かわらない。 広場の 東南 側の 建物 は 昔の ままで、 木造 四、 五 階の 小 商売の 家が ならんで いる。 

広場の 南西の 角に あ つた キ- ルケ ゴ ー ル の 邸 は 今 も 裁判所と ならんで いるが、 その 建物 は 商業銀行の 建物に かわ 

つ ている。 

第一 一章 北欧の キヱ ルケ ゴ— ル 研究 その他 三 四 三 



第一 一章 北欧の キヱ ルケ ゴ— ル 研究 その他 三 四 四 

キエ ルケ ゴ ー ルに ゆかりの ある ラテ ン クオ ー タ ー の 大学と カセドラルと は 隣合わせで、 間の 広場に はミ ンスタ 

1 や マルテン セ ン その他の 胸像が 何もい わないで 立 つてい る。 ミンス タ ー はこの カセドラルの ビショップだった。 

人々 は 『瞬間』 の 記憶 を 新たに する であろう。 キヱ ルケ ゴ ー ルが 最後の 息 を 引きと つた フレデ リク 病院 は 旧 市 域 

の 北 隅に あり 現在の 王宮から 近い。 今 は 工芸美術 館に な つてい る。 

彼の 墓 は 旧 市 域 を 出外れて 北西に 千 三、 四百 メ — トルのと ころに ある。 そこ は 市の 補助 墓地で、 彼に ゆかりの 

人々 の 墓 も ある。 狭い がク ルミの 大樹の 並木な どが 美しい。 総 じて 墓 は 簡素で つ つましい が、 キ H ルケ ゴ ー ル家 

の それ も 同様で ある。 所載の 写真の ように キ ュ ルケ ゴ ー ルの 墓碑銘 は 向か つ て 左下の 一 番下 にあり、 この 国の 人 

ブロ ー ルゾンの 聖歌が 記して あるが、 文句のう ち 三 句 目が saa kan jeg hvile mig i Rosensale となって いる。 

偶然に しらべたら、 まちまちに 伝えられて いるが、 ゴ ッ トシ ェ ット のように an Lebensbachen ではなくて、 バ 

ラの床 或いは パ ラの 広間に 憩い 得ん というの である。 ボ ー リンの 引く のが 正しい。 

キ H ルケ ゴ ー ルの 博物館 等と いう もの はない が、 資料 は 王立 図書館に 蔵され ている。 図書館 は クリスチャン ボ 

1 グの旧 王宮と 地つ づきで、 昔 は ドックであった という ゆかりの 場所に ある。 口 マ ン ビザ ン チン 式の 落ちついた 

美しい 建物で、 閲覧室で は 大学の 教授 や 研究者が 指定席 を もっていて、 自分の 仕事 を ひろげ っぱなしに している。 

キヱ ルケ ゴ I ル 協会の 人々 その他に 私 はこ こで 度々 会 つた。 キ H ルケ ゴ ー ル の 銅像 はこ この 前庭に 建 つてい る。 

一 日 私はキ ヱ ルケ ゴ ー ル の 父祖の 地セデ イング (soeding) を 訪れた。 ュ ト ランド 半島の 西海岸よ りで、 稍 中程 

にある ス ケルンから 箱 一 つに 機関車 をつ けた 小さい 汽車で 十五 分 ほど 北に 上った ところで ある。 コ ペン ハ ー ゲン 



から Lyntog という 稲菌 車で スケ ルンまで いくと 曰が えりが 出来る。 セデ イング は 今 も 全くの 田舎で i の 

村で ある。 今 は 割合に 豊か だとの ことで あつたが、 一帯 は 2f: の 観が あり、 牧草の 原と 囊ゃ 野菜の 畑で ある。 

人家 も 稀で 教会の 附近に も 家 はない。 若い ゲ ルス ベルグ 牧師に 案内して もらった。 キ ぶケ、 T ルの 祖父の 家の 

趾に Her laa S. ヌ Slaegts-hjem (ここに キヱ ルケ ゴ ー ル 家の 家が あった) と 刻んだ 割に 新しい 碑が 建って い 

る。 写真のと おり 教会に 近い。 キぶケ ゴ丄の 祖父の 妻の 生家と いう i 家で 当主に 会った が、 いろ 

いろ 詳し いのは 彼の 父親 だが 入院 中との ことであった。 教会 や 同家での 話 を ここで 書く 紙幅がない。 

ここで は 北欧の 各地で きいた 話 を 中心に、 北欧に おける 最近の 研究 露 を 鳥瞰し、 その他の 国々 のこと にも 少 

しふれ てみ る。 

二 

北欧の 神学 ことに 組織 神学 は ドイツ 神学の 影響 下に ある。 もっとも 最近で は 英国 或いは 米国からの 影響 も 強く 

なりつつ ある。 デンマ ー ク でも スェ ー デン でも ノル ゥュ ー でも、 教界は 依然、 国教 会の 勢力下に あり、 福音 主義 

ル— テル 派が 主で、 三国と もに 信者の 九 七、 八パ ー セント をし める。 従って 研究 も その 制約 下に あり、 たとえば 

ウプサラの ごとき も 殊に 教会 神学 ゃルタ ー 研究が 盛んで ある— 謂わ ゆる ルンド 神学 はュグ レン も クルベルグ も 

ビシ ョップ で、 エクルンドが 教授 をして いるが、 その 勢力 は 衰えて 来て いると エクルンド 自身が 語って いた II . 

第一 一章 北欧の キヱ ルケ ゴ ー ル 研究 その他 三 四 五 



第一 一章 北欧の キヱ ルケ ゴ I ル 研究 その他 三 四 六 

従つ て 神学 研究の 主流が キ H ルケ ゴ ー ルと 直接して いると いう こと はない。 

哲学 や 心理学 その他の 社会科学 は、 ス ェ —デン を はじめ 他の 国で も 最近で は 英国 或いは 米国の 影響に よ つ て 切 

りか えられて 来た。 哲学の ァ ク セル • へ ー ゲル スト 口— ムゃァ ドルフ • ファ ー レン の 影響 は 今 もな お あるが、 苦 

い 層で は ロジカル • ポジ テ ィ ヴィズ ム 等が 中心で ある —— ゥプ サラ のへ デニ ウスな ど は、 哲学の 主任で キ H ル ケ 

ゴ —ル 研究者で あ つ たが、 今日で は 新 哲学に 転じ、 キヱ ルケ ゴ ー ルの こと 等 を 口にしな か つ た —— 。 従って 一般 

的な 意味で キ H ルケ ゴ —ル 研究が 盛んだ という こと はない。 

しかし 特殊な 研究 は 依然として 根強い。 まず 神学の 領域で は、 ウプサラの T • ボー リン は 一九 五 〇 年に 亡くな 

つ たが、 彼の 神学 的 方面の み を 抽出す る 手法に 対して 全体 的 資料 を 時期 的 経過に 沿って 迎 るべき こと を 主張し、 

ボ ー リンと 対立した フ ィ ン ランドの リンドス トレ— ム がいる。 彼はル ンド 出身で、 右の 主張 を 明らかにした JLind- 

strSm, v., Stadiernas teologi, rnd, 1943. は 学位論文であった。 最近 ヌ s. tolkning av sjalvfsmekelsen sa- 

som krist ひ ndomens livsform, Lund, 19 ひ 〇. や > Contribution to the interp-retation on K.s. ks ぎ Lund 

1952. 等が ある。 

上の ような 事情で 北欧で は 神学 研究の 上に 拘束 も ある が、 しか し 哲学的な 或いは 人間 主義 的な 神学 研究 ゃ宗 

教 哲学的な 線 も ある。 かかる 線に 沿う 新しい キ ヱ ルケ ゴ ー ル 研究と して は、 デン マ— ク では 口 H グ スト ルップ 

(l^oe^strup, K; PJ Ks. und Heide^ ぬ ers Existenzatslyse und ihr V ひ rh ヒ ttiis zur verl^tindi^un^ Berlin, 19 ひ 0) ゃス 

口 ェ ク (sloek, J., Die Anthropologie Ks., Kopen., 1954) が 目に つく。 前者 はォ 1 'フスの 教授で あるが、 宗教 的 



実存の 主体性 を 追究して 従来の それよりも 問題 を 深めて おり、 後者 は、 キリスト教 において 「人間 存在」 の 本来 

をうべき 人間 は 実存に おいて 自己 を 亡ぼすべし という キ ヱ ルケ ゴ ー ルの 考えの 展開 や 表現の 仕方 を 問題に する。 

主体性と 真理の 問題 を 追究す るソ ヱ (soe, N. H., Subjektiviteten er Sandheclen, ヌ open., 1949) は キエ ルケ ゴ ー ル 

協会の 会長で、 コ ペン ハ— ゲンの 神学の 教授で あるが、 勿論 上記の ような 拘束 は ある けれども、 デンマ ー クの神 

学 は 人間学 的 実存 的 だと もい つていた。 同僚の 神学の 教授 も 彼 は 大事な 人 だとい つていた が、 彼 自身 は 実存 哲学 

に 興味が あり、 神学で は バルト や ブルン ナ ー の 影響 も あるが、 特に キヱ ルケ ゴ ー ルの 『哲学的 断片』 や 『後書』 

に 負う ところが 最大で あると 語つ ていた。 

これらの 問題に 関係す る ものと して、 スヱ ー デン では 上記の 外、 主体性に おける 対 客体の 関係 即ち r 疏通」 の 

題と して、 とくに キリス ト 者の 自己 否定の こと を 扱 つた、 ルンド 出の ヮグ ンダ ー ル (wagndal, R, Gemenskaps- 

problemet hos s, K., Lund, 1954) や、 ルンドの 組織 神学の 教授 ウィング レンの 『信仰と 真理』 (wingren, G., 

Tro och sanning, Lund, 1950) など も あげられる。 さらに ォス 口で 出された が、 若 冠 口 ェ ー ユングの l^oenning, 

P., Samtidighedens situation, Oslo, 1954. は ソヱを はじめ 多くの 人々 が 推賞して いた。 同時性の 問題 を 扱った 

学位論文 である。 —— 哲学の 関係で は 最近 新しい ものが 見られない。 ヒンメル スト ルップの キエ ルケ ゴ ー ルとソ 

クラ テスの 関係の 研究 等が あるが、 その 解釈に ついては ヒル シゃ ディ ムが 曾て 問題に した 11 。 

第一 一章 北欧の キヱ ルケ ゴ— ル 研究 その他 三 四 七 



第一 一章 北欧の キヱ ルケ ゴ— ル 研究 その他 三 四 八 

ミ 

由来し かし 何とい つ て も 北欧の キ H ルケ ゴ ー ル 研究で 傑出して いるの は 伝記 的 研究で ある。 その 先蹤は 既に キ 

ヱ ルケ ゴ ー ルの晚 年に その 幼年期 を もった ブランデスで、 彼 は 一 八 七 〇 年代に 文学の 大家であった。 一 八 〇〇 年 

から 一八 六 〇 年頃まで、 デンマ ー クの 文学界 は ドイツの 影響 下に あり、 いわば 思辨 的であった。 一八 七 〇 年代 か 

ら後、 英 仏の 影響が 来て 一時期 を 劃す るよう になった。 ブランデス はこの 後者の 影響で、 文学史 研究に 心理学的 

要素 をと り 入れ、 心理学的に 作品の 分析 を 始めた のであった。 その 伝承に ついては 略す ことと して、 今日の 連関 

から 忘れて はならぬ 人 は ハイ ベルグ (P. A. Heiberg) である。 知られる ように 彼 は キエ ルケ ゴ ー ル 資料 集 (S. 

ICS. papirer) 第二 版の 編纂の 実質的な 代表者で あるが、 最初の 『少年 期 及び 青年期に おける キ- ルケ ゴ ー ル』 

( 一 八 九 五 年) から 最後の 『キ H ルケ ゴ ー ル における 宗教 的 展開』 ( 一 九 二 五 年) に 至る まで、 資料に 忠実な、 しか 

も 全く 心理学的な 顕微鏡 的 検査 を 事と したので あった。 しかし 医者 志望だった 彼の 悲し さは、 伝統と 文学に 暗く、 

その 辺が 彼の 著作に おける 欠点と いわれる。 

今日 北欧に おける 目 ぼしい キ H ルケ ゴ ー ル 研究の 線 を 二つ あげる とすれば、 一 つ は その 伝記 的 研究に おける 心 

理 主義で、 他 は 文学 形態論 的な ものである。 軽妙な ヘンリク センの 系譜 づけに よれば、 ハイ ベルグに よる 前者の 

線が 分かれて 社会心理学 的な ものと 生物学 的 或いは 生理学 的な ものと に 展開す る。 この 初めの 傾向の ものに は 



F • ブランドが おり、 彼 は 現在 コぺ ン ハ ー ゲンの 哲学の 教授で ある。 彼 は 一九二 九 年に 『青年 キ. - ルケ ゴ ー ル』 

の 大冊 を 出して おる が、 爾来と くに 青年 時の 交友関係、 キ. - ルケ ゴ ー ルが 兄事した 心友ボ ー ル. メ ユラ ー のこと 

等 や、 ドン. ジュ アンの 理念、 また キ H ルケ ゴ— ル における 謂わ ゆる 「永遠の ユダヤ人」 といわれた 性格 等 を しら 

ベ、 一 . ^五三 年 こ は 『キ H ルケ ゴ ー ル と金』 を 出した。 この 外 K • ェンセ 二 ウス は 一 九 三 〇 年代の 初めに 『キ ヱ 

ルケ ゴ ー ル における 青年 者』 や 『キ VI ルケ ゴ ー ルの諸 研究』 を 出し、 ことに 後者で は ドン. ジュ アン、 ファ ウス 

ト、 永遠の ユダヤ人の 三 理念 を 扱って いる。 また H .ブ リク スはキ ヱ ルケ ゴ ー ルの 伝記 研究 中で は 最も 厄介な 

「地震」 の 問題 を 扱 つてい るし (一 九 三 六 年)、 キュ ー レは 『キエ ルケ ゴ ー ル 研究報告』 ( 一 九 三 一 ー 三 五 年) で キ ヱ 

ルケ ゴ ー ル家 における 家族の 死 をめ ぐる 暗い 問題 を しらべ、 最近で は 少年 及び 青年期 のキ. - ルケ ゴ ー ル を 就学 期 

頃 こ 分ナた 伝記 研究 を 出した (Kiihle, S., S. K., Barndom og Ungdom, Kopen., 1950) 11 私自身 はキ ュ ルケ ゴ ー 

ルの 思想に 特殊な 陰影と 底流と を 与える 「秘密」 や 「刺」 或いは 「地震」 のこと、 さらに 青年時代の 彼の ファゥ 

スト や 永遠の ユダヤ人の 考え方 等に 関心 を もって 調べて いたので、 これらの こと はコぺ ンハ ー ゲンの ェ ー ン セン 

や トウル スト ルツ プ などが よく 話して くれたが 詳細 を 省く 

次に は 第二の 心理学的な 傾向 即ち 生理学 的な 観点から する 解釈で あるが、 それ は 現在 コぺ ン ハ ー ゲンの 教授で 

デンマ ー ク における 精神医学の 権威者なる ヘル ゥュ ック によ つ て 始められた。 Helweg, H 二 S. ヌニ En psychia- 

trisk-psychologisk studie, Stockholm, 1933, を 出してから、 何処でも 非常に 有名で、 多くの 人々 が この 人の 名 

を あげる 11 昨日 退院した ばかりと いう 時期で 私自身 は 彼 自身に 会う ことが 出来なかった II 。 ヘル ゥ ユックに 

第一 一章 北欧の キヱ ルケ ゴ ー ル 研究 その他 三 四 九 



第一 一章 北欧の キエ ルケ ゴ I ル 研究 その他 三 五 〇 

よると、 従来の 心理学的 研究 はキ ェ ルケ ゴ ー ルの 心理的 状態 や 変化の 原因が 彼の 経験 や 事件の 中に あると して、 

記録 や 報告な ど を さぐる が、 実は 本当の 原因 は 生理学 的 原因に あるので、 それ はキュ ルケ ゴ ー ル 自身に も 自覚が 

なく、 わからなかった。 というの は 彼に は 遺伝 的な 躁鬱 症の 素質が あり、 一八 三 五 年 以来 度々 発作が 起こって い 

る。 その 発作に よって 急激な 喜び や 絶望が 起こった のであって、 晩年の 『瞬間』 の 時期の ごとき は、 この 病気の 

最後 的 症状で あると いうので ある。 但し 彼の 心理に おける 反省 は 健全で あるが、 しかし 精神 疾患の 人に おいて は、 

心理の 病的と 健全と は 交 つ ていて 境目が は つ きりし ない。 だから 彼の 反省が 健全 だとい うこと は 部分的に は 正し 

いという 外 はない。 また 彼の 思想の 表現が 病気の 故 だと はいわぬ が、 その 奥に このような 背景の ある こと を 認め 

なければ ならぬ というの である。 

偶々 同じ 一九 三 三年に コ ペン ハ— ゲンに 住む 医師 オステル フェルト は Angst-Begrevet i S. ヌ. Begrevel; 

Angst という 小冊 を 出した。 ヘル ゥヱッ クを 論難す るた めで はない が、 キエ ルケ ゴ ー ルの 『不安の 概念』 におけ 

る 不安 は 普通の 意味の それで はなく、 キヱ ルケ ゴ ー ル 自身の 心理で もない。 もしい うと すれば、 この 書の 中の デ 

モニックな 不安が 彼 自身の 姿で ある。 即ち 善への 不安で 行く手が わかって いて、 そこからの 不安で ある。 とくに 

彼の 場合 は、 彼の 家族 や 周囲から 迫られて いる 不安 全感 が、 この 行く手からの 不安と 結合して おり、 この 結合 か 

ら 来る 不安 はキ ヱ ルケ ゴ ー ルに とって 誠に わけの ある リアリティであった。 そして また、 彼の 不安 は 彼の 心的 機 

能 を 禁止せ ず、 却って 旺盛に していた が、 この こと は 右の ような 不安の リアリティと ともに、 精神病 的な 不安と 

は 性質が 異なる こと を 明らかにする というの である。 



ヽレゥ エックの 主張に 対して は 種々 の 批判 も あるが、 スェ— デンの 心理学者 ビョ ルケ ムは wjoerkhem, J., S. 

K. i psychologisk belysning, Upsala, 1942. によって ヘル ゥェ ックの 所論 を 難 じた。 即ち 資料 を 集めて キ ェ ル 

ケゴ ー ルの 隠蔽 解、 空想 癖、 内向性 乃至 自己 苛責癖 或いは 偏執 や 狂 熱性 等々 の 性格 を検 し、 彼が 人格 分裂 素質た 

る 生 格で ある こと を 主張した ので あ つ た。 なお 以上の 傾向と は 少し 様子が かわる が マグヌッセン は 一 九 四 一 一年 

に Mgnussen, ^, S. K. set udefra を 出し、 キエ ルケ ゴ ー ルは値 僂であった、 秘密と か 肉体の 刺と い つて 始終 

拘泥して いるの はこ の 健懊に 原因 するとい う。 

四 

次に は 先に あげた 研究 傾向の 第二で、 殊に 最近 十五、 六 年来 始まった 新しい 傾向で ある。 それ は 文学 や 文学史 

の 上での 研究で、 内容の 構成 や 文学的 理念、 様式 や 形態 を 問題に し、 さらに ここから 全体 的な 連関に も 及ぶ もの 

である。 従って ここから 社会的な 理念 や 形態 乃至 伝統 等との 関係に も ふれて ゆく ものである。 この 傾向の 人に は 

K さ 1 V. IRubow や willeskov Jansen がいる。 ャ ー ン セン は キエ ルケ ゴ ー ル 協会の 副会長で、 コ ペン ハ ー ゲン 

のデン マ ー ク 文学の 教授で ある。 キ H ルケ ゴ —ルの 文学 技術 論 (studier i S. Ks. literaere Kunst, Kopen., 1951, 

Guldalder, if 1958) 等が あり、 キヱ ルケ ゴ ー ル の 審美的 著作 を はじめ、 哲学、 神学 及び 宗教 講話の 諸 著作に 

亙って、 作品の 理念 や 表現 法 を 論じて いる。 彼 は 最近 四 巻の キエ ルケ ゴ ー ル 選集 (S. K. Vaerker i Udvalg, I-IV) 

第一 一章 北欢 のキュ ルケ ゴ— ル 研究 その他 三 五一 



第一 一章 北欧のキ ルケゴ ー ル研究その他 三 五 二 

を 編纂し、 三 巻と 一巻に 彼の 説明 を 加えて いるが、 自分 はキュ ルケ ゴ ー ルの諸 著作に おける 文学的 理念 や 彼の 全 

体 的 理念 を さぐる こと を 仕事と している と 語 つていた。 

ルンドで デンマ ー ク 文学 を 講じ ている コ ペン ハ ー ゲン 出身 の ヘンリク セン (Aage Henriksen) もこの 傾向 を 進 

めて いる。 彼 は 数日 中に 出る という 彼の 著作 (KS. Romaner, ヌ open., 1954) について 語って くれた。 『人生 行路』 

に 出て いる 六 つ の 物語 はキ ヱ ルケ ゴ ー ル 自身の 自伝 的 叙述で あると いわれて おり、 それらに は 心理学的な 諸問題 

が 詩的 形式 を 通じて 描かれて いる。 編者の フ ラタ ー • タ キトル ヌス はこの 諸篇は 詩的 世界から 構成され たもの だ 

とい つてい るよう に、 それら は 直接の 事実 を 叙した もので はない。 ヘンリク セン は これらの 諸篇 以外に も 『反 

復』 や 『誘惑 者の 日記』 等の 創作 風の 物語 を 併せて 考える。 そして、 それら は 実際 生活 中の 宗教 的な 面 を 一 度 詩 

的 世界に もち 帰って、 そこから 逆に 構成した もの だとみ る。 従って それら は、 詩の 形の もの も 創作 も リアルな こ 

とと 詩との 合成な の だから、 その 中から リアルな もの を 差 引いた 詩的な もの を、 文学的に 研究 するとい うので あ 

る。 その 分析 手続が 面白い。 

なお、 かかる 問題 性の 社会的 連関の 問題に ついて、 彼ゃャ ー ン セン は 次の ような こと を 語って くれた。 たとえ 

ばキ ュ ルケ ゴ —ルの 性格 や 態度と 当時の デン マ ー クの 人間との 間の 共通 性 を 考える。 百年 前コ ぺ ン ハ ー ゲン はキ 

リスト 教 都市であった。 そして キリスト教と 社会の モラルとの 関係 は 今日と は 非常に 違い、 教会の 勢力が 非常に 

強く 社会に 浸透して いた。 社会と いっても 当時 は 階級 的で、 人々 は 家に 属し、 家 は 固定 的に きまった 社会に 属す 

る。 その 社会に は 上下の 階層が 峻別され ていて、 今日の 社会と は 比較に ならぬ ほどであった。 従って キリスト教 



の 勢力 も 上層と 下層の 社会と では 質 も 度 もちが い、 上層が 殊に 強い 官僚 的な 教会の 勢力と 直接に 関係して レた。 

そういう わけ だから 問題 もや はりこの ような 「ゆがみ」 の裡で 考えられなければ ならない。 キヱ ルケ ゴ ー ルの父 

はュト ランドから 来た 貧しい 少年であった。 しかし 彼 は 富み 且つ 出世した。 従って 彼に は 所属の 社会が ちがって 

来た。 彼の 早い 隠退 や、 少年の 頃 神 を 呪った とか、 再婚の 際に 不都合が あつたと いう ことから 来る 彼の 罪の 意識 

等 も、 以上の こと を 併せて 考えなければ ならない。 キヱ ルケ ゴ ー ルは 豊かに 育った が、 家系から いえば 下層に 属 

する。 ここに もちぐ はぐの 原因が ある。 それ は 社会的に も 心理的に も キエ ルケ ゴ ー ルに 反映した であろう。 レギ 

1 ネ. オル ゼ ンは 上層の 家の人で あ つ たが、 婚約の 解消と いう こと もこの ような ちぐはぐ による 面が あ つたで あ 

ろうとい う 具合で ある。 なお Malantschuk, 〇., Indfoerelse i S. :Ks. Forfatterskab, Kopen: 1953. は 諸 著作の 

入門 書で あるが、 著者の マランチュク は 哲学と 心理学 を 専攻した 人で ある けれども、 キヱ ルケ ゴ ー ルを 全体 的に 

やる の だとい つていた。 やはり、 この 線に 入れて 考えて よいであろう。 彼 は 篤学な ボ ー ランドの 人で、 キエ ルケ 

ゴ —ルの 墓地 や 二 ュ ト ー フに 案内して くれた。 

最近の かかる 傾向 は 数人の 人々 によ つ て さらに 進められる。 しかし 彼等 はこの ような 社会的 連関 を迎 ると いう 

より は、 特殊な 問題、 ことに 宗教 上の こと 愛慾の こと 等に 問題 を 集中して、 キュ ルケ ゴ ー ルの 創作 や 物語り をせ 

ん さくして いる。 中で K:aren Brixon や Martin A. Hansen 等が 目立った 存在 だとの ことであった。 

次に キ ヱ ルケ ゴ —ル に関する 最近の 資料 編纂 や 書誌学 的 研究の ことで あるが、 すでに 上に ふれた ものの 中に も- 

この 部門に 関係す る もの も ある。 他に はキヱ ルケ ゴ ー ル 協会の 主事 をして いる 上記 トウ ルス トル ップが 協会の 依 

第一 一章 北欧の キヱ ルケ ゴ I ル 研究 その他 三 五三 



第一 一章 北欧の キヱ ルケ ゴ— ル 研究 その他 三 五 四 

嘱 によ つ て 編纂 出版した キ ヱ ルケ ゴ,' ル に関する 書簡 及び 資料 集 一 一巻 (Breve og Aktstykker vedroerende S. K:., 

udgivne ved N. Thulstrup, Kopen., 1953-54) を はじめ、 最近の 文献 資料 を 集めた 協会 研究報告 (Medddelser fra 

S. K. Selskabet, Kopen., 1949ff.) や 書誌学 的 研究の S. K:: Bidrag til en Bibliografi, udarbejclet af E. O. Niel- 

sen under Medvir に en af N. Thulstrup, Kopen., 1951. また 研究 状況 を識 した Kat-ell, A., Kierls ぬ aardstudi ひ^ 

i ?«.^§. Ko で ep, 19.48, ; Henrikssl, KJ Methods and results of K. studies in scandirmvia, cop-en., 19 ひ 1. な 

どが ある。 

五 

最後に 北欧 以外の 国々 における キ H ルケ ゴ ー ル 研究の ことで あるが、 私の 関心から 私 は 各地で 関係の 人々 にも 

会 つ た。 注文 も あ つたので、 就中 ゲ ッ チン ゲンの ヒル シと プリンストンの ロウ リ ー と パリの ジ ヤン • ヮ —ル のこ 

と を 書こうと 思 つ ていたが 紙幅が ゆるさない ので 別の 機に ゆずる。 総 じていえば、 ハ ィ デルべ ルグの レヴィ ット 

の 言葉のと おり、 哲学 や 神学の 領域に おいて はキ H ルケ ゴ ー ルは 既に 織り こみず みで ある。 だから 誰も 一応の 意 

見 はもって いる。 就中 バ ルトと ハイデ ッガ ー、 また ヤス パ ー スと ブル トマ ン等 とい つた 角度の ちがった 人々 の 言 

葉 を 直接に きき くらべる と、 新たな 新鮮さ をう つたえて 来る が、 これらの こと も 別の 機会に ゆずる。 もっとも 米 

国で は 必ずしもそう ではなく、 只今 研究 中と いった 風 も みられた。 デンマ ー クで 国外 者の 来たり 学ぶ 者と して あ 



ルケ ゴール 生誕 地 







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キヱ ルケ ゴール 家 発祥地 



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,,' ゆ 曙' 



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げられ る 人々 の 中には ァ メリ 力からの 人が 多い ようで ある。 

そう ひう わけで、 キ ュ ルケ ゴ— ルの 研究 は 今日と くに 専門の 研究者に よ つ て 進められて いるものが 目立つ。 そ 

れは 根強い。 もっとも 大学の 講義 や 演習の 題目 をみ ると 大抵 彼の 名 や 本の名 は 見あたる。 しかし 殊に 最近 キエ ル 

ケゴ ー ルが 心理学 や 精神医学の 方面で 注意され て 来て いる こと は 面白い。 彼の 性格 を 研究の 対象と するとい うの 

ではなく、 彼の 考え や 特に 方向 を 自家の 立場の 養いと し 目安と しょうと する ものである。 アメリカ では 精神医学 

や 臨床心理学の 人々 に その 気運が あり、 スイスで は 以前から ビンス ワン ガ ー 等に よって 実存 哲学と 精神医学との 

深い関係が 主張され ている が、 最近で は 人間学 的 立場の 心理学者 達が、 精神医学 のこの 傾向と も 結んで、 やはり 

キ H ルケ ゴ ー ルの 問題 性に も 接して いる。 総 じていえば、 欠如の 在り方に おける 人間の、 回復の 努力の 仕方 ゃ殊 

に 方向の 問題に 関係して、 これらの 方面で キュ ルケ ゴ ー ルが 見て ゆかれようと している 気運が あると い つてよ い 

であろう。 



第一 一章 北欧の キヱ ルケ ゴ— ル 研究 その他 



三 五 五 



第二 一章 キヱ ルケ ゴ ー ル全 著作の 初版 本、 および 彼の 死後 五 力 月 

行なわれた 壳立 資料に よる 彼の 蔵書 目録 

—天理 大学 図書館 所蔵 本に ついて ー 



マ ー ル ブルダの 国際会議 のとき (第 一 〇 回の ICHR、 一九 六 〇 年)、 中 山 正 善 真 柱から r キヱ ルケ ゴ ー ルの 初版 

本が あるそう だが、 どう だ」 という ことで、 それ は 是非 求めて おいて ほしいと おねがいした。 

そのと き は、 実はう かつに も 「全集」 の 初版の こと だと 思った。 「全集」 の 二 版 は、 一 九 五 四 年 ケンブリッジ 

で 催された 国際 東洋学 者 会議へ 出席 その他の ため、 真 柱の 外遊のと き、 コ ペン ハ ー ゲンで 求めて もらって、 天理 

大学 図書館に 所蔵され たもの が ある。 なお 「全集」 以外の デンマ ー ク語 原典の 基礎 資料に ついては 後に ふれる。 

「全集」 第二 版と いうの は 

Sc3ren K:ierke5ards Samlede vwrker, udgivne af A. R Drachmann, J. L. Eeiberg og H. p Lan 巧, 

Anden Udgave, I-XV, Kj さ enhavn (Gyldendalske woghandel, Nordisk Forlag), 192011936. 

で、 キ H ルケ ゴ ー ルが 一八 三 四 年から 一八 五 五 年の 死の 年に 至る 間に 発表した 単行の 著書 及び 新聞、 雑誌 等に 出 

第二 一章 キエ ルケ ゴ —ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 五 七 



第一 二 章 キエ ルケ ゴ— ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 五八 

した 論文 や 評論の すべての もの (全集の 中には 彼が 生前に 発表し なかった もの も 入れられ ている) をお さめて い 

る。 この 「全集」 第一 一版 は、 一 九 〇 一 年から 一 九 〇 六 年に わた つ て、 第一 一版と 同じ 編者に よ つ て 出版され た 「全 

集」 第一 版 (書名 は 第一 一版と 全く 同じ) と、 コ ペン ハ ー ゲ ンの 王立 図書館に 蔵せられ ている キ ュ ルケ ゴ ー ル 自身 

の 原稿と を 対照、 校合した もので あり、 各 巻末に は 詳密な テキスト • クリ テイクと 註記が 付され ている。 なお 第 

十五 巻 は 

Register til S み ren pcierlcewaards Samlede Vacrker, 1936, ひ ag-ow JForfatterre ち ster ved >. IlDsen, fermi- 

nolowisk: Register ved J. Himmelstrup-. 

で、 イブセンの 事項 及び 人名 索引、 ヒンメル スト ルップの 術語 解説 及び 第一 版と 第二 版との 丁数 対照 表で ある。 

この 第二 版 は、 こういう 意味で 厳密な 校訂 を径 ており、 現在 定本と なって いるもの であるが、 しかし、 すでに 

その 完本 は 入手が 甚だ 困難に なって いる。 で、 この 第二 版に 対して、 中 山 真 柱の 話の 初版 本と は 「全集」 第一 版、 

即ち 全集 初版が あると いう こと だろうと 思い、 第一 版と 第二 版の 異文 対照が 出来る と 考えて、 初版 本 を 求めて お 

いて ほしいと いうつ もりで 申した の だ つ た。 

ところが、 昨年 (一九 六 一) の 初め 頃に、 本が 入った から 見に こない かとの ことで、 その 夏 はじめて、 この キエ 

ルケ ゴ I ル 自身の 手で 出版され、 発表され、 また 死後 出版され た、 それぞれの 単行書 や 論文の 合冊 を 目の前にし 

て、 本当にお どろいた ので あ つ た。 おどろき とともに、 多分 キ ヱ ルケ ゴ ー ル の 思想 や 書物に 親しまれた 人々 が 皆 

同じ 感慨 を もたれる であろうと 思う が、 まったく、 なつかしい 思い を 禁じえなかった。 



二 



やはり コ ペン ハ ー ゲンから 来た この 初版 本コ レ クシ ョ ンは 次の ごとく 三十 一 冊に まとめられて レる。 

Vol. 1. Enten—Eller. et LivsHFragment, udgivet af Victor Eremita, 1. (^^や I ぃ^ チ, A ほ slifit, 1.), 

Kj〈.6benhavn, C. A. I^eitzel, 1843. XX, 470p. 20cm. (signature of H。13 (I—II>:II. 

Vol o. Enten—Eller, et LivsHpvawment, udwivet af Victor Eremita, 2. ^^s. I :: さチ, . 2.、, 

Kj ま〕 enhavn, C. A. :Reitzel, 1843. 368p. 20cm. (signature of Holm) (II>:III. 

Vol. 3. 

Pt. 1: To opbyggelige Taler af S. Kierkegaard, no 31^. 1843. (Ill, 11-62).:IV, 9-49. 

? 2: 闩 re opbyggelige -raler af S. Kierkegaard, 1843. (Ill, 297-350):. IV, 51196. 

Pt. 3: Fire opbyggelige Taler af S. Kierkegaard, (socoias- i. (IV, 3-76).:IV, 97-159. 

4: To opbyggelige -raler af S. Kierkegaard, no 31. 1844. (IV, 79-129):. IV, 169-203. 

Pt. 5: -Tre opbyggelige Taler af S. ICierkegaard, Roslv, 1844. (VI, 133-194):. IV, 2051257. 

R. 6: Fire opbyggelige -Taler af S. Kierkegaard, sosi. 1844- (V, 81I192):.IV, 2591352. 

Kj0benhavn, P. G. Philipsen, 184311845. 437p. 20cm. (signature of Rigms. stampe) 

Vol. 4 FryTOt OTO Baoceven. Dialektislc l^yrik af Joliannes de silsltio, 9'^^^y63wv 

Kj^enhavn, o. A. Reitzel, 1843. viii, 135p. 20cm. (signature of Rigmot. Stan き (III, 6 ひ- 187〉: V, , 111. 

第一 二 章 キエ ルケ ゴ— ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三五ブ 



第二 一章 キュ ルケ ゴ— ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 六 〇 

Vol. 5. Philosophiske Smuler, eller en Smule Philosophi, af Johannes Climacus, udgivet af S. Kierkegaard, 

Kj0benhavn, C. A. Reitzel, 1844. 164p. 17.5cm. (signature of Carl Linnemann ソ (IV, 197-302>:VI, 7199. 

Vol. 6. Begrebet Angest, en simpel psychologisknpaapegende Overveielse i Retning af det dogmatiske Problem 

om Arvesynden af Vigilius Haufniensis, isillalif s^^- s^- ^ si^^slm-. 

Kj^MDenhavn, p A. Reitzel, 1844. viii, I. 20cm. (signature of Adolf Di き J 令 rgenss (IV,305-473〉: 

VI, 101—240. 

Vol. 7. Forord,—Morskabslaesning for enkelte Staender efter Tid og Leilighed, af Nicolaus Notabene, s^ll 

^.f^p p >. Reitzel, 1844. lllp. 17cm. (signature of Rfsr stampe:! (V, 7177 丫. V, 195-25a 

Vol. 8. Stadier paa Livets Vei, Studier af Forskjellige「sammenbragte, befordrede til -rrykken og udgivne af Hi- 

larius Bogbinder, ? s^^aipl^ ^ ^-^ ^^sn ^ ^iss. 

Kj^z^benhavn, C. A. Reitzel, 1845. viii, 383p. 22cm. (signature of Rig 灣 stamped (VI, 9-517) ;vn, 51164, 

VIII, 5-281. 

Vol. 9. Afsluttende uvidenskabelig Efterskrift til de philosophiske Smuler, —Mimisknpathetiskndialektisk sammen- 

skrift T^xistentielt Indlocg, af Johannes Climacus. J udgivne af S. I^ierkegaard, ^$0^s/d^0$t^^^^^ 

? i), 

Kj0benhavn, C. A. Reitzel, 1846. X, 484p. 22cm. (signature of Rig-lor ぎき (VII, 1—620) 一Ix, 5—252, 

X, 3-289, 



Vol. 10. En literair Anmelclelse af S. Kierkegaard, (H ゆ l¥l^)> 

Kj ず nhavn, C. A. Reitzel, 1846. 114p. 20. 5P (signature of Hid a (vm, 7-121):.XIV, 71102. 

Vol. 11. Opbyggelige Taler i forskjellig Aand, af S. ICierkegaard, ^ ^^In^'^^ ^i. 

libenhavn, p A. Reitzel, 1847. 140p. 20. 5P (signature of Adolf Ditl さ f.l (VIII, 125-488〉: 

XI, 5-313. 

Vol. 12. Kjerlighedens Gjerninger. Nogle christelige Overveielser i Talers Form af S. Kierkegaard Pt. 112, is 

I€benhavn, C. A. Reitzel, 1847. 224, I. 20. 5P (signature of Adolf Ditlev Jtg 霊 3 (IX, 5-435丫- 

XII, 7—367. 

Vol. 13. Christelige Taler af S. ICierkegaard, Pt. 1-4, ? y w^^iB. 

Kj 各 enhavn, p >. Reitzel, 1848. 350p. 21cm. (signature of Henning Kehl3 (X, 7-362):. XIII, 5-282. 

Vol. 14. 

t.t. 1: Dette skal siges ; saa vaere det da sagt, af S. Kierkegaard, (いさ i£〕 さ s^u-^^A^^i^ 

11^ ふゾ (XIV, 81-98>:XIX, 75-82. 

Pt. 2: if Nr. 1-9, $, ffm^^y (XIV, 101-354):. XIX, 89-126. 

Pt 3: Hvad christus d^immer om oEciel Christendom, af S. iCierkegaard, if ^ ^ ^ _^ ^ ^ 5 ^ 

sss^3. (XIV, 141-152>:XIX, 127-248. 

l^j0benhavn, p >. Reitzel, 1855. I. 20cm. (signature of Rigm。r stampe:^ 

Vol. 15. 

第一 二 章 キヱ ルケ ゴ ー ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 六 一 



第二 一章 キヱ ルケ ゴ— ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 六 二 

p-t. 1 : sywdommsl tii D み drtn, en cllrlsteliTO p-syctlologlsk: udvildinTO til ot5t>yTCWelse OPVQBkkelse, af Antl-rll- 

macus, udgivet af S. Kierkegaard, 1849, (お 潘), (XI, 129-272>:xv, 651180. 

FM:. Lilien pwa OTO Fuwlen under himlen, tre TOUdellTOe Thaler, af S. rsaerkeg-aard, 1849, (細? ゆ. 略 

p 看), (XI, 7-57v:XIV, 125-166. 

Pt. 3: Ho Taler ved Altergangen om Fredagen, af S. Kierkegaard, 1882, (^s m 嫩 Jtn 二 t ,su\3<T5gclj^), 

(XII, 309-336) ;XVII, 23—47. 

R. 4: Tre Taler ved taenkte Leiligheder, af S. K^ierkegaard, 1873, Q^.w r ^ ^ ^osss. (V, 

159-293>:VI, 241-323. 

Kj0benliavn, C. A. ; Reitzel, 314p. 20.5cm. (signature of Frithiof Brando 

Vol. 16. ひ. lclerk:eTOaarcrs Bkd ミ tilsr, med .Blla ぬ samlede etter foriatterens D み d, udTOlvne som Supplement til hans 

tse Skrifter af R. Nielsen, (s. K. ^ ^ ^ ^ ^ss^^s^^ R- Nielsen 

n J; ..-TEW 3), 

1: Artiker under Forfatterens eget Navn, ^sssn^ (28)), (XIII, 14—480, XIV, 11—95) 

Pt. 2: Artiker af Pseuclonymer, (雨^ <T5itt^^ ( 5 浦)), (XIII, 448-471, X, 363-388) 

Pt. 3 : Bilag, SB. 

K:j^Atstlhavn, p >. Reitzel, 18 ひ 7. xvi, に 96p. に ocm. 

Vol. 17. 

p-t. 1 : Af en endnu Levendes F*apirer, udwivet mod hans Villie af S. Kierls^aard, 1838, (I - 叫^ ib "畔ー ゆ- S 錄3# - 

一 e„s), (XIII, 47-100>:1, 11-57. 



Pt. 2: Tvende ethisk-religiie smaa=Afhandl5ger, af H. H., 1849, fJ30as^ (XI, 61-127) 

XV, 9-64. 

3 : Gjentagelsen, et Fori i den experimenterende Psychologi, af Constantin Constantins, 1843, 

Kj ず nhavn, p A. ReitNel 1838149. 320p. 1" 5§. (signature of Frithiof Bri (III, 191-295).:v, 113-194. 

Vol. 18. Om Begrebet Ironi med stadigt Hensyn til socrates「udgivet for Magistergraden af S. A. Kierkegaard, 

(Theologisk candidat), Q ^ ulaino- A. s. ^. S^^M^Ha. 

fsf R o. Philipsen, 1841. 31 20. 5P (signature of Frt Bri (xm, 103-428):.I, 59—331. 

Vol. 19. 

Pt. 1: Synspunktet for min Forfatter=Virksomhed, en ligefrem Meddelese, Rapport til Historien af S. Kierke- 

gaard, 1848, §$§^0 (XIn, 547-624>:XVIP 79,169. 

t>t. 2: Den Enkelfe", tvende ,,Noter 《- betraeffende min Forfattern Virksomhed, af S. Kierkegaard, (抵第 咪), 

(XIII, 627-655) 

Pt. 3: En flygtig Bemaerkning betraeffende en Enkelthed : Don Juan, ( K • ^ u' s vsino- As^^ ^ ^ 

Kj へ、 benhavn, C. A. Reitzel, 1859. 128p. 20.5cm. (signature of Harald Hm.mg ン (XIII, 481-492) 

Vol. 20. Indise i Christendom, af Anti-CHmacus, Nr. 1. 11. pit af S. Kierkegaard, 5 y ヌ 5SP 

Kfenhavn, C. A. Reitzd, 1850. I. 20. 5P (signature of Adolf Ditl さ a (XII, 7-286):XVI, 

5-242. 

Vol. 21. 

第一 二 章 キュ ルケ ゴ I ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 六 三 



第一 二 章 キエ ルケ ゴ— ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 六 四 

IPt. 1: ,Til Selvpr0velse, Samtiden anbefalet, af S. Kierkegaard, (皿 wi^MS/;: a6n), (XII, 339-426>:XVII, 

.19-123. 

Pt 2: 〇m min Forfatter=Virksomhed, af S. Kierkegaard, (珊 it-t 厂 Tc^of 卜 s 滞 ilJn.o ぐン T), (XIII, 523-543>: 

XVIII, 59-77. 

Kj0b-enllavn, o. A. :Reitzel, 1851, 112p. 20cm. of Ri き lor stampe) 

Vol. 22. DAmmer selv! 闩 il selvpr^^verse Samtiden anbefalet, —Anden Raekke, af S. Kierkegaard, 【1851-52】, (冊^ 

や 難 5, 

KJ^benhavn, C. >. Reitzel, 1876. 128p. 20cm. (signature of Rigmor stcmf ソ (XII, 429-556) :-xvm, 1251230, 

VOL 23. 

1: Tre Taler, (vol. 15, Pt. 4) ケ w 蔬 

p-t. 2: -, Ypperstepraesten 二 I irolderen" I- -csyndennden ノ tre laier ved Alt^rTOanTOen om Fr ひ dagen, at ひ. pclerls- 

gaard, 1849, (「;^^wl」 rilx!5-A」 rlp^^ 外」), (XI, 273I311>:XIV, 167-199. 

Pt. 3: En opbyggelig Tale, af S. IGerkegaard, 185P s-^siw. (XII, 289-306>:xvn, 7-22. 

4: Ho ,Taler (vol. 15, 3) tMtM 

5: Guds Uforanderlighed, en Tale, af S. ;Kierkegaard, 1855, ss^ss. (XIV, 297-306):. XIX, 249-330. 

Kj^b^nliavn, C. >. Reitzel, 18.4 ひ —ひ^. 218p. 20cm. 

Vol. 24. ForteTOnelse over Dr. S0r め n A. Kierkewaards efterladte WOTOSamling, 

Kj^ib-enhlavn, S. r. Mailer, n. cL 87p. . 

〔各 巻の 最後の ( ) 内の 数字 は 全集 第二 版の 所収 巻 数、 丁数 を 示す。 つづく カツ コ なしの 口 — マ 数字、 アラビア 数 



宇 |集第 三 版 (S. K. slede Vaerke, 3 uc? Gyldendal, 1962-64) の 巻 数、 丁数で ある。 第三 版 は 二十 卷 (A. 

一 t,;ZLnn:T. L. Heib ま H. C. Lie 編) で、 第二 十 巻に は 全 養 一、 第二、 第三 版の 比禁引 及び キ エル 

ケゴ ー ルの 用語 辞典 (J. Himmelstrup) が 入れられて いる。〕 

これ 以外に、 Vol.3 にあた る ものが、 第一 篇 から 第 六篇 まで を 分冊した もので 六 冊、 合本した ものが 一冊 あ 

り、 合計 三十 一 冊と なる。 

併し このうち Vol. 3 は 二部 重複して おり、 また 第二 十三 冊の 第一、 第 四 は それぞれ 第 十五 冊の 第 四 及び 第三 

と 重複で ある。 

それで、 この セット は 二十 四 冊と すべきで あるが、 その 内容から いって、 二十 四 冊、 四十 一巻 II 二つの 「教 

説」 の 重複 を 引き去って— とすべき であろう。 「あれ か、 これ か」 を 二 巻と 数える 外、 単行書 を それぞれ 一巻 

と 数え、 それから 多くの 教説 はキュ ルケ ゴ ー ル 自身が ひとまとめ にした もの を 一巻と 数える と、 II という こと 

は、 たとえば、 彼 は 一 八 四 三年から 四 四 年に かけて 実に 十八の 「教 説」 を 書き、 一 八 四 五 年の 三つ を 加える と、 

二十 一 の r 教説」 を 書いて いる。 また 後年に も 多くの 「教 説」 が あるが、 それら を、 十八と か 二十 一と かに 数え 

ないで、 たとえば 一八 三 四 年の ものに ついていえば、 「二つの 教説」 「三つの 教説」 「四つの 教説」 という 具合に 

キ H ルケ、、 コ1 ル 自身が まとめて いるもの を 各 一巻と 實、 更に 新聞、 雑誌に 囊 した 評論 は 第士ハ 巻に 本名の も 

のと 匿名の ものとの 一 一部に 分けられて いるが、 それ は 一 巻と 考える という 具合の 数え 方 をす ると II 四十 一 巻と 

い うこ とになる。 

第二 一章 キヱ ルケ ゴ— ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 六 五 



第二 一章 キエ ルケ ゴ— ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 六 六 

このうち、 第二 十四 冊 は 甚だ 興味 ある もので、 全く 稀覯 書と いうべき ものであろう。 キュ ルケ ゴ ー ルの 著作で 

はない が、 まさに 「ゼ ー レン • A • キ ヱ ルケ ゴ ー ル 博士の のこした 蔵書 目録」 である。 さらに この 目録 は 一 八 五 

六 年 四月 八日から コぺ ン ハ ー ゲンで 行なわれた 彼の 蔵書の 売 立 目録で ある。 彼の なくなつ たの は 一 八 五 五 年 十一 

月 十 一 日 だ つ たから、 彼の 死後 五 力 月 目に 蔵書が 売りに 出された わけで ある。 

リスト された 蔵書 総数 二 七 四 八 冊、 うち キヱ ルケ ゴ ー ル 自身の 著書 一 四 一 冊 を ふくんで いる。 表紙に は 

「ドクトル. ゼ ー レン • キ H ルケ ゴ ー ルの 残した 蔵書の 目録、 

これら は 一 八 五六 年 四月 八日 火曜日お よび その 翌日に ク レデボ テル ン五 ~ 六 号に おける 公 

開の 競売に よ つ て 売られる。 

支払いに ついては、 すべて 代理人 J. Maag, ダレ デボテ ルン 一 〇 一 号まで」 

と あり、 

仲介の 書肆 は H. Hagerup, H. R J. Lynge 及び O. Schwartz となって いる。 

表紙 裏に は 売 立の 規約が のせて あり、 書物 は 落札され た 時の 状態で 引渡される とか、 支払の 方法 や、 落札 者が 

書物 を 引き とらぬ 場合 は 再度 競売に すると か、 期限 内に 支払し ない 者に は 強制 取 立 をす る 等の ことが マ ー グの名 



でしる されて い る。 

目録に よると、 彼の 蔵書 は 神学 や 哲学の 関係の ものが 首位 を しめてい るが、 聖書 類、 説教 集 や 諸種の 教会史 を 

まじめ、 教会 文学、 詩篇、 聖歌に 関する もの も 多い。 ラテン語 学 及び 文学に 関する もの や ギリシア 文学、 哲学の 

関係の もの、 さらに、 一般の 文学 や 美学 芸術、 詩歌、 演劇に 関する もの、 歴史に 関する もの、 或いは 神話、 伝説、 

俚謡な ど、 きわめて 広い 範囲に わたって いる —— シヱク スピア や.、 ハイ ロンの ものな ども あるが、 ドイツ 訳で、 英 

文の 書物 はみ あたらな いようで ある。 彼 は 英語の 文献 をよ まなかった といわれる I, 。 リストの 中には 一 五 〇〇 

年 t に 出 坂され た 古い 本の名 もしば しば 出て 来る が、 注意 を ひかれた の は、 当時の 新刊書が 多く 入って いる こと 

であった。 一八 四 〇 年代の もの も 目立って 多く、 一八 五 〇 年代の もの、 とくに 彼の 死の 年の 一八 五 五 年刊 行の も 

の も 三、 四お さめられ ている。 彼 は 一 八 三 〇 年 十七 歳 (実は 十八 歳だった ともい われる) で 大学に 入った が、 大 

学の なかばから 二十 四、 五 歳までの 間、 かなり 自由な、 また 放縦な 生活 をして 借金が かさまり、 父親に 払っても 

ら つてい るが、 その ッケを みても、 かなり 本屋に 金 を 払って いる。 彼 は 二十 一歳 頃から 四十 二 歳で 世 を 終わる ま 

での 間に 一万 枚からの 原稿 を 書いた。 また 一八 四 二 年 以後 十三、 四 年の 間に 四十 余 種の 著作 をして いる。 そんな 

に 多作だった 彼 はまた 博覧強記だった。 ことに 一八 四 〇 年代の 後半から は、 身 を 挺して キリスト教 信仰の ことに 

心 を ひそめ、 晚 年の 時期に はとく に教界 攻撃に 懸命で あつたが、 その 間、 新刊書 は どんどん 求めて いたので あろ 

う。 

この コレ クシ ョ ンに入 つ ている 著作 は 上述のと おりで あり、 また 上記 各冊の 題名の 後に カツ コ して 入れた よう 

第二 一章 キエ ルケ ゴ —ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 六 七 



第一 二 章 キヱ ルケ ゴ— ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 六 八 

に、 ほとんど 各冊と も 曾ての 所有者の 署名が あるが、 

Anna Holm (1838-72) は 二 冊、 彼女 は 当時 有名な デン マ— クの オペ ラ 歌手であった。 

Rigmor Stampe (1850—1923) はこの コレ クシ ョ ン中、 八 冊の 所有者で、 男爵夫人の 作家 だ つ た。 Carl Linne- 

mann は 筆者に とって 現在 未詳。 四 冊に 署名の ある Adolf 0. J な rgensen (1840-97) は 史料の 編纂 官で 歴史家。 

一 一冊の 署名 者 Harald Esfding (1843-1931) は 哲学 史家と して 国外で もよ く 知られ、 大学の 教授で 総長の 経験 

も あ つ た 人で ある。 Danske Filosofer, 1909 や ことに フロンマン の 古典 哲学 叢書の なかに 独 訳で でて いる s,en 

^^^H^^^^^^^ som Filosof, 1892 は 有名であった。 後者 は 日本で も 曾てよ く 読まれ、 かつ 邦訳 も ある。 署名の 一 

つ Henning ICehler (1891- ? ) は 有名な 批評家で あり、 ジャーナリストで、 多くの 評論 を 書いて いるが、 こと 

に イブセンの ドラマ の 研究家と して 知られて いる。 曾て パリに 遊学し、 文学史 をべ ディ ュに 心理学 を ジャネ に 学 

ん だとい う。 最後に Frithiof Brandt (1892-) の 署名 本が 三 冊あって、 この コレクションに 対するな つかしみ 

を 更に 引き立てる。 彼はコ ペン ハ ー ゲ ン 大学の 教授で あ つ たが、 キヱ ルケ ゴ ー ル の 研究者と して 知られ、 とくに 

青年期の キエ ルケ ゴ ー ルの 研究 は 有名で ある。 Den unge SSren W^^M^^WPi. 1929, Else JRammel との 共著 

Soren Kierk:eTOaarcl cm P21wene, 193^ 等が あり、 s^3ren ^^^^^om^^^^ og Mozarts Don Juan, in: Theoria, 

1935. その他 最近に も 資料 関係の 論文な ども ある。 

なお キ H ルケ ゴ— ル に関する デン マ ー ク語 原典の 基礎 資料と して は 『全集』 の 外に、 

Eftdadte t-apirer, ved H. R warfod OTO H. oottsched, IIVIII, Kj6benhavn, 1869—1881. 



t^apirer, udgivne af P. >. Heiberg og V. ^1. を 改版した 新版の 定本 

t>apirer, udgivne af P. A. Heiberg, V. ヌ uhr og E. Torsting, I-XX, lahn., 1909-48. が あり、 

ヌ ierkegaardske Papirer, Forlovelsen ved R. Meyer, Kbhn., 1904. など 力 ある。 

この 外 デンマ ー ク では 最近、 キ ュ ルケ ゴ ー ル 協会の 副会長で コ ペン ハ ー ゲン 大学の デンマ ー ク 文学史の 教授 を 

している ヤンセン の 四 巻より なる 選集 

S. ヌ ierkegaards Vaerker i Udvalg, med Indledninger og Tekstforklaringer ved F. J. willeskov Jansen, 

195P 

その他 最近 デンマ ー ク における キュ ルケ ゴ ー ル に関する 資料 活動 等に ついては 拙稿 「北欧の キュ ルケ ゴ ー ル研 

究 その他」 (理想、 キ H ルケ ゴ ー ルと 現代、 昭和 三 〇 年 一〇 月) (本書、 第一 一章) 参照。 

四 

キエ ルケ ゴ ー ル という 人の ことと か、 その 思想の 内容 や 生い立ちの 経緯に ついて、 多く ふれる 紙幅 はない 力 

この 稿で は 著作の ことに ふれて いるの だから、 その 著作に 対する 著者の 関係、 つまり 著者た る キエ ルケ ゴ ー ルの 

資格 や 態度に つ いて ふれて おくべ きであろう。 

彼 は 生まれぬ 先き から キリスト教 的に 生きなければ ならぬ ように 運命 づけら れ ていた。 それ は 父の 罪の 故に、 

第一 二 章 キュ ルケ ゴ— ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 六 九 



第二 一章 キエ ルケ ゴ I ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 七 〇 

父が その子 を 神に 忠実な僕 として 育てなければ ならぬ と 決心して いたから である。 父の 罪と いうの は、 幼少の 時 

神 をのろ つたと か 再婚の 際の 不都合な どと いわれる が、 むしろ 問題の 中心 は、 これらの 事実 を 神の 前にお いて 反 

省す ると ころに 生じる 神の 怒り や 罰に 対する 恐怖 や 不安 を かさねて ゆく ところに ある。 父 は 再婚 直後の 壮年の 時 

期に その 生業 を 退き、 また、 キヱ ルケ ゴ ー ルの 生まれる 半年 前、 ナボレ オン 戦争の 影響で、 デンマ ー クが 非常な 

経済的 危機に おそわれた 際に も、 父 は 資産の 整理 をして 倒産の 覚悟 もした。 いずれも 神 をお それての 処置で あつ 

たかと 思われる が、 しかし、 引退 後の 彼 は 経済的に は 恵まれ、 社会的に も 表面、 不幸ではなかった。 倒産の 危機 

に 際しても 仕合わせな ことに、 彼の もっていた 王室 債権 だけ は 値 下りせ ず、 却って 彼 は 金持ちに なった。 神 は 彼 

の 罪 を ゆるした のか 或いは 忘れて くれたの か。 否と 彼 は 考えた。 不安 は 仕合わせの 最中に 不図 感じられる という 

が、 これらの 幸運 は、 神が その 次に きつい 罰 を 下す ための 前置 かも 知れない。 きっと 彼に とって、 かけがえ のな 

い 彼 自身の 身の上 や 家族の 上に 罰が 来る ので はない かと 考えた とき、 彼 は 慄然と した。 彼の もとから 家族 はすべ 

て 奪われ、 彼 はた だ 一人 残される であろう。 このような 神の 罰に 対して は 身 を かわす 方法 はない。 ひたすら 神の 

意志に 従い、 神の ゆるし を まつ 外 はない。 それで、 生まれて 来る 子 は、 かかる 神の 罰の 計画の もとにお かれる が- 

しかし、 それ にもかかわらず、 神の愛 を 信じ、 神に そむく ことなく、 神の 意志に 従うよう に 育てなければ ならない- 

一 八 一 三年 一 月の 金融 危機から 同年 五月に キ ヱ ルケ ゴ —ルが 生まれる までの 間、 父 は 非常にな やみ、 以上の よ 

うな 決心 をした。 だから キエ ルケ ゴ ー ルは 生まれぬ 先から、 神に 対する 関係 を 特別に 決められ ている。 幼少の 頃 

から 父 は 室内 散歩な どで この 子 を 教育し、 ことに キリスト教 的に きびしく 禁 けた。 もちろん 父の 罪の こと や、 父 



第二 一章 キエ ルケ ゴ —ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 七 二 

ただ 神の 助けに よ つ ての みうち 克っ ことの 出来る 罪が あると い つ た。 当時 父 はよ く 自分の 心 を 打ち明ける ことの 

出来る 懺悔 僧が ほしいと いい、 また、 かって 免罪符の 中には、 すべての 罪 は ゆるされる、 たとい 処女なる 母 を 犯 

しても、 といって あると 語った ことがある。 これらの ことにつ いて、 キエ ルケ ゴ ー ルは 最も 強い 印象 をう けたと 

日記に 書いて いる。 彼 は 父の 背後に 陰惨な 影の ある こと を 従来よりも さらに 強く 勘づき、 また、 父の 彼に 対する 

キリスト教の 鎮が、 この ことと 関係が あるので はない かと 思った。 

五 

この 出来事 は 一 八 三 五 年 春の ことで あつたと 思われる。 その後 キエ ルケ ゴ ー ルはゼ ー ランドの 北辺の ギ レレ ー 

に 旅行し、 八月に 帰って来 たが、 父 は 堪えが たい 煩悶に うち ひし がれて 明け くれして いる 様子であった。 この 秋 _ 

或いは その後 一 八 三 八 年初め までの 時期に、 キ ュ ルケ ゴ ー ルは 地面の 覆る ような 「大きな 地震」 を 経験す る。 そ 

れは、 彼と 彼 を とりまく すべての こと を 新しく、 そして 間違いな く 説明す る 原理 を 彼に おしつけて 来た 恐るべき 

激変であった。 そのと き、 彼 は 父の 長命 や 家族が 素質に 恵まれて いる ことな どが、 神の 祝福で はなく、 本当 は 神 

の 呪いで あり、 やがて 家族 は 滅び 去って 父の みが 残る こと、 それが 神の 罰な の だと 感じと つた。 ただ 父が 宗教の 

慰めに よって 家族 を 安らかに し、 たとい 神の 呪いと 罰と によって、 一門す ベて を 地上から 抹殺され なければ なら 

ぬよう になって ハて も、 しかも 神の 手に よって、 永遠の 世界が 家の人々 に 開かれる ように、 父が 重い つとめ を 荷 



つてい ると いう ことによって、 時た ま 心の 軽くなる 思い をした、 と 一 八 三 九 年の 日記に 識 している。 

この 地震が どのような 機会に、 どのような 仕方で 起こり、 そのと き、 どんな こと を 経験した ので、 以上の よう 

な こと を 感じと つたの かとい うこと はわから ない。 彼の 手記 や いわゆる 『クイ ダムの 日記』 の 中に ある 六つの 創 

作 等の 中から 推定して、 それ は 父が ひそかに 神に むかって その 罪 を 告白し 慟哭して、 神の ゆるし をね がって いた 

の を、 キエ ルケ ゴ ー ルが 偶々 かいまみ たので はない かとい うこと にな つてい る。 その 罪と いうの は、 父の 少年の 

日に 神 を 呪った とか、 再婚の 際の 不都合な どであった かもしれ ない。 しかし、 さきに も あげたよ うに、 根本的に 

は祌 に対する 不安 やお それが それらの 行跡の 上に 罪 を かさねて 行った ものであろう。 

キ H ルケ ゴ ー ル のこう いう 経験が 一 度 だ つ たか 何度か あ つ たか、 或いは その 中から、 父が 彼に 対して あから さ 

まに 告白した 場合 もあった のか、 などの こと は 明らかで はない が、 もの 心つ く 頃から 不審に 思い、 何となく 予感 

された 父の 背後の 暗い 影が、 この 経験に よって はっきり として 来、 同時に 彼が 決定的な ショック を 受けた こと は 

明らかで ある。 それ は識 されて いるよう に、 やはり 父の 罪に よって 父と 家族が 神の 呪い をう け 神の 罰の もとに あ 

ると いう こと を 知 つたこと であろう。 

この 経験に よって、 彼 は 自分が 神と 特別な 関係に おかれて いる こと を 知った。 幼時からの 父の 厳しい 摸 も、 さ 

て は、 このためであった のか。 父 は 彼の 罪の ために 自分 を 神の 犠牲に 捧げようと 決心して いたので はない か。 そ 

う 思った とき、 父の 罪 を うらみ 父の 仕打ちが 悪 まれる。 彼 は 父に つまずいた 11 もっとも、 後に 彼 は 父が きびし 

く 育てた 配慮 は、 どうしょう もない 神の 意志の もとにいて、 父と 同じように 神の 仕打ち を 悪み、 神に そむいて 罪 

第一 二 章 キエ ルケ ゴ —ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 七三 



第二 一章 キュ ルケ ゴ— ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 七 四 

を 重ねない ように、 ひたすら 神 を 愛し、 イニスが 神の 意志の もとにいて 悩み 苦しみ、 しかも 神の 意志に 従った ご 

とくに 生きる ように、 即ち まさしく キヱ ルケ ゴ ー ル 自身の ために、 父が 配慮した ものであった こと を 日記に 書い 

ている 11 。 

こういう 経験 を 径て彼 は 父と 家と を はなれ、 放縦な 生活に 身 を 委ね、 遊蕩の 時 もす ごした。 しかし、 それでも 

彼 は 決して 神 を 忘れる こと は 出来なかった。 神から はは なれられない。 いや、 目が はなせなかった といい 得よう" 

それだけに、 神の 仕打ちが 不都合 だと 思い、 キリスト教が 充分に 立派な もので はない とも 考えた。 ここに は、 神 

への 関係に おいて、 上に あげたよ うな ひたすらな もの はなく、 逆に 神への 道からの 逸脱が ある。 それが 罪で ある 

が、 この間、 いわれる ように 或いは 純潔 を 失った とか、 その他 罪と さるべき 事柄 もあった かもしれ ない。 しかし. 

この 時期に おいて 彼が 決定的に 罪に 陥った というの は、 やはり、 神との 内面的な 関係に おいての ことで あり、 神 

との 内面的な 行きち がいの ことで ある。 それが 深い 意味に おける 彼の 「肉体の 刺」 である。 神へ むかって のみ ひ 

た すらでなくて はならぬ という 規矩が 強い ほど、 神への 恐怖と 不安 は 増し、 かえって 逆な 方向に 逸する。 そして、 

その 逸脱が また 恐怖 や 不安 を 一層まして、 つまずき を 重ねる。 

そういう 日が 一 八 三 六 年、 彼の 一 一十三 歳の 春 頃から はじま つた。 もつ とも、 久しから ずして 神との 正しい 関係 

に 立ち直るべき であると いう 反省が 出て 来たが、 しかし、 現実に は 急に そうは ゆかなかった。 彼が 後の 婚約者で、 

彼の 生涯 を 支配した レギ ー ネ • オル ゼンを 口 ヱ ル ダム 家で 初めて 見た の は 一 八 三 七 年の 五月で、 身の しまる 思い 

だ つ たという。 こえて 翌三八 年 三月に は 彼の 師 であり 知己で あ つた メ ユラ ー が 死に、 彼に のこした 言葉が 彼に 覚 



醒の ラッパの ように ひびいた" そして 五月 中.!^ に は 不思議な 宗教 的 歓喜 を もち、 八月に は 父の 死に あい 爾来 父 

に対する 終生の 愛情 を 回復し、 神と 和解し 神に 向か つ て ひたすら なること を 志す。 

自分に とっての 真理 を 見出して、 それに 生き、 それに 死すべき であると いう、 いわゆる 主体性の 真理 を 求めよ 

うとい う 決心 は、 上述の ギ レレ ー の 旅の 日記に 識 している が、 人 は 如何にして キリスト教 的に 生きる かとい うこ 

とが 彼の 終生の 「問題」 であった。 そして、 キリスト教 的に 生きる という こと は、 彼に おいて は、 まさしく 以上 

のよう な经緯 を径て 実に 神 を 前にして、 罪に おいて 自己 を 自覚し 抜き、 悩みに おいて 自己 を どこまでも 「真摯」 

に 持ちき ると いう ことであった。 この こと はた だそう する のがよ いという ので はなく、 実に 人間 存在の 根底に 相 

応 するとい う、 彼の 哲学に やがて 実 を 結ぶ こと を 注意して おかなければ ならない。 

彼 i 父の 死後、 一八 四 〇 年に 父の 追憶の ために 父の 郷里の セデ イングに 旅した が、 帰って から 間もなく 九月 

八日に レギ ーネ • オル ゼンに 結婚 を 申込み、 二日お いて その 承諾 を 得た。 しかし、 彼に とって 悲劇の 現実が ここ 

から はじまる。 彼 は 婚約の 翌日から それ を 後悔した と 日記に 識 している が、 非常に 煩悶した 後、 一年 足らずして- 

翌年の 八月 上旬に はこの 婚約 を 破棄した。 世間 的な 意味で も それ は 甚だしい 悖徳で ある。 そのこと にも、 もちろ 

ん彼は 悩んだ が、 一 層 深く は 宗教 的な 苦悶 を径 験した のであった。 

彼の 生 は 父との 関係に おいて、 神との 関係に 決定的に おかれて いる。 彼 自身 はお かれた ように 生きる 外 はない 

と 考えて 来て いる。 はじめ、 レギ ー ネ との 結婚 を 考えた 際に は、 神との 特別な 関係に おいて 生きる こと を 彼女と 

ともに しょうと 考えて いた。 或いは 神に にらまれ ている こと を 忘れ、 神の 目から 自由に なれる こと を も 考えて い 

第二 一章 キエ ルケ ゴ ー ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 七 五 



第一 二 章 キエ ルケ ゴ— ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 七 六 

た。 ところが 実際に は それが 不可能で、 神への 関係 は 彼女への 関係と 矛盾して 一致し ない。 さらに、 彼女への 関 

係 こ 神の 目が 光って いて、 とても 仕合わせに はなれない。 ことに、 彼女 は虔 信で はあった としても、 彼女の 信仰 

はキ H ルケ ゴ ー ルの 行くべき 道に — それ は 特異な ものな の だから 11 同調の 出来る ような もので はない。 その 

彼女に、 彼の 内面の 苦悩 や 彼のお かれて いる 11 神の 罰の 可能性の もとに あり、 しかも、 その 神 を 愛する こと を 

ひたすらに しなければ ならぬ という 11 運命 を わかる こと は 出来ない。 彼 は 彼女に この 運命の こと を 打明けた く 

もない し、 また 打明ける ベ きで もない と 考えた —— それ は 公の 挙式に おいても しなければ ならぬ ことで あるが、 

彼 は それ を 望まない 11 。 すると、 どうしても 婚約 は 破棄され なければ ならない。 それ は 彼女への 裏切りで あり、 

ひいては 神への 違反で ある。 しかし、 それに もまして、 神との 関係 は ひたすらに しなければ ならない。 それで、 

彼 は 婚約 を 破棄した。 爾来 彼 は 十字架 を 負い、 悩みの 人、 痛恨の 人と して 生きなければ ならない。 

六 

この 事件に よって、 彼 は 著作者に なった という。 彼 は 性 来 詩才に 富み、 詩想が わき 起こって 困る ので、 普通の 

人と は 反対に、 これ を 控えても らうよう に 芸術の 神に ねがいたい ともいうが、 後年 彼が 筆硯を 絶とうと 決心した 

後に も、 どうしても それが 出来ず、 筆 を とれば 苦しみ を 忘れる と 書いて いる ほど、 彼 は 筆の 人、 想の 人であった „ 

キリスト教 的に 生きなければ ならぬ ように 運命 づけら れ ている 彼と 著作者た る こととの 関係が、 彼の 著作 活動 



の 全生涯に わたって、 非常に 複雑に あざな われて いる。 キュ ルケ ゴ ー ルの 著作の 個々 の 内容 を 問題に する 前に、 

読者 はこの 全体 的な 径過 や、 その 経過の 中に おける 個々 の 著作の 位置 を 知って おかなければ ならない。 

彼 は 後年し きりに 自分 は 「宗教 的 著者」 であり、 また、 あつたと いっている。 しかし、 この 言葉に は 種々 の 意 

味が あり、 また 段階 的な 変化が ある。 

上に あげた 事件 は 彼 を 詩人に したと 同時に 彼の 宗教 的 自覚 を 新たに する き つ かけと なり、 後久し からず して 彼 

ま 寺 人的 態度 I 詩人 は、 自分の 生活 や 現実と 物す ると ころの 詩的 作品の 内容との 間に 相応 性 を も つ ていない。 

双方 を 別な 範疇に おいても つてい るので、 彼に と つ て は 双方が 一 致させられなければ ならぬ という こと はない— 

—を 超えよう とする。 その後 も 変転た る 紆余 を 経る ので あるが、 遂に 最後まで、 彼の いわゆる 詩人 的な もの は 超 

えられる こと はなく、 著者と しての 資格 や 著作 様式の 上に 種々 の あや を 織り出し ている。 後年 彼 はしばしば 自分 

を 「詩人の 思想家」 とか 「詩人の 宗教改革 者」 という。 それ は 単に 詩人と いう ことよりも 高い 態度 を 意味す るが、 

自己の 資格 や 位置の 形容 は どこまでも 「詩人 的」 で、 キリスト教 に対して 詩人 的に 立つ というより 外はなかった。 

たしかに 彼の 著作に は 最初から 最後まで 宗教 的な ものが ある。 しかし、 反面に は、 最初から 最後まで、 ことに 

様式 や 資格の 上に おいて、 詩人 的な ものが 存 しつづけた。 そこに 彼の 著作に おける 重層し、 矛盾した 二重 性が あ 

る 

ところで 「宗教 的」 といい 「詩人 的」 或いは 「審美的」 という 言葉に も、 種々 の 意味が ありかつ 変化が あって、 

互いに 交錯して いる。 審美的な 著作 を 事と した 最初の 時期に おいて、 すでに 彼 は 左手から は 審美的な 書 を、 右手 

第一 二 章 キヱ ルケ ゴ ー ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 七 七 



第一 二 章 キエ ルケ ゴ— ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 七 八 

から は 宗教 的な 書 を 世間に 差 出した。 後年の 宗教 的な 時期に おいても また 審美的な 書 を 出して いる。 それ は 故ら 

にそうした というが、 最初の 『あれ か、 これ か』 と 稍々 時 を 同じく して 本名の 『教説 集』 が 出され、 爾来 『後書』 

の 時期に 至る まで、 匿名の 大冊と 呼応して 頻りに 定ま つ て 本名の 教説 集が 併行 的に 出されて いる 11 様式の 上 か 

らいえば、 始終 を 通じて 匿名の もの は 審美的な 書で あり、 本名の 教説集 は 宗教 的な 書と される 11 。 通じて r 宗 

教的」 という 意味に は、 いうまでもなく 先ず 内容 的な ものが ある けれども、 「宗教 的 著者」 たる 彼の 著作の 特質 

をみ る 上に は、 とくに 彼の 著作 態度 や 著作 様式 を検 する ことが 大切で ある。 

彼の 著作 活動の 期間 は 十 余 年間で あるが、 その 間に 考え方 や 態度に 幾度 かの 転回が ある。 一八 四 三年 夏、 同じ 

く 四 五 年末、 四 八 年 春、 四 九 年 五月、 五 四 年 春 以来 等の 時期 を あげる ことが 出来よう。 さらに それぞれの 時期に 

おいても、 同時 的に 違った 意図 や 内容 を もった 著作が なされて おり、 著作の 様式 や 著者と しての 資格に ついて、 

縦横に 交錯して いるが、 ここで は 宗教 的と いう ことの 内容の 展開 を 省略して、 まず 著作に 対する 彼の 態度の 展開 

中、 重要な もの を あげてみ よう。 

七 

彼 は 『観点』 や 『私の 活動』 で、 自分の 著作 活動 を 三つの 時期に 区分して いる。 第一 は 審美的 著作の 時期、 第 

三 は 宗教 的 著作の 時期で、 中間が 双方に またがり、 双方 を かけ 橋して、 「転回 点」 となった 『後書』 の 時期で あ 



る。 第一 期 は 『あれ か、 これ か』 から 『諸 段階』 に 至る 期で、 一八 四 一、 一 一年の 交から 四 五 年に わた つ て 書かれ 

たもの の 時期で あり、 この間に は 併せて 十八の 『教 説』 も 出されて いる。 「審美的」 という こと は 物事 を 客体 的 

に 見やり 見す ごし、 事 を わが 身の上に 引き受けて 処決し ない 態度 をい う。 倫理的 及び 宗教 的な ものが テロ スをも 

ち、 それと 実存 的な 主体的 関係に 立つ のに 対して、 審美的な もの はか かる 関係 を もたない。 かかる 態度 は 著作の 

内容 .0、$;^ 式に も 反映し、 ことに 後者に おいて は、 自己 を 遠の ける 覆面の 匿名の 問題に も 連なる。 なお、 この 時期 

において は、 とくに 著者の 資格に ついて、 詩人 的 或いは 審美的と いう。 後年の ような 深刻な 反省 はない。 

第二 期 は 『後書』 の 時期で、 『後書』 は 一八 四 五 年末に 完了され、 翌年 二月 末に 出された。 この 時期 は、 彼の 著 

作 期間から いっても、 全体の 著作の 分量から いっても、 中間に 位し、 かつ 彼の 全 著作 活動 を 通じての 「転回 点」 

をな している。 内容 的に いっても、 初期の 考えの 中心 は 一八 四 三、 四 年の 頃に 出て 来て おり、 それが 通じて 彼の 

思想の 根幹 をな す ものであるが、 『後書』 はこれ を 集成し、 彼の 終生 を 通じて 全 著作 活動の 「目標」 となった と 

ころの 「問題」 を 打ち出した。 彼 はこの 書の 中で、 従来の 諸 著作が すべて この 「問題」 のために 仕え、 この 「目 

標」 に 副う 所以 を識 して、 自分が 宗教 的 著者であった こと を 釈明して いるが、 『後書』 が 次の 時期に つながる 転 

回 点 をな す 所以に は、 著作 態度の ことが 重要な 連関 を もつ ている。 

宗教, W な もの を 本意と し、 これ を 伝える こと を 主眼と したと いっても、 『後書』 及び それ 以前の 時期の 著作 は 

詩人 的 審美的な 著者の 審美的な 態度に よって 扱われて いる。 『後書』 では、 とくに 人が 最勝義 において 実存す る 

目標と して、 宗教 的な もの を あげる が、 この こと を 叙べ る 著者 ョ ハ ネス • クリマ クスは キリスト 者で はない。 こ 

第二 一章 キュ ルケ ゴ ー ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 七 九 



第二 一章 キエ ルケ ゴ— ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 八 〇 

の 書の 内容に 対する キ- ルケ ゴ ー ルの 位置 も 同様で、 「最初に して 最後の 打明け」 では、 本書 を ふくめて 従来の 

匿名 書に は 自分の 言葉 は 一 つもな く、 自分 はこの 書に 対して 読者と しての 或いは 第三者と しての 関係 を もつ にす 

ぎぬ といって いる。 彼 は 未だ 自己 を 著作 内容の 中に 投じて、 その 責任と 顧慮と において 語 をな している ので はな 

い。 著作の 態度に おいて は 『後書』 もまた 審美的 詩人 的で ある。 ところが 今や それで はす まされ なくなって 来た。 

通って みると、 約婚の 破棄に よって 内面的な 宗教 的 反省に 入った 彼 は、 しかし 未だ レギ— ネを目 あてと して 自 

己の 思い を 審美的な 著作に 託した のであった。 ところが 彼女 は フリッツ • シ ュ レ ー ゲルと 婚約した。 この こと を 

彼が 知った の は 一八 四 三年の 七月であった。 この 時 を 期と して、 彼の 著作 も 従来の 叙事 的な ものから 人間 存在の 

基本的 構造 こ. ふれて 来る ので あるが、 著作 態度に おける 詩人 的な ものの 反省 も 遠く はこ こに 根ざす。 従来の 諸 書 

において、 すでに 倫理 や 宗教の ことが 問題に され、 中には 後の 基本的な 考えに 連なる もの も あるが、 それら は 客 

的な 事件に 託して ふれられて いるに すぎない。 ところが、 婚約の 破棄の 後 も 彼の 思い を領 していた レギ ー ネは 

今や 現実に 彼から 奪われた。 彼女との 関係と いう 外部 的な 可能性 を 失った 彼 は 決定的な もの を 受けた。 まさしく 

今や 単独 者 或いは 例外 者と して 自己と 自己との 間の 可能性に おいて 住む 外 はない。 即ち 反省と 内面 化の 道で あ つ 

て、 彼 はこ こで 実存の 構造 的 究極 性に おける 可能性 を 問題と する。 それ は 永遠な ものない し 神との 関係で、 これ 

に対して は、 人間的 内在的な ものの 一 切 は 難破し、 得られる もの は 「悩み」 と 「悔い」 である。 これらの こと を 

統べ 整えた ものが 『諸 段階』 で、 一八 四 四 年 夏から 書かれた。 

自己の 町 能 性に 沈んで 神との 関係に 生きる 外 はなくな つた 彼に、 行く手の 限界が 見えて 来た。 それ は 宗教 的な 




ものの 領域が 内在の 彼岸に あると いう ことで、 これに 対して、 「悩む」 ことが 人間的 内在的な ものの 範囲に おけ 

る 宗教 的な ものの 11 厳密にいえば 宗教 的な ものへの — 限界 的 頂上 的な 姿で あると いう。 これらの こと は、 こ 

の 書のう ち 「負 目が あるか、 ないか」、 とくに r フ ラタ ー • タキ トル ヌスが 読者に 寄せる」 に 叙べ られ ている が、 

ことに、 今の 連関から 注意すべき こと は、 これらの 諸篇 において、 審美的な ものない し 詩人 的な ものと 宗教 的な 

ものと が甄 別され て 来た ことで ある。 従来の 諸 書で もこの ことがないで はなかった。 しかし、 内容 的に も 相 与 的 

に 扱われる 場合 も あり、 ことに 叙述の 様式 等の 上で は、 審美的な 形式が、 倫理的な ものに ついても 宗教 的な もの 

についても 使われて いるので あって、 宗教 的な ものが、 必ずしも 審美的 詩人 的な 様式 や 態度に 妨げられ ると 考え 

られ てはいなかった。 これに 対して、 著作の 様式 やとく に 態度に おいて、 審美的 詩人 的な ものと 宗教 的な ものと 

は 対立して 相 容れぬ ことが 最も はっきり させられ るの は、 後の 『観点』 や 『私の 活動』 であるが、 この 見地が す 

でに 諸 段 皆 こ は 出て いる。 けだし 内在的な もの を 超えた 彼岸に 宗教 的な もの を 見出した 彼が、 そこへの 道 を 自分 

のこと として 考え、 自己の 態度 を ふりかえる とき、 当然 この ことに 当面する であろう。 審美的な ものと 宗教 的な 

ものとの 望に 厳重な 区別 を 立てた 上で、 審美的な ものに 留まる ことが 自分の 意図で ない としてい る。 



著作の 様式 や 態度に 関係して、 審美的な ものと 宗教 的な ものと が 相応しな いという 考え は 『後書』 に 至って さ 

第二 一章 キエ ルケ ゴ —ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 八 一 



いて キリストの 悩みに 「ならい」、 もって 神に 随 うとい う 課題 を 彼 は 自己に 課した が、 この 見地に 立って みると 

き、 皮 はま に対して 然し 得なかった。 こうして、 ひたすら キリスト 者と して 始終 するとい うこと と、 論鋒 を教 

界に むけて 立つ という こと は、 矛盾の ままに 糾 われて 一 一年の 期間が 続いた。 

この間す でに 再び 著作に 携わる 意嚮 は 一 八 四 七 年 正月の 『日記』 にも 見え、 今や 全く 従前の ものと は 違った 計 

固の 上に 決心して 立つ という。 11 この 年 正月 以来の 『日記』 は 殊に 深刻で かつ 実際的で ある。 ことに 三十 四 歳 

という 不思議な 齢 を 迎えて 「肉体の 刺」 の 思い も 一 きわ 深く、 世上の 幸福 は 思い あきらめ、 自分 は 犠牲と して 生き 

る こと を 定められ ている といい、 神との 関係に のみ 念 を かけ、 新しい 著作 も 控えられなければ ならぬ としてい る。 

かかる 内面的な 葛藤 を 経て、 しかし 翌四八 年 四月に はこの 矛盾と 憂鬱 を 抛つ て 決然と 対外 的 攻撃に 筆 をと ろう 

と 考えた。 即ち、 自分の 全 本質 は 変わった。 韜晦と 械黙は 破られた。 自分 は 語らなければ ならぬ といい、 当時 既 

に 『死に 至る 病』 や 『キリスト教への 訓練』 の 内容 をな す 稿 を 起こし、 『観点』 の 稿 もこの 年の 十 一 月に は 了え 

られ た。 

とはいえ、 その後 も 重畳の 動揺 をく りかえ し、 信仰の 未熟に 思い をよ せて、 神への 道に 身を委 するとと もに、 

躬ら 宗教 者たら ずして 宗教の こと を 語って 教界を 難 じる 著作の 道が、 これと 撞着す る ことに 混迷した のであった 

が —— その 間、 従来から 問題と していた 著者と しての 資格 や 限界の こと も 考えられた I. 、 この 葛藤 は 遂に 「摂 

理」 に その 血路 を 見出し、 自己の 活動 を あげて 神の 恵みに 託した のであった。 かかる 経緯の 後、 とくにい うが ご 

とき 「宗教 的 著者」 の 著作と して 『死に 至る 病』 は 四 九 年 七月に、 『キリスト教への 訓練』 は 翌年 九月に 出され 

第二 一章 キヱ ルケ ゴ —ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 八 三 



第一 二 章 キエ ルケ ゴ —ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 八 四 

たのであった。 

いうと ころの 宗教 的 著者と して 一八 四 八 年 春 以来の 著作 態度 は、 きわめて 特色の ある ものであるが、 しかし 心 

のかた くなる 思いであった。 両書 についで r 教説 書」 が 出された が、 それ は 心の 休まる 思いであった という。 彼 

の 最後の 『教 説』 は 『私の 活動』 と 同じく 一 八 五 一 年 八月に 出された が、 従来の 諸 活動 は 今日 聖壇の 脚 もとに 安 

らい を 求める。 自分の 負 目と 不 つづかと をよ く 知っている 著者 は、 決して 自分 を 真理の 証し 手と はいわない。 た 

だ 風の 変わ つ た 一 詩人で あり 一 思想家で あると いう。 

このよう にして おさ まりを 得た 後年の 著作 態度 は、 さらに この 年 (一八 五一 年) の 五月から 新しい 動き を 感じ は 

じめ た。 それ は 従来よりも さらに 積極的 直接的な 動きで、 事実、 率直 端的に 彼 は 自分の 本名 を 出して 教界の 既成 

キリスト教の 攻撃 を はじめた。 それが この 年 九月に 出された 『自己 省察の ために』 と、 次の 年に かけて 書かれた 

『自己 を 裁け』 である。 これらの 書の 後、 彼 は 暫く 沈黙した。 けだし、 いうべき こと を 既にい つたので あつたが- 

その後 ミンス タ ー の 死 をき つかけ として、 彼の 最後の 論難 『瞬間』 の 時期が 続く ので ある。 

キエ ルケ ゴ ー ル 研究に 関する 最近 海外の 事情 や 出版の こと —— 出版の ことに ついては 昭和 二 九 年 「理想」 のキ 

H ルケ ゴ ー ル 特集に 収められた 桝田 啓三郎 教授の 文献 解説 等に も つ とも 勝れた ものが ある 11 、 ことに この 稿の 

前半の ことに ついては、 ドイツの ヒル シゃ、 ァ メリ 力の 亡くな つた ロウ リ ー、 及び コ ペン ハ ー ゲン の 人々 から 直 

(2) 

接に きいた こと を 書いて みょうと 思 つ たが、 紙幅が つきた ので 別の 機会に する。 



(1) 彼の 生涯の 径 過と 各 著作との 連関、 及び 各 著作の 内容の 特質に おける 以上の いきさつに ついての 詳拥 は、 抓 稿 「宗教 

的 実存の 実存 的 課題 11 キエ ルゴ— ル各 著作の 位置と 意義 II 」 上、 下、 哲学 研究、 二三、 三 四 (昭和 二 五 年 七月、 九月)、 

「キヱ ルケ ゴ— ルの 思想の 基盤」、 文化、 一九 ノー 一 (昭和 三 〇 年 三月)、 「キ ヱケゴ ー ル における 「宗教 的 著者」 と 伝達の 問 

題」、 宗教 研究、 一四 八 (昭和 三 一年 八月)、 r キュ ルケ ゴ ー ル における 思想の 基本と 青年 時の 経験との 相関」 上、 中、 東 

北大 学 文学部 研究 年報、 一 三、 一 四 (昭和 三 八 年 一月、 三月) 及び 本書、 第一 一 章 等 参照。 

(2) その 一部の こと は、 前 註、 最後の 拙稿 (中) に ふれた。 なお、 この 稿 は 天理 大学 図書館の 富 永牧太 館長の 賀 寿の ため 

に 「ビブ リャ」 の 記念 号 (昭和 三 七 年 一 〇 月) によせ たもので ある。 原稿 整理の 際に、 天理 大学 図書館の 河 合 忠信、 宮島 

一郎、 平野 よしゑ 三 氏に お 世話 をね がい、 また 全集 三 版との 引き合わせに は、 東北大 学の 前田毅 氏の 労 を わずらわせた。 

また 下の 蔵書 目録の 印刷の 際に は 創 文 社の 清水 芳治 氏に 校正 一 切 をお ねがいした。 諸氏に 謝意 を 表したい。 



九 



なお、 ただに 資料と しての みならず、 研究 上の 参考に もなる ので、 天理 大学 図書館の 好意 ある 了解 をえ て 上 

記の ように 一 八 五六 年の 競売 広告に のせられた キ ヱ ルケ ゴ ー ルの 蔵書 目録 を 次に のせて おく。 

この 目録 を もとにして、 デンマ ー クのキ ヱ ルケ ゴ ー ル 協会で、 一九 五 七 年に、 トウル スト ルップに よる 詳細な 

整理、 解説が なされた。 それに もとづいて、 最近、 大谷長 氏の 手に よって、 日本 文 解説 を 付して 出されて いる (キ 

H ルケ ゴ— ル 研究、 二、 三、 四、 (キ H ルケ ゴ— ル 協会、 一九 六 五— 六 七))。 

第二 一章 キュ ルケ ゴ— ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 八 五 



第一 二 章 キュ ルケ ゴ —ル全 著作の 初版 本 及び 蔵書 目録 三 八 六 

補 註 11 第 七 章 註 (^) ( 二 五 〇 頁) より 続く。 

では、 この 範疇が 用いられて ヌ ミノ — ゼな 感情 状態の 経験が もたれる という こと は、 どういう ことか。 範疇と は、 彼に よ 

ると、 対象に 契合す る 客観的な 「基礎 概念」 である。 自然科学 的 認識の 成立 は、 カントが いうよう に、 範疇の 認識と 時間 

の 図式の 結合であった。 範禱は 直接に は 対象に とどかない。 ところが、 オット— は、 主観の 根源に そなわる 素質と しての 

勘 知 (Ahnung) によって、 直接的に 感情 経験が 対象に 相応す る こと を 主張し、 そこに 経験の アプリオリ テ ー トを 説く。 

いわば 純粋 統覚の 作用 を ここに 託する ので ある。 そのよう にして 得られる 対象 経験の 内容が ■ mysterium tremenclum そ 

の 他の 諸 要素に よって 解釈され る。 しかし、 当の 径験は 基本的に 非合理的 であり 絶対 他者 的な 聖 である。 そこで、 それら 

の 感情 経験の 合理的 要素が、 図式 化に よって、 異なって はいるが ほのぼのと 原 経験に 近い 相応 性に おいて、 これ を 映し だ 

し、 理解に もたらす というの である。 

なお、 彼 はこ こで シュ ライエル マッハ —の 主観主義 を 批判して、 そこに は、 宗教 経験に おける 日常 経験との 異質 性が 説 

かれて いない こと、 依 憑の 感情に おける 自己 否定が 内在的な 心理的 状態と してい われる かぎり、 宗教 性と しての 拠り どこ 

ろがない こと を あげる。 しかし、 約して いえば、 彼の 認識論 的 立場から する 所論に は、 対象に 相応 するとい う 箇所に 難渋 

な 点が あり、 恰も 『力 ン ト書』 で ハ イデ ッ ガ— が 力 ン トを 批判した ことと 相応す る 問題 性が あり、 へ ッ セ ンが 論じて いる 

ような (Hessen, J., Religionspliilosophie, 2 wde., 2Aufl., 1955)、 オット— についての 現象学 的 方向 づけの 線 も (ォッ 

ト —の 立場 を はなれて いえば)、 ありえない ことで はない。 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 66 

247 Den danske Tilskuer af Rahbech, 1—19. 22. 25 26. 

248 Ellina, die Italfenerinn, m. Kupf. Leipzig. 

250 Les Chroniques de la Canongata. Vol. 1 ~ 4. Paris 1838. 

251 ― 54 Die graue Mappe aus Ewald Rinks Verlassenschaft. 4 Bande, m. 

Kupf. Berlin 1791. 
255 Der Ritter von Santjago, m. Kupf. Leipzig 1811. 
2do ― 57 Die Stimme im. Rosenthal. 2 Bande m. Kupf. Leipzig 1801. 

258 Albert und Albertine, m. Kupf. Berlin 1804. 

259 Herr Lorenz Stark, von J. J. Engel. Berlin 1801. 

260 —61 Amaranthen, 2 Bande, m. Kupf. Magdeb. 1802. 
2b2 Aurelia, eine Roman, m. Kupf. Rudolstadt 1801. 
263 Der Rheingraf. Germanien 1806. 

2o4 一 65 Kallias und Damon oder merkwiirdige Schicksale zweier し lebenden. 

2 Bande m. Kupf. Leipzig 1804. 
266 oustav Emmerich, リ eschichte. 

2o8 Hoffmann, klein Zaches genannt Zinnober. Berlin 1824. 

269 ― 76 The Spectator, 8 vol. London. 

277 —80 Corneille, le Theatre, vol. 2—5. 

281 Lettes de Madame de Pompadour. London 1772. 

282 Le repos de Cyrus. 3 vol. avec Fig. Paris 1732. 

283 Theatre par Madame de Genlis. Copenh. 1829. 

284 Les Aventures de Telemaque med danske Noter. Kbhvn. 1826. 
287 一 88 Estrup, Lsrebog i Dyrhistorien. 2 Dele. Kbhvn. 1820 

289 ― Oeconomisk Plantekere. Kbhvn. 1920. 

290 Eschricht, D. F., det menneskelige Oie. Kbhvn 1843. 

292 Orsted, H. C., Naturens almindelige Love. Kbhvn 1809. 

293 ― 94 Norgaard og Pochhammer, om Dampbade og Mineralvande. 
298 Werfel, dansk Brevbog. Kbhvn. 1803. 

300 Biisch, J. G., Encyclopffidi. Kbhvn. 1783. 

302 Allgaier, J., Anweisung zum Schachspiel. Wien 1802. 

305 Birch, det gamle og ny Testamentes Historic. Kbhvn. 1809. 

30b Betragtning over Troes- og Kjaerligheds Lasrdomme. Kbhvn. 

307 Begyndelsesgrunde i Geographien af G. A. Miiller. 1839. 

309 Rasmussen, dansk Kortskrivning. Kbhvn. 1812. 

310 一 12 Selskabssange eller Viseboger. 3 Stkr. 

313 Samling af faedrelandske Sange. Kbhvn. 1846. 

314 —15 Dansk Folkekalender for 1841—42. 

3 It) Krigsvidenskabelige Boger af い randmai: on, Scharnhorst, Mauvillon, 

m. Fl. 15 Stkr. 
317 一 25 9 Bundter Boger og Maculatur, separeres. 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 65 



200 Zohverordnung fiir die Herzogth. Schleswig und Holstein von 8 Juli 
1803. 

201 ― 4 Fortaellinger og Skilarmger af den danske Historic ved Molbech. 
4 Hefter. Kbhvn 1837—40. 

205 Thomsen, udvalgte Sagastykker. Kbhvn. 1846. 

206 Monrad, Gjengangeren Kbhvn. 1844. 

207 Blom, Krigstildragelserne i Sjjelland 1807. Kbh. 1845. 

208 Kjobenhavns Leierkrands 1807, af Hansen, 

209 Kjobenhavns ny Leierkrands 1807, af Moller. 

210 1st es England gelungen seinen Raubzug gegen Danemark zu rechtferti- 
gen. Kiel 1807. 

211 Moller, P. L., Bogtrykkerkunstens Historic. Kbhvn. 1841. 
212 Rohmann, Reformationens Indforelse. Kbhvn. 183b. 

211 Luplau, Reformationens Indforelse. Kbhvn. 1836. 

214 Segur, Krigskunstens Historic ved L. Kruse. 3 Bind; Kbhvn. 1809 ― 12. 

215 Tarif for Tolden i Danmark af Schmalfeldt. 1823. 
216 af Thorbrogger. 1815. 

2丄7 い ravblomster af Beeken, 10 Hefter. 

218 —19 Theoder von A. Lafontaine. 2 Bande m. Kupf. Berlin 1800. 
220 ― 21 Frau von *^ometz Erzahlungen. 2 Bande m. Kupf. Berlin 1/61. 
222 — 23 Spiesz, ^^eorg von Treuherzen. 2 Bande m. Kupf. Prag 1798. 
224 — 26 Selim der Gluckliche, eine morgenlandische Geschichte. 3 Bande. 
Berlin 1792. 

227 Salomo der Weise und sein Narr Markolph. Jerusalem 1797. 

228 Der Jiingling. 2 Bande. Konigsberg 1768. 

229 Spies, F nederich d. Schlafer oder die Zwillinge von Dreyeichen. 

230 Zaubereien und Wunder, nebst Geisterbeschworungen. 2 Bande m. 
Kupf. Hamburg 1801. 

231 ― 34 Sara Reinert, eine Geschichte in Briefen. 4 Bande m. Kupf. 
Berlin 1796. 

235 Der Harfen-Madchen, m. Kupf. Rudolstadt 1799. 

236 Luc, Reisen nach den Lisgebiirgen. Leipzig 1777. 

237 Fest, J. L., Leiden und Widerwartigkeiten des menschlichen Lebens. 
2 Bande. Leipzig 1784. 

238 Wilhelmine, eine Geschichte in Briefen. Leipzig 1786. 

239 —40 Cramer, C. G., Die gefahrlichen Stunden. 2 Biinde. m. Kupf. 

Leipzig 1799. 

241 一 Fraulein Runkunkel und Baron Sturmdrang. Leipzig 1801. 

243 Abrege de la grammaire francaise. Paris 1836. 

244 De danske Kjobsteder af Steenfeldt. Iste Afdeling. 1827. 

245 Rudolph von Werdenberg, von A. Lafontaine. Berlin 1797. 

246 De forste Grunde i Mathematikken, ai Duus. 1807 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 64 

47 し onciones civiles sive urationes ed. C. Cellano. Lipsiae 1699. 
48 し iceronis Orationum ed. Lambini. 1609. 
49 し iceronis de Officiis. Hauniae 1679. 
50 Homeri Ilias ed. stereot. Lipsiae 1828. 

Dl Plutarchs Levnetsbeskrivelser ved. N. L. Nissen. Kbh. 1826. 
52 —85 Rahbeks Minerva 1785—96. 46 Bind. 

86 ― 95 Odin Wolffs Journal for Politik, Natur og Menneskekundskab^ 

1809—17 samt 3 Hefter af 1818. 
96 —114 Handels- og Industri- samt Skibsfartstidende for 1829 ~ 48. 19 

Bundter. 

115 —30 Suhms, P. F., samlede Skrifter. 16 Bind. Kbh. 1788—99. 
131 ― 42 Maerkvgerdigheder om Kong Frederik den 2den. 12 Bind. Kbhvn. 
1758—64. 

143 一 44 Bibliothek for det smukke Kjon. 4 Bind. Kbh. 1794 ~ 97. 

145 Henriette eller Husarrovet. Hbhvn. 1781. 

146 Holberg, L., Bergens Beskrivelse. Kbhvn. 1737. 

147 Holbergiana, udg. af Hoiberg. 

148 —50 Tnllins, C. B., samtlige Skrifter. 3 Bind. Kbh. 1770—73. 
151 Juridisk Tidsskrift. 7de Binds 2det Hefte. 1823. 

IbZ Regler for Retskrivning af Dichmann. 1799. 

153 —57 Bibliothek for det smukke Kjon. 5 Bind. Kbh. 1784—99. 

158 一 63 Lodde, B. J., Bie-Kuben eller Andres Tanker. 6 Bind. Kbhvn. 1778. 

164 —75 Lafontaine, A., Familiehistorier. 12 Bd. Kbh. 1803—5. 

176 Smith, H., Ruben Apsley. Roman i 3 Bd. Kbhvn. 1834. 

177 リ eorgine, Fortaellinger af Zimmermann. Kbh. 1825. 

178 —80 Pichler, C., Svenskerne i Prag. 3 Bd. Kbhvn. 1830. 

181 Alexis, Slaget ved Torgau. Kbhvn. 1827. 

182 Det menneskelige Liv af Martini. Kbhvn. 1810. 

183 Clauren, Gjensynet under Jorden. Kbhvn. 1826. 

184 Krigspuds og listige Indfald af Hoffmann. Kbh. 1808. 

185 ― 87 Verdens Skueplads fra de aeldste til de nyesto Tider. 3 Bind. 

Kbhvn. 1817. 

188 Ewald, J., Adam og Eva eller den ulykkelige Prove. Kbhvn. 1769. 

189 —90 Bugges, T., Reise til Paris. 1798—99. 

191 Naturmennesket af Lafontaine. Kbhvn. 1799. 

192 Poetisk Laesebog for Skoler af N. Krossing. Iste Deel 1834. 

193 —94 Luthers, M., Levnet af Petersen. Kbhvn. 1840. 2 Expl. 

195 Laerebog i den rene Mathematik af Ursin. 2den Deel. 1824. 

196 Den danske Borneven af P. Hjort. 6 Opl. 1852. 

197 Niels Juel af Garde. Kbhvn. 1842. 

198 Bertel Thorvaldsen af Thiele. Kbhvn. 1837. 

199 Forskjellige し omedier, Skuespil, Balletter. 29 Stkr. 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 63 



21+ Schaffer, M. G., Anviisning til akovdyrknings- og Plantagevsesen. 

Kbhvn. 1799. 
215 Et Bundt Smaaskrifter. 12 Stkr. 



216 ― 21 Bredahl, C., Dramatiske Scener, uddragne af et aeldgammelt Ha- 

andskrift. 6 Bind. Kbhvn. 1819—33. 
222 一 23 Reenbergs, T., poetiske Skrifter. 2 Bd. Kbhvn. 1769. 
224 ― 2(5 Oeuvers de Lafontaine. 3 vol. A Anvres 1726. 4to. 

Appendix II. 

Nr. 

1 ― 4 Adelungs, J. C. , grammatisch-critisches Worterbuch der hochdeutschen 

Mundart. 4 Bande. Leipzig 1793 —1801. 4to. 
5 ― 8 Dansk Ordbog, uagivet af Videnskabernes Selskab. 4 Bind. (A-O.) 

Kbhvn. 1793—1826. 4to. 
9 Molbech, Dansk Haandordbog. Kbhvn. 1813. 
10 Leth, Dansk Glossarium. Kbhvn. 1800. 

il Den christelige Religions Hovedlaerdomme af Skjoldager 1852. 

12 Tydsk Sproglasre for Danske af Reisler. 1798. 

13 V. Aphelen, fransk og dansk Ordbog. Kbhvn. i 7d4. 

lb Danske Grammatikker og Laeseboger af Birch, Hoysgaard, Funke, Nis- 
sen, Guldberg, m. H. 8 Stkr. 

17 Engelske dito dito af Arnold, Ideler, Blom, Schultz, m. FI. 6 Stkr. 

18 Told Afgifts-Tabel af Bech. 1805. 

19 ― 20 Sommerfeldts og Kofods Ljeographier. 2 Stkr. 
21 ― 22 Fogtmann og Koehens Laerebog. 2 Stkr. 

23 一 24 Krumm og Funkes Mathematikker. 2 Stkr. 

25 ― 26 Broder og Badens latinske Grammatikker. 2 Stkr. 

27 Forskjellige Skoleboger i 1 Bundt. 

28 Dito dito i 1 dito. 

29 —30 Virgilii Opera ed. J. Baden. 2 vol. Haunite 1778—80. 
31 — 32 Livius ed. Moller. 2 vol. Hauni^e 1815—19. 

お 一 34 Terentii Comoediae ed. Magn お i. 2 vol. Haunise 1789. 

35 Zenophons memorabilia ed. Schneider. Lipsiae 18lO. 

36 Juvenali Satirae. Lipsiae 1828. 

37 ― 39 Herodoti historiarum, ed. stereot. 3 vol. 

40 —43 Plautus, overs, af F. H. Guldberg. 4 Bd. Kbh. 1812—13. 

44 Kort Udsigt over Bibelhistorien af Hersleb, 1845. 

45 For Gud, Konge og Fasdreland, Novelle af Kleestrup, 1833. 

46 Dionysii Halicarnassei antiquit. Rom. libr. XL 1603. 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 62 



184 Sailust, Canlinanske og JugurtninsKe Kng, overs, ar R. Moller. Kbhvn. 
1811—12. 

185 ― 86 Neue Apologie des Socrates, von J. A. Eberhard. 2 Bande. Berlin 

1778—88. 



187 Terentii Comoediae sex ed. J. Minelli. Holmiae 1699. 

188 Idem liber. Hafniae 1771. 

189 —90 Terentses Skuespil, overs, af F. H. Guldberg. 2 Bind. Kbhvn. 

1805. 

191 Tibulli, A., Carmina libri tres, ed. C. G. Heyne. Lipsiae 1798. 
192 —93 Vilgilii, P., Opera, ed. J. Baden. 2 vol. Hauniae 1778—80. 

194 Virgilii, P., Opera, ed. C. G. Heyne. Vol. I. Hannoverae 1816. 

195 Virgilius's Werke. Ubers. von J. H. Voss, 3 Bande. Wien und Prag 1800. 

196 Zenophons memorabilia libri IV ed. J. G, Schneider. Lipsiae 1816. 



197 Pontoppidan, C. J., Forklaring over し onstructionen af Kortet over 
j?kandinavien. Kbhvn. 1781. 

198 Jensen, C. B., Provincial-Lexicon over Danmark. Iste Deel. Odense 
1830. 

199 (Plum.) Anders Kjaerbye af Wissenberg Sogn. En Laesebog isaer for 
Fynboer. Kbhvn. 1821. 

200 Krejdal, A., Omrids af Pananalysis eller Verdens Dynamik. Kbhvn. 
1833. 

201 (Baerens.) Formularer til Kontrakter, Skjoder etc. 6te Oplag. Kbhvn. 
1793. 



202 Denmann, F., Introduction to the practice of Medivifery. London 
1824. 

203 Buchan, W., Domestic-Medicine. London 1826. 

204 Walter, J. C. W., Handbuch der chirurgischen Operationen. Leipzig 
1823. 

205 ― 8 Arneman, J., System der Chirurgi. 4 Bande m. Kupf. oottingen 

1798—1801. 

209 Bang, F. L., Praxis Medica. Hafniae 1818. 

210 ― 1 1 Rafn, C. G., Danmarks og Holsteens Hora. 2 Bind. Kbhvn. 

1796—1800. 

212 Candolle und Sprengel, Grundziige der wissenschaftlichen Pflanzenkunde, 
m. Kupf. Leipzig 1820. 

213 Viborg, E., Beskrivelse over Aspe- og Pilearter. Kbhvn. 1800. 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 61 
Id^ Heraers Leben von ur. H. Donng. Weimar l829. 



135 ― 41 Scheller, J. J. G., Lateinisch-Deutsch und Deutsch-Lateinisches 
Worterbuch. 7 Bande. 3te Auflage. Leipzig 1804 ― 5. 

142 Arnold, T., Vollstandiges deutsch-englisches Worterbuch. 8te Aufl. 
Leipzig 1792. 

1^3 Ideler, L., und J. W. H. Nolte, Handbuch d. franzos. Sprache, poetis. 
Theil. 1804. 

144 Broder, C. G., Practische Grammatik d. lateinischen Sprache. 8te 
Ausg. Leipzig 1810. 

145 Schultz, N. S., Engelsk Sprogl^re. 2den Udgave. Kbhvn. 1820. 



146 Aelian de varia hist, libr. Xlll. Lugduni 1553. 

147 Anacreons Lieder. Aus d. vjrnechis. von J. F. Degen. Ansbach 1821. 

148 Caesar, C. J., し ommentam de bello gallico et civili ed. J. J. Oberlin. 
Lipsi^ 1805. 

149 ― 50 Ciceronis, M. T., Opera omnia. 2 vol. Geneve 1646. 
l3l Les lettres de し iceron a ses amis. 2 Tom. a la Haye. 1719. 

152 Cicero von dem Redner. Ubersetzt von F. C. Wolff. Altona 1801. 
1^3 Curti, Q., de rebus gestis Alexanan Magni. 

154 一 55 Diogen Laertses philosophiske Historic. Oversat af B, Riisbrigh. 

2 Bind. Kbhvn. 1812. 
l5b Epictets Haandbog, overs, af L. Sahl. Kbhvn. 1785. 

157 Flori, L. A., Rerum romanorum. Libr. IV. ed. J. Minellii. Lipsi« i 734. 

158 —59 Herodoti historiarum, libr. IX. ed. F. V. Reizii. Lipsi^e 1813—36. 
160 —61 Homeri Ilias, ed. C. G. Heine. 2 vol. Lipsite 1804. 

162 —63 Horatii, Q., Opera, ed. F. G. Doering. 2 vol. Lipsi お 1815—24. 

It) サ 一 65 Horatzius Briefe, ubersetzt von C. M. Wieland. Leipzig 1816. 

Ibb Justinii nistoriae Philippicae. Hainiae 1776. 4to. 

167 —69 Livii, T., historiarum libri. 3 vol. Halae 1811. 

170 Luciani Opuscula selecta, ed. D. C. Seybold. Gotha 1785. 

171 Oviaii, N., 1 nstium et ex Ponto ed. E. sincerum. Augsborg 1750. 

172 Pindari, Carmina, ed. C. G. Heyne. Gottingen 1774. 

173 Pindari Carmina, ed. C, G. Heyne. Gottingen 1797. 
174—80 Platonis Opera, ed. F. Ast. Vol. 1—7. Lipsis 1819—24. 

181 Platonis Eutyphro Socratis Crito Phaedo Graece. ed. J. F. Fischer. 
Lipsiae 1783. 

182 Plinii, C., Epistolae ed. Panegyricus. Halae 1789. 

183 Qvinctilians Underviisning i Veltalenhed. lite Bog, overs, af j. Baden. 
Kbhvn. 1777. 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 60 

65 —67 Boye, C.J., Aandelige Digte og Sange. 1— 3Deel. Kbhvn. 1833—35. 

68 Gutfeld, F. C., Prasdikener holdne i Holmens Kirke. 2 Bind. Kbhvn. 
1818. 

69 Grundtvig, N. F. S., Bibelske Praedikener efter Tidens Tarv og Leilig- 
hed. Kbhvn. 1816. 

70 —71 Bloch, F. C., kirkelige Leilighedstaler. 1—2 Saml. Kbhvn. 1838 

一 44. 

72 Schjodte, L., Prsdikener holdne i Viborg Domkirke. Iste Bind. Viborg 
1830. 

73 Hertz, J. M., Prsdikener. Kbhvn. 1830. 

74 —76 Rohr, J. F., Predigten. 3 Biinde. Neustadt 1822—26. 

77 ― 82 Magazin von Fest- Gelegenheits- und andern Predigten und kleineren 
Amtsreden. Neue Folge. rterausgeg. von Rohr, Schleiermacher und 
Schuderoff. 6 Bande. Magdeburg 1823—29. 

83 一 84 Zimmermann, E, Predigten iiber sammtliche Sonn- und Festtage 
des Jahres. 2 Bande. Darmstadt 1826 一 27. 

85 de Wette, W. M. L., Predigten. 1—2 Samml. Basel 1825—27. 

86 —88 (Klopstock,) Der Messias. 3 Bande m. Kupfern. Halle 1760—69. 

89 Putter, J. S., Der einzige Weg zur wahren Gliickseligkeit. 2te Ausgabe. 
u^ottingen 1775. 

90 Brorson, H. A., Psalmer og aandelige Sange, udg. af J. A. L. Holm. 
Kbhvn. 1838. 

91 Kingo, T., Psalmer og aandelige Sange, udg. af P. A. Fenger. Kbhvn. 
1827. 

92 Dies irac, Stabat mater, og nogle andre deels latinske, deels tydske 
Psalmer og Sange, oversatte af J. M. L. Hjort. Kbhvn. 1849. 

93 (Grundtvig.) Festpsalmer. 

94 Psalmebog, udg. af Roskilde Convents Psalmecomite. Kbhvn. 1850. 

95 Hagens Psalmer og Riim. Kbhvn. 1832. 

96 Hjort, P., Gamle og ny Psalmer. Kbhvn. 1840. 

97 Davids Psalmer, oversatte af F. J. Heise. Kbh. 1850. 

98 Ingemann, B. S., Hoimessepsalmer til Kirkeaarets Helligdage. Kbhvn. 
1825. 

99 Den Svenska Psalmboken. Nykoping 183o. 

100 —104 M. Luthers Werke in Auswahl. 10 Bande. Hamburg 1827— 
28. 

105 ― 13 Herder, J. G., Sammtliche Werke. Zur Religion u. Theologie. 

18 Bde. Stuttgart und Tubingen 1827—30. 
114 —24 ― ― Zur Philosophi und Geschichte. 22 Bande. Stuttgart 

und Tubingen 1827 ― 30. 
125 ― 33 ― ― Zur schonen Literatur und Kunst. 1 ― 6 und 9 ― 20 Bde. 

Stuttg. und Tub. 1827—30. 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 59 

18 Moller, R., Veileaning tii en andaegtig og forstandig L^snmg af det ny 
Testamente. Kbhvn. 1820. 

19 — 22 Rosenmiiller, J. G., Scholia in novum Testamentum. Hauni お 

1790—91. 5 vol. 

23 — 24 Schleusner, Novum Lexicon graece latinum in novum Testa- 
mentum. Lipsiag 1819. 2 vol. 

25 — 26 Bretschneider, K. G., Handbuch der Dogmatik. 3te Aufl. Leipzig 
1828. 

27 Wegscheider, J. A. L., Institutiones theologiae Christianae dogmaticae 
ed. 6ta. Halae 1829. 

28 — 29 Vent, H. L. A., Homiletisches Magazin iiber die evangelischen 

Texte das ganzen Jahres. 2 Biinde. Hamburg 1828 ― 29. 
30 ― 31 de Wette, Die allgemeine Sittenlehre. 2 Biinde. Berlin 1823. 
32 —33 ― Die besondere Sittenlehre. 2 Bande. Berlin 1824. 

34 ― Ueber Religion und Theologie. Berlin 1815. 

35 ― Ueber die Religion, ihr Wesen, ihre Erscheinungsformen und ihrer 
Linflusz auf das Leben. Berlin 1827. 

36 ― Zur christlichen Belehrung und Ermahn. Ister Heft. Berlin 1819. 

37 Hase, K., Das Leben Jesu. Leipzig 1829. 

38 Clausen, H. N., Udvikling af de christelige Hovedlaerdomme. Kbhvn. 
1844. 

39 Zimmermann, E., Om det protestantiske Princip i den christelige Kirke. 
Kbhvn. 1830. 

40 (Schleiermacher S.) Ueber die Religion. Berlin 1821. 

41 Martensen, H., Den menneskelige Selvbevidstheds Autonomi. Kbhvn. 
1841. 

42 Clausen, H. N., Catholicismens og Protestantismens Kirkeforfatning, 
Lgere og Ritus. Kbhvn. 1825. 

43 ― 44 Die heilige Schrift des neuen Bundes, ausgelegt, erlautert und 

entwickelt. 2 Bande. Berlin 1825—28. 
45 —52 Stunden der Andacht. 8 Bande. Aarau 1827. 

53 Hornsyld, J., Prassten og bans Confirmanter. Aarhuus 1822. 

54 For Huusandagt, udgivet af P. C. Stenersen Gad. Kbhvn. 1829. 

55 ― 58 Fntsch, J. H., Handbuch fiir Prediger. 4 Bande. Magdeburg 

1817—19. 

59 — 60 Moller, J., Haandbog for Pr お sten med Supplement. Kbhvn. 
1820—29. 

61 Holm, A. K., Underviisning i Religionen. Kbh. 1818. 

62 Hersleb, S. B., Kort Udsigt over Bibelhistorien. Kbh. 1813. 

63 Der christlichen Glauben mit Choralen und Kupfern von J. Falk. 
Weimar 1827. 

64 De kirkelige Epistler, udgivne af S. Tetens. Odense 1831. 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 58 



ZA i"^ um mm r orfattervirksomhed. Kbhvn. 1851. 

2丄79 ― 83 Til Selvprovelse Samtiden anbefalet. Kbh. 1851. nit. m. Guldsn. 
(5 Expl.) 

2184 Sjelfprofning for War tid. Ofwers. af P. M. Elmblad. Stockholm 1852. 

2185 Dette skal siges ; saa vaere det da sagt. Kbh. 1855. 

2186 Guds Uforanderlighed, en Tale. Kbhvn. 1855. 

2187 —89 Oieblikket, Nr. 3, 4 og 7. Kbhvn. 1855. 



2190 Et Bundt Smaaskrifter og Blade indeholdende Artikler og Polemik 
imod Dr. S. Kierkegaard, af V. Bloch, Zeuthen, Martensen, Paludan- 
Miiller, Thura, m. Flere. 



2191 Mynster, J. P., Prsedikener paa alle Son- og Hellig-Dage i Aaret. 2 
Bind. Kbhvn. 1837. 

2192 — Pr^edikener. 2 Bind. Kbhvn. 1826—32. 

2193 Det nye Testamente. Kbhvn. 1820. nit m. Guldsn. 

2194 —95 Bernhard, C., Gamle Minder. 2 Bd. Kbh. 1841. 

2196 Danske Romancer, Hundrede og fern. Udg. af し hr. Winther. Kbhvn. 
1839. 



2197 G. F. V. Oldenburgs Jordglobus. 1845, paa Stativ. 



Appendix 

Nr. 

1 —3 Biblia hebraica ed. J. H. Mains. Francf. 1717. 3 vol. 

4 Biblia, det er den ganske hellige Skrift. Kbh. 1825. 

5 Biblia, das ist die gantze heilige Schrift. Halle 1765. 

6 ― 9 Dinter, G. F., Schullehrer-Bibel des alten Testaments. 4 Bande. 

Neustadt 1826—28. 
10 —12 des neuen Testaments. 5 Biinde. Neustadt 1828. 

13 Novum Testamentum graece ed. H. A. Scott. Lipsi お 1811. 

14 Det ny Testamente. Kbhvn. 1716. 

15 Das neuen Testaments, ubers. von C. und L. van Ess. Sulzbach 1817. 

16 Das neue Testament unsers Herrn und Heilandes Jesu Christi. Lon- 
don 1812. 

17 Nya Testamentet. Stockholm 1818. 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 57 



< ^丄 26 Begrebet Angst. lin simpel psycnologisk-paapegende Overveielse i 
Retning af det dogmatiske Problem ved Arvesynden af Vigilius Haufni- 
ensis. Kbh. 1844 

2127 —28 MDCCCXLIV. To opbyggelige Taler. Kbhvn. (2 Expl.) 

2129 MDCCCXLIV. Tre opbyggelige Taler. Kbhvn. 

2130 —32 MDCCCXLIV. Fire opbyggelige Taler. Kbhvn (3. Expl.) 
2133 Forord. Morskabslaesning for enkelte Staender efter Tid og Leilighed 

af Nicolaus Notabene, Kbhvn. 1844. nit. m. Guldsn. 
2 丄 >34 Philosophiske Smuler eller en Smule Philosophic af Johannes Climacus. 

Kbhvn. 1844. 
2i35 Dito nit. m. Guldsn. 

2i3b Stadier paa Livets Vei. Studier af Forskjellige. Sammenbragte, 
befordrede til TryKken og udg. af Hilarius Bogbinder. Kbhvn. 1845. 

2137 Tre Taler ved tsnkte Leiligheder. Kbhvn. 1845. 

2 丄 38 En literair Anmeldelse. To Tidsaldere, Novelle af Forf. til "En 
Hverdagshistorie", udg. af J. L. Heiberg. Kbhvn. 1846. 

2139 Afsluttende uvidenskabelig Efterskrift til de philosophiske Smuler, af 
Johannes Climacus. Kbh. 1846. 

2140 Afsluttende uvidenskabelig Efterskrift til de philosophiske Smuler, af 
Johannes Climacus. Kbh, 1846. nit. Pragt Expl. m. Forf. tilskrevne 
Bemaerkn. 

2141 —45 Opbyggelige Taler, i forskjellig Aand. Kbhvn. 1847. (5 Expl.) 

2146 Walda Skrifter. Ofwers. af Th. Wensjoe. I. Aderton Uppbyggeliga 
Tal. Mariestad 1852. 

2147 Kjerlighedens Gjerninger. Kbhvn. 1847. 

2148 —49 Kjerlighedens Gjerninger. 2den Udgave. Kbh. 1852. (2 Expl.) 
2150 ― d2 Kjerlighedens Gjerninger. 2den Udg. Kbhvn. 1852. nit. m. 

Guldsn, (3 Expl.) 

2153 Christelige Taler. Kbhvn. 1848. 

2154 Christelige Taler. Kbhvn. 1848. nit, m. Guldsn. og Forf. tilskrevne 
Bemaerkn. 

2155 Tvende etnisk-religieuse Smaa-Afhandlinger, af H. H. Kbhvn. 1849. 

2156 一 58 Lilien paa Marken og Fuglen under Himlen. Kbhvn. 1849. 3 Expl. 
2159 一 63 Sygdommen til D る den af Anti-Climacus. Kbh. 1849. nit. (5 Expl.) 
2164 一 21o4a. ,,Yppersteprassten" 一 ,,Tolderen" ― ..Synderinden". Tre 

Taler ved Altergangen om Fredagen. Kbhvn. 1849. (2 Expl.) 
2165 —68 En opbyggelig Tale Kbhvn. 1850. nit. m. Guldsn. (4 Expl.) 
2169 一 70 Indovelse i Christendom, af Anti-Climacus. Kbhvn. 1850. nit. m. 

vjruldsn. (2 Expl.) 
2171 —72 Dito 2det Opl. Kbhvn. 1855. 2 Expl. 

2173 ― 77 To Taler ved Altergangen om Fredagen. Kbh. 1851. nit. m. 
Guldsn. (5 Expl.) 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 56 



2048 Bibel-Atlas i 12 Blade. 4to s. 1. & a. 

2049 Arnz, J., Atlas der alten Welt in XVI illuminirten Charten. 2te Auflage. 
Diisseldorph (s. a.). 4to. 

2050 Kort over Palaestina. Kbhvn. 1845. 

2(bl Mansa, Kort over den nordostlige Deel af sjaelland (paa Leerred i Fou- 

teral). Kbhvn. s. a. 
20o2 uiez, F. M., Reisecharte ftir Deutschland, Konigr. der Niederlande, 

Konigr. Belgien und die Schweitz. Nach Adolph Stielers Entwurf 

(aufgezogen in Fouteral). Gotha s. a. 
2053 Streit, F. vV., Charte von Europa; paa Laerred og Stokke. Weimar 

1839. 

2Cb4 し ompendioser allgemeiner Atlas der ganzen Erde von し. F. Weiland. 
Weimar 1836. 4to. 

20d5 Les deux journees, Opera en trois actes par Cherubim. (Claveerudtog 
med tydsk og fransk Text.) 4to. Colin und Bonn s. a. 

20:>6 Sonne, Jens Juul og hans Kone, efter et Maleri af J. Juul. Kobberstik, 
udgivet af Kunstforeningen ; Kbhvn. 1851. 

Dr. S. Kierkegaards egne Skrifter. 

2057 ― 2157 a. Af en endnu Levendes Papirer. Udg. mod hans Villie. Kbhvn. 

1838. nit. m. Guldsn. (2 Expl.) 

2058 ― 2106 Om Begrebet Ironi, med stadig Hensyn til Socrates. Kbhvn. 

1841. 49 Expl. heft. 
2107 —9 3 Expl. indb. 
2110 —11 2 Expl. nit m. Guldsn. 

2112 1 Expl. med tilskrevne Bemeerkninger af Forf. nit. m. Guldsn. 
2113 1 Expl. m. Bemasrkn. 

21 14 ― 15 Enten-Eller. Et Livs-Fragment af Victor Eremita. 2 Bind, Kbh. 
1843. nit. m. Ljuldsn. og l^orf. tilskrevne Bemeerkn. 

2116 Enten— Eller. 2 Bd. 2den Udg. 1849. Kbhvn. nit. m. Guldsn. 

2117 To opbyggelige Taler. Kbhvn. 1843. 

2118 -19 Tre opbyggelige Taler. Kbh. 1843. (2 Expl.) 
2丄20 rire opbyggelige Taler. Kbhvn. 1843. 

2121 Opbyggelige Taler, 1—9. Kbhvn. 1843. 

2122 Frygt og Baeven. Dialektisk Lyrik af Johannes de silentio. Kbhvn. 
1843. 

2123 Dito nit. m. Guldsn. 

2124 urjentagelsen. Et Forsog i den experimenterende Psychologic af 
Constantin Constantius. Kbh. 1843. 

2i23 jJito nit. m. Guldsn. 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 55 

2011 Allen, C. F., Haandbog i Fiedrelandets Historte. Kbhvn. 1840. 

2012 Munthe, E., L お se- og Leerebog i Faedrelandets Historic. 6te Oplag, 
gjennemseet og rettet af E. C. Werlauff. Kbhvn. 1837. 

2013 Junge, Den nordsjellandske Landalmues Charakter, Skikke, Meninger 
og Sprog. Kbhvn. 1798. 

2014 Molbech, C., Kong Christian den Femtes egenhcendige Dagboger. 
Kbhvn. 1848. 

2015 Molbech, C, Hertugdommet Slesvig i dets Forhold til Danmark og 
Holsteen. Kbhvn. 1848. 

20l り 一 23 1 hiers, A., Consulatets og Keiserdommets Historic, oversat af J. C. 

Magnus. 7 Dele. Kbhvn. 1845—47. 
2024 ― 28 Thiers, M. A., Geschichte der franzosischen Revolution, tibersetzt 

von Ferd. Philipps. 5 Theile. Leipzig 1836. 

2029 Scener og Skildringer af det franske Folks Revolution i 1848. Udgivet 
af A. P. Liunge. 6 Hefter. Kbhvn. 1848. 

2030 Rudelbach, A. ヒ, Dr., Die Sache Schleswig-Holsteins volksthiimlich, 
historisch, politisch, staatsrechtlich und kirchlich erortert. Stuttgart 
1851. 

2031 Zumpt, Carl Timoth., Annales veterum regnorum et populorum 
inprimis romanorum. Berlin 1838. 

2032 ijribbon, Edv., Geschichte des romischen Weltreiches. Deutsche Ausg. 
V. Johann Sporschill. Leipz. 1837. 

2033 Bekker, W. A., Charikles, Skildring af Privatlivet i い reekenland, overs. 
Kbhvn. 1846. 

2034 —35 Brondsted, P. 0., Reise i Grsekenland i Aarene 1810—13. Udgivet 

af N. V. Dorph. 2 Dele. Kbhvn. 1844. 
2030 China, historisch, romantisch, malerisch, m. Stahlst. Carlsruhe. 

2037 Brochner, H., Om det jodiske Folks Tilstand i den persiske Periode. 
Kbhvn. 1845. 

2038 Jensen, B. F., Geographisk-historisk Beskrivelse over Palaestina. Kbhvn. 
1840. 

2039 Prokesch, A., Reise i det hellige Land 1829. Overs, af C. Winther. 
Kbhvn. 1839. 

2040 Geograpnisch-statistisches Comptoir und Zeitungs Lexicon, von Dr. 
Benjamin Ritter. Zweite Ausgabe. Leipzig 1838. 

2041 Adler, A. P., Optegnelser fra en Reise. Kbh. 1849. 

2042 —44 Hubner, Johan, Fuldstaendig Geographic. 3 Dele. Kbhvn. 1743. 

2045 Dass, P., Beskrivelse over Nordlands Amt i Trondhjems, stift, 
Udgivet af A. C. Dass. 2det Oplag. Kbhvn. 1763. 

2046 Et Bundt Smaaskrifter, Piece etc. 

2047 Et Bundt Boger. 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目 録 



54 



Frode 7 Tider. Kbhv. 1800. 

1948 orundtvig, N. F. S., JNordens Mythologie eller Udsigt over Eddalasren. 
Kbhvn. 1808. 

1949 Grundtvig, N. F. S., Nordens Mythologie eller Sindbilledsprog, anden 
omarbeidede Udgave. Kbh. 1832. 

1950 Hammerich, Martin, Om Ragnaroksmythen og dens Betydning i den 
oldnordiske Religion. Kbhv. 1836. 

19m — 1951b. Lebensbeschreibungen beriihmter Manner aus den Zeiten 
der Wiederherstellung der Wissenschaften. 3 Bande. Zurich 1795 ― 97. 

1952 —— 53 Selbstbiographien bertihrnter Manner, gesammelt von Prof. 
Seybold. 2 Bde. Winterthur 1796—99. 

1954 し olumnae Militantis ecclesiae cnm Fig. Norinbergae 1768. Fol. 

19^^ Levin, J., Album af nulevende danske Masnds og Qvinders Haandskrifter. 
Kbhvn. 1846. 

1956 Rothe, P. C., De vita et gestis Anselmi. Hauniae 1840. 

1957 Jocham, M., Leben des ehrwurdigen Ludwig de Ponte aus der Gesell- 
schaft Jesu. 2 Biinde. Sulzbach 1840. 

1958 Rudelbach, A. G., Christelig Biographic. Forste Bd. Kbhvn. 1848. 

1959 —60 Orsted, A. S., Af mit Livs og min Tids Historic. 1.2 samt II. 

Bind. Kbhvn. 1851—52. 

19(31 一 64 Bayle, P., Historisches und kritisches Worterbuch. 4 Bde. Leip- 
zig 1741—44. Fol. 

1965 一 69 Moreri, L., Le Grand Dictionnaire historique. 6 Tom. Basl. 
1731—32. Fol. 

1970 Grundtvig, N. F. S., Tjdsigt over Verdens Kroniken, fornemmelig i det 
Lutherske Tidsmm. Kbh. 1817. 

1971 Politz, し arl Heinr. Ludw., Kleine Weltgeschichte. 7te Aufl. Leipzig 
1834. 

1972 ― 83 Beckers, K. F., Verdenshistorie, omarbeidet af J. G. Woltmann. 

Oversat af J. Riise. 12 Bind. Kbhvn. 1822—29. 
1984 一 90 Bossuet, Einleitung in die allgemeine Geschichte der Welt bis auf 
Kaiser Carl d. Groszen, iibersetzt von M. J. A. Cramer. 7 Theile. 
Leipzig 1748. (2det Bind mangier.) 

1991 Weyl, L., Dr., Wegweiser fiir Eisenbahn-Reisende, m. K. Berlin 1844. 

1992 t aereyinga Saga eller Fffiroeboernes Historic i den islandske Grundtext 
med faeroisk og dansk Oversasttelse ved C. C. Rafn. Kbhvn. 1832. 

1993 ― 95 Nordiske Kaempe-Historier, efter islandske Haandskrifter fordanske- 

de ved C. C. Rafn. 3 Bind. Kbhvn. 1821—26. 
1996 —2007 Oldnordiske Sagaer, overs, af C. C. Rafn. 12 Bind. Kbhvn. 
1826—37. 

2008 一 10 Wedels Saxo Grammaticus, udg. af Samfundet for dansk Litteraturs 
Fremme. Kbhvn. 1851. Fol. 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 53 

1826. 

1918 Le livre du peuple par t. Lamennais. Brux. 1838. 

1919 ― 20 de Maistre, J. le comte, Les soirees de St. Petersbourg. Tom. 

I— II. Bruxelles et Leipz. 1837. 
1924 Molieres, J. B. P., udvalgte Skuespil, overs, ved K. L. Rahbek. Iste 

Bind. Kbhvn. 1813. 
1922 ― 25 J. J. Rousseaus Bekjendelser eller hans Levnet. 4 Dele. Kbhvn. 

1798. 

1926 Le Sage, Gil Bias de Santillana. Ubers. von Ernst Wallroth. Stutt- 
gart 1839. 

1927 Giovanni Boccaccio. Das Decameron; aus dem Italienischen iibersetzt 
von Karl Witte. 3 Theile. Leipzig 1843. 

1928 Heiberg, Johannes Ludovicus, De poeseos dramaticae genere hispanico, 
praesertim de Petro Calderone de la Barca. Hafnias 1817. 

1929 Dante Alighieri. Gottliche Comodie, iibersetzt von Karl Streckfusz. 
3te Ausgabe. Halle 1840. 4to. 

1930 Carlo Gozzi, Italienske Maskecomoedier, oversat af Meisling. Kbhvn. 
1825. 

1931 Pellico's, Silvio, von oaluzzo, sammtliche W erke in einem Bande. 
libers, von Kannegiesser und Hieronymus Miiller, m. Portrait. Zwi- 
ckau 1835. 

1932 ― 33 Petrarca, F., sammtliche italienische ^jedichte, iibersetzt von F. 

W. Bruckbrau. 6 Bande. Munchen 1827. 
1934 Calderon, Dronning Zenobia, oversat af Rosenvinge. Kbhvn. 1849. 
193b ― 36 Miguel Cervantes de Saavedra, ,,Don Quixote von La Mancha, 

iibersetzt von Heinr. Heine. 2 Bde. Stuttgart 1837. 4to. 
1937 ― 40 Saavedra, M., de し ervantes, Don Quixote af Manchas Levnet og 

Bedrifter. Oversat af C. D. Biehl. 4 Bind m. Portrait. Kbhvn. 1776 

一 77. 

1941 Sakuntala, Skuespil i / Optrin af Kalidasas. Overs, af M. Hammerich, 
Med Traesnit af Flinch efter Sonne. Kbhvn. 1845, 



1942 一 43 Vollmer, W,, Vollstandiges Worterbuch der Mythologie aller 

Nationen; in einem Bande mit einem englischen Stahlstich und 129 

Tafeln. Stuttg. 1836. 
1944 ― 45 Nitsch, Paul Fr. A., Neues mythologisches Worterbuch. 2te 

Aufl. von Friedrich Gotth. Klopfer. 2 Bande. Leipzig und Soran 

1821. 

1946 Moritzs, K. P., Gudelasre, overs, og tilligemed et Omrids af den nordiske 
Mythologie udgivet af Chr. Winther. M. Afbildn. Kbhvn. 1847. 

1947 Moinichen, J. B., Nordiske Folks Overtro, Guder, Fabler og Helte indtil 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 52 



1845 Stillings, H., Junglings-Jahre. Berlin und Leipzig 1778. 

1846 stillings, H., hiiusliches Leben. Berlin und Leipzig 1789. 

1847 Stillings, H., Wanderschaft. Berlin 1778. 

1848 —49 Tieck, Ludw., Sammtliche Werke. Band I-II. Paris 1837. 
1850 ,,Viel Larmen um Nichts" von Joseph Freiherrn v. Eichendorff, und: 

Die mehreren Wehmiiller und ungarischen Nationalgesichter, von 

Clemens Brentano. Zwei Nowellen. Berlin 1833. 
1851 ― 54 Werner, Zacharias, Poetische Werke (in 13 Bandern). Herausge- 

geben von seinen Freunden. Grimma (s. a.). 
185b ― 6b Winkelmann, J., sammtliche Werke, von J. Eiselein. 1 ― 12. 

Donaueschmgen 182b ― 29. 
1867 Winckelmann, J., Abbildungen zu sammtlichen Werken. Donaueschin- 

gen 1835. Fol. 



1868 ― 70 Lord Byrons sammtliche Werke, iibersetzt von Mehreren. 10 

Bande m. Portrait. Stuttgart 1839. 
1871 ― 72 Franklins, B., Leben und Schriften, von Dr. A. Benzer. 4 Bande. 

Kiel 1829. 

1873 Ossians Digte. Oversatte af S. S. Blicher. 2 Bind. Kbhvn. 1807—9. 

1874 ― 81 Shakspeare, W., Dramatische Werke, iibers. v. Ernst Ortlepp. 

Band. 1—8. Stuttgard 1838. 

1882 Vierzig Kunstblatter zu Shakespeares dramatis chen Werken (in Stahl 
grawirt). Stuttgart 1840. 

1883 ― 88 Shakspeare's dramatische Werke, iibersetzt von Aug. Wilh. 

Schlegel und Ludw. Tieck. Band 1—12. Berlin 1839. 
1889 一 96 Shakspeares, William, Dramatiske Vaerker, oversatte af P. F. Wulff. 
Deel 1—9. Kbhvn. 1825. 2den Deel mangier. 

1897 Shakespeare, W., Macbeth, oversat og fortolket af N. Hauge. Chri- 
stiania 1855. 4to. 

1898 j)helley, P. B., Poetische Werke in einem Bande. A. d. Engl. von. J. 
Seybt. Leipzig 1844. 

1899 —1906 Swift, J., Dr., Satyrische und ernsthafte Schriften. 8 Bande. 

3 AuB. Zurich 1766. 
1907 ― 10 Tagebuch eines Aztes, aus d. Engl. Th. 1 ~ 4-. Braunschweig 1830. 

1911 Young, E., Dr., Einige Werke, iibers. von J. A. Ebert. 3 Bande. Braun- 
schweig u. Hildesheim 1777. 

1912 —13 Fenelons sammtliche Werke. 5 Theile in 2 Bande. Leipzig 1782. 
1914 Fenelons Werke religiosen Inhalts. Aus d. Franzos. v. M. Claudius. 

3 Bde. Hamburg 1822. 
1915 一 17 Das Leben der Frau J. M. B. von la Mothe Guion, von ihr selbst 
beschrieben ; iibersetzt von Henriette v. Montenglaut. 3 rheile. Berlin 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 51 

1729 —30 Jacobi's, J. G., sammtliche Werke. 4 Bande m. Portr. Zurich 
1825. 

1731 ― 33 Kant's, J., vermischte Schriften. 3 Bande. 8te und vollst. Ausg. 
Halle 1799. 

1734 Kerner, J., Die JJichtungen, neue vollst. Sammlung in einem Bande. 
Stuttgart 1834. 

1735 —38 Klinger, F. M., sammtliche Werke. 12 Bande m. Portr. Stuttgart 

1842. 

1739 ― 41 Kleist's, H. v., gesammelte Schriften. Herausg. von L. 1 leck. 3 
Bande. Berlin 1826. 

1742 Koberstein, August, Uber das wahrscheinliche Alter und die Bedeutung 
des Gedichtes vom Wartberger Kriege. Niirnberg 1823. 4to. 

1743 Lenau, N., Sawonarola, ein Gedicht. Stuttgart und Tubingen 183 ん 

1744 ― 46 Lenz., 】. M. R., Gesammelte Schriften, herausg. von L. Tieck. 

Band 1—3. Berlin 1828. 
1747 一 62 Lessings, G. E., sammtliche Schriften. Bde. m. Portrait. Berlin 
1825—28. 

1 763 Lessing, G. E., Emilie い alotti, Trauerspiel. Leipzig 1844. nit. 

1 764 一 72 Lichtenbergs, G. C., vermischte Schriften, herausgegeben von L. C. 

Lichtenberg und F. Kries. 9 Bande m. Kupf. Gottingen 1800—1806. 
1773 一 74 Lichtenbergs, G. C., Ideen, Maximen und Lmfalle. 丄 Nebst dessen 
Charakteristik. Herausg. von G. Jordeus. 2te Aufl. 2 Bde. Leipzig 
1830—31. 

1775 Lichtenberg, <^eorg Chr., Auserlesene Schriften (mit 24 Kupfern nach 
Chodowiecki). Baireuth 1800 

1776 Novalis Schriften, herausgeg. von Ludw. T. leck und Fr. Schlegel. 4te 
vermehrte Auflage. Berlin 182b. 

1777 —99 Jean Paul's sammtliche Werke. 60 Bande. Berlin 1826. 

1800 Rauch, F. A., Vorlesungen uber Goethe's Faust. Budingen 1830. 

1801 Reinhold, Guido, Die neueste Blumensprache, ein Taschenbuch fur 
Liebende. 2te Aufl mit 2 colorirten Abbildungen bedeutungsvoller 
Strausze. Leipzig 1838. 

1802 一 3 Rotscher, H. T., Dr., し yclus dramatisches Charaktere. 2 Bande. 

Berlin 1846. 

1804 一 15 Schillers sammtliche Werke in zwolf Bande. Stuttgart und 
Tubingen 1838. 

1816 —25 Schlegel's, Fr" sammtliche Werke. 10 Biinde. Wien 1822—25. 
1826 ― 31 Seumes, J. G., sammtliche Werke. 12 Bande. Leipzig 1826 ― 27. 
1832 ― 33 Solgers nachgelassene Schriften und Briefwechsel. Herausgeg. 

von L. lieck und Fr v. Raumer. 2 Biinde. Leipzig 1826. 
1834 —43 Steffens, H., Was ich erlebte. 2te Aufl. 10 Bande. Breslau 1844. 
1844 Stillings, H., Jugend. Berlin und Leipzig 1779. 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 50 



1627 —29 Borne, Ludvvig, Gesammelte Schriften. 8 Theile. 2te Aufl. 
Hamburg 1840. 

1030 Adalbert v. Chamisso, Peter Schlemihls wundersame Geschichte. 3te 

Auflage mit 9 Kupfertafeln. Niirnberg 1835. 
1631 —32 Claudius, M., Werke. 4 Bde. Hamburg 1838. 
lbJ3 V. Eichendorff, Joseph, Dichter und ihre Gesellen. Novelle. Berlin 

1834. 

1634 Eichendorff, J., Gedichte. Berlin 1837. 

16j5 Eschenbach, W. v , Parcival, Rittergedicht. Ubers. von San-Marte. 
Magdeburg 1836. 

lbJ6 Das Leben Johannes Fausti, m. Portrait, Reutlingen 1834. 

Ibj7 Feuerbach, L., Abalard und Heloise oder der Schriftsteller und der 

Mensch. Ansbach 1834. 
16^8 ― 40 Gerstenberg, Joh. Wilh. v., Samtliche poetische Schriften. 3 

1 heile. Ister Ausgabe. Wien 1794. 
Ib41 一 68 Goethe's Werke. Vollstand. Ausg. letzer Hand. 1 一 55. 

Stuttg., und Tub. 1828—33. 
1669 Goethe, Faust. Eine Tragodie. Stuttgart und Tubingen 1834. 
Io70 ^^rabbe, Don Juan und Faust. Eine Tragoedie. Frankfurt am Main 

1829. 

1671 Gubitz, F. W., Deutscher Volks-Kalender fur das Jahr 1838. Berlin. 
lo72 Vjiinther, A., Peregrins Vjastmahl. Eine Idylle in eilf Octaven aus dem 
deutschen wissenschaftlichen Volksleben. Wien 1830. 

1673 t^orres, J., Athanasius. 4te Ausg. Regensburg 1838. 

1674 Hebbel, F., Judith. Eine Tragodie in funf Acten. Hamburg 1841. 
lo75 Hebbel, Fr., i^enoveva, eine Tragoaie in fiinf Acten. Hamburg 1843. 
Io70 ― 84 Herder, J. G., sammtliche Werke. Zur Religion und 1 heologie. 

1—18. Stuttgart und Tubingen 1827—30. 

1685 ― 94 Herder, J. G., sammtliche Werke. Zur schonen Litteratur und 
Kunst 1—20. Stuttg. und Tubingen 1827—30. 

1595 一 1705 Herder, J. G., sammtliche Werke. Zur Philosophic und Geschi- 
chte. 1—22. Stuttgart und Tubingen 1827—30. 

170o ― 9 Lebenslaufe nach aufsteigender Lime (af v. Hippel). 3 Theile. Berlin 
1778. 

1710 ― 11 Kreuz- und Querziige des Ritters. A bis Z von dem Verfasser der 
Lebenslaufe nach aufsteigende Linie (v, Hippel) m. Kupfern. 2 Theile. 
Berlin 1793. 

1712 —16 Hoffmann's, E. T. A., ausgewahlte Schriften. 10 Bande. Berlin 
1827—28. 

1717 —21 Hoffmann's, E.T. A., Erzahlungen aus seinen letzten Lebensjahren. 

5 Bande m. Kupfern. Stuttgart 1839. 
1722 —28 Jacobi, F. H., Werke. 6 Bde. Leipzig 1812—25. 7 Vol. 



キ- ルケ ゴールの 蔵書 目録 49 



1578 Paludan-Muller, Fr., Venus, et dramatisk Digt. Kbhvn. 1841. 

1579 ― 85 Staffeldts, Schack, samlede uigte, udgivne af F. L. Liebenberg. 

4 Bind. Kbhvn. 1843—51. 
1586 ― 88 Steffens, H., De fire Nordmaend, en Cyclus af Noveller. Oversat 

af J. R. Reiersen. 3 Bind. Kbhvn. 1835. 
1589 一 90 Stubs, A., samlede Digte 3die Udg. ved Fr. Barfod. 1—2 Hefte. 

Kbbvn. 1848—52. 

1591 —92 Thiele, J. M., Danske Folkesagn. 2 Bind. Khhvn. 1819—23. 

1593 Winther, C., Haandtegninger. Digte. Kbh. 1840. 

1594 Winther, C., Lyriske Digte. Kbhvn. 1849. 

1595 Winther, C., Nye Digte. Kbhvn. 1851. 

1596 Winther, C., En Student og en Jomfru, Marionet-Comedie. Kbhvn. 
1852. 

1597 —98 Oehlenschlagers, A., poetiske Skrifter. 2 Dele. Kbhvn. 1805. 

1599 Oehlenschlager, A., Nordiske Digte. Kbh. 1807. 

1600 Oehlenschlager, A., Nordens Guder, et episk Digt. Kbhvn. 1837. 
1601 —5 Oehlenschlagers Tragodier. 9 Bind. Kbhvn. 1841—44. 

1606 Kjobenhavns flyvende Post Nr. 38—43, 1835; indeholdende Fortasl- 
lingen: Joh an Gordon. Kbh. 1835. 

1607 Heiberg, J. L., Kjobenhavns flyvende Post, Interimsblade Nr. 1 ― 100. 
Kbhvn. 1834. 4to. 



1608 —9 Bellman, C. M., Skaldestycken; efter C. M. Volschows Manuscripter 

forsta Gnngen utgifna. 2 Dele. Stockholm 1814. 
1610 ― 1 1 Fredmans Epistlar m. Musik. 2 Bind. Stockholm 18lo. 



16 1 2 — 17 Achim v. Arnim, Ludw., Novellen, herausgeg. von Wilh. orimm. 

6 Biinde. Berlin 1839—42. 
1618 ― 19 Achim v. Arnim, Ludw.. Schaubiihne, herausg. von Wilh. Grimm. 

2 Biinde. Berlin 1840. 
1620 Achim v. Arnim, Ludw., Die Kronenwachter, herausgegeben von 

Wilh. Grimm. Ister Band. Berlin 1840. 
1621 ― 22 Achim v. Arnim, Ludw., Armuth, Reichthum, Schuld und Biisze 

der Grafin Dolores, herausgegeb. von Wilh. Grimm. 2 Bande. Berlin 

1840. 

1623 Arnim, L. A., Halle und Jerusalem. Studenterspiel und Pilgeraben- 
theuer. Heidelberg 1811. 

1624 Arnim, L. A., Die Gleichen, Schauspiel. Berl. 1819. 
lo25 Arnim, L A., Sechs Erzahlungen. Berlin 1835. 

lo2o Faustus, ein Gedicht von Ludw. Bechstein. Leipzig 1833. 4to. 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 B 録 48 

Ska gen. Kbhvn. 1839. 
152:) Blicher, S. S., fraekiuglene, Naturconcert. Randers. 
1526 ― 28 Bredahl, C, Dramatiske Scener uddragne af et aeldgammelt Ha- 

andskrift. 6 Bd. Kbhvn. 1819—33. 
1529 ― 30 Bredahl, C., Dramatiske Scener. 2den Udgave. 2 Bind. Kbhvn. 

1855. 

1531 し lara Raphael. Tolv Breve, udgivne af J. L. Heiberg. Kbhvn. 1851. 

1532 Eva Homo, Digt i femten Sange. Kbhvn. 1851. 

1533 —36 Ewalds, J., samtlige Skrifter, 4 Bind m. Kobb. Kbhvn. 1780—91. 
1537 ― 44 Ewalds, J., samtlige Skrifter, udgivet af M. F. Liebenberg. S 

Bind. Kbhvn. 1850—54. 

1545 Fibiger, J., Jeptas Datter, et Sorgespil i det gamle Testamentes StiL 
Kbhvn. 1849. 

1546 Gerson, J. C , Fra og til, nogle Digte. Kbh. 1853. 

1547 Meyer, A., En Jode. Novelle, udg. af M. Goldschmidt. Kbhvn. 1845. 

1548 orundtvig, N. F. S., Brage-Snak om Graeske og Nordiske Myther og 
Oldsagn. Kbhvn. 1844. - 

1549 Grundtvig, N. F. S., Danske Ordsprog og Mundheld. Kbhvn. 1845. 
1550 一 1^50 a. Hauch, C., Slottet ved Rhinen, eller de forskjellige Standpunkter- 

Roman. 2 Bind. Kbh. 1845. 
1551 —52 Heibergs, J. L., Digte og Fortcellinger. 2 Bd. Kbhvn. 1834 ~ 35- 
1553 —59 Heiberg, J. L., Skuespil. 7 Bind. Kbhvn. 1833—41. 

1560 Heiberg, J. L., Prosaiske Skrifter. 3die Bind. Kbhvn. 1843. 

1561 Heiberg, J. L., Fata Morgana, Eventyr Comedie. Kbhvn. 1838. 

1562 Heiberg, J. L., Nye Digte. Kbhvn. 1841. 

1563 To Tidsaldre. Novelle af Forf. til ,,En Hverdags-Historie". Udg. af 
J. L. Heiberg. Kbhvn. 1845. 

1564 Hertz, H., Turfing. Kbhvn. 1849. 

I5b3 Hertz, H., Tonietta, romantisk Lystspil. Kbh. 1850. 

1566 —67 Holberg, L., Den danske Skue-Plads. 7 Tomer. Kbhvn. 

1568 Hoist, H. P., Digte. Iste Samling. 2 Opl. Kbh. 1840. 

1569 Hoist, H. P., Ude og hjemme. Reise-Erindringer. 2den Udg. Kbhvn. 
1843. 

1570 Hoist, H. P., Dansk Laesebog, den prosaiske Deel. Kbhvn. 1837. 

1571 Ingemann, B. S., Blade af Jerusalems skomagers Lommebog. Kbhvn. 
1833. 

1572 Kaalund, H. V., og J. P. Lundbye, Fabler for Born. Kbhvn. 1845. 

1573 Molbech, C., Danske Ordsprog, Tankesprog og Riimsprog. Kohvru 
1850. 

1574 —76 Moller, Poul M., Efterladte Skrifter. 3 Bind. Kbhvn. 1839. 
1577 Paludan-Mviller, Fr., Dandserinden og Amor og Psyche, to Digtninger. 

3 Udg. Kbhvn. 1837. 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 



47 



1475 Ursinus, Aug. Friedr., Balladen und Lieder altenglischer und altschot- 
tischer Dichtart. Berlin 1777. 

1476 Sandvig og Nyerup, Levinger af Middelalderens Digtekunst. 1 ― 2 
Hefte. Kbhvn. 1780—84. 

1477—81 Udvalgte danske Viser fra Middelalderen; eftcr A. S. Vedels og 
P. Syvs trykte Udgaver, udg. af Abrahamson, Nyerup og Rahbek. 6 Bind, 
Kbhvn. 1812—14. 

1482 Molbech, C., Om de gamle danske Folkevisers Beskaffenhed og Forholdi 
Kbhvn. 1848. 

1483 Visebog, indeholdende udvalgte danske Selskabssange. (Udgivet af 
A. Seidelin.) Kbhvn. 1814. 

1484 Fteroiske Qvaeder om Sigurd Fofnersbane og bans lEt. Samlede og 
oversatte af H. C. Lyngbye. Randers 1822. 

1485 Das Lied der Niebelungen von Joseph v. Hinsberg. 

148o Altteutsche Volks- und Meisterlieder aus den Handschriften der Heidel- 
berger Bibliothek, herausgeg. von J. Gorrcs. Frankfurt am Main 1817. 

1487 ― 88 Herder, J. G., v., Volkslieder. Neue Ausgabe, eingeieitet von 
Johannes Falck. 2 Theile. Leipzig 1825. 

1489 —93 Erlach, Friedr. Carl, v., Die Volkslieder der Deutschen. 5 Theile. 
Mannheim 1834. 

1494 ― 9o Des Knaben Wunderhorn. Alte deutsche Lieder v. L. Achim v. 
Arnim und Clemens Brentano. 2te Aufl. Band 1 ― 3. Heidelberg 
1819. 

1497 ― 98 Volkslieder der Serben. Metrisch iibersetzt und historisch einge- 
ieitet von Talvi. 2 Bde. 2te Aufl. Halle und Leipzig 1835. 

1499 Fiirst Wladimir und dessen Tafelrunde; alt russische Heldenlieder. 
Leipzig 1819. 

1500 一 1 Arwidsson, A. J,, Svenska Fornsanger. 2 Bind. Stockholm 1834 ~ 37. 



1502 Adler, A. P., Nogle Digte. Kbhvn. 1846. 

1503 Andersen, H. C, Kun en Spillemand, orig. Roman. 3 Bind. Kbhvn. 
1837. 

1504 ― 6 Andersen, H. C, Nye Eventyr. 2 Samlinger. 

1507 Baggesen, Jens Immanuel, Adam und Eva oder Geschichte des Stinden- 
falls. Leipzig 1826. 

1508 Baggesen, J., Danfana. Kbhvn. 1816. 

1509 ― 20 Baggesens, J., danske Vaerker. Udgivne af Forfatterens Sonner og 

C. J. Boye. 12 Bind m. Portrait. Kbhvn 1827—32. 
1d21 ― 23 Blicher, S. S., Samlede Noveller. 2det Oplag. 5 Bind m. Supplement. 
Kbhvn. 1833—39. 

1^24 Blicher, S. S., Vestlig Profil af den cimbriske Halvoe fra Hamborg til 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 46 

1442 —44 Scheible, 】., Das Kloster, weltlich und geistlich. 3 Bande, enthal- 
tend: 1) Volkprediger, Moralisten und frommen Unsinn; 2) S. Brandts 
Narrenschiff mit Geilers v. Kaiserbergs Predigten; 3) Murners Schel- 
menzunft ; 4) Doctor Johann Faust, vollstandige り eschichte seines 
Lebens, seiner magischen Biicher; seine Vorganger ; 5) Christoph Wagner, 
Don Juan Tenorio und verschiedene Schwarzkunstler und Beschworer. 
Mit vielen Kupferen. Stuttgart 1846. 

1445 —56 Die blaue Bibliothek aller Nationen. 12 Bande m. K, Gotha und 
Weimar 1790—1800. 

1457 ― 59 Dansk og Norsk Nationalvaerk, eller almindelig aeldgammel Mor- 
skabslsesning, udg. af Prof K. L. Rahbek. 3 Bind. Kbhvn. 1828—30. 

1460—61 Ein Volksbuchlein. 2 Theile. Ister Theil enthalted : Die Geschichte 
des ewigen Juden, die Abenteuer der sieben Schwaben, nebst viclen 
andern erbaulichen und ergotzlichen Historien. 2ter Theil Die Geschi- 
chte des Dr. Faust, die Abenteuer des Spiegelschwaben, nebst vielen 
andern erbaulichen und ergotzlichen Historien. 2te vermehrte und 
verbesserte Ausg. Miinchen 1835 & 39. 

1462 し yprianus, den over aid Verden vidtberomte Sorte Konstner, paany 
gjennemseet og forbedret af hoilgerde Doctoribus. Manuskript. 

1463 Historisch-kritische Untersuchung iiber das Leben und die Thaten des 
Doctor Johann Fausts, des し agliostro seiner Zeiten. Leipzig 1791, 

1464 Underlige Sporgsmaal, lystige at hore og laese, samt een af iEsops 
Fabler om Hof- og Land-Musen. 

1465 ^rens Torne-V ei for en Skytte, navnlig Bryde. 

1466 Borup, T. L., Det menneskelige Livs Flugt, eller Dode-Dands. 3 die 
Oplag med Afbildn. Kbhvn. 1814. 4to. 

1467 En lystig Historic om Uglspils Overmand eller Robertus v. Agerkaal. 
Kbhvn. 

1468 Tre Hundrede udvalgte og lystige Ny Historier eller Skjemt og Alvor, 
meget nyttige og artige at fordrive 1 iden med. 4de Oplag. Kbhvn. 
(s. a.) 

1469 Historic om 1 iile Ugelspegel. Oversat. Kbhvn. 

1470 En skjon Historic om de syv vise Mestere. Kbhvn. 1821. 

1471 Marcolfus, eller en lystig Samtale mellem Kong Salomon og Marcolfus. 
Kbhvn. 

Jesu Christi Barndoms Bog. Kbhvn. i 1 Bind. 

1472 ― 73 Die Volksharfe, Sammlung der schonsten Volkslieder aller Nation- 

en. 6 Theile in 2 Biinde. Stuttgart 1838. 
1^/4 i^ieder der Liebe. Die altesten und schonsten aus Morgenlande. Nebst 
44 alten Minneliedern. Leipzig 1778. 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 45 

der Wissenschaften m unechenland und Rom. 2 Bande. Lemgo 1781 
82. 



1407 Schwab, Gustav, Die schonsten Sagen des klassischen Alterthums. 
Stuttgart 1838. 

1408 Busching, Ritterzeit und Rittervvesen. 2 Theile in einem Band. 
Leipzig 1823. 

1409 Walachische Mahrchen, herausgeg. von Arthur und A. Schott. Stutt- 
gart und Tubingen 1845. 

1410 Wolf, J. W., Niederlandische Sagen. Leipzig 1843. 

14i 1 Mailath, Johann, Magyarische Sagen und Maerchen. Brunn 1825. 

1412 ― 13 Der Pentamerone oder : Das Mahrchen aller Mahrchen. Aus d. 
Neapolitanischen iibertragen von F. Liebrecht. 2 Bande. Breslau 1846. 

1414 ― 17 Tausend und eine Nacht. Arabische Erzahlungen. Ubers. von Dr. 
G. Weil. Herausgegeb. von A. Lewald. 4 Bande m. Abbild. Stuttgart 
und Pforzheim 1838—41. 

1418 ― 22 Abendlandische Tausend und eine Nacht oder die schonsten Mahr- 
chen und Sagen aller europaischen Volker. Von J. B. Lyser. 15 Bande 
m. Kupf. Meissen 1838—39. 

1423 丄 rische Elfenmarchen, iibersetzt von den Briidern Grimm. Leipzig 1826. 

1424 George, J. F. L., Mytus und Sage. Berlin 1837. 

1425 — 27 Kinder- und Haus-Marchen, gesammelt von die Briider Grimm. 

2te Aufl. 3 Bande m. K. Berlin 1819—22. 
1428 Lewald, A., Blaue Mahrchen fiir alte und junge Kinder, m. vielen Abbild. 

Stuttgart 1837. 

1429 ― 30 Schwab, Gustav, Buch der schonsten oeschichte und Sagen, fiir 
Alt und Jung wieder erzahlt. 2 fheile. Stuttgart 1836. 

1431 Lyser, J. P., Polichmell. Dramatische Feen-Marchen fiir kleine und 
grosze artige Kinder. Mit George Cruikshanks Originalholzschnitten. 
Stuttgart (s. a.) 

1432 Gokel, Hinkel, Gakeleja. Mahrchen von C. Brentano, m. K. Frankfurt 
am Main 1838. 

1433 ; Ziehen Biicher deutscher Sagen und Legenden, herausgegeben von 
A. Nodnagel. Darmst. 1839. 

1434 ― 38 MusEeus, Joh. August, Volcksmahrchen der deutschen. 5 Theile. 
Wien 1815. 

1439 Wolf, J. W., Deutsche Marchen und Sagen ; mit 3 Kupfern. Leipzig 
1845. 

1440 Gorres, J., Die teutschen Volksbucher. Heidelberg 1807. 

1441 Altdeutsche Schaubiihne des Hans Sachs. Herausgegeben von Dr. J. 
kj, Biisching. Niirnberg 1824. 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 44 



2ter section 1 ― 14. 3ter Section 1 ― 9. 53 Bande m. Kupf. Leipzig 
1818—37. 4to. 



1364 Bonifacius, Baltazar, Historia ludicra. Venetiis 1652. 4to. 

1365 ― 69 Sulzer, J. G., Allgemeine Theorie der schonen Kunste. 4 Bande m. 

Register. 2te Aufl. Leipzig 1792—99. 
1 J /0 一 77 Charakteren der vornehmsten Dichter aller Nationen nebst kriti- 

schen und historischen Abhandlungen liber Gegenstande der schonen 

Kunste und Wissenschaften, von einer Gesellschaft von Gelehrten. 

8 Bande. Leipzig 1792. 
1 J/8 Thiersch, Fr., Allgemeine Aestetik in academischen Lehrvortragen. 

Berlin 1846. 

1379 —80 VVeisze, Chr. Hermann, System der Aesthetik. 2 Th. Leipzig 1830. 
1381 —83 Jean Paul, Vorschule der Aesthetik 2te Aufl. Abth. 1—3. Stutt- 

gard und Tubingen 1813. 
1384 ― 86 Hegel, G. W. F., Vorlesungen iiber die Aesthetik, herausgegeben 

von Dr. H. G. Hotho. 3 Bande. Berlin 1835. 

1387 Solgers, K. W. F., Vorlesungen iiber Aesthetik. Herausgeg. von K.W. L. 
Heyse. Leipzig 1829. 

1388 Schlegel, F., Ueber die Sprache und Weisheit der Indicr. Heidelberg 
1808. 

1389 Nyerup, R., og K. L. Rahbek, Den danske Digtekunsts Historic. 2 
Dele. Kbhvn. 1828. 

1390 Thomsen, Grimur, Om den nyfranske Poesie. Kbh. 1843. 

1391 Rotscher, H. T., Dr., Die Kunst der dramatischen Darstellung. Berlin 
1841. 

1392 —94 Schlegel, A. W., Ueber dramatische Kunst und Litteratur. 2 

Bande. Heidelberg 1809—11. 

1395 Overskou, T., Den danske Skueplads, i dens Historic, fra de forste Spor 
af danske Skuespil mdtil vor Tid. Iste Bind. Kbhvn. 1854. 

1396 ― 99 Flogel, Carl Fr., Geschichte der comischen Litteratur. 4 Bande. 

し legnitz und Leipzig 1 784. 

1400 Flogel, K. F., Geschichte des Burlesken, herausgeg. von Friderich 
Schmidt. Leipzig 1794. 

1401 Flogel, Car] Friederich, Gescnichte der Hofnarren. Liegnitz und 
Leipzig 1789. 

1402 Gorres, J., Aphorismen iiber die Kunst. Koblenz 1804. 

1403 一 4 Engel, J. J., Ideen zu einer Mimik (mit Kupfertafeln.) 2 Theile. Berlin 

1785—86. 

1405 Leutbecher, J., Uber den Faust von Gothe. Nurnberg 1838. 

1406 一 1406 a. Meiners, じ., Geschichte des Ursprungs, Fortgangs und Verfalls 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 43 

― 11. Editio stereotypa. Lipsiae 1829. 
1269 — 70 C. Sallusti Crispi Opera, quae supersunt, edid. tr. Kritzius. Vol. 

I— II. Lipsiffi 1828. 
1271 C. Sallustii Crispi Opera omnia; edid. リ nil. Lange. Editio tertia. Halis 

Saxonum 18j3. 

1272 C. Sallustii Crispi Opera. Editio stereotypa. Lipsiae 1829. 

1273 Sallusts Uatilinariske Krig, oversat fra det Latinske af Mag. R. Moller. 
Kbhvn, 1811. 

1274 Annaei Senecce turn rhetoris turn philosophi Opera omnia, edid. Andrea 
Schotto. リ enevae 1626. 

1275 ― 79 L. Annaei Senecas, Philosophi, Opera omnia. Editio stereotypa. 

Tom. 1 ― 5. Leipzig 1832. 
1280 ― 1280 c. L. Annagus Seneca's Werke, iibersetzt von J. Moeser. 15 

Theile in 4 Bde. Stuttg. 1828—35. 
1281 C. Suetonii franquilli, Tolv forste romerske Keiseres Levnetsbeskri- 

velse, oversat af Jacob Baden. Kjobenhavn 1802. 

1282 Taciti, C., Opera ex recensione Ernestiana, ed. J. Bekker. Berolini 1825. 

1283 一 85 C. Cornelius Tacitus, sammtliche Werke, iibersetzt von Joh. Sa- 

muel Mullern. 3 Theile. Hamburg 1765 ― 66. 
1286 —88 Tacitus, C. C, oversat ved J. Baden. 3 Bind. Kbhvn. 1773—97. 
i289 し. Com. Tacitus Dialog om Talerne eller Aarsagerne til Veltalenhe- 

dens Fordaervelse, oversat af Jacob Baden. Kbhvn. 1802. 

1290 Terentii, P., Comoediae recens not. G. Faerni, add. R. Bentlei. 
Lipsiae 1791. 

1291 P. Terentii Am, Comoediae sex, edid. M. B. F. Schmieder et Fredericus 
Schmieder. (2den forogede Udgave.) Halis Saxonum 1819. 

1292 Terentii, P., Phormio, edid. C. G. Elberling. Hauni^e 1833. 

1293 ― 94 Terentses 。kuespil, overs, af Frederik Hoegh Guldberg. 2 Dele. 

Kbhvn. 1805. 

1295 Terents Andria, Selvplageren og Formio, tre latinske Lystspil oversat 

ved M. Rathje. Kbhvn. 1797. 
i29o Valerius Maximus, Sammlung merkwiirdiger Reden und Thaten, 

iibersetzt von Fr. Hoffmann. Stuttgart 1828. 
1 191 Velleii, し., Paterculi historiae romanas libri duo. Editio stereotypa. 

Lipsiae 1829. 

1298 Virgils Aeneide, travestirt von Aloys Blumauer. Schw. Hall (s. a.). 



1299 ― 1310 Brockhaus, F. A., Conversations-Lexikon. 8te Originalauflage. 

12 Bande. Leipzig 1833—37. 
1311 ― 1263 Allgemeine Encyclopadie der Wissenschaften und Kunste. 

Herausgegeben von J.L. Ersch und J. G. Griiber. Ister Section 1 一 29. 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 



42 



1234 Cicero, M. T., De Oratore, edid. C. G. Schutz. Lipsiae 1805. 

1235 Cicero's Rede fiir den Milo, iibersetzt von J. P. Brewer. Diisseldorff 
1830. 

1230 し iceros zwei Biicher, v. d. Vorherschung und Tusculanische Unter- 
suchungen von J. D. Biichling. Leipzig und Halle 1784. 

1237 Cicero, Uber das hochste Gut und Uebel, iibersetzt von C. V. Hauff ~ 
― von der Verachtung des Todes, iibersetzt von A. L. G. Krebel ― der 
Staat, libers, von F. v. Kobbe ― Paradoxieen, iibersetzt von Schreiber. 
(1 Vol.) 

1238 Cicero, Marc. Tull., Das Wesen der Gotter. Ubers. Zurich 1787. 

1239 Cicero, M. T., Abhandlung viber die menschlichen Pflichten, ubers. 
von Christian Garve. Breslau 1819. 

1240 —44 Cicero's M. T., Vermischte Briefe. Ubers. von A. C. Borhek. 

5 Bande. 2te Ausgabe. Frankfurt am Main 1789 ― 1801. 

1245 Weiske, M. B., Auswahl der besten Briefe し iceros. Dritte Auflage. 
Braunschweig 1824. 

1246 Weiske, M. B., Erklarende Anmerkungen zur Auswahl der besten Briefe 
し iceros. Braunschweig 1796. 

1247 Q. Curtii Rufi, De rebus gestis Alexandri magni ; edid. J. Chr. 
Koken. Lipsi^ 1818. 

1248 Q. Horatii Flacci Opera. Editio stereotypa. Lipsiae 1828. 

1249 D. Junii Juvenalis Satirae, mit einer erklarende Ubersetzung. Berlin 
und Leipzig 1777. 

丄 250 Juvenalis, Dec. Jun., Die Satiren des Latin-Tydsk. Berlin & Leipzig 
1777. 

1231 ― 55 T. Livii Patavini Historiarum libri quae supersunt omnes. Edit, 
stereot. Tom. I. — V. Lipsiae (s. a.). 

1256 T. Livii Historiarum Libri I-V. (R. Moller). Edit, alters per C. F. 
Ingerslev. Hauniae 1831. 

1257 ― 59 Ammian Marcellin; aus dem Lateinischen iibersetzt und mit 

Anmerkungen begleitet von J. A. Wagner. 3 Bde. Frankfurt am Main 
1792—94. 

1260 —61 M. Antonii Mureti Orationes. Vol. I-II. (Edit, stereotypa.) 
Lipsi^ 1838. 

1262 M. Antonii Mureti Epistolae praefationes et orationes. edid. Fredr. 
Carol. Kraft. Nordhusae 1826. 

1263 M. Antonii Mureti Epistolse. Editio stereotypa. Lipsiae 1838. 

1264 Mureti, A., Variae lectionis selectae, ed. F.C. Kraft. Lipsiae (1830.) 

1265 P. Ovidii Nasonis, quae exstant. edid. A. Richter. Edit, stereot. 
Lipsiae 1828. 

1266 Aulus Persius Flakkus, oversat af P. G. Fibiger. Kbhvn. 1826. 

1267 —68 M. Fabii Quintiliani de institutione oratoria Libri XII. Tom. I 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 41 



1201 ^)ophociis 1 ragoediae, edid. し. It. Weise. 1 om. i-II. Lipsiae 1841. 

1202 Sophokles. Von J. J. C. Donner. Heidelberg 1839. 

1203 Sophokles Tragodien in deutscher Prosa. Leipzig 1846. 

1204 Theophrasti Characteres ed. F. Astius. Lipsiae 1815. 

1205 Theophrasti Characteres. Epicteti manuale. Editio stereotypa nova. 
Lipsiae 1829 

120b ― 1206 D. Theophrasis, P., Opera Biicher und Schriften von J. Huser. 3 

Bande. Strasburg 1616—18. Fol. 
1207 ― 10 Zenophontis Opera graece & latine, ed. C. A. 1 hieme. 4 Vol. 

Lipsiae 1801—4. 
12il Zenophontis memoralia, ed. F. A. Bornemann. Lipsiae 1829. 
12i2 ― li Zenophons sammtliche Schriften. Aus dem <^riechischen neu 

ubers. von A. C. Bcrhek. 6 Bde. Lemgo 1778—1808. 



1215 Apuleii, L., Madaurensis Opera omnia, edid. Dr. G. F. Hildebrand. 

(Editio minor.) Lipsiae 1843. 
12lo Amor und Psyche, freie metrische Bearbeitung nach dem Lateinischen 

des Apuleius, von Joseph Kehrein. Vjiessen 1834. 

1217 Appeii Fabula de Psyche et Cupidine. Edit. Jo. し asp. Orellius. 
Turici 1833. 

1218 M. Antonius Commentarii, Libr. XII. edid. J. M. Schultz. Edit, 
stereot. Lipsiae 1829. 

丄 219 Antonius, Marc. Aurel, Unterhaltungen mit sich selbst; iibers. von J. 
M. Schultz. Schleswig 1799. 

1220 Caesaris, し. j" Commentari de bello gallico, von Dr. J. い. Held. 2te 
Auflage. Sulzbach 1832. 

1221 Csesar, C. J., De bello Ljallico. Edit. Joh. oeorg Lippert. Leipzig 
1835. 

1222 Scaliger, Jul. し £esar, De Subtilitate ad Cardanum. Francofurti 1607. 

1223 Kritzius, Fr., Index in Commentaria de Catilina et Jugurtha. Lipsiae 
1835. 

1224 ― 29 M. Tullii Ciceronis Opera omnia, edid. J. A. Ernesli. Editio 

secunda. 6 Bind. Halae 1757. 
1230 し icero, M. T., De Officiis, mit einem deutschen Commentar, 
bearbeitet von J. F. Degen. Dritte Ausg. Berlin 1825. 

1231 ciceronis, M. T., Orationes VII. pro Roscio, pro lege Manilia, IV. in 
し atilinam, pro Murena. edit. Aug. Matthiae. Editio altera. Lipsiae 1826. 

1232 Ciceronis, M. T.. De claris oratoribus liber qui decitur brutus. Von 
Dr. R. Stern. Hamm 1837. 

1233 し iceronis, M. Tullii, Laelius, sive de amicitia dialogus ; mit erklarende 
Anmerkungen. Dritte verbesserte Auflage. Leipzig 1829. 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 40 



Lipsiae 1843. 

1129 Uionysius Longen vom Lrnabenen, gnechiscn und reutsch, von C. H. 
Heineken. Leipzig 1738. 

1 130 Longus Hirtengeschichte, iibersetzt von F. Jacobs. Stuttgart 1832. 

1131 一 34 Luciani Opera. Editio stereotypa. Tom I-IV. Lipsiae 1829. 
Ii35 — 38 Lucians Schriften aus dem Griechischen iibers. 4 Theile. Zurich 

1769. 

1 139 ― 40 Des Pausanias ausfiihrliche Reisebeschreibung von Griechenland, 
iibers. von J. E. Goldhagen. 2 Theile. Berlin und Leipzig 1766. 

1141 ― 42 Die Werke der Philostrate. Aus dem Griechischen tibers. von D.C. 
Seybold. 2 Bande. Lemgo 1776 ― 77. 

1143 Flavius Philostratus Werke, iibersetzt von Friedr. Jacobs. 5 Theile 
in einem Bande. Stuttgart 1828. 

1144 一 54 Platonis Opera, quae exstant, edid. Fr. Astius. Tom. I-XI. Lipsiae 

1819—32. 

1155 一 57 Astius, Fr., Lexicon Platonicum. Vol. I-III. Lipsiae 183d — 38. 
1 158 ― o3 Platons Werke, von F. Schleiermacher. 1 ― 3ter 1 heils Ister 

Band. 6 Bande. Berlin 1817—28. 
11 b4 一 00 Platon, Udvalgte Dialoger, overs, af C.J. Heise. 1 ― 3 Deel. 

Kbhvn. 1830—38. 

1167 Platons Stat, udgivet af C. J. Heise. Kbhvn. 1851. 

1168 Platons Timaeus und Critias, libers, von Dr. F. W. Wagner. Breslau 
1841. 

1 169 Platons Timsos, oversat af det Graeske af C. J. Heise. Kbhvn. 1855. 

1170 Plato's Unterredungen iiber die Gesetze, iibers. von J. G. Schulthesz. 
Neu bearbeitet von S. Vogelin. 2 Bande. Zurich 1842. 

1171 Petersen, F. C. Platons Forestillinger om Staternes Oprindelse, Stats- 
forfatninger og Stats bestyrelse (Uuiversitetsprogram). Kbhvn. 1854. 

1 1 72 ― 77 Plutarchi, Varia scripta, puae Moralia vulgo vocantur. Editio 

stereotypa. Tom. 1 ― 6. Lipsi お 1829. 
1178 —80 Plutarchs Werke, Moralische Schriften, iibers. von J. C. F. Bahr. 

3 Bande. Stuttgart 1828. 
1181 ― 89 Plutarchi, Vitae parallelas. (Editio stereotypa.) Tom. 1 — 9. Lipsiae 

1829. 

1190 —91 Plutarchs Werke, iibersetzt von J. G. Klaiber. 2te Auflage. 2 
Bande. Stuttgart 1828—30. 

1192 ― 9 り Plutarchs moralische Abhandlungen, aus dem griechischen iiber- 
setzt von J, F. S. Kaltwasser. 9 Theile in 5 Bande. Frankfurt am 
Main 1783. 

1197 — 1200 Tetens, Stephan, Plutarchs Levnetsbeskrivelser, oversatte fra det 
oraeske og forsynede med Anmaerkninger. 4 Dele. Kbhvn. 1800 
—1811. 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 39 

Heydemann. Benin 183d. 4to. 

1092 Aristotelis Rhetorik ubersetzt von Carl Ludv. Roth. Stuttgart 1833. 

1093 Aristotelis Rhetorik an Alexander, ubersetzt von Dr. L. Spengel, und 
Aristotelis Poetik ubersetzt von Dr. C. Waltz. Stuttgart 1840. 

1094 Aristoteles Dichtkunst ins Deutsche ubersetzt von M. し. し urtius. 
Hannover 1753. 

1095 Hepner, E., Deutsche Ubersetzung von Aristoteles Abhandlung vom 
Schlafe und vom Wachen, von den Traumen und von der Weissagungs- 
kraft im Schlafe. Breslau 1824. 

1096 Bonitz, Hermannus, Observationes cntic^e in Aristotelis quae feruntur 
magna moralia et ethica eudemia. Berlin 1844. 

1097 Sibbern, F. し., Bidrag til at oplyse nogle ontologiske Udtryk i Aristo- 
teles Metaphysik. (Universitets Program. Kbhvn. 1848. 4to. 

1098 一 1100 Cassius Dio's Romische Geschichte, ubersetzt von Dr. L. Tafel. 

13 Theile in 3 Bande. Stuttgart 1831—38. 
1101 ― 4 Demosthenes Werke, ubersetzt von Heinrich Aug. Pabst. 2te 

Auflage. 19 Theile in 4 Bande. Stuttgart 1839—51. 
1 105 ― 8 Diodors von Sicilien, Historische Bibliothek, ubersetzt von J. F. 

Wurm. 19 Theile in 4 Bande. Stuttgart 1827—39. 

1109 uiogenis Laertii, De Vitis Philosophorum Libri X. Editio stereotypa. 
Lipsiae 1833. 

1110 ― 11 Diogen Laertses filosofiske Historie, oversat af B. Rusbrigh og B. 

Thorlacius. 2 Bind m. Portrait. Kbhvn. 1812. 
1112 iJionysius von Halikarnas's Werke : Urgeschichte der Romer, ubersetzt 

von G. J. Schaller. d jfheile in einem Bande. Stuttgart 1827. 
1 1 1 J Epicteti manuale et Cebetis tabula graece et latine, edidet Joh. Sch- 

weighauser. Lipsiae 1798. 

1114 Epictets Haandbog, af det ora?ske oversat og med Anmagrkninger oplyst 
af Mag. E. Boye. Kbh. 1781. 

1115 Euripides, oversat af Chr. Wilster. Kbhvn. 1840. 

1116 Herodoti Hist. libr. IX. ed. F. V. Reizii. 2 Vol. Lipsiie 1825. 

丄 117 Die Geschichten des Herodotus, iibers. von Fr. Lange. 2 Theile. Berlin 
1811. 

1118 sufverberg, Guil., Emendationes locorum aliquot Homericorum. 
Haunias 1846. 

1119 ― 21 ト lavii Josephi jodiske Historie, oversat af Andreas Reyersen. 3 

Dele. Kbhvn. 1750. 4to 
1122 一 23 Isocrates Werke, Ubersetzt von A. H. Christian. 2 Biinde. Stuttgart 
1832. 

1124 ― 27 Libanii sopniste Orationes et declamationes, edid. J. J. Reiske. 

Vol. I— IV. Altenburgi 1791—97. 
1128 Longi Pastoralia Graece & latine. Edit. Ernest. Eduard. Seller. 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 38 

1044 Aeschines des SocratiKcrs philosophische oespriiche. Aus dem Gri- 
echischen iibers. von J. Kj. Schulthesz. Zurich 1779. 

1045 Arrians Unterredungen Epiktcts mit seinen Schiilern. Ubers. v. J. M. 
Schultz. 2 Th. Altona 1801. 

1046 Aeschylos Werke iibersetzt von J, \jf. Droysen. 2te Auflage. Berlin 
1842. 

1047 ― 48 i^)schylos's Tragedier, oversatte af N. V. Dorph, 1 ― 2 Hefte. 

Kbhvn. 1854. 

1049 Brondsted, P. Oluf, Orestias Trilogie af u^lschylos, metrisk oversat. 
Udgivet af N. V. Dorph ; med 6 Omrids efter Flaxmann. Kbhvn. 1844. 

1050 Apollodor, mythologische Bibliothek, iibersetzt von C. G. Moser. 
Stuttgart 1828. 

ICbl Aristophanis Comoediae ed. J. Dindorf. 2 Vol. Lipsiae 1830. 
10d2 一 54 Aristophanes Werke iibers. von J. G. Droysen. 3 Theile. Berlin 
1835—38. 

lCb5 Aristophanes Comodier, overs, af. J. Krag. Iste Bd. Odense 182d. 
ICbo — 68 Aristotelis opera. (Aldiner Udgave.) 11 Bind. Venetiis i5b2. 

1069 ― 73 Aristotelis Opera omnia graece ed. J. T. Buhle. 5 vol. Biponti 

1791—97. 

1074 一 75 Aristoteles graece ex recensione Immanuelis Bekkeri. Vol. I ― II. 
Berolini 1831. 4to. 

1070 Aristotelis Latine ex recensione Immanuelis BeKkeri. Berolini 1831. 
4to. 

1077 Scholia in Aristotelem, collegit Chr. Aug. Brandis. Berolini 1836. 4to. 

1078 Bojesen, E. F., De Problematis Aristotelis. Hauniae 1836. 

1079 Aristotelis de anima Libri tres; edid. F. A. Trendelenburg. Jena 
1833. 

1080 Aristoteles, De arterhetorica. Editio stereotypa. Lipsiee 1831. 

1081 Aristoteles Werke, Organon oder Schriften zur Logik iibersetzt von Karl 
Zell. 2 Hefte. (Topica.) Stuttgart 1841. 

1082 ― 83 Die Ethik des Aristoteles, iibersetzt von Chr. Garve. 2 Bande. 

Breslau 1798. 

1084 Aristoteles Metaphysik, libers, von Dr. E. W. Hengstenberg. Bonn 1824. 

1085 Aristoteles Physik. Uebers. und mit Anmerkungen begleitet von 
C. H. Weisze. Leipzig 1829. 

1086 Aristoteles Analytics, iibers von Karl Zell. Stuttgart 1836. 

1087 Aristoteles, Von der Seele und von der Welt, iibers. von C. H. W eisse. 
Leipzig 1829. 

1088 一 89 Die Politik des Aristoteles, iibersetzt von Christian Garre, 

herausgegeben von Lt. k}. Fulleborn. 2 1 heile. Breslau 1799. 

1090 Aristoteles's Statslasre af Dr. E. Bojesen. Kbhvn. 1852. 

1091 Die Kategorien des Aristoteles, iibersetzt und erlautert von Albert 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 37 



1011 Zumpt, C. G., Opgaver til Overstettelse fra DansK paa Latin, bearbeidet 
af F. C. Olsen. Kbhvn. 1826. 

1012 Arnesen, Poul, tsl., Ny Latinsk Ordbog. Kbhvn. 1848. 

1013 Baden, J., Dansk-Latinsk Ordbog. Kbhvn. 1831. 

1014 ― 15 Scheller, J. J. G., Deutsch-Lateinisches Lexicon. (2 Bande.) 

Leipzig 1805. 

1016 一 20 Scheller, J. J. G., Lateinisch-Deutsches Lexicon. (5 Bande.) 
Leipzig 1804. 

1021 ― 22 Kraft, F. K., Dr., Deutsch-Lateinisches Lexicon. 2 Bande. 3te 

Auflage. Leipzig und Merseburg 1829 ― 30. 
1023 ― 24 Gronberg, B. C, Tydsk-Dansk og Dansk-Tydsk Haandordbog. 

2Bd. 2den Udg. Kbhvn. 1836—39. 

1025 Dansk-Tydsk og Tydsk-Dansk し omme-Ordbog. Stereotyp Udgave 
(Tauchnitz). Leipzig (s. a.). 

1026 Weber, F. A., Handworterbuch der deutschen Sprache. Stereotyp 
Ausgabe. Leipzig 1838. 

1027 ― 28 Leng & Wolff, Franzosisch-Deutsches und Deutsch-Franzosisches 

Worterbuch. 2 Theile. Weimar 1841. 

1029 ― 30 Schade, K. B., Vollstandiges italienisch-deutsches und deutsch- 

italienisches Handworterbuch. 2 Bde. Leipzig 1837. 

1031 Bojesen, E., Dr., Kortfattet dansk Sproglsre. 3 Opl. Kbhvn. 1848. 

1032 Molbech, C., Dansk Ordbog. Kbhvn. 1833. 

1033 Molbech, C., Dansk Dialect-Lexicon. Kbhvn. 1841. 

1034 Meyer, L., Fremmedordbog. 2den Udgave. Kbhvn. 1844. 

1035 Meyer, Ludv., Fremmedordbog. 3die Udgave. Khb. 18d3. 

1030 De jydske Zigeunere og en rotvelsk Ordbog. Kbh. 1837. 



1037 Petersen, F. C., Dr., Haandbeg i den graeske Litteraturhistorie. Kbhvn. 
1830. 

1038 Schaaf, L., Haandbog i de graeske og romerske Antiqviteter, oversat 
af F. E. Hundrup. Kbhvn. 1833. 

1039 Bojesen, E. F., Haandbog i de romerske Antiqviteter. Kbhvn. 1839. 

1040 Hoffmann, S. F. W., Die Alterthumswissenschaft ; mit lb Kupfertafeln. 
Leipzig 1835. 

1041 Tregder, P. H., Anthologia graeca. Hauniae 1842. 



1042 Claudius Aelianus Werke , .Thiergeschichten" , iibers. von Fr. Jacobs. 
Stuttgart 1839. 

1043 Claudius Aelianus Werke : , , Vermischte Nachrichten", tibersetzt von 
Dr. Wunderlich. Stuttgart 1839. 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 36 



977 Lngelmann, W., Bibliotheca scnptorum classicorum et graecorum et 
latinorum. 6te Aufl. Leipzig 1847. 

978 Biicherkunde der katholisch-theologischen Literatur. Augsburg 1837. 

979 Enslen, T. C. F., Bibliotheca theologica. 2te Aufl. Stuttgart 1833. 

980 Grasze, J. G. T., Bibliotheca magica et pneumatica. Leipzig 1843- 

981 Forlagscatalog, Dansk-Norsk, udg, af Forlagsforeningen i Kjobenhavn, 
Kbhvn. 1841. 

982 — 83 Catalog einer ausgewahlten Sammlung von Buchern, zu habe ひ 

bei T. O. Weigel. 2 Bde. Leipzig. 

984 Fortegnelse over Studenterforeningens Bogsamling. Kbhvn. 1833, 

985 ― 86 Fortegnelse over Selskabet Athenaeums Bogsamling. 2 Del ヒ 

Kbhvn. 1847—51. 

987 Henrichs Biicher-Verzeichnisz, m. flere Bogfortegnelser i et Bundt. 

988 Erasmi, Roterdami Linguae. Lugd. Bat. 1641. 

989 Lindberg, J. C., Hovedreglerne af den hebr. Grammatik tilligemed 
し onjugat. og Declin. Tabeller. 2det Oplag. Kbhvn. 1835. 

990 Lindberg, J. C., Fuldstaendig grammatisk Analyse af de forste Kapitler 
af Genesis. Kbhvn. 1833. 

991 Lindberg, J. C, Hebraisk-Dansk Haand-Lexicon. Kbhvn. 1835. 

992 Lange, F., Det graeske Sprogs Grammatik. 3 die Udg. Kbhvn. 1835. 

993 Arnesen, P., Graesk-Dansk Ordbog. Kbhvn. 1830. 

994 ― 95 Schneider, Joh. Gottl., ^^riechisch-Deutsches Worterbuch. Vol, 

I— II. Leipzig 1819. 4to 3te Aufl. 

996 Baden, J., Grammatica latina. 7de Udgave ved N. Fogtmann. Kbhvn. 
1830. 

997 Borgen, Wilh. Aug., Latinsk し eesebog for de forste Begyndere. Kbhvn. 
1834. 

998 Billroth, G., Dr., Lateinische Grammatik. Leipzig 1834. 

999 Gradus ad Parnassum. edid. Julius Conrad. Lipsias 1830. 

1000 ― 4 Doederiein, L., Lateinische Synonyme und Etymologien. 6 Bande 
mit Beilag. Leipzig 182 り 一 39. 

1005 Krebs, Joh. Phil., Anleitung zum Lateinschreiben. 7te verbesserte 
Ausgabe. Frankfurt am Main 1834. 

1006 ― 7 Ramshorn, L., Dr., Lateinische Grammatik. 2 Bande. 2te Ausgabe. 

Leipzig 1830. 

1008 Uebungen des lateinischen Stils mit Commentaren und Hinweisungen 
auf die Zumptische und Schuizische Grammatik. Ntirnberg 1829, 

1009 Zumpt, C. G., Dr., Lateinische Grammatik. 6te Ausg. Berlin 1828. 

1010 Zumpt, C. G., Lateinische Grammatik. Siebente Ausgabe. Berlin 
1834. 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 35 



922 Weis, C, Staten og dens Individer, Indledning i Retsvidenskaben. 
Kbhvn. 1845. 

923 Orsted, A. S., For den danske Stats Opretholdelse i dens Heelhed. 
Kbhvn. 1850. 

924 Orsted, A. S., Proveise af Udkast til en Grundlov og en Valglov. 
Kbhvn. 1849. 

925 Casse, A. L., Dissertatio de auctoribus delictorum psychologicis. 
Havni^ 1835. 

926 ― 31 Udvalg af danske og udenlandske Criminalsager og af maerkelige 

Forhandlinger om saadanne. Udgivet af F. M. Lange. 6 Bind. Kbhvn. 
1835—41. 

932 Daabs-Menigheden i Danmark. Udgave af Acterne ved F, M. Lange. 
Kbhvn. 1841. 

933 Bartholin, C., Almindelig Brev- og Formularbog. Kbhvn. 1844. 



934 —38 Funke, C. P., Neues Real Schullexicon. Theil. I-V. Braunsch- 
weig 1800. 

939 一 40 Rousseau, J. J., Emile ou de I'Education. 4 Vol. 1792. 
941 ― 43 Rousseau, J, J., Emil eller om Opdragelsen. 6 Bind. 

944 Schopenhauer, A., Ueber den Willen in der Natur. Frankfurt am 
Main 1836. 

945 Orsted, H. C., Aanden i Naturen. Kbhvn. 1850. I. 

946 Orsted, A. S., De regionibus marinis. Haunias 1844. 

947 Kja;rboliing, N., Danmarks Fugle. Kbhvn. 1852. 



948 一 53 Jocher, C. G., Allgemeines ijelehrten-Lexicon. 1-4 rheil. mit 
J. C. Adelungs Fortsetzung 1 ― 2 Theil. Leipzig 1750 ― 87. 4to. 

954 一 69 Erslaw, Th. H., Almindeligt Forfatter-Lexicon. 3 Bind med 2 
Supplementhefter. Kbhvn. 1841 ― 54. 

970 Thortsen, C. A., Historisk Udsigt over den danske Litteratur indtil 
1814. Kbhvn. 1839. 

971 Werlauff, E. C., Historiske Efterretninger om det store kongelige 
Bibliothek. Kbhvn. 1844. 

972 Levin, J., En Brevvexling. Kbhvn. 1850. 

973 一 74 Molbech, C., Analecter, litteraire, kntiske og historiske. 2 

Hefter. Kbhvn 1846. 

975 Biihr, J. C. F., Abriss der Romischen Literatur-Geschichte. Heidel- 
berg 1833. 

976 Geissler, Chr. A., Bibliographisches Handhnch der philosophischen 
Litteratur der Deutsche. 3te Auflage. Leipzig 1850. 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 34 



S53 一 62 Walch, J. Vj., rlistonsche und theologische Einleitung in die Reli- 
gions Streitigkeiten. 2te Auflage. 5 Theile in 10 Bande. Jena 1733. 

863 ― 64 Walch, Joh. Georg, Philosophisches Lexicon. Herausgegeben 
von J. C, Hennings, 2 1 heile. Leipzig 1775. 

865 Weil, G., Dr., Biblische Legenden der Muselmanner. Franckfurt a. 
M. 1845. 

866 Weisse, C. H., Die Idee der Gottheit. Dresden s. a. 

867 Werder, K., Logik. Als Commentar und Erganzung zu Kegels \\ is- 
senschaft der Logik. Iste Abtheilung. Berlin 1841. 

So8 Das Verstandesthum und das Individuum. Leipz. 1846. 
869 一 70 Vorschule zur speculativen 1 heologie des positiven Christenthums. 
2 Bande. Wien 1828—29. 

871 Wette, W. M. L. de, Dr., Laerebog i den christelige Saedelaere. 
Oversat af C. E. Scharling. Kbh. 1835. 

872 Wette, W. M, L. de, Dr., Lehrbuch der hebraisch-judischen Archao- 
logie. 3te Aufl. Leipzig 1842. 

873 Vinet, A., Ueber die Darlegung der religiosen Ueberzeugungen una 
iiber die Trennung der Kirche und des Staates, libers, von F. H. Spengler. 
Heidelberg 1845. 

874 Vinet, A., Der Sozialismus in seinem Princip betrachtet. Ubers. von 
D. Hofmeister. Berlin 1849. 

875 Vinet, A., Pastoraltheologie eller Theorie af det evangeliske Praesteem- 
bede. Oversat af C. A. Ravn. Kbhvn. 1854. 

876 Wirth, J. W., Die speculative Idee Gottes. Stuttgart und Tiibmgen 
1845. 

877 ― 91 1 Zeitschrift fiir Philosophic und speculative Theologie. herausge- 
geben von J. H. Fichte. 1—20 Bandes Istes Heft 1837 ~ 48, und 23—27 
Bandes Istes Heft 1853—55. Bonn und Halle. 

912 Zeitung fiir Einsiedler, herausgegeben von einer <^esellschaft. April 
Heft. 1808. mit drei Kupfertafeln, Mai Heft, mit zwei Kupf. & 
Juni Heft, mit 2 Kupf. Heidelberg 1808. 4to. 

913 — 14 Zeller, Edw., Die Philosophic der Griechen. 4 Theile. TiiDingen 

1844. 

915 Zeuthen, L., Mag, Humanitet betragtet fra et christeligt Standpunkt. 
Kbhvn. 1846. 

916 Zeuthen, L., Mag., Om Ydmyghed. Kbhvn. 1852. 

917 一 20 Zimmermann, J. Kj., Ueber die £.insamkeit. 4 Theile. Leipzig 

1784—85. 



921 Berner, A. F., Grundlinien der criminalistischen Imputationslehre. 
Berlin 1843. 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 33 



807 一 8 Sulzer, Johan oeorg, Vermischte philosophische schriften. 2te 

Auflage. Leipzig 1782. 
809 Suso's, H., genannt Amandus, Leben und Schriften. Herausgegeben 

von M. Diepenbrock. 2te Auflage. Regensburg 1837. 
810 ― 11 Swedenborg, Emanuel, Opuscule. 2 Bind. 4to. London 1758 

& 63. 

812 ― 13 Swedenborg, E, die gauze Theologie der Neuen Kircke, aus dem 
Lat. 2 Bande. Basel 1795. 

814 Oeuvres posthiimes du Chevalier Temple. Utrecht 1704. 

815 一 26 Tenneniann, W. G., Dr., oeschichte der Philosophic. 丄 1 BSnde. 

Leipzig 1798—1819. 
827 ― 30 Tersteegen, Gerhard, gesammelte Schriften. 8 1 heile in 4 Bande. 

Stuttgart 1844 45. 
831 Theophilus, Nicolaus, Er Troen et Paradox og ,,i af det Absurde" ? 

Kbhvn. 1850. 

832 Tholuck, A., Das alte Testament im neuen Testament. Hamburg 1836. 

833 ― 35 1 ! edemann, D., System der stoischen Philosophic. 3 Bande. 

Leipzig 1776. 

836 ― 41 Tiedemann, D., Geist der spekulativen Philosophic von Thales bis 
Sokrates. 6 Bande. Marburg 1791—97. 

842 Trendelenburg, F. A., Platonis de ideis et numeris doctrima ex Aristo- 
tele illustrata. Lipsiae 182o. 

843 Trendelenburg, A., Logische Untersuchungen. Berlin 1840. 

844 Trendelenburg, Fr. Adolph, Elementa logices Aristotelicas. Editio 
altera recognita et aucta. Berolini 1842. 

845 Trendelenburg, Adolph, Erleiiterungen zu den Elementen der aristo- 
telischen Logik. Berlin 1842. 

846 Treudelenburg, A., Die logische Frage in Kegels System. Leipzig 
1843. 

847 Trendelenburg, A., Niobe. Einige Betrachtungen iiber das Schone 
und Erhabene; mit zwei Steinzeichnungen. Berlin 1846. 

848 Trendelenburg, A., Gescnichte der Kategorienlehre. Berlin 1846, 

849 一 849 a Twesten, A. D. C, Dr., Vorlesungen iiber die Dogmatik der 

Evangelisch-Lutherischen Kirche. 2 Bande. 4te Auflage. Hamburg 
1837—38. 

850 Usteri, Leonhard, Udvikling af det Paulinske Laerebegreb i dets Forhold 
til det nye Testamentes bibelske Dogmatik, oversat af W. J. J. Boethe. 
Kbhv. 1839. 

851 W2age, ueorgius Holger, De astate articuli, quo in symbolo apostolico 
traditur Jesu Christi ad inferos descensus. Hauniae 183o. 

852 Waitz, Theodor, Lehrbuch der Psychologic als Naturwissenschaft. 
Braunschweig 1849. 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 32 



fende Kegels Philosophi, betragtet i Forhold til vor Tid. Kbhvn. 1838. 

779 Sibbern, F. C, Om Philosophiens Begreb, Natur og Vaesen. En Frem- 
stilling af Philosophiens Propaedeutik. Kbhvn. 1843 

780 Sibbern, F. C, Speculativ is^osmologie med Grundlag til en speculativ 
Theologie. Kbhvn. 1846. 

781 Sibbern, F. C, Om Forholdet imellem Sjael og Legeme. Kbhvn. 1849. 

782 Sibbern, F. し., Nogle Betragtninger over Stat og Kirke (Universitets 
Program). Kbhvn. 1849. 4to. 

783 Johannis Angelii Silesii cherubinischer Wandersmann. Sulzbach 1829. 

784 Sihler, W., Die Symbolik das Antlitzes. Berlin 1829. 

785 一 86 Sonthey, R., John Wesleys Leben, die Entstehung und Verbreitung" 

des Methodismus. Herausgegeben von Dr. F. A. Krummacher. 2 
Biinde. Neue Ausg. Hamburg 1841 ― 42. 

787 Speculative Darstellung des Christenthums v. M. Leipzig 1819. 

788 Benedicti de Spinoza, Opera philosophica omnia, eaid. A. Gfroerer. 
Stuttgart 1830. 

789 Staudenmayer, Frantz Anton, Darstellung und Critik des Hegelschen 
Systems. Mainz 1844. 

790 Stang, C. F. G., Martin Luther, sein Leben und Wirken (mit 7 Stahl- 
stichen). Stuttgart 1838. 4to. 

791 Staudlin, C. F., Geschichte und Geist des Skepticismus in Riicksicht 
auf Moral und Religion. Leipz. 1794. 

792 Steenstrup, M. ヒ G., Historisk-kritisk Oversigt over Forsogene paa 
at give en Historiens Filosofi. Kbh. 1854. 

793 一 94 Steffens, H., し arricaturen des Heiligsten. 2 Theile. Leipzig 

1819—21. 

795 —96 Steffens, H., Anthropologic. 2 Biinde. Breslau 1822. 
797 ― 98 Steffens, H., Christliche Religionsphilosophie. 2 Biinde. Breslau 
1839. 

799 Steffens, H., Nachgelassene Schriften mit einem Vorworte von Schelling. 
Berlin 1846. 

800 (Sterne, L.) Yoriks empfindsame Reise durch Frankreich und Italien. 
Hamburg und Bremen 1770. 

801 Stilling, P. M., Den moderne Atheisme eller den saakaldte Neohegeli- 
anismes Conseqvenser af den hegelske Philosophi. Kbhvn. 1844. 

802 Stilling, P. M., om den indbildte Forsoning af Tro og ― Viden. Kbhvn. 
1850. 

803 ― 4 Strausz, David Fnederich, Fremstilling af den christelige Troeslasre 

i dens historiske Udvikling og i dens Kamp med den moderne Videnskab. 
Oversat af H. Brdchner. 2 Dele. Kbhvn. 1842. 
805 ― 6 Streitwolff & Klener, Libri symbolici ecclesiae catholicae cum notis 
prolegomenis indicibusque. Tom. I-II. Goettingse 1838. 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 ? 



Publicistik. Zurich und Winterthur 1843. 

754 Ruperti, F. A., Geschichte der Dogmen. Berlin 1831. 

755 Sack, K. H., Dr., Christliche Apologetik. Hamb. 1829. 

756 Sack, K. H., Dr., Christliche Polemik. Hamburg 1838. 

757 Salviani massiliensis et Vincentii Lirinensis Opera edid. Stephanus 
Baluzius. Edit, quarto. Pedeponti 1743. 4to. 

758 Schaller, Julius, Dr., Uie Philosoplii unserer Zeit. Leipzig 1837. 

759 Schaller, J., Dr., Der historische Christus und die Philosophic. Leipzig 
1838. 

760 Schaller, J. Dr., Darstellung und Kritik der Philosophic Ludvig Feuer- 
bachs. Leipzig 1847. 

761 Scharling, C. E., Hvad er Hensigten, Betydningen og Resultaterne af 
Theologernes videnskabelige Undersogelser om det Ny Testamentes 
Skrifter? Kbh. 1833. 

762 Scharling, C. E., Michael de Molinos, et Billede fra det 17de Aarhun- 
dredes Kirkehistorie. Kbhvn. 1852. 

763 Schelling, F. W. J., Philosophische Schriften. I. Landshut 1809. 

764 Schelling, F. W. J., Vorlesungen uber die Methods des academischen 
Studium. 3te Ausgabe. Stuttgart und Tubingen 1830. 

765 Schelling, F. W. J. v., Bruno oder : Uber das gottliche und naturliche 
Princip der Dinge. Zweite Aufl. Berlin 1842. 

7 り Schelling, Vorlesungen von Karl Rosenkranz. Danzig 1843. 

767 Schellings erste Vorlesung in Berlin. Stuttgart und TiiDingen 1841. 

768 一 768 a Schlegels, F., philosophische Vorlesungen aus den Jahren 1804 

bis 1806. Herausgegeben von C. J. H, Windischmann. 2 Bande. 
Bonn 1836—37. 

769 Schleiermacher, Dialectik herausgegeben von L. Jonas. Berlin 1839. 

770 Schmid, し. C. E., Worterbuch zum leichtern Gebrauch der Kantischen 
Schriften. 4te Ausgabe. Jena 1798. 

771 Schmidt, W, A., Dr., Geschichte der Denk- und Glaubensfreiheit im 
ersten Jahrhundert der Kaiserherrschaft und des Christenthums. 
Berlin 1847. 

772 Schopenhauer, A., Dr., Die beiden Grundprobleme der Ethik. Frank- 
furt am Main 1841. 

773 一 733 a Schopenhauer, A., Dr., JJie Welt als Wille und Vorstellung. 2 

Bande. Leipzig 1844. 

774 ― 75 Schopenhauer, A., Dr., Parerga und Paralipomena, kleine philo- 

sophische Schriften. 2 Bande. Berlin 1851. 

776 Schubert, G. H., Dr., Die Symbolik des Traumes. Zweite verbesserte 
Auflage. Bamberg 1821. 

777 Sibbern, F. C., Logik som Tasnkel お re. Kbhv. 1835. 

778 Sibbern, F. し., Bemaerkninger og Undersogelser, fornemmelig betref- 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 30 

1839—46. 

/20 Petersen, r. し., Om Epheterne og deres DiKosterier i Athen. Kbhvn. 
1847. 4to. 

721 — 23 Philosophic der Geschichte oder iiber die Tradition. 3 Bande. 
Munster 1834—39. 

724 Joannis Francisci Pici Mirandulae, domini, concordiaeque comitis, 
Liber de providentio dei contra philosophastros. Editio Prima. Stras- 
burg 1508. Folio. 

72d Postelmayer, B., Leben u. Thaten der Heiligen Gottes, fiir das christ. 
katholische Volk. 3 Bande, 2 Aufl. Augsburg 1836. 

726 Preller, L., Historic philosophias graeco romanae. Hamburg 1838. 

727 Pyrker, Joh., Ladisl. Legenden der Heiligen. Wien 1842. 

728 Rambach, J. J., Betragtninger over de syv Forj^ttelser. Kbhvn. 1734. 

729 Rapp, oeorg, Auswahl aus Gernard Tersteegens Schriften nebst dem 
Leben desselben. Essen 1841. 

730 —34 Reinhard, F. W., System i den kristelige Moral. Overs, af A. K. 

Holm. 5 Bind. Kbhvn. 1803—21. 
735 一 38 Ritter, Heinrich, Geschichte der Philosophic alter Zeit. 2te 
verbesserte Auflage. 4 Theile. Hamburg 1836. 

739 de la Rochefoucault's moralische Maximen mit Anmerkungen, m. 
Portrait. Wien und Leipzig 1784. 

740 Romang, J. P., Uber Willensfreiheit und Determinismus. Bern 1835. 
741 Romang, J. P., System der natiirlichen Religionslehre. Zurich 1841. 

742 Rose, F., die Ideen von den gottlichen Dingen. Berlin 1847. 

743 Rosenkranz, K., Erinnerungen an Karl Daub. Berlin 1837. 

744 Rosenkranz, K., Psychologic oder die Wissenschaft vom subjectiven 
リ eist. Konigsberg 1837. 

745 Rosenkranz, K., Kritische Erlauterungen des Hegelschen Systems. 
Konigsberg 1840. 

746 Rothe, W, H. Lgeren om Treenighed og Forsoning. Kbhvn. 1836. 

747 Rothe, W., Det danske Kirkeaar og dets Pericoper. 2den Udgave. Kbhvn. 
1843. 

748 一 49 Riickert, L. J., Christliche Philosophic, oder Philosophic, Geschichte 

und Bibel nach ihren wahren Beziehungen zu einander, 2 Biinde. 
Leipzig 1825. 

750 Rudelbach, A. G., Dr., De ethices principiis. Hauniae 1822. 
751 Rudelbach, A. G., Dr., Reformation, Lutherthum und Lnion. Leipzig 
1839. 

752 Rudelbach, A. G., Dr., Om det borgerlige i^^gteskab. Bidrag til en 
alsidig, upartisk Bedommelse af denne Institution, uaermest fra Kirkens 
Standpunkt. Kbhvn. 1851. 

7d3 Ruge, Arnold, Anecdota zur neuesten deutschen Philosophic und 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 29 

Kjobenhavn 1849. 4to. 

693 Mynster, J. P., Den hedenske Verden ved Christendommens Begyndelse. 
Kbhvn. 1850. 4to. 

694 Naturgeschichte des Monchthums, mit naturhistorische Abbildungen. 
2ter Abdruck. Bern 1841. 

695 Newman, Francis William, Die Seele, ihr Leiden und ihr Sahnen. 
tibersetzt von Dr. A . Heimann. Leipzig 1850. 

690 Nielsen, Fredericus, De vi et effectibus baptismo ab ecclesi お 
patribus tributis. Hauniae 1836. 

697 Nielsen, Erasmus, De Speculativa historiae sacrae tractandae methodo. 
Hauniie 1840. 

698 Nielsen, R., Forelaesningsparagrapher til Kirkehistoriens Philosophic. 
Kbhvn. 1843. 

699 Nielsen, R., Den propaedeutiske Logik. Kbhv. 1845. 

700 Nielsen, R., Evangelietroen og den moderne Bevidsthed. Kbhvn. 

1849. nit. 

701 Nielsen, R., Mag. S. Kierkegaards , Johannes Clemacus" og Dr. H. 
Martensens ,,christelige Dogmatik". Kbhvn. 1849. nit. 

702 Nielsen, R., Evangelietroen og Theologien. Tolv Forelassninger. 
Kbhvn. 1850. nit. 

703 Nielsen, R., Dr. H. Martensens dogmatiske Oplysninger. Kbhvn. 

1850. nit. 

704 Nielsen, Rasmus, Skjaebne og Forsyn. Kbhvn. 1853. 

705 Nielsen, R., Dr., Om personlig Sandhed og sand Personlighed. Kbhvn. 
1854. nit. 

70o Nork, F., Der Mystagog oder Deutung der Geheimlehren Symbole 

und Feste der christlichen Kirche. Leipzig (s. a.) 
707 ― 8 Orellius, J. C, Opuscula Graecorum veterum sententiosa et moralia ; 

graece et latine ; Vol. I-II. Lipsiae 1819. 

709 Paludan-Muller, om Dr. Martensens christelige Dogmatik. Kbhvn. 
1850. 

710 Paroles d'un Croyant par F. de La Mennais. (nouvelle Edition). 
Bruxelles 1838. 

711 ^^edanken Paskals, mit Anmerkungen und Gedanken von J. F. K. 
Bremen 1777. 

7l2 一 13 Pascal, Gedanken iiber die Religion und einige andern Gegenstande, 
ubersetzt von K. A. Blech. 2 Theile. Berlin 1840. 

714 Pascal's Gedanken, Fragmente und Briefe, aus d. Franzos. v. C. F. 
Schwartz. 2 Bde. Leipzig 1858. 

715 Paulli, J.H., Dr. Niels Hemmingsens Pastoraltheologie. Kbhvn. 1851. 

716 Paying, W., Et Levnetslob i Underverdenen. Kbhvn. 1853. nit. 

717 ― 19 Petersen, A., Die Idee der christlichen Kirche. 3 Bande. Leipzig 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 



28 



Berlin 1814. 

6:)/ Meiners, C, Abhandlungen Sincsischer Jesuiten iiber die Geschichte, 
Wissenschaften, Kiinste, Ditten und Gebrauche der Sincsen. 2 Bande. 
Leipzig 1778. 

658 Meiners, Chr., Historia doctrinae de vero deo. Lemgoviae 1780. 

659 Meiners, C, Beytrag zur し eschichte der Denkart der ersten Jahrhun- 
derte nach Christi Geburt. Leipz. 1782. 

660 Meiners, C., Geschichte des Verfalls der Sitten und der Staatsverfassung 
der Romer. Leipzig 1782. 

6b 1 Meiners, C., Geschichte des Luxus der Athenienser von den altesten 
Zeiten an bis auf den Tod Philipps von Macedonien. Lemgo 1782. 

oo2 Meiners, C., Grundriss der Lreschichte der Menschheit. Lemgo 1785. 

663 Meiners, C., Grundriss der Geschichte alter Religionen. Lemgo 1787. 

oo4 一 67 Meiners, C., Geschichte das weiblichen Geschlechts. 4 Theile. 
Hannover 1788. 

008 Meiners, C., Grundriss der oeschichte der Weltweisheit. Lemgo 
1789. 

669 ― 70 Meiners, C., Geschichte des Verfalls der Sitten, der W issenschaften 
und Sprache der Romer. Wien und Leipzig i 791. (2 Expl.) 

671 Meiners, C., geschichte der Ungleichheit der Stiinde unter den vor- 
nehmsten europaeischen Volkern. 2 Bde. Hannover 1792. 

672 ― 74 Meiners, C, Historische Vergleichung der Sitten una Verfassun- 
gen, der Gesetze und Gewerbe, des Handels und der Religion, der 
Wissenschaften und Lehranstalten des Mittelalters. 3 Bande. Han- 
nover 1793—94. 

675 ― 76 Meiners, C, Geschichte der altern und neuern Ethik oder Lebens- 
wissenschaft. 2 Bande. t^dttingen 1800 ― 1801. 

677 Melanchton Redivivus, oder der ideale Geist des Christenthums. 
Leipzig 1837. 

678 —79 Michelet, C. L., Geschichte der letzten Systeme der Philosophic 

in Deutschland von Kant bis Hegel. Berlin 1837. 
680 Michelet, C. L., Vorlesungen iiber die Personlichkeit Gottes und 

Unsterblichkeit der Seele. Berlin 1841. 
681 —87 Montaigne, Michael, Gedanken und Meinungen iiber allerlei 

Gegenstande; ins Deutsch iibersetzt. 7 Theile. Berlin 1793 ― 99. 

688 Miiller, Carol. Ludovicus, De resurrectione Jesu Christi vita earn 
excipiente et ascensu in coelum. Hauniae 1836. 

689 —90 Miiller, Julius, Die christliche Lehre von der Sunde. 3te Ausgabe. 

2 Bande. Breslau 1849. 
691 Miiller, Peter Erasmus, Christeligt Moralsystem til Brug ved academiske 

Forelffisninger. 2den omarbeidede Udgave. Kbhvn. 1827. 
692 Mynster, J. P., Om Hukommelsen, en psychologisk Undersogelse. 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 2, 

ror ham og lasgger samme offentlig for Dagen ? (oversat og omarbeidet 
efter det Tydske.) Kjdbenhavn 1846. 
o28 Lind, P. E., Christendommens Indflydelse paa den sociale Forfatning. 
Kbhvn. 1852. 

629 —30 Lisco, F. G., Das christliche Kirchenjahr. 2 Theile. Berlin 1843. 
o3l ― 33 Lossius, J. Chr., Neues philosophisches allgemeines Real-Lexicon. 
3 Theile. Erfurt 1803. 

034 Uie deutsche Theologie ; mit einer Vorrede von Dr. Martin Luther 
und Johan Arnd; ausgegeben von Pastor Friedr. Conrad Kriiger. 
Lemgo 1822. 

035 一 35 Mahler, J. A., Athanasius der Grosze aus die Kirche seiner Zeit. 

2 Bande. Mainz 1827. 
637 一 40 Malebranche, Von der Wahrheit, aus dem Franzosischen tibersetzt 

von einem Liebhaber der Weltweisheit. 4 Bande. Halle 1776. 
641 Petri Pomponatii Mantuani Tractatus de immortalitate anim お. edid 

M. Chr. G. Bardili. Tubingie 1791. 

642 Marbach, G. 0., Geschichte der griechischen Philosophic. Leipzig 
1838. 

643 Marbach, G. 0., Geschichte der Philosophi des Mittelalters. Leipzig 
1841. 

644 Marheineke, Ph., Dr., Die Grundlehren des christlichen Dogmatik als 
Wissenschaft. 2te Aufl. Berlin 1827. 

645 Marheinecke, Ph., Institutiones symbolicae. Editio 3tia. Berlin 1830. 

646 Marheinecke, Ph., Laerebog i christelig Tro og Levnet, oversat af M. 
Morch Hansen. Kbhvn. 1842. 

647 Marheinecke, P., zur Kritik der Schellingschen Offenbarungsphiloso- 
phie. Berlin 1843. 

648 Martensen, Joh., De Autonomia concientiae sui humanas. Hauniae 
1837. 

649 Martensen, H., Dr., Mester Eckart. Et Bidrag til at oplyse Middelal- 
derens Mystik. Kbhvn. 1840. 

650 Martenseo, H., Dr., Grundrids til Moralphilosophiens System. Kbhvn. 
1841. 

651 Martensen, H., Den menneskelige Selvbevidstheds Autonomic. Kbhvn. 
1841. 

6d2 Martensen, H., Dr., Den christelige Daab betragtet med rlensyn paa 

det baptistiske Sporgsmaal. Kjdbenhavn 1843. 
6d3 Martensen, H. Dr., Den christelige Dogmatik. Kjobenhavn 1849. 

654 Martensen, H., Dogmatiske Opiysninger. Kbh. 1850. 

655 Martensen, H., Den danske Folkekirkes Forfatningssporgsmaal. Kbh. 
1851. 

65b Meierotto, J. H. L., Uber Sitten und Lebensart der Romer. 2 Bde. 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 26 



595 Kant, Immanuel, Kntik der reinen Vernunft. 4te Auflage. Riga 1794. 

596 Kerner, J., Die Seherinn von Prevorst. Eroffnungen uber das innere 
Leben des Menschen und uber das Hereinragcn einer Geisterwalt in 
die unsern. 3 Aufl. m. Abbild. Stuttgart und Tubingen 1838. 

597 一 99 Ketzer-Lexicon, oder geschichtliche Darstellung der Irrlehren, 

Spaltungen und sonderbaren Meinungen in Christenthume ; iibersetzt 

von P. Fritz. 3 Bande. Wurzburg 1838. 
600 Kirchhoff, A., Plotini De Virtutibus et adversus gnosticos libellos. 

Berolini 1847. 4to. 
601 Kierkegaard, P. Chr., De notione atque turpitudine mendacii. Got- 

tingen 1829. 

602 Kierkegaard, P. し., De theologia vere Christiana, preecipue autem 
philosophica ejusparte. Hauni^e 1836. 

603 Der Koran, iibersetzt und mit Anmerkungen versehen von Dr. L. 
Ullmann. Crefeld 1840. 

604 ― 8 Krug, W. r., Allgemeines Handworterbuch der philosophischen 

Wissenschaften nebst ihrer i^itteratur und Geschichte. 5 Bande. 
Leipzig 1827—29. 

609 一 609 D. Lamennais, Grundrisz einer Philosophic. Deutsche Ausg. 

Band 1—3. Paris und Leipz. 1840. 

610 Lange, Fr" De Casuum universis causis et rationibus. Hauniae 1830. 
oil Law, W., Abhandlung von der Christlichen Vollkommenheit. Halle 

1770. 

612 Laws, E., Betrachtungen iiber die Geschichte der Religion. Leipzig 
1771. 

ol3 一 lo Lavater, J. C, Physiognomische Fragmente zur Beforderung der 
Menschenkenntnisz und Menschenliebe. l-4ter Versuch m. K. Leipzig 
und Winterthur 1775—78. 4to. 

617 一 18 Physiognomische Reisen (von Lavater). 4 Heft. Altenburg 1788. 

619 Leibnitz, Gottfr. Wilh., Theodice, ausgegeben von Johann Christoph 
Gottscheden. Hannover & Leipzig 1763. 

620 Gad. Guil. Leibnitii Opera philosophica, quae exstant; edid. J. E. 
Erdmann. Pars I-II. Berlin 1840. 

621 Lentz, C. G. H., Geschichte der christlichen Dogmen. Helmstedt 1834. 

622 G. E. Lessing als Theologe dargestellt von C. Schwarz. Ein Beitrag 
zur Geschichte der 1 heologie im 18ten Jahrhundert. Halle 1854. 

623 Lexicon philosophicum sive Indix latinorum verborum etc. Hagae 
Comitis 1716. 4to. 

624 Libri symbolici ed. C. A. Hase. Lipsiae 1837. 

625 ― 26 Die Herrlichkeiten Maria's vom heiligen Alphons Maria von 

Lignori. 2 Bande. Aachen 1839. 
627 Lind, Peter Engel, Mon Gud fortjener at Mennesket har iErbodighed 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 25 

in der romischen Geschichte. Hamburg 1800. 

568 Heiberg, Joh. Ludv., Om Philosophiens Betydning for den nuvaerende 
Tid. Kjobenhavn 1838. 

569 Heiberg, J. L., Perseus. Journal for den speculative Idee. 2 Hefter. 
Kbhvn. 1837. 

570 Ausfuhrliches Heiligen-Lexicon. し oln und Franckfurt 1719. 

571 ― 72 Helfferich, Adolph, Die christliche Mystik in ihrer Entwickelung 
und in ihren Denkmalen. 2 1 heile. Gotha 1842. 

573 一 75 Hemsterhuis, H., Vermischte philosophische Schriften, aus dem 
Franzosischen iibersetzt. Leipzig 1782. 3 T. heile. 

d/6 Hermann, K. Fr., リ eschichte und System der Platonischen Philoso- 
phic. Ister Theil (die historisch kritisch Grundlegung enthaltend). 
Heidelberg 1839. 

577 Heyder, し. L. W., Uie Methodologie der Aristotelischen Philosophic 
und der fruheren griechischen Systeme. Erlangen 1845. 

578 Frantz und Hillert, Hegels Philosophic in wortlichen Ausziigen. Berlin 
1843. 

579 tiber die Ehe (af v. Hippel). 3te viel vermehrte Auflage (mit Kupfer 
von Chodowiecki). Berlin 1792. 

580 Hotho, H. G., Vorstudien ftir Leben und Kunst. Stuttgart und Tubin- 
gen 1835. 

581 Hutterus redivivus oder Dogmatik der evangelisch-lutherischen Kirche. 
4te verbesserte Auflage. Leipzig 1839. 

582 Jager, J. N., Moralphilosophie. Wien 1839. 

583 Jocham, M., Moraltheologie, oder die Lehre vom christlichen Leben 
nach den Grundsatzen der katholischen Kirche. Ister 1 heil. Sulz- 
bach 1852. 

584 Johannes Author, (J. A. Kanne) oeschichte des Zwilling a. Pede. 
Nurnberg 1811. 

585 ― 87 Irving, Carl Frantz, v., Erfahrungen und Untersuchungen iiber 

den Menschen. 3 1 heile. 2te verbesserte Ausgabe. Berlin 1777, 

588 Kanne, J. A., Die goldenen Aerse der Philister. nine antiquarische 
Untersuchung. Nurnberg 1820. 

589 Kanne, J. A., Leben und aus dem Leben merckwurdiger una erweckter 
Christen. 2te Ausgabe. 2 Theile in einem Band. Leipzig 1842. 

590 ― 91 Kanne, J. A., し hristus im alten Testament. Untersuchungen 

liber die Messianischen Stellen. 2 jBde. l\urnberg 1818. 

592 Kanne, J. A., Comoedia humana oder Blepsidemus Hochzeit und 
Kindtaufe. Bayreuth 1810. 

593 Kannegieszer, K. L., Abrisz der Geschichte der Philosophic. Leipzig 
1837. 

594 Kant, Immanuel, Kritik der Urtheilskraft. 2te Aufl. Berlin 1793. 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 24 



Meditationen. Wien 1843. 
:)/4 ounther, J., und J. H. Pabst, Januskopie. Zur Philosophic und 

Theologie. Wien 1834. 
525 一 27 Guyon, Madame, Das Evangelium des Heiligen Geistes. 3 Biinde. 

Aarau 1832—36. 

528 ― 32 vjorres, J., Die christliche Mystik. 4 Bande. Regensburg und 
Landshut 1836. 

533 Gorres, J., JJie 1 riarier. H. Leo, P. Marheinecke, K. Bruno. Regens- 
burg 1838. 

534 /Egteskabet betragtet fra et ethisk-hist. Standpunkt, af J. F. Hagen. 

535 Hahn, Aug., Lehrbuch das christlichen Glaubens. Leipzig 1828. 

536 ― 44 Hamann's Schriften. Herausgegeb. von F. Roth. 8 Bande m. 

Portrait. Berlin 1821—43. 

545 Hamberger, J., Dr., Die Lehre das deutschen Philosopher! Jakob Bohme. 
Munchen 1844. 

546 Harless, G. C. A., Christliche Ethik. (3ter unveranderter Abdruck.) 
Stuttgart 1845. 

547 Harms, Claus, Pastoraltheologie, oversat af H. E. Glahn. Kbhvn. 1844. 

548 Hartung, J, A., Lehren der Alten iiber die Dichtkunst, Hamburg und 
Gotha 1845. 

549 Hege!, G. W. F., Philosophische Abhandlungen. Herausgegeben von 
A. L. Michelet. Berlin 1832. 

550 Hegel, G. W. Fr., Phanomenologie des Geistes; herausgegeben von Dr. 
Johann Schulze. Berlin 1832. 

5:>l Hegel, ヒ W. F., Grundlien der Philosophic des Rechts, herausgegeben 

von Dr. Gans. Berlin 1833. 
5)2 — 54 Hegel, G. W. F., Wissenschaft der Logik, herausgegeb. von L. v. 

Henning. 3 1 heile. Berlin 1833. 
555 ― 5b Hegel, ヒ W. F., Vermischte Schriften. Herausgegeben von Fr. 

Forster und Ludw. Baumann. 2 Bande. Berlin 1834 — 35. 
557 —59 Hegel, G. W. F., Geschichte der Philosophic. 3 Theile. Heraus- 
gegeben von Michelet. Berlin 1836. 
560 Hegels, G. W. F., Philosophische Propadeutik, Herausgegeben von K. 

Rosenkranz. Berlin 1840. 
561 ― o3 Hegel, G. W. F., Encyclopadie der philosophischen Wissenschaften. 

3 Bande. Berlin 1840—45. 
564 ― 65 Hegel, G. W. F., Vorlesungen iiber die Philosophi der Religion, 

herausgegeben von Ph. Marheineke. 2te Auflage. Berlin 1840. 2 

Theile. 

566 Hegel's Lehre vom Staat und seine Philosophic der Geschichte in 
ihren Hauptresultaten. Berlin 1837. 

567 Hegewisch, D. H., Uber die fiir die Menschheit gliicklichste Epoche 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 23 

488 Feuerbach, L., Das Wesen das Christenthums. 2te Aufl. Leipzig 1843. 

489 ― 99 Fichtes, J. G., sammtliche Werke. Herausgegeb. von J. H. Fichte. 

llBde. Berlin u. Bonn 1834—46. 

500 JMchte, J. G., Die Bestimmung des Menschen. Neue Ausg. Berlin 1838. 

501 Fichte, J. H., Satze zur Vorschule der Theologie. Stuttgart und Tubin- 
gen 1826. 

502 一 3 Fichte, J. H., Grundzuge zum Systeme der Philosophic. 2 Bande. 
Heidelberg 1833—36. 

504 richte, Iman. Herm., System der Ethik. II. 2. 

505 Fichte, J. H., Die Idee der Persohnlichkeit und der individuellen 
Fortdauer. Elberfeld 1834. 

50b richte, J. H., Ueber die Bedingungen eines spekulativen Theismus. 
Elberfeld 1835. 

507 richte, J. tl., De Principiorum contradictionis identitatis, exclusi tertii 
in logic-dignitate et ordine. Bonnas 1840. 

508 nchte, J. ri., Beitrage zur Charakteristik der neuern Philosophic. 2te 
Ausgabe. Sulzbach 1841. 

509 Fichte, J. H., Die speculativen Theologie oder allgemeine Religionslehre. 
Heidelberg 1846. 

510 ― 11 Fichte, J. H., Die philosophischen Lehren von Recht, Staat und 

;5itte in Deutschland, Frankreich und England. 2 1 heile. Leipzig 
1850. 

512 Fischer, Carl Phil., Dr., Die Idee der Gottheit. Stuttgart 1839. 
3l3 Fischer, F., Die Metaphysik, von empirischen Standpunkte aus darge- 
stellt. Basel 1847. 

ol4 Frauenstadt, J., Die Menschwerdung Gottes nach ihrer Moglichkeit und 
Nothwendigkeit. Berlin 1839. 

515 Frauenstadt, J., Dr., Briefe iiber die Schopenhauer 'sche Philosophic. 
Leipzig 1854. 

516 Frauenstadt, J., Dr., JJie Naturwissenschaft in ihrem Linflusz auf 
Poesie, Religion, Moral und Philosophic. Leipzig 1855. 

517 ^^asparin, A., v., Die allgemeinen Interessen des franzosischen Pro- 
testantismus, von Dr. M. Runkel. Essen 1843. 

518 Gerhardi, J., Meditationes sacrae ed. S. Quenther. Lipsiae 1842. 

519 Gronovius, J., Compendium historiae philosophicae antiquae s. Philoso- 
phumena, edidet M. J. Chr. Wolf. Hamburgi 1706. 

520 Gunther, A., Siid- und Nordlichter am Horizonte speculativer 
Theologie. Wien 1832. 

521 Gunther, A., Der letzte Symboliker. Wien 1834. 

522 Gunther, Anton, Die 】uste-Milieus in der deutschen Philosophic gegen- 

wartiger Zeit. Wien 1838. 
o23 Gunther, Anton, Eurysteus und Herakles, Meta-logische Kritiken und 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 g 録 22 

stenthums, von 1 . v. naupt. 2 Biinde. Darmstadt 1810. 

466 Christianismi restitutio. 1553. 

467 Clausen, H. N., Quatuor evangeliorum tabulae synopticae. Haunias 
1829. 

468 Clausen, Henr. Nicolai, Det nye Testamentes Hermeneutik Kbhvn. 
1840. 

469 し onfessio augustana invariata. Havniae 1817. 

470 lin religios Livs-Udvikling, skildret i Breve fra Cornelius. Udgivne 

af Z. Kbhvn. 1845. 
471 し ousin, V., Uber franzosische und deutsche Philosophic, von Dr. H. 

Beckers, nebst Vorrede des Herrn von Schelling. Stuttgart und 

Tubingen 1834. 

472 一 472 g Daub, C, Philosophische und theologische Vorlesungen, heraus- 

gegeben von Marheinecke und Ditlenberger. 7 Biinde. Berlin 1838 ― 
44. 

473 Descartes, Renati, Opera philosophica. Eaitio ultima. Indhold: Medita- 
tiones de prima philosophi, — Principia Philosophise, ― Dissertatio de 
methodo, ― Dioptrice, ― Meteora, ― Tractatus de passionibus animae. 
Amstelodami 1678. 4to. 

474 jJie Dialogen des Diogenes von Scnope. Aus einer alten Handschrift. 
Leipzig 1770. 

475 mlschov, F. Chr., Philosophiske Breve. Kjobenhavn 1748. 4to. 

476 iMnksson, M., Den nydanske Theologies Cardinaldyder, belyste ved 
Hjelp af Dr. Martensens Skrifter, samt Modskrifterne. Kbhvn. 1850. 

477 Engelhardt, J. G. V., Dr., Literarischen Leitfaden zu Vorlesungen iiber 
die Patristik. Erlangen 1823. 

478 Desideni Erasmi Roterodami Mwpias eYnco/utov sive Declamatio in 
laudem stultitiae. Lipsiae 1702. 

479 Erdmann, J. E., Vorlesungen iiber Glauben und Wissen. Berlin 1837. 

480 Erdmann, Leib und Seek. Halle 1837. 

481 Erdmann, J. E., Grundriss der Psychologic. Leipzig 1840. 

482 Erdmann, J. E., Dr., Natur oder Schopfung. Leipzig 1840. 

483 Erdmann, J. E., Dr., Grundriss der Logik und Metaphysik. Halle 1841. 

484 Erdmann, J., Psychologische Briefe. Leipzig 1852. 

485 M. Minucii Felicis Octavius, 2) Julii Firmici Materni V. C. De errore 
profanarum religionum ad Constantium et し onstantem augustas liber, 
3) S. Meropii Pontii Paullini poema adversus Paganos, 4) Commodiani 
instructionum per litteras versuum primas libri duo. eaid. Franciscus 
Oehler. Lipsiae 1847. 

48o Hernn von Fenelons kurze Lebens-Beschreibungen und Lehr-Satze 

der alten Welt-Weisen. Leipzig 1741. 
487 Feuerbach, L., Geschichte der neuern Philosophie. Ansbach 1837. 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 21 

432 —33 Boisen, L. N., Israels Historic. 2 Bd. Kjobenhavn 1847 ― 50. 
434 Bona, J., Grundsatze und Lehren zu einem christlichen Leben. Aachen 
1840. 

436 ― 36 Bonaventura, S., Opusculorum. 2 Vol. Lugd. 1647. Fol. 

437 一 38 Bretschneider, K. G., Handbuch der Dogmatik. 2 Theile. 4te 

Aufl. Leipzig 1838. 

439 Bruch, J. F., Dr., Die Lehre von den gottlichen Ligenschaften. 
Hamburg 1842. 

440 ― 45 Buhle, J. Kj., Geschichte der neuern Philosophic seit der Epoche 

der Wiederherstellung das Wissenschaften. 6 Bande. Gottingen 1800 
—1806. 

446 一 50 Bruckeri, Jacobi, Historia critica philosophise. Edit, secund. 

Vol. I-V. Lipsiie 1767. 4to. 
451 Bohme, Jacob, Beschreibung der drei Principien Gottliches Wesens. 

Amsterdam 1060. 

452 Bohme, Jacob, Hohe und tiefe Grunde von dem dreifachen Leben des 
Menshen. Amsterdam 1660. 

453 Bohme, Jacob, Mysterium magnum. Amsterdam 1d82. 

454 Bohme, Jacob, Christosophia oder Weg zu Christo. s. 1. 1731, 

455 一 50 Joannis Calvinis Institutio christianae religionis. edid. A. Tholuck. 

Pars I-II. Berlin 1834. 
4d7 Hieronymi Cardani, medici Mediolanensis libelli quinque (in une volum.) 

I. De supplemento Almanach. 

II. JJe restitutione temporum et motuum coelestium. 

III. De judiciis geniturarum. 

IV. De revolutionibus. 

V. De exemplis centum geniturarum. 

Et aphorismorum astronomicorum, segmenta VII. Norinbergas 1547. 
4to. 

458 し arriere, Moriz, Die philosophische Weltanschauung der Reformations- 

zeit. Stuttgart und FiiDingen 1847. 
459 し arus, Carl Gustav, Psyche zur Entwicklungsgeschichte der Seele. 

Pforzheim 1846. 

460 Preces し atholico-Christianae, ex missali et breviario romano desumtae, 
TubingJE 1841. 

461 Chalybaus, H. M., Historische Entwicklung der speculative!! Philosophic 
von Kant bis Hegel, Dresd. 1837. 

4o2 Chalybasus, H. M., Historisk Udvikling af den speculative Philosophi 
fra Kant til Hegel. Oversat af S. Kattrup. Kbhvn. 1841. 

4d3 ― 64 Chalybaeus, H. M., System der speculativen Ethik. 2 Bande. Leip- 
zig 1850. 

465 Chateaubriand, F. A., de, Die Martyren oder der Triumph des Chri- 



キ- ルケ ゴールの 蔵書 目録 20 

Oder des Kultus. Munster 1836. 
409 一 10 Baader, Franz, Uber den Paulinischen Begriff des Versehenseins 

des Menschen. Wiirzburg 1837. Iste og 2det Hefte. 
4i 1 Baader, Franz, Uber die Incompetens unserer dermaligen Philosophic, 

Stuttgart 1837. 

4丄2 Baader, F., Grundzuge der Societatsphilosophie. Wiirzburg 1837. 

413 Baaaer, Fr" Uber den Paulinischen Begriff des Versehenseins des 
Menschen. Wiirzburg 1837. 

414 Baader, Frantz, Ueber mehrere in der Philosophi noch geltende un- 
philosopnische Begriffe oder Vorstellungen. Munster 1838. 

415 Baader, Franz, Uber die Vernunftigkeit der drei Fundamentaldoctrinen 
des Christenthums. Niirnberg 1839. 

4lb Baader, Fr., Revision der Philosopheme der Hegelschen Schule. Stutt- 
gart 1839. 

417 Baader, Franz, Uber die Emancipation des Catholicismus. Niirnberg 
1839. 

418 Baader, Franz, Uber die Nothwendigkeit einer Revision der Wissen- 
schaft naturlicher, menschlicher und gottlicher Dinge. Erlangen 1842. 

419 Bacon, Francois, Oeuvres philosophique et morales. Paris 1797. 

420 Bacon's, F., Neues Organ der Wissenschaften. Ubers. von A. T. 
Briick. Leipzig 1830. 

421 Baur, F. し., Dr., Die christliche Gnosis oder die christliche Religions- 
Philosophie. Tubingen 1835. 

422 Baur, F. し., das Christliche des Platonismus oder Socrates und Chr:- 
stus. Tubingen 1837. 

423 Baur, F. C., Dr., Die christliche Lehre von der Versohnung. Tubingen 
1838. 

424 Beck, F., Dr., Begrebet My thus eller den religiose Aands Form. Kbhvn. 
1843. 

425 Beck, J. T., Die christliche Lehr-Wissenschaft nach den biblischen 
Urkunden. Ister Band Ister Abtheilung. Stuttgart 1840. 

42 り Berg, し arl, リ rundtrffikkene af en philosophisk Propedeutik tilligemed 
Poul Mollers kortfattede formelle Logik. Kbhvn. 1839. 

427 Bernard i Clarevallensis Opera. Basil 1566. Fol. 

428 Billroth, J. G. F., Vorlesungen iiber Religionsphilosophie ; herausge- 
geben von Dr. J. E. Erdmann. Leipzig 1837. 

429 Blosn, Ludovici, Variae eruditionis eximiasque pietatis Opera omnia. 
Lovanii IboS. Folio. 

^30 Bockshammer, G. F., Offenbarung und Theologie, ein wissenschafft- 

licher Versuch. Stuttgart 1822. 
431 De consolatione philosophise Severini Boethii Libri quinque. Agrias 

1758. 4to. 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目 録 19 

382 Adler, A. P., To Afhandlinger. Kbhvn. 1855. 

383 Adler, A. P., Populaire Foredrag over Kegels objective Logik. Kbhvn. 
1842. 

384 Arnobii, oratoris, adversus nationes libri septem, edid. Fr. Oehler. 
Lipsiae 1846. 

385 Ast, F., Grundriss einer Geschichte der Philosophic. Landshut 1807. 

386 Den rette uforandrede augsburgske Troesbekjendelse med Melanchtons 
Apologie. Paa Dansk af Dr. A. G. Rudelbach. Kbhvn. 1825. 

387 Den augsburgske Confession, oversat og belyst ved historisk-dogmatisk 
Udvikling, af Dr. H.N. Clausen. Kbhvn. 1854. 

388 ― 90 Augusti, J. C. W., Dr., Handbuch der christlichen Archaologie. 

3 Bande. Leipzig 1836 ― 37. 
391 Baader, Frantz, Uber den Blitz als Vater des Lichts. s. 1. & a. 

392 Baader, Fr" Uber das pythagoraische Qvadrat in der Natur. s. 1, 1798. 

393 Baader, F., Beitrage zur dinamischen Philosophic im Gegensatze der 
mechanischen. Berlin 1809. 

394 Baader, F. R., v., Fermenta Cognitionis. 1 ― 5 Heft, in 1 Bande. Berlin 
1822—24. 

395 Baader, Frantz, Vorlesungen liber religieuse Philosophi. Iste Heft. 
(Einleit. Theil.) Munchen 1827. 

396 Baader, F., Vorlesungen liber speculative Dogmatik. Stuttgart und 
Tubingen 1828. 

397 Baader, Frantz, Uber den Begriff des Gut- oder positiv- und des Nicht- 
gut- oder negativ-gewordenen endlichen Geistes. Luzern. 1829. 

398 Baader, Frantz, Vierzig Satze aus einer religieusen Erotik. Munchen 
1831. 

399 Baader, Frantz, Uber ein ^^jebrechen der neuen Constitutionen. Mun- 
chen 1831. 

400 ― 401 Baader, F., Philosophische Schriften und Aufsatze. 2 Bande. 

Munster 1831—32. 

402 Baader, Franz, Uber das Verhalten des Wissens zum Glauben. Munster 
1833. 

403 Baader, Franz, Uber eine bleibende und universelle Geistererscheinung 
hienieden. Munster 1833. 

404 Baader, Franz, Uber das dermalige Missverhaltnisz der Vermogenslosen 
oder Proletairs. Munchen 1835. 

40b Baader, Frantz, Uber den christl. Begriff der Unsterblichkeit. Wiirz- 
burg 1835. 

406 Baader, Frantz, Uber das Revolutioniren des positiven Rechtsbestands. 
Munchen 1832. 

407 Baader, Franz, Uber das Leben Jesu (von Strauss). Munchen 183b. 

408 Baader, Frantz, Vorlesungen iiber eine kiinftige Theorie des Opfers 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 18 

Leipzig 1836. 

zS2 1 aulers, J., Nachrolgung des armen Lebens Christi, Neu herausgegeb. 
von N. Casseder. Franckfurt am Main 1821. 

283 Luthers Huuspostil, overs, paa Dansk af J. Thisted. Kbhvn. 1828. nit. 

284 Rudelbach, A. G. Kirchenspiegel. 2ter Band. Erlangen 1850. 

285 ― 93 Rudelbach, A. G., Dr., Kirkepostille over Evangelierne. 1-6 og 

8—1 Ode Hefte. Kbhvn. 1852—54. 
294 一 31 1 Abraham a St. Clara's sammtliche Werke. 22 Biinde. Passau und 
Lindau 1835—54. 

312 ― 16 Luthers Werke. Vollstandige Auswahl seiner Hauptschriften, 

herausgegeben von Otto v. Gerlach. 10 Biinde m. Portr. Berlin 1840 ~ 41. 
317 一 20 Geist aus Luthers Schriften oder Concordanz. Herausgegeben von 

F. W. Lomler, リ. F. Lucius, J. Rust, L. Sackreuter und E. Zimmer- 

mann. 4 Bande. Darmstadt 1828 ― 31. 
321 —25 Dansk Kirketidende, udg. af R. Th. Fenger og C. J. Brandt. 1—8 

Bind. Kbhvn. 1845—53. 
326 —35 Theologisk Bibliothek, udg. af J. Moller. 20 Bd. Kbhvn. 1811—21. 
336 —45 Nyt theologisk Bibliothek, udg. af J. Moller. 20 Bind. Kbhvn. 

1821—32. 

346 一 Dl 1 neologisk Maanedsskrift, udg. af N. F. S. Grundtvig og A. G. 

Rudelbach. 13 Bind. Kbh. 1825—28. 
352 —53 Bindesboll, S. C. W., Meddelelser fra og om Udlandet. 2 Hefter. 

Kbhvn. 1840. 

354 一 57 Bauer, B., Zeitschrift fiir spekulative 1 heologie. 3 Bande. Berlin 
1836—38. 

358 一 63 Mynster, J. P., Dr., Blandede Skrifter. 3 Bind. Kbhvn. 1852—53. 
364 一 69 For Christne. Et Tidsskrift, udg. af J. Thisted. 6 Bd. Kbhvn. 
1823—25. 

370 —71 Visby, C. H., For huuslig Andagt, et Ugeskrift. 2 Dele. Kbhvn 
1839—40. 

372 —75 Fortsaettelser fra Pedersborg. Kirkeligt Tidsskrift af P. Chr. 
Kierkegaard. 1—2 samt 3 Binds Iste Hefte. Kbhvn. 1849—53. 

377 Mohl, K. E., Grundrids af en almindelig Kirkecalender. Kbhvn. 
1850. 

378 Geistlig Calender for 1848. Kbhvn. 1848. 

379 Bloch Suhr, Kaldslexicon. En Beskrivelse over alle danske geistlige 
Embeder i alphabetisk Orden. Kbh. I83I. 

380 Abaelardi, Petri, Dialogus inter philosophum, judaeum et Christianum. 
edit. F. H. Rheinwald. Berolini 1831. 

381 Alterbog, forordnet for Danmark. Kbh. 1830. nit. 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 VJ 

Kbhvn. 1844. 

254 ― 55 Mynster, J. P., Dr., Betragtninger over de christelige 1 roeslaerdom- 
me. 2 Bind. 2det Oplag. Kbhv. 1837. 

256 Clausen, H. N., Dr., Christelig Troestere. Kbhvn. 1853. 

257 Marheineke, Ph., Dr., Lehrbuch das christlichen Glaubens und Lebens 
f iir denkende Christen. 2te Aufl. Berlin 1836. 

258 Schleiermacher, Fr" Dr., JJer christliche Glaube nach den Grundsatzen 
der evangelischen Kirche. Jte Ausg. 2 Banae. Berlin 1835. 

259 Zeuthen, L., Om den christelige Tro. Kbhvn. 1838. 

260 Liitken, F., Hellige Opmuntringer i modige og tankeiuide Stunder. 
Kbhvn. 1847. 

2ol ― oJ Scriver, C., Seelen-Schatz. 5 Bande. Leipzig 1723. Fol. 

264 Lignori, A., v., Vollstandiges Betrachtungs- und い ebet-Buch. Aachen 
1840. 

265 Brincti, J., En Christens Tanke-Toile. Kbhvn. 1736. 

26b Grude, E., Opmuntring til Naadelivet i Christo ved rroen og Gudfry- 
gtighed. Stavanger 1836. 

267 Hornsyld, J., Praesten Hornsyld og bans Confirmantere. Aarhuus 1822. 

268 Speners, Ph. J., Deutsche und lateinische theologische Bedenken. 
Herausgegeben von F. A. E. Hennicke. Halle 1838. 

260 ooszner, Johannes, Schatzkastchen, enthaltend biblische Betrachtungen 

mit erbaulichen Liedern zur Beforderung hauslicher Andacht. (Stereo- 

typudgave.) Leipzig 1825. 
270 Evangelisches aus Johan Michael Sailers religieusen Schriften, ausge- 

wahlt und herausgegeben von August Gebauer. Stuttgart 1846. 
271 Ueber die Religion. Reden an die Gebildeten unter ihren Verachtern. 

5te Aufl. Berlin 1843. 

272 Kempis, Th., De imitatione Christi. Paris 1702. 

273 Kempis, Th., a., Om Christi Efterfolgelse, fire Boger. Oversat af J. A. 
L. Holm. 3die Udg. Kbhv. 1848. 

274 Thomas a Kempis, Rosengaarden og Liliehaven; eversatte af Marie 
Boyesen. Kbhvn. 1849. 

275 oerhard, Johan, Dr., Opbyggelige Betragtninger, oversatte fra Latin 
af J. M. H. F. Stilling. Kbhv. 1848. 

276 Arndt, Johann, Samtliche geistreiche Biicher vom wahren Cnristen- 
thum. 2te neue Auflage. Tiioingen s. a. 4to. 

277 Arndt, Johan, tire Boger om den sande Christendom. Oversat efter 
Sintenis tydske Udg. Christiania 1 629. 

278 Westengaard, L. し. D., Nytaarsgave for evangeliske Christne. Kbhvn. 
1839. nit. 

279 Christelige Bonner, samlede af J. H. Paulli. 2det Oplag. Kbhvn. 1848. 

280 —81 Harms, C, Winter- und Sommer-Postille. 2 Bde. 5te Ausg. Kiel und 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 16 
210 Svenska Psalmboken. Stockholm 1832. 



-^11 Bindesboll, S. し." W., Praedikener over Son- og Festdags-Evangelierne. 
Kbhvn. 1846. 

2 丄 2 ― 21 Chrysostomus, J., Predigten und kleinen Schriften. Herausgeg. 

von J. A. Cramer, 1—10 Theil. Leipzig 1748—51. 
222 — 24 Lxrundtvig, N. F. S., Praedikener eller oondags-Bog. 3 Dele, m. 

Portrait. Kbhvn. 1827—30. 
225 ― 26 Luthers, M., Dr., 1 isch-Reden. Herausgegeb. von Benjamin 

Lindnov. 2 Bande. Salfeld 1745. 

227 Martensen, H., Praedikener. 1—2 Samling. Kbhvn. 1847 ~ 49. 

228 Mynster, J. P., Dr., Praedikener. 2 Bind. 3die Opl. Kbhvn. 1826—32. 

229 ― 30 Mynster, j. P., Dr., Praedikener paa alle Son- og Hellig-Dage i 

Aaret. 2 Bind. 3 Opl. m. Portrait. Kbhvn. 1837. 
231 Mynster, J. P., Dr., Praedikener holdte i Kirkeaaret, 1846 "~ 4-7. Kbhvn. 
1847. 

232 Mynster, J. P., Dr., Pnedikener holdte i Aaret 1848. Kbhvn. 1849. 

233 Mynster, J. P., Dr., Praedikener holdte i Aarene 1849 og 1850. Kbhvn. 
1851. 

234 Mynster, J. P., Dr., Praedikener holdte i Aarene 1851 og 1852. Kbhvn. 
1853. 

235 ― 36 Mynster, J. P., Dr., Taler ved Prasste-Vielse. 1 ― 3 Samling. Kbhvn. 

1840—51. 

237 Schjodte, L., Ny Samling af Praedikener. Viborg 1837. 

238 —41 Schleiermacher, Fr., Predigten. 4 Bande. Berlin 1834. 

242 Schleiermacher, Fr" Dr., Praedikener om det christelige Huusliv, overs, 
af Chr. Winther. Kbhvn. 1839. 

243 Spang, P. J., Praedikener og Leilighedstaler. Kbhv. 1847. 

244 Stobaei Joannis Sermones. Graesk og Latin. Basiliee 1549. Fol. 

245 ― 46 Tauler, J., Predigten. Herausgegeben von Kunze und Bilsenthal. 

2 Theile. Berlin 1841. 

247 Tauler, Johann, Predigten auf alle Sonn- und Festtage im Jahr. 2 
Bande. Berlin 1841. 

248 ― 49 Wallin, J. 0., Prsedikener over de aarlige son- og Helligdages 

Evangelier. Overs, af T. Schorn. 2 Bind. Kbhvn. 1843—44. 
250 —51 Wolff, O. L. B., Dr., Handbuch deutscher Beredsamkeit. 2 

Bande. Leipzig 1845 ~ 46. 
2:)2 Et Bundt Smaa-Praedikener etc. 



253 Clausen, H. N., Dr., Udvikling af de christelige Hovedlasrdomme. 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 15 

Kbhvn. 1814. 

186 Hersleb, S. B., Lc^rebog i Bibelhistorien. 3die Opl. Kbhvn. 1826. 

187 Hersleb, S. B., Lterebog i Bibelhistorien. 3 Opl. 1826. 

188 Kalkar, C. H., Dr., Forelaesninger over den bibelske Historic. 2 Bind. 
Odense 1837—39. 

189 Luthers, M., Dr., liden Catechismus. Kbhvn. 1849. 

190 (Pontoppidan, E.), Sandhed til Gudsfrygtighed over Dr. M. Luthers 
liden Catechismus. Stavanger 1849. 

191 ― 92 Brandt, C. J. & Helveg, Ludv., den danske Psalmedigtning. 2 Dele. 
Kbhvn. 1846. 

193 Rudelbach, A. G., Dr., Om Psalme-Literaturen og Psalmebogs-Sagen. 
Iste Af deling. Kbhvn. 1854. 

194 En ny fuldkommen dansk Psalme-Bog, udg. af Chr. Cassuben. Kbhvn. 
1677. 

195 Evangelisk-christelig Psalmebog. Kbhvn. 1807. 

196 Evangelisk-christelig Psalmebog. Kbhvn. 1823. 

197 Evangelisk-christelig Psalmebog til Brug ved Kirke- og Huus-Andagt. 
Kbhvn. 1845. 

198 Psalmebog. Samlet og udgivet af Roskilde-Konvents Psalmekomite. 
Kbhvn 1850. 

199 Brorson, H. A., Troens rare Klenodie; udgivet af L. C. Hagen. 
Kbhvn. 1834. 

200 Brorson, Hans Adolph, Psalmer og aandelige Sange. 2 Opl. Udg. af J. 
A. L. Holm. Kbhvn. 1838. 

201 Grundtvig, N. F. S., Sang-Vsrk til den danske Kirke. 1 Bind. Kbhvn. 
1837. 

202 Hjort, Peder, Gamle og nye Psalmer. 2den forogede Udgave. Kbhvn. 
1840. 

203 Kingo, Th., Psalmer og aandelige Sange, samlede og udg, af P. A. 
Fenger, m. Portrait. Kbhvn. 1827. 

204 (Kingo, Th.) Kirke-Psalmebog. Kbhvn. 1833. 

205 Gesangbuch zum gottesdienstlichen Gebrauch fiir evangelische Gemei- 
nen. Berlin 1829. 

206 一 7 Knapp, A., Evangelischer Liederschatz fiir Kirche und Haus. Eine 

Sammlung geistlicher Lieder aus alien christlichen Jahrhunderten. 2 
Bande. Stuttgart und Tubingen 1837. 

208 Silesius, A., Heilige Seelenlust. GeistHche Lieder. Herausgegeb. 
von W. Winterer und H. Sprenger, m. K. Mannheim 1838. 

209 Wackernagel, K. E. P., Dr., Das dentsche Kirchenlied. Stuttgart 1841. 
4to. 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 14 

14o sexti Lmpinci Opera quae extant gr. & lat. Avreliana loil. to\. 
147 一 50 Q. Sept. Flor. Tertulliani Opera; edid. E. F. Leopold. Tom. I-IV. 
Lipsiae 1839. 

Ibl Q. Sept. Flor. Tertullians sammtliche Schriften, iibersetzt und bearbeitet 

von F rants Anton v. Besnard. Augsburg 1837. 
15z Patrum apostolicorum opera ed. C. J. Hefell. Editio tertia. Tiibingae 

1847. 

153 Silfverberg, A. F., Historia monasterii Lerinensis. Hauniae 1834. 

154 —55 Arnold, G., Kirchen- u. Ketzerhistorie, 4 Bde, Franckf. a. M. 1699 

—1700. Fol. 

Ibb 一 ; )7 Neueste oeschichte des Kirche Christi von der Wahl des Pabstes 
Pius VII. im Jahre 1800 bis auf die Regierung des hi. Vaters Gregor 
XVI. im Jahre 1833. 6 Bande. 2te Aufl. Augsburg 1836—38. 

158 ― 59 Guerike, H. E. F., Handbuch der Kirchengeschichte, 3te Aufl. 2 
Bande. Halle 1838. 

160 ― 6b Hase, し arl, Dr., Kirkehistorie, oversat af C. Winther og T. Schorn. 
(7 Hefter). Kbhvn. 1837. 

167 Morch Hansen, Kirkens Historic. Kbhvn. 1848. 

168 Miinschers, W., Laerebog i den christelige Kirkehistorie. Kbhvn, 1831. 

169 schoene, C, Tabulae nist. ecclesiastica. Berol. 1828. Fol. 

170 Wahl, C., Kirchen-Geschichte in Bildern, m. colorirten Tafeln. Meisen 
1840. Fo!. 

171 Rudelbach, A. G., Dr., Den evangeliske Kirkeforfatnings Oprindelse og 
Princip, dens Udartning og dens mulige Gjenreisning, fornemmelig i 
Da 画 ark. Kbhvn. 1849. 

172 Mynster, J. P., den christne Kirkes Stiftelse. 4to. Hauniae 1852. 

173 —77 Bohringer, Fredr., Die Kirche Christi. 7 Th. Zurich 1842. 

178 Winer, G. B., Comparative Darstellung des Lehrbegriffs der verschie- 
denen christlichen Kirchenparteien. Leipzig 18j /. 4to. 

179 ― 80 Neander, A., Denkwiirdigkeiten aus der Geschichte des Christen- 

thums u. des christlichen Lebens. 3 Bde. Berlin 1823 ― 24. 
181 し ind, P. E., De coelibatu Christianorum per tria priora secula. Hauniae 
1839. 

182 Rordam, J. Chr" De fide patrum ecclesi^e christiange antiquissims 
in lis, quae de origine evangeliorum canom corum, maxime Mathaei. 
tradiderunt. Hauniae 1839. 

183 L^erebog i den evangelisk-christelige Religion. Kjobenhavn 1824. 

184 Gad, し., Lie. theol., Den evangelisk-christelige Religion efter den 
Augsb. Troesbekjendelse. Kbhvn. 1849. 

185 Grundtvig, N. F. S., En liden Bibelkronike for Born og Menigmand. 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 お 

Leipzig 1833. 

ICb Scnarling, C. E., De Paulo apostolo ejusque adversanis. Haunias 18jo. 
106 ― / Clausen, H. N., Dr., Fortolkning af de synoptiske Evangelier. 
Kbhvn. 1850. 

108 de Wette, W. M. L., Dr., Kurze Erklarung der Evangelien des Lukas 
und Markus. Leipzig 1836. 

109 Wette, W. M. L. de, Dr., Kurze Erklarung des Evangeliums Matthai. 
2te Ausg. Leipzig 1838. 

110 Liicke, F., Dr., Commentar iiber die Briefe des Evangelisten Johannes. 
2te Aufl. Brun 1836. 

丄 11 Wette W. M. L. de, Dr., Kurze Erklarung der Apostelgeschichte. 
Leipzig 1838. 

112 Wette, W. M. L. de, Dr., Kurze Erklarung des Briefes an die Romer. 
2te Ausg. 



113 Agrippae, Henr. Cornil., ab Nettesheim, de incertitudine et vanitate. 
1622. 

114 Divi Ambross Millelo quium suma totius doctrinae, Lugd. 1556, Fol. 

115 ― 16 S. Ambrosii Episcopi Mediol. Hexaemeri libros sex, edid. R. O. 

Gilbert. Tom. I-II. Lipsi^ 1840. 
117 一 34 Augustini Aurelii Opera. Opia et studio monachorum Ordinis S. 
Bened. e Congregat. S. Mauri Editio tertia. Venetia. Vol.I-XVIII. 
Bassani 1797-1807. 4to. 

135 S. Aurein Augustini, de doctrina Christiana edid. C. H. Bruder. 
(Editio stereotypa) Lipsiae 1838. 

136 Hieronoymi Cardani, Mediolanensis medici de subtilitate. Libri XXI. 
Basileae 1582. 

137 Hieronymi Cardani, de rerum varietate. Libri XVII. Basil. 1581. 

138 S. Clementis Romani Recognitiones, edid. E. G, Gersdorff. Tom. 
I-III. Lipsiae 1838. 

139 —40 Th. C. Cypriani, Opera geuina ed. D. J. H. Goldhorn. Tom. 

I-II. Pars I. Epistolee. P. II. Tractatus. Lipsiae 1838—39. 
141 Justinus Martyrs Apologier, Polykarps Brev til Philippenserne, Brevet 

til Diognetus, og Clemens Romanus, overs, af C. H. Muus, Kbhvn. 

1835—36. (1 Vol.) 
142 ― 43 Firmiani Lactantii Opera edid. O. Fr. Fritzsche. Tom. I-II. Lipsias 

1842. 

144 Sancti patris Macarii Aegyptii opuscula nonnulla et apophthegmata 
edidit Jo. G. Pritius. Lipsiae 1714. 

145 Novarini, A., Adagia ex sanctorum patrum script, ecclesiat. Lugd. 1637. 
Fol. 



キエ ルケ ゴールの 蔵書 目録 

Halle 1831. 

36 ― 66 Allgemeiner Repertorium fiir die theologische Literatur und kirchli- 
che Statistik. Herausgegeb. von Dr. G. F. H. Rheinwald. 19 Bande. 
Berlin 1833—37. 

67 ― 68 Calmets, A., Biblisches Worterbuch, ubers. v. C. G. Jochers, 4 Bd., 
m. Kupf. Liegnitz, 1751 一 54. 4to. 

69 Staudenmaier, F. A., Dr., Encyklopadie der theologischen Wissensch- 
aften als System das gesammten Theologie. Mainz 1834. 

70 —71 Winer, G. B., Dr., Biblisches Realworterbuch. 2te Aufl. 2 Bande. 

Leipzig 1833—38. 

72 oesenius, ouil., Lexicon hebraicum & chaldaicum in veteres testamenti 
libros. Lipsiae 1833. 

73 ― 74 Bretschneider, C. G., Lexicon manuale graeco-latinum in libros 

novi Testamenti. Edit, secunda. 2 vol. Lipsiae 1829, 
75 ― 77 Fuhrmann, W. D., Handworterbuch der christl. Religions- und 
Kirchengeschichte. 3 Bd. Halle 1826. 

78 Jarisch, Hieron. Ant., Biblisch-patristische Concordanz. Wien 1854. 

79 Biichner, Gottfr., Biblische Real- und Verbal- Hand- Concordanz. 6te 
Aufl. V. Dr. Heinr. Leon. Heubner. Halle 1840. 

80 de Wette, W. M. L., L-ehrbuch der historisch critischen Einleitung in 
die Bibel alten und neuen Testamentes. 2 Theile in einem Band. 4te 
Auflage. Berlin 1833. 

81 ― 83 Moller, R., Dr., Veiledning til en andaegtig og forstandig Laesning 
af det Gamle og Ny Testamente. 3 Bind. 1824 —— 26. 

84 Liber ^^eneseos ex textu hebraeo latine versus a Chr. Werliin. Hauniae 
1838. 

85 Rosenmiiller, scholia in pentateuchum, in compendium redacta. Lipsiae 
1828. 

86 一 88 Det Gamle Testaments poetiske og prophetiske Skrifter, oversat af 

Dr. J. Moller og Dr. R. Moller. 3 Bind. Kbhavn. 1828—30. 
89 ― 91 Det gamle Testamentes poetiske og prophetiske Skrifter, overs, af 

Dr. J. Moller og Dr. R. Moller. 3 Bind. Kbhvn. 1828—30. 
92 ― 95 Johannis し alvini Commentarii in novum testamentum edid. A. 

Tholuck. Pars I-VII. in quatuor volum. Berlin 1833 ― 34. 
96 一 100 Olshausen, H., Dr., Biblischer Commentar iiber sammtliche Schri- 

ften des neuen Testaments. 4 Bande. 3te Aufl. Konigsberg 1837 4-0. 
101 Ernesti, J. A., Institutio interpretis nov. Test. Lipz. 1765. 

102 Tholuck, A., Auslegung des Briefes Pauli an die Romer. 3te Aufl. Berlin 
1831. 

103 Olshausen, H., Dr., Die Briefe Pauli an die Romer und Korinthier. 
Konigsberg 1837. 

104 Billroth, Chr., commentar zu den Briefen des Paulus an die Corinthier. 



キュ ルケ ゴールの 蔵書 目録 プ J 



Nr. 

1 Biblia hebraica ed. A. Hahn. juipsiae 1839. 

2 Biblia sacra ed. S. Castelli. Lipsiae 1778. 

3 Die Bibel oder die ganze heilige Schrift nach der deutschen Ubersetzung 
Dr. Martin Luthers mit einer Vorrede vom Dr. Hiiffel. Carlsruhe und 
Leipzig 183o. 

4 jJie Bibel oder die ganze heiligen Schrift alten und neuen Testaments, 
nach d. deuts. Uebers. Dr. M. Luthers, von Dr. J. P. Fresenius. Frank- 
furt am Main 1842. 

5 JJie Biebel oder die ganze heilige Schrift alten und neuen Testaments, 
nach d. deuts. Uebers. Dr. M. Luthers. Frankfurt am Main 1845. 

6 Biblia eller den ganske heilige Skrifts Boger. Kbhvn. 1824. 4to. 

7 Biblia, det er den ganske heilige Skrifts Boger. 18de Opl. 1830. nit. 

8 —10 Kalkar, Chr. H., Biblen eller den heilige Skrift. 3 Bind. Kbhvn. 1847. 

11 Biblen eller den Christne Kirkes heilige jjkrift, overs, af J.C. Lindberg, 
Iste Deel. Kbhvn. 1850. 

12 Vetus Testamentum graecum ed. l,. van Ess. Edit, stereot. Lipsiae 1824. 

13 Det gamle Testamentes apokryphiske Boger. Christiania 1837. 

14 ― 15 Testamentum, novum, graece, ed. Knapp. Halis saxonum 1829. nit. 
lb Novum testamentum graece edid. Knapp. Editio quarto. Tom. I-II. 

Halis Saxonum 1829. 

17 Novum Testamentum graece ed. け. し. Knapp. Edit, quinta. 2 vol. Halis 
Saxonum. 1840. 

18 Novum Testamentum graece ed. A Montani. Edit, secunda. Lipsiae 
1839. 

19 H KAINH JIA0HKH, Novum Testamentum graece. 
(Editio stereotypa) edid. J. A. H. 1 ittmannus. Lipsiae 1828. 

20 Das neue Testament. Fest-Ausgabe. Stuttgart 1840. 
21 —32 Det nye Testament. Kbhvn. 1820. 12 Hefter. 

33 Det nye Testamente. Kbhvn. 1820. 

34 Molbech, Chr., Bidrag til en Historic og Sprogskildring af de danske 
Bibeloversaettelser fra det XVIde Aarhundrede. Kbhvn. 1840. 4to. 



35 Rosenkranz, K., Dr., Encyclopadie der theologischen Wissenschaften. 



Conditioner. 



§ 1- 

Del Solgte modtages I den Stand, hvori del ved flsmmersUget 
rorcHndcs, og hcniipger fra samme for Kjobercns Rcgning og Risico. 

§ 2. 

Relalingcn cria'ggcs til Undcrlcgncdc onlen \ed Tilslogct, Udlcve- 
ringen eller paa Anfordring; dog kunne KjObcrc, som nf Incassalor 
ansecs for vcdcrhaeflige, vcnlc at crholdc G Ugers Hcnstand mcd 
Relalingcn. 

§ 3. 

Dersom del Solgle ikke blivcr afhenlct sencsi Dagen cfier Auc- 
lioncn, kan del udeo viderc Varsel paany bortsaelges for Kjdberens 
Rcgning, saa al ban cr pligtig al erslalle, hvad der maalle komme 
til at mangle i skadeslds Hetaling, men ikkc har Fordring paa del 
mulige Overskud, 

§ t 

Dc Kjobcre, dcr ikkc bctale i relic Tid, have, hvad cnlen dc 
blive sagsogtc cllcr ikke, at lilsvarc 4 pCt. pro Anno fra Hammer- 
slagei, liidiil Betaling skeer , samt allc Otnkoslninger skadcsldst, og i 
Sogsmaalstilfa'ldc ere de derhos pliglige, uden Hcnsyn lil, hvor de 
boe cller opholde sig, at give Mode for KjObenhavns Forligelsescom- 
mission og Jurisdiclion, cfler Varsel som til indenbyes Mand, saint 
underkasicde den huiiigc Relsforfdlgning efter Frdn. 25 Januar 1828. 

KjObenhavn, den 6le Februar 1856. 

J. Maag, 




Fortegnclse 



over 



Dr. Soren A. Kierkegofirds 

efterladte 

Bogsaml 量 ngr 

som bortsffilges ved offentlig Auction Tirsdageo 
den 8de April 1856 og fdlgende Dage i Klffide- 
boderoe Nr. 5-6. Alt imod Betaliog til Procu- 
rator J. Maag, Klffideboderne Nr. 101. 



CommiSBlpner modtn^es af D*Herreri 

Boghandler B. Hagerupf Gothersgade 338. 

一 B. H, J. Lynge, sU KjObmagergade 49. 
一 O. Schwarix, Pilestraede 121. 




138 



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24 



Kjftbenhivii. 

Trykt i S. I" Mullen liugtrykkerl. 



人名 索 

ファン • ゲ ネップ Van Gennep, A.---42 



Veaver, W. N. 33